Archive for category テーマ

Date: 6月 5th, 2021
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その5)

audio wednesdayでは、たしか二回かけている。
でもそれ以外では、聴いていない。

先日、ひさしぶりに聴いた。
赤塚りえ子さんのところで聴いた。

セッティングがあらかた終って、あれこれ聴きたい曲を聴いていた。
6月2日は、赤塚さん、私のほかに野上さん、それともう一人、四人いた。

TIDALとroonがあるから、それぞれのiPhoneで選曲して鳴らせる。
そんなふうに、それぞれが聴いてみたい曲をかけていた。

私もいくつかの曲を聴いた。
そしてバーンスタイン/ウィーンフィルハーモニーのマーラーの五番を聴いた。
前々回でも聴いている。

これを聴いていたら、
ふと児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンがどう鳴ってくれるのか、
という興味が沸き起ってきた。

TIDALに、この二人のベートーヴェンはある。
聴きたいと思った時に、手元にディスクがなくとも聴ける時代になっている。

私にとって、この二人のベートーヴェンの音は、
菅野先生のところで聴いた音であり、
このベートーヴェンが、菅野先生のところできいた最後の音であり、音楽である。

Date: 6月 5th, 2021
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その4)

宿題としての一枚といえるディスクは、一枚だけではない。
それでも(その1)でふれた児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲は、
菅野先生からの宿題のような一枚である。

十年ちょっと前、
ある知人宅でかけてもらったことがある。
その知人は、別項で書いているように、
私に「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と誘った男だ。

このCDを手に入れて、そう経っていなかった。
だからこそ、知人宅で、どんなふうに鳴ってくれるのか、興味もあった。

けれど、知人がかけた数枚のCDを聴いているうちに、
うまく鳴ってくれないだろうことは十分予想できた。

それでも持参したCDだし、うまく鳴らないとわかっていても、
どんなふうにうまく鳴らないのかには興味があった。

鳴ってきた音は、予想以上にひからびたような音だった。
生気もない音は,逆に、どうしたら、これだけのシステムでこういう音が出せるのか、
その秘訣をききたいものだ、と思うほどだった。

それでも知人は満足していたようだった。
知人の音の好みは知っていた、知っているつもりだった。

それでも、ここまでひどい音を出す男ではなかった。
なのに、現実は、瀬川先生の音を彷彿させる音とは、まったくかけはなれていた。

菅野先生は、児玉麻里/ケント・ナガノの演奏を、
「まさしくベートーヴェンなんだよ」といって聴かせてくれた。

知人の音は、ベートーヴェンの音ではなかった。
知人の音を聴いたのは、これが最後である。

それ以来、誰かのリスニングルームで聴くことはしなくなった。

Date: 6月 5th, 2021
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの表紙に感じること(その7)

昨年12月、別項「2020年をふりかえって」で、
ステレオサウンド 217号の表紙がひどい、と書いた。

いま219号が書店に並んでいる。
手に取ることはしていないが、その表紙を見て、おっ、とおもった。
いままでのステレオサウンド表紙とは、違ってきているからだ。

手放しで褒めたくなるほどではないが、
217号の表紙からすれば、ずいぶんとよくなってきた。

217号の表紙がひどすぎた、ともいえるのだが、
それでも、今後のステレオサウンドは、いままでの表紙とは違う路線で行くのかと、
少しは期待している。

それでも一言だけいわせてもらうならば、季節感がそこにはない。
ない、というよりも無視している、と感じた。

219号は夏号である。
私は219号の表紙をみて、秋号? と感じていた。

家具の選択、背景の選択などで、夏号らしいの印象は実現できたはずだ。
もう、そんなことを、いまの編集部は考えもしないのか。

Date: 6月 4th, 2021
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その25)

この項を書いていると、以前書いたことをまた書きたくなってくる。

いまから十年ほど前のステレオサウンドに、短期連載で、
ファインチューニングとつけられた記事が載っていた。

その記事の内容そのもののことではなく、
あくまでもタイトルのことである。

チューニングとついている。
けれど、記事の内容は、どこまでもセッティングである。
ファインセッティングというタイトルだったら、わかる。

けれどファインチューニングである。
誰がつけたタイトルなのだろうか。

担当編集者なのか。
一般的にはそうである。

だとしたら、この記事の担当編集者は、
セッティングとチューニングの違いがわかっていない、というよりも、
違いがあるとも思っていないのだろう。

この担当編集者は、井上先生の試聴に立ち合ったことがないのだろうか。
ないのであれば、しかたないかも……、と思わなくもないが、
それでも十年ほど前に、ステレオサウンドに井上先生の試聴に立ち合った人は、
もういなかったのか。
一人ぐらいはいたように思うのだが。

いたとしても、その人も結局はセッティングとチューニングの違いなんて、
考えたことがなかったのだろう。

考えていたとして、ファインチューニングのタイトルに、何の疑問を抱かなかったとしたら、
井上先生の試聴から何も学んでいなかった。

Date: 6月 4th, 2021
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その18)

アンプの純度といえば、それは音の透明感ということになるだろう。
純度の高い音のアンプ、
そんな表現を見て、ほとんどの人が、透明度の高い音をおもい浮べるはず。

オーディオマニアとしての純度は、
そういう透明度ではない、と私は思いつつ、この項を書いている。

別項で書いている透明と澄明の違いにも似ている。
アンプの音の透明度は、まさしく透明であり、
オーディオマニアとしての純度とは、透明ではなく澄明である。

透明度の高さとは、そこから夾雑物、不純物を徹底して取り除いた結果としての透明度である。
澄明は、そういうことではない。

《フルトヴェングラーは矛盾した性格の持ち主だった。彼は名誉心があり嫉妬心も強く、高尚でみえっぱり、卑怯者で英雄、強くて弱くて、子供であり博識の男、また非常にドイツ的であり、一方で世界人でもあった。音楽においてのみ、彼は首尾一貫し、円満で調和がとれ、非凡であった》と冷徹な観察をしているのは、フルトヴェングラーのもとでベルリン・フィルの首席チェロ奏者をつとめたことのあるグレゴール・ピアティゴルスキーである(『チェロとわたし』白水社刊より)。

澄明とは、ピアティゴルスキーが語っていることである。
相反するもの、矛盾するもの、清も濁も、
そういったものが円満で調和がとれてこその澄明である。

音楽の聴き方は人それぞれだから、そんなことはない、という人もいるだろうが、
透明な音ではマーラーの音楽は、鳴ってこない。

マーラーに限らない、ベートーヴェンの音楽もワーグナーの音楽も、
そしてモーツァルトの音楽も、澄明な音だからこそ鳴ってくる。

オーディオマニアとしての純度とは、そういうもののはずだ。

Date: 6月 3rd, 2021
Cate: audio wednesday

audio wednesday(番外・その2)

昨日は6月2日、水曜日である。
喫茶茶会記とともにaudio wednesdayも、2020年いっぱいで、
最初の十年は終ってしまった。

もし喫茶茶会記がいまもあったなら、第一水曜日はaudio wednesdayである。
だからというわけではないのだが、
別項「セッティングとチューニングの境界(その24)」で書いているように、
赤塚りえ子さんのところに行っていた。

赤塚さんのところに向う電車のなかで、facebookを見ていた。
facebookには、過去の出来事を思い出させる機能がある。

一年前の6月2日のことが表示されていた。
2020年6月2日も、赤塚さんのところに行っていた。
赤塚さんのメリディアンの218(二台)、野上さんのが一台、私のが一台、
計四台の218をテーブルの上に集合させて撮影したりしていた。

一年前だったのか、今日も先週と同じように水曜日、audio wednesdayだな、
そんな偶然に少し驚きながら赤塚さんのところに到着。

今回もLANケーブルを持参した。
一週間前との同じケーブルである。

前回はネットギアのNighthawk Pro Gaming SX10とメリディアンの218間、
今回はNighthawk Pro Gaming SX10とroonのNucleus間を交換。

それから218の電源コードを交換。
218にも、さらにちょっとだけ手を加えている。

それからサブウーファーもあれこれやった。
音が全体的に澄んできた。

ちょうど一年間、セッティングをやってきた。
楽しい一年間だったし、Nucleusの実力も知ることができた。
218を、version 9にしておいてよかった、とも実感していた。

Date: 6月 3rd, 2021
Cate: 型番

オーレックスの型番

1970年代、80年代、オーレックスのコントロールのアンプの型番にはSYがついていた。
SY77、SY88、SY-Λ88、SY99といったぐあいにだ。

スピーカーシステムはSSではじまり、
プリメインアンプはSB、パワーアンプはSC、チューナーはST、
エレクトリックデヴァイダーはSD、アナログプレーヤーはSR、カートリッジはC、
カセットデッキはPC、であった。

SS、ST、SD、SRはなんとなくわかる。
SSはStereo Speaker、STはStereo Tunerだろうし、
SDはStereo Divider、SRはStereo Recordなのだろう。
Sはstereoだろうし、soundなのだろうとも思っていた。

わからないのはアンプである。
プリメインアンプのSBのBはBasicなのかと思う。

まったくわからないのはSYとSCである。
なぜコントロールアンプがSYなのか。

Yで始まる単語をあれこれ思い浮べても、ぴったりくるものがない。
SYに、特に意味はないのか。

先日、Yの字をみていてひらめいた。
アルファベットのYとしてみているから気がつかなかったのだが、
Yというアルファベットの形は、そのままコントロールアンプの役割の一つを表わしている。

カートリッジからの信号、チューナー、テープデッキからの信号などを扱う。
入力は複数ある。それらを選択して音量などを操作して出力する。

Yの上半分は入力、下半分は出力を表わしている。
そんなふうにみれば、SYなのに納得がいく。

Date: 6月 2nd, 2021
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その24)

先週に引き続き、今日もまた赤塚りえ子さんのところに行っていた。

このブログの最初のころから、
使いこなしとは、セッティング、チューニング、エージングからなっていて、
これらを混同しないようにすべきだ、と書いている。

オーディオには三つのingがあり、くり返しなるが、
セッティング(setting)、チューニング(tuning)、エージング(aging)の三つであり、
この三つのingの割合は、その時によって違ってくる。

いま赤塚さんのところでやっているのは、セッティングである。
チューニングといえることは、あえてやっていない。

先週、ほんのわずかだけチューニングといえることをやったが、
それは私自身の確認のためにやったことであって、ほぼすべてセッティングをやっている。

エージングに関しては、私がタッチすることではない。
赤塚さんのシステムなのだから、
赤塚さんが聴きたい音楽を、聴きたい時間に、聴きたい音量で聴く。
これだけである。

この領域を、他の人にまかせてしまっては、
もう、そのシステムは、その人のものではなくなる、といってもいいだろう。

私にできるのは、セッティングとチューニングであり、
チューニングは、セッティングとエージングがあるレベルまで進んでからとなる。

Date: 6月 1st, 2021
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(コロナ禍ではっきりすること・その3)

今日から6月。非常事態宣言も多少は緩和される(はずだ)。
映画館も、ようやく営業開始。

今日の午前中は、明日必要になりそうなモノを買いに秋葉原に行っていた。
ヨドバシのオーディオ・コーナーも寄ってみた。

秋葉原のヨドバシのオーディオ・コーナーにはいくつかの試聴ブースがある。
試聴ブースといっても、壁、ドアなどで完全に区切られたスペースではない。

なのに、東京都の要請により、ということで、試聴ブースは使えないようになっていた。

東京都の感覚では、オーディオは不要不急のモノということなのだろう。
それにしても、試聴ブースが密室になるというのならば、しかたないと思うけれど、
ヨドバシの試聴ブースはそうではない。

しかも今日は平日である。
混みあうであろうと土日のみがそうであるのならば──、
といってもヨドバシのオーディオ・コーナーが混みあっているのは見たことがない。

Date: 5月 31st, 2021
Cate: よもやま

妄想フィギュア(その6)

(その5)へのコメントがfacebookであった。

岡先生を如何に考えますか、とあった。
(その5)では岡先生、黒田先生を書いていない。

実を言うと、最初は書いていた。
書いていたけれど、岡先生、黒田先生の部屋は、
レコードのある部屋という印象のほうが、私の場合、強い。

レコードのある部屋も、音楽を聴く部屋であり、リスニングルームであるわけだが、
ここでのリスニングルームは狭義のリスニングルームとしてであって、
しかもそのフィギュアともなると、ある種の覗き趣味的なところも否定できない。

となると、岡先生、黒田先生のレコードのある部屋を、
ここに含めてしまうことに、なんとなく抵抗感があって、あえて加えなかった。

Date: 5月 31st, 2021
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その7)

選べる途と選べない途とがある。
どちらも選択肢として目の前にあった。

選べない途を選べる途だと思っていた。
選ばなかった途だとも思っていた。

選ばなかった──、と若いころは勘違いしていたわけだ。

Date: 5月 31st, 2021
Cate: よもやま

妄想フィギュア(その5)

リスニングルームのフィギュアがあったらなぁ──、とおもっている。

瀬川先生、岩崎先生、五味先生、菅野先生、
山中先生、長島先生といった人たちのリスニングルームのフィギュアがあったらいいなぁ、と。

Date: 5月 30th, 2021
Cate: レスポンス/パフォーマンス

一年に一度のスピーカーシステム(その10)

スピーカーシステムのレスポンスの良さとパフォーマンスの高さ。
あくまでも感覚的でしかないが、このふたつが両立しているスピーカーシステムは、
そう多くない、と感じている。

一般的にレスポンスに優れているスピーカーシステムは、
優秀なスピーカーシステムとして捉えられている。

優秀であることに異論はない。

ではパフォーマンスとレスポンスは完全に一致しているのかとなると、
これがなかなかに難しいところがあって、それがスピーカーシステムのおもしろさともいえる。

レスポンスの優秀なスピーカーシステムは、打てば響くタイプだと前回書いた。
ではパフォーマンスの高いスピーカーシステムは、どう表現すればいいのだろうか。

スピーカーシステムにおけるレスポンスとパフォーマンスを、
別の言葉におきかえるならば、なんなのかといえば、
レスポンスは文字通りの瞬発力である。

パフォーマンスは持続力もしくは持久力とでもいおうか。
そんなふうにも、私には感じている。

Date: 5月 30th, 2021
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その34)

以前書いたことを、ここでもくり返す。

オーディオマニアとして自分を、そして自分の音を大切にすることは、
己を、己の音を甘やかすことではなく、厳しくあることだ。

そうでなければ、繊細な音は、絶対に出せない、と断言できる。

繊細な音を、どうも勘違いしている人が少なからずいる。
キャリアのながい人でも、そういう人がいる。

繊細な音を出すには、音の強さが絶対的に不可欠であることがわかっていない人が、けっこういる。

音のもろさを、繊細な音と勘違いしてはいけない。
力のない、貧弱な音は、はかなげで繊細そうに聴こえても、
あくまでもそう感じてしまうだけであり、そういう音に対して感じてしまう繊細さは、
単にもろくくずれやすい類の音でしかない。

そんな音を、繊細な音と勘違いして愛でたければ、愛でていればいい。
一生勘違いしたままの音を愛でていればいい。

つぼみから花へと変化していくのに必要なのは何なのか。
そのことに気づかぬままでは、いつまでたっても花を咲かすことはできないし、
繊細な音がほんらいはどういう音なのかにも気づかずに終ってしまうことだろう。

Date: 5月 30th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」(続・戻っていく感覚)

戻っていく感覚は、ただたんに戻っていくのではなく、
育っていく感覚でもあるわけだ。