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Date: 12月 13th, 2008
Cate: 五味康祐, 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その23)

五味先生は、オーディオ愛好家の五条件として、次のことをあげられている。

①メーカー・ブランドを信用しないこと。
②ヒゲのこわさを知ること。
③ヒアリング・テストは、それ以上に測定器が羅列する数字は、
 いっさい信じるに足らぬことを肝に銘じて知っていること。
④真空管を愛すること。
⑤金のない口惜しさを痛感していること。

それぞれについては、ステレオサウンドから刊行されていた「オーディオ巡礼」を読んでいただくとして、
ここでは、④の「真空管を愛すること」から、もう一度引用する。
     *
分解能や、音の細部の鮮明度ではあきらかに520がまさるにしても、音が無機物のようにきこえ、こう言っていいなら倍音が人工的である。したがって、倍音の美しさや余韻というものがSG520──というよりトランジスター・アンプそのものに、ない。倍音の美しさを抜きにしてオーディオで音の美を論じようとは私は思わぬ男だから、石のアンプは結局は、使いものにならないのを痛感したわけだ。これにはむろん、拙宅のスピーカー・エンクロージァが石には不向きなことも原因していよう(私は私の佳とするスピーカーを、つねにより良く鳴らすことしか念頭にない人間だ)。ブックシェルフ・タイプは、きわめて能率のわるいものだから、しばしばアンプに大出力を要し、大きな出力Wを得るにはトランジスターが適しているのも否定はしない。しかしブックシェルフ・タイプのスピーカーで”アルテックA7”や”ヴァイタボックス”にまさる音の鳴ったためしを私は知らない。どんな大出力のアンプを使った場合でもである。
     *
五味先生は、倍音の美しさを真空管アンプに認めておられる。

ステレオサウンドの筆者の中で、真空管アンプのよさを積極的に認めておられた長島先生は、
「真空管アンプの方が、トランジスターアンプよりも音の色数が多い」とよく言われていた。

五味先生も長島先生も、表現は違うが、同じことを言われている。

カウンターポイントの主宰者、マイケル・エリオットも、同じ趣旨のことを言っていた。
真空管を使いつづける理由は?、という問いに、
「ローレベルのリニアリティが優れていること、
それと真空管でなくては得られない音色があるから」と答えていた。

真空管だからこそ得られる音色とは、五味先生、長島先生が感じられていたことと同じだろう。

カウンターポイントの初期の製品、SA5、SA4を聴くと、納得できる。
けれど、少なくともSA5を聴いて、私はローレベルのリニアリティが優れているとは感じられなかった。

マイケル・エリオットの言葉どおりのアンプは、SA5000になって、はじめて実現できたと思っている。

Date: 12月 12th, 2008
Cate: 川崎和男, 複雑な幼稚性, 言葉

「複雑な幼稚性」(その1)

「現代的な幼稚症! それはオネゲルにおいてすでに告知され、ショスタコーヴィッチにおいて全盛をきわめた。
まさにアルバン・ベルグやシェーンベルクなどの重荷を負った労苦とは正反対のものである。
幼稚症は、さらに無遠慮に、自己の心理的な状況を大衆のそれに優先させようとする。」

こう、フルトヴェングラーが「音楽ノート」で語っているのは1945年のときである。
60年以上前の言葉なのに、いまもそうじゃないか、と、
「現代的な幼稚症」という言葉が心にひっかかってくる。

いまは「複雑な幼稚性」が静かに蔓延っている時代のように思えてならない。
オーディオもそうだ。
複雑な幼稚性が、大事な本質を覆い尽くそうとしている、といったら言い過ぎだろうか。

具体的な例はあえて挙げない。

ただ「単純 (=Simple)」を、否定的、消極的な意味で捉えているようでは、
いつまでも答は見出せない。そう確信している。

そして「答には、3つある」
MACPOWER vol.3に掲載されている「ラディカリズム 喜怒哀楽」で、川崎先生は書かれている。
「応答 (=Reply)」、「回答 (=Answer)」、「解答 (=Solution)」の3つである。
バックナンバーは入手可能のようだから、ぜひお読みいただきたい。

Date: 12月 10th, 2008
Cate: 4343, JBL, 井上卓也

4343と2405(その2)

4343にはアルニコ仕様とフェライト仕様の4343Bがある。
ときどきアルニコ仕様の4343のことを4343Aと書く人がいるが、4343Aというモデルは存在しない。

4350、4331、4333には改良モデルのAが存在する。
型番末尾の「A」はアルニコの頭文字ではなく、改良モデルを表している。
ついでに書いておくと、4345BWXと書く人もいる。
4345が正しい表記で、4345にはフェライト仕様しかないので、
アルニコ仕様と区別するための「B」はつかない。
またWXも仕上げの違いを表すもので、4345以降はウォールナット仕上げのみとなったため、型番にはつかない。

4343と4343Bの違いは、ウーファーの2231Aとミッドバスの2121が、
フェライト仕様の2231H、2121Hに変更されているだけだ。
ミッドハイの2420、トゥイーターの2405はどちらもアルニコ仕様である。

4343の後継機4344となると、すこし事情が違ってくる。
最初の頃は、4343Bと同じようにウーファーとミッドバスがフェライトで、
ミッドハイとトゥイーターはアルニコだったが、
どうも途中からミッドハイの2421Bがフェライトに変わっている。

2405は最後までアルニコだったと思っていたが、
どうもこれも後期のロットにはフェライト仕様の2405Hが搭載されているものがあるときく。

世の中にはアルニコ神話に近いものがある。
自分の使っているスピーカーに、アルニコ仕様とフェライト仕様があるならば、
やはりどちらが良いのか、とうぜん気になってくる。それがマニアなのだろう。

たまたま井上先生の取材の時に、そういう話になったとき、
「JBLに関しては、アルニコとフェライトは良し悪しじゃなくて、好みで選んでいいよ」
と言われたことがあった。
どうもスタジオモニターのユニットをひとつひとつ、
アルニコとフェライトに入れ換えて試聴されたうえでの、結論のようだった。

でも、つづけて「2405だけはアルニコだね。これだけはアルニコの方が良いよ」と言われた。

Date: 12月 9th, 2008
Cate: ALTEC, ワイドレンジ, 瀬川冬樹

ワイドレンジ考(その29)

先に書いているが、Model 19と604-8Hから、アルテックは、システムは2ウェイ構成ながら、
多素子のネットワークによって3ウェイ的レベルコントロールを実現している。

BBCモニターのようにレベルコントロールはないものもあるが、この多素子のネットワークで、
スピーカーシステムのトータルの周波数特性をコントロールする(ヴォイシング)手法は、
イギリスのスピーカーが、以前から得意としているところである。
BBCモニターもそうだし、タンノイのスピーカーもかなり以前からそうである。

Model 19の、レベルコントロールをいじったときの周波数特性が発表されている。
中域のツマミを反時計回りにいっぱいにまわし、高域のツマミを時計回りにいっぱいにまわす、
この時の周波数特性は2kHzが約10dB近く下がる。その上の帯域は徐々にレベルが上がる。

瀬川先生が、6041、620Bのレベルコントロールをどのように調整されたかはわからないが、
かなり大胆にいじっておられたことは書かれていた。
上の周波数特性からもわかるように、おそらく中域をかなり絞り、高域はある程度あげることで、
瀬川先生が苦手だった中域の張りの抑えられるとともに、
BBCモニター的なヴォイシングに、自然とそういう音にもっていかれたのだろうか。

実は、604-8KS(604-8Hのフェライトモデル)がはいった612Cを、一本だけ所有している。
モノーラル専用なわけで、同じようにレベルコントロールをいじっている。

「瀬川冬樹氏のこと(その9)」に書いたように、
瀬川先生は620Bに、アキュフェーズC240とマイケルソン&オースチンのTVA1を組み合わされている。
架空の話になってしまうが、瀬川先生がクレルのPAM2とKSA100のペアを聴かれていたら、
絶対アルテックの620Bか6041と組み合わされていたはずだ。

Date: 12月 4th, 2008
Cate: 瀬川冬樹
2 msgs

語り尽くすまで

このブログで、たびたび瀬川先生のことを書いている。
オーディオ好きの友人と話をするときも、瀬川先生の話題になることが、やはりある。

書いていて、話をしていて思うのは、まだまだ「瀬川冬樹」を語り尽くしていない、ということだ。
語り尽くすまで、語り尽くすために、人と会い、聞く、話す。そして書いていこう。

Date: 12月 2nd, 2008
Cate: ワイドレンジ, 井上卓也

ワイドレンジ考(その24)

スピーカーのワイドレンジ実現のための有効な手段のひとつが、マルチウェイ化だ。
フルレンジよりも2ウェイ、2ウェイよりも3ウェイ、そして現実的には4ウェイが限界だろう。

周波数レンジの拡大だけでなく、それぞれのユニットを良好な帯域のみで使用することで、
低歪化も狙えるし、最大出力音圧レベルの点でも有利になる。

井上先生──ことわるまでもないが、私にとって井上先生は、井上卓也氏のこと──が、
「2ウェイは二次方程式、3ウェイは三次方程式、4ウェイは四次方程式みたいなもので、
解くのがだんだんと難しくなってくる」とよく言われていたのを思い出す。

4ウェイとなると、同軸ユニットを使わない限り、最低でも4つのユニットが必要になり、
ユニットの口径も、4343を例にあげれば、ウーファーは38cm、
トゥイーターの2405のダイヤフラムの口径は1-3/4インチとかなりの開きがある。

これだけ大きさの異るものをどう配置するか。
定位の再現性を考慮すれば、できるだけ個々のユニットは近づけたいが、
それぞれのユニットの音響面を少しでも理想的にするには、
そしてユニット同士の干渉──音響面だけでなく磁気的な面も含め──を減らすには、
ユニット間の距離は逆に広げたい。

問題になるのは、指向性である。水平方向の指向性は確保できても、
垂直方向の指向性をほぼ均等に保つことは、かなり難しい。

Date: 11月 30th, 2008
Cate: 五味康祐

長生きする才能

五味先生の遺稿集「人間の死にざま」(新潮社刊・絶版)を読んでいると、
いくつもの、印象ぶかい言葉にぶつかる。

「私の好きな演奏家たち」に出てくる言葉がある。
     *
 近頃私は、自分の死期を想うことが多いためか、長生きする才能というものは断乎としてあると考えるようになった。早世はごく稀な天才を除いて、たったそれだけの才能だ。勿論いたずらに馬齢のみ重ね、才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中はどこの社会にもいるだろう。ほっとけばいい。長生きしなければ成し遂げられぬ仕事が此の世にはあることを、この歳になって私は覚っている。それは又、愚者の多すぎる世間へのもっとも痛快な勝利でありアイロニーでもあることを。生きねばならない。私のように才能乏しいものは猶更、生きのびねばならない。そう思う。
     *
「長生きしたくないなぁ、50くらいでぽっくり死にたいな。病気で苦しみたくないし」という者が、
私のまわりに何人かいる。おそらく、そう思っている人は少なくないのかもしれない。
先の見えないこういう時代だと猶更なのか。

私も、20代前半のころは、そんなふうに思っていたことがある。
30過ぎたころから「長生きもいいかも」と思いはじめ、
そして5年くらい前から「しぶとく長生きしよう」と決めた。

長生きする才能が備わっているかどうかはわからないので、思うだけ、なのだが、
長生きしなければ出しえない音がある以上は、思うことからはじめる。
そう決めた。

Date: 11月 29th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その14)

思い起きてきた「きもち」はひとつだけではなかった

1999年、audio sharing をつくろう、と思ったきもち、
1998年、「得手」を読んだときのきもち、
1994年、草月ホールでのきもち、「プラトンのオルゴール」展でのきもち、
1991年、はじめて「Design Talk」を読んだときのきもち、である。

2000年のE-LIVEのときもそうだったが、川崎先生の講演が終ると、すこし休憩に入る。
何人かのひとが、川崎先生のもとに集まる。
ここで順番を待っていると、気後れすると思って、真っ先に川崎先生のところに行った。
実は、この日、最前列の真ん中に座っていた。

その日の朝、印刷したばかりの手作りの、たった3行の名刺──、
audio sharing の下にURLとメールアドレスだけで、私の名前も電話番号もない、そんな名刺を渡し、
「菅野先生と対談をしていただけないでしょうか」とお願いしたときの川崎先生の顔は、
よく憶えている。いまでも、はっきりと思い出せる。

Date: 11月 29th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その13)

2002年6月のE-LIVEは川崎先生だった。
講演が終りに近づきはじめたとき、川崎先生が「いのち・きもち・かたち」と言われた。
「いのち・きもち・かたち」について説明されるのを聞きながら、
私の「いのち・きもち・かたら」はなんだろう、と考えた。

川崎先生は、このとき、「私のいのちはデザイナーであるということ」と言われた。
ならば、私はオーディオマニアだ、ここまではよかった。
だが、オーディオマニアとしての「かたち」がなかった。

オーディオマニアの「かたち」は、その人の「音」しかないだろう。
このときも、まだオーディオは再開してなかった、できていなかった。
1度、再開したことはあったが、なぜか機械の不調が続き、その他の理由もあって、1年と続かない。
オーディオの休止は10年を超えていた。

「かたち」を持たないオーディオマニア……。
そう思ったとき、川崎先生との距離は、1994年の草月ホールで感じたときよりも、さらに遠かった。

2年前のE-LIVEの時と同じように、また足踏みしようとしていた。

「かたち」がひとつあることに気がついた。
audio sharing である。
これがいまのオーディオマニアとしての私の「かたち」だ。
そう思えたとき、audio sharing をつくろうとしたときの「きもち」がよみがえってきた。

「かたち」が「きもち」に気づかさせてくれた。

Date: 11月 29th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その12)

audio sharing の公開は2000年8月だが、5月には公開できるまでつくっていた。
3ヵ月ズレたのは、おもにそういう理由からだ。

公開して、まず黒田先生から公開の許諾をいただいた。
岩崎先生と瀬川先生のご家族の連絡先がわからなかったため、ことわりをいれていたところ、
ある日、岩崎先生のお嬢様からメールが届いた。
またしばらくして瀬川先生の妹さんをご存じの方からのメールが届き、許諾をいただいた。

2001年春、菅野先生に、audio sharing を見ていただいた。
トップページを見て、「おっ、美しいなぁ」と言ってくださった。
正直、この言葉で、川崎先生に見てもらう自信がついた。
けれど、この年のE-LIVEは、川崎先生ではなく、MacPower誌の編集長・石坂氏だった。

Date: 11月 28th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その11)

2000年5月、EIZO主催の催し物 E-LIVE 2000で、川崎先生が講演をやられる。
誰にも話していないが、実は、この時、MacのPowerBook G3を持っていき、
川崎先生にaudio sharing を見てもらい、菅野先生との対談をお願いするつもりでいた。

川崎先生の話をきいていた。やっぱりすごい。菅野先生との対談は、絶対面白くなる。
そう思っていた。けれど、休憩時間に、会場に展示してあったアンチテンションのフレームを見て、
急に尻込みしてしまった。

まだダメだ。段階を踏んで、それからお願いしよう、そう決めた。
audio sharing の公開はその年の8月だから、
この時点で、瀬川先生、岩崎先生のご家族の方と連絡はついていなかった。
黒田先生、菅野先生のページは、まだつくっていなかった。

トップページの出来にこだわったのは、川崎先生に見てもらうため。
そのためにPowerBook G3を持ってきたわけだが、帰り途、重たく感じた。

財布の中には、もう小銭しかなくて、会場のある五反田から、当時住んでいた荻窪まで歩いて帰った。
翌日、Macを中古販売店に買い取ってもらうことで、とりあえずしのげたものの……。

Date: 11月 28th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その10)

「絶対零度下の音」──、
これが最初につけていたサイトの名前だった。

1999年いっぱいで仕事を辞めて、2000年1月からサイトづくりを始めた。
トップページは何度作りかえたことだろう。
トップページが変ると、当然、他のページのデザインも変っていく。
満足できるトップページが作れない。
それに続くページもうまくいかない。

そんなある日、Macをさわっていて、File Sharing という単語が目にとまった。
このとき使っていたのはMac OS9の英語版だった。
Macは2台使っていたので、ときどきFile Sharing(ファイル共有)の機能は使っていた。
でも、ふだんは気にとめることはなかったのに、この日は違っていた。

これだ、と思った。audio sharing が、
いまつくっているサイトの中身に、よりふさわしい、というか、ぴったりの名前だ。

名前が最終的に決り、またトップページの作り直し。
この時も思った、デザインの勉強をしてくればよかった、と。

Macを使っていたから、MacPowerを読んでいた。
MacPowerを読んでいたから、川崎先生の存在を知った。
川崎先生の存在を知ったから、このウェヴサイトをつくろうと思った。

そして、Macを使っていたから、audio sharing という名前にした。

Date: 11月 27th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その9)

文章を書くことも含めて、なにかを表現する行為は、詰まる所、自己顕示欲の現われだと思っている。
その自己顕示欲を何処まで昇華できるかが才能であるとも思っている。
誰かに頼まれたわけでもないのにウェブサイトを作り、そこに自分の文章を書いていくことは、
自己顕示欲をうまく利用していかないと続かないだろう。

1999年にウェブサイトをつくろうと決めた。
何をそこに載せるのか。

このころになると、オーディオの個人サイトも増えてきていた。
オーディオを休止していた私は、現在進行形でオーディオを語れない。
それまでの経験と知識で、いかにもオーディオを、こんなに熱心にやっています、
と見せかけることをやろうと思えばできなくはなかったが、それは不誠実な行為にすぎない。

どうするか。
いくつか決めていったことがある。
できれば自己顕示欲から離れたものでありたい、
想定読者は、まずは私自身。読みたいもののためであること。
つまり菅野先生と川崎先生の対談を実現するための場。

もうひとりの読者は、13歳の私である。
1976年、オーディオに興味を持ちはじめたころの私のためである。
もし、いま(1999年)、13歳の私がいたとしよう。
はたして、1976年といまとでは、どちらが幸せだろうか。

生れてくる年、性別など自分では選択できない事柄が、かならずある。

私は1976年に13歳だった。そのころは、岩崎先生も五味先生も、瀬川先生も健在だった。
やはり、このことはすごい幸運であった、といまでも思っている。

1999年、いま(2008年)でもどちらでもいい。13歳の私がいて、幸運だ、と思えるようにしたい。
そう思いやったわけだ。

Date: 11月 26th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その8)

動かなきゃ、と思ったものの、何をするのか、すればいいのか。
1998年にやったことは、川崎先生のデザインのメガネをつくったこと。
まず、ここから始めよう、始まると思ってのことだ。
12月末のことだ。

年が明けたからといって、何かが起こるわけではない。
菅野先生と川崎先生の対談のまえがきに書いたが、
おふたりの対談を、ステレオサウンドかMacPowerがやるだろうな、と思っていた。
春が来て、夏がおわり、秋が過ぎ去ろうとしても、
私がいちばん、面白い、読みたいと思っている記事は、どちらにも載らなかった。

ならば、自分でやりたい、実現したい、と思いはじめたものの、実際にどうするか。
まえがきには、「その場」をインターネットにつくればいいと、簡単に書いたが、
どういうサイトをつくるのか、つくれるのか、と考え込む。

考え込んだ大きな理由は、オーディオを休止していたからだ。

Date: 11月 25th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その7)

1996年夏、高校球児でもないのに、五厘刈りにしたことがある。
この年のツール・ド・フランスにマルコ・パンターニの姿はなかった。
不運な事故による足の骨折で、1年、棒に振ったパンターニの復帰を願っての、五厘刈り。
できれば、彼の同じスキンヘッドにしたかったのだが、仕事上、やはりまずいので。

マルコ・パンターニの存在を知ったのは、94年のツール・ド・フランス。
自転車に興味をもちはじめたばかりの私にとっても、
パンターニの、山岳ステージでの走りは驚異的だった。熱狂した。

97年のツール・ド・フランスのラルプ・デュエズで、ステージ優勝。
パンターニ復帰する。
ゴールでの、雄叫びをあげるパンターニのガッツポーズ。
そのポスターを手に入れてから、ずっと目に付くところに貼っていたこともある。

そして98年。
ジロ・デ・イタリアで総合優勝。
でもツール・ド・フランスの、おおかたの予想は、前年度の覇者ヤン・ウルリッヒ。
私もそう思っていた。

でも、雨の日の、あの山岳ステージ、
パンターニがアタックをかけて成功してしばらくすると、テレビ画面の下に、
暫定マイヨ・ジョーヌを示すテロップが出た。
深夜、友人宅で、テレビ放送を見ていたことも重なってか、
「なぜ、こんなところにいるんだろう……」と、
いきなり、そんな思いがこみあげてきた。

その数ヶ月後、MacPowerの12月号が出た。この号の「Design Talk」のタイトルは「得手」だった。
川崎先生が菅野先生のことを書かれている。

「得手」を読んで、あの日と同じようなことを思っていた。
そして、とにかく動かなきゃ、と思った。