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Date: 12月 10th, 2010
Cate: 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その9)

カラヤンのベートーヴェンの精妙さは、どこから生れてくるものだろうか。

録音された時期は、ちょうどマルチマイク・マルチトラックの録音手法が十分に消化された時代でもあり、
その前の録音と比べると、真空管を使った録音機材からトランジスターへの転換も経て、
初期のトランジスターを使った機材にあった音の不備(音の固さやノイズの多さ)もほぼ消えたころでもある。

真空管時代の名録音──マイクの数もすくなくことも関係して、暖かく柔らかい響き──に対して、
この時代には、細部に音のピントをあわせていき、やや冷たい肌ざわりながら、
混濁感のない解像力の良さ、周波数レンジ、ダイナミックレンジの広さなど、新しい音の魅力を安定して、
聴き手に届けてくれるようになっていた。

録音の歴史の中で、この時代は、録音(機材をふくめて)の、ひとつの完成度の高さがあった。
新しい録音が完成された、ともいえよう。
そういう時代に、たっぷりの時間をかけて、カラヤンのベートーヴェンは録音されている。
しかもカラヤンは、録音に知悉していた、といわれている。

どちらも同じドイツ・グラモフォンによるカラヤンとバーンスタインのベートーヴェン全集。
このふたつの録音の違い、つまりスタジオ録音とライヴ録音の違いは、枠の有無だと感じる。

バーンスタインのライヴ録音にも、枠はある。
けれど、カラヤンのスタジオ録音の枠とは、性質が違う。

いわゆる「枠」は、録音の限界によってどうしても生じてしまう。
だから録音機材、録音手法が向上にともなって枠が広がり薄れていくことはあっても、なくなることはない。
そういう意味での枠が、バーンスタインのベートーヴェンにある枠だ。

一方カラヤンの録音にある枠は、制作者側が、ではなく、演奏者(つまりカラヤン)がはっきりと意識している。
だから、あの精妙さが生れてきたのだと思う。

Date: 12月 9th, 2010
Cate: 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その8)

(その6)に引用したカラヤンの、(その7)に引用したブレーストの発言からわかることは、
同じベートーヴェンを録音しても、カラヤンとバーンスタインの対照的な姿である。

カラヤンのやりかたでは、バーンスタインと同じライヴ録音はとうていできないだろうし、
バーンスタインにカラヤンがやったような緻密なスタジオ録音をやらせたら、
もちろんプロの音楽家としてやりとげるであろうが、ブレーストの発言にあるように、
エキサイティングな要素は失われていたはす。

ブレーストは徹底した完璧主義者のカラヤンだから、ライヴ・レコーディングは望めない、と、
だからバーンスタインは演奏会場(ライヴ)で、カラヤンはスタジオでというのが、
DGGの基本的な姿勢だともつけ加えている。

バーンスタインのベートーヴェンの全集は持っている。
カラヤンの、1975年から’77年にかけて録音されたカラヤンの全集は持っていない。
ずっと以前に、いくつかの曲を聴いた記憶で書けば、
カラヤンのこの時代のベートーヴェンは、精緻なスタジオワークだからこそ可能になった精妙な表現、
バーンスタインのベートーヴェンには、カラヤンの精妙さはないかわりに、熱気が伝わってくる。

カラヤンを静、とすれば、バーンスタインは動、であり、
カラヤンの演奏を楷書とすれば、バーンスタインのは草書、でもある。

音楽通信の取材には、動であり草書であるバーンスタインの演奏が選ばれている。

この取材がおこなわれていたころに録音されていたカラヤンの三度目(最後)のベートーヴェン全集は、
精妙さという言葉では語れない印象を受ける。

Date: 12月 1st, 2010
Cate: オーディオ評論, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その17)

「いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント論」のなかで、
「少なくとも昭和三十年代の半ば頃までは、アンプは自作するのが常識だった」と書かれている。

なにもアンプだけでなく、スピーカーにおいてもそうだったし、
さらにはトーンアームやカートリッジまで自作されている方がおられたことは、
ラジオ技術の古い号を見ると、わかる。

昭和三十年代の半ば、つまり1960年ごろ、海外にはすでに優れたオーディオ機器が誕生していた。
ただ、日本でそれらを購入できる人はごく限られた人であり、
国産メーカーも存在していても、腕の立つアマチュアの手によるモノのような水準が高かったようだ。

そういう時代を、ステレオサウンドの創刊当時の筆者の方々はみな経験されている。
岡俊雄、岩崎千明、井上卓也、上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹、長島達夫、山中敬三。みなさんそうだ。
アンプは自作するもの、という時代(ステレオサウンドが創刊される前)にすでに活躍されていた。
みなさん、オーディオを研究されていた。

瀬川先生は自作について、「いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント論」で書かれている。
     *
なまじの自作よりもよほど優秀な性能のオーディオ・パーツを、当時からみたらよほど安い価格で自由に選択できるのだから、その意味からは自作する理由が稀薄になっている。しかし、オーディオの楽しみの中で、この、自作するという行為は、非常に豊かな実り多いものだと、わたくしはあえて申し上げたい。
     *
なにも カートリッジからアンプ、スピーカーに至るまですべてのモノを自作できるようになれとか、
メーカー製のモノと同等か、さらにはそれよりも優れたモノが作れるようになれとか、
そんなことをいいたいわけではなくて、なんでもいい、アンプでも、スピーカーでも、
なにかひとつ自作して、時間をかけてじっくりと改良していく過程を、
やはりいちどは体験してもらいたい、と思っているだけだ。

アンプだって、パワーアンプだけでもいいし、コントロールアンプ、それもラインアンプだけでもいい。
ラインアンプだけなら、とっかかりとしてはいいかもしれない。

別項で真空管のヒーターの点火について書いている。
真空管単段のラインアンプをつくったとする。
部品点数はそう多くない。少ないといってもいい。

アンプ本体はまったくいじらず、ヒーター回路だけをあれこれ試してみるのもいいだろう。
電源だけをいじってみるのもいいだろう。
回路はまったく手をつけずに、部品を交換するのもいい。
アースポイントだけを変えてみるだけでもいい。
筐体構造まで含めてやっていくと、やれることにかぎりはない。
とにかく真空管単段のラインアンプでも、楽しもうと思えば、とことん楽しめる。

回路が単純だから単段アンプを例にしたまでで、
もちろん他の回路でもいい。真空管でなくてもいい。

いろいろ試したからといって、どんなに時間をかけたからといって、
メーカー製をこえるモノができあがるという保証はない。
あるのは、研究するという姿勢が必要だということを学べるということだ。

Date: 11月 30th, 2010
Cate: 瀬川冬樹

続々・瀬川冬樹氏の「本」

瀬川先生の「本」つくるにあたって考え続けてきたことのひとつに、
川崎先生のことば「いのち・きもち・かたち」がある。

瀬川先生の「いのち・きもち・かたち」について考えてきた──、というよりいまも考え続けている。

瀬川冬樹の「かたち」
瀬川冬樹の「きもち」
瀬川冬樹の「いのち」

考えるために毎日の入力作業を続けているようなものかもしれない。

そして「本」の構成をどうするか。
そのまま「いのち・きもち・かたち」を使うわけにはいかない。

考えたのは、
「かたち」を……
「きもち」を……
「いのち」を……
として、……のところに、ことばをあてはめる。

そして「かたち」から「きもち」「いのち」へとたどっていくということ。

瀬川先生の「かたち」は、まず、その音がある。
瀬川先生とともにその「音」はもう存在しなくなった。
残された「かたち」は、書かれたものだ。

第一弾は、瀬川先生の、いわば「かたち」をまとめたものだ。
それは「読む」ものである。

だから「かたち」の……は、「読む」にした。

第一弾のタイトルを、「瀬川冬樹」を読む、にしたのはそういう理由からだ。
「瀬川冬樹」もまた「かたち」である。

「きもち」「いのち」の……についても考えている。
「きもち」の……は決った。

けれど「いのち」の……についてはまだ迷っている。

Date: 11月 27th, 2010
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その6・補足)

この項の(その6)に、瀬川先生が、もうひとつ別のペンネームをもっておられたことを書いた。

今日、その「芳津翻人」で書かれた「やぶにらみ組み合わせ論」の(II)と(IV)を入力していた。
「やぶにらみ組み合わせ論」の二回目はステレオサウンド 13号(1970年冬号)に、
四回目の文章は別冊「コンポーネントステレオの世界 ’78」(1977年冬)に載っている。
ちなみに一回目は4号(1967年秋号)、三回目は17号(1971年冬号)だ。

「芳津翻人」のペンネームについて、誰かに話すとき、
上に書いているように「瀬川先生のもうひとつのペンネーム」だと言ってきた。

だけど、今日、とくに二回目の文章を入力していて感じたのは、
瀬川冬樹にとってのペンネームなのか、それとも大村一郎にとってのふたつめのペンネームなのか──、
そのどちらなのだろうか、ということ。

ささいなことかもしれないが、意外とこれは大事なことのように、いま感じている。
そして、どうも後者ではないのだろうか、とも……。

Date: 11月 20th, 2010
Cate: 「本」, 瀬川冬樹
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瀬川冬樹氏の「本」(続・余談)

瀬川先生の本をiPadで読むことを前提としたものにつくるために、
iPadとは、いったい何だろう? ということをはっきりさせてたくて、考えたことがある。
8月の頃だった。
結論は、「鏡」だった。わりと即、自分の中で返ってきた答だった。

それから三ヵ月経ち、瀬川先生の「本」をつくり、もう一冊つくって思っていることは、
「鏡」であるからこそ、
iPadは、私にとって音を出す道具ではないけれども、オーディオ機器であるといえる、ということ。

Date: 11月 17th, 2010
Cate: 「本」, 瀬川冬樹
2 msgs

瀬川冬樹氏の「本」(お願い・補足)

柴犬さんのコメントを読み、補足します。

私の手もとにあるステレオサウンドは38号から、です。ただし40号と44号が欠けています。
ステレオサウンドの別冊関係では、High-Technicシリーズ(4冊すべて)、SOUND SPACE、
コンポーネントの世界の’77と’78、コンポーネントのすすめ(3冊すべて)、
世界のコントロールアンプとパワーアンプ(’78年号と’81年号)、あとはヘッドフォンの別冊、以上です。

これら以外のステレオサウンドと、
1981年以前に出版された、瀬川先生の文章が掲載されているものを探しています。

レコード芸術、スイングジャーナルとその別冊、週刊FM、FM fanと別冊FM fan、などです。

私の記憶にある範囲では、’80年か’81年の、どの号かはわすれましたが、特選街に、
B&OのBeogram について書かれていたはずです。
それからいまは廃刊になってしまった月刊PLAYBOYの創刊号から数号に亙って、
原稿を書かれているはずです。
それから、ベートーヴェンの「第九」の聴き比べの記事も、PLAYBOYのはずです。

これら以外にも、こういう記事を読んだことがある、とご記憶の方、
情報だけでも、お教え下されば、助かります。

Date: 11月 16th, 2010
Cate: 「本」, 瀬川冬樹
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瀬川冬樹氏の「本」(お願い)

瀬川先生の「本」の第二弾の作業にとりかかっていますが、
すでに私の手もとには入力がおわった本しかありません。

国会図書館に足をはこんでコピー、ということも始めましたが、
いまのペースで行くと、第二弾で十分な分量の公開はかなり厳しくなってきました。

瀬川先生の文章が掲載されているステレオサウンド、別冊FMfan、レコード芸術、
その他のオーディオ雑誌のバックナンバーをお貸し出しいただける方はいらっしゃらないでしょうか。

よろしくお願いいたします。
こちらまで、ご連絡、お待ちしております。

Date: 11月 16th, 2010
Cate: 「本」, 瀬川冬樹, 言葉

瀬川冬樹氏の「本」(余談)

先週末から、試してみたいことがあって、ある本を電子書籍にする作業にかかっきりになっていた。
スキャナーに附属していたOCRソフトを使えば、どのくらい作業時間を短縮できるのか、がひとつ。
それから、こまかい作り込みをおこなうために、
瀬川先生の「本」では、Sigil(このソフトで作成している)のBook View で行なっていたのを、
今回は Code View も使いながら、タグの編集もやってみた。

約15万字あった本を、瀬川先生の「本」よりもこまかいところまで作り込んで、
入力からすべての作業の終了まで3日で了えた。今回の本に関しては公開の予定はないが、
作業の最後のほうで感じていたのは、既存の本をこうやって電子書籍化することは、
リマスター作業なのではないか、ということ。

これまで「電子書籍化」という言葉を使っていたけれど、なにかしっくりこないものを感じていたし、
「電子書籍化」という言葉だけでは、はっきりしない何かを感じていた。

デジタル化、という言葉も使いたくない。

本のリマスタリング、リマスターブック、とか表現することで、
目ざそうとしているところが、すこしはっきりしてきた感がある。

Date: 11月 11th, 2010
Cate: 瀬川冬樹
1 msg

瀬川冬樹氏の「本」(補足)

瀬川先生の「」は、EPUB形式です。
私はiPadで読んでいますが、iPadをお持ちでない方から問合せがありましたので、
それ以外の表示手段について書いておきます。

Mac、Linux、ウインドウズで表示するには、Calibre という電子書籍管理ソフトウェアで可能です。
このソフトを使えば、AmazonのKindle用のフォーマットへの変換も可能です(試してはいませんけど)。

Adobeの電子書籍リーダー、Digital Editions では、目次は表示できるそうですが、本分はすべて文字化けするそうです。

友人のYさんは、ブラウザーのFireFoxにEPUB用のプラグインをインストールして読んでいる、とのことです。

iPad以外でも読めますが、機会がありましたら、
ぜひいちどiPadにインストールして手にとって読んでみてください。

Date: 11月 10th, 2010
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

確信していること(その7)

ハーツフィールドとパラゴンはユニット構成もほぼ同じうえに、エンクロージュアの形式も、
言葉の上だけでは、オールホーン型ということで同じ面を持つ。

もっとも中音のホーンに違い、低音部のホーンの構造の違い、
それにモノーラル時代につくられたハーツフィールド、ステレオ時代につくられたパラゴン、
そういう違いはあるものの、たとえば同じJBLのスタジオモニター・シリーズと比較すれば、
ハーツフィールドとパラゴンは、ひとくくりにされるかもしれない。
いわば旧い世代のスピーカーシステムに属している。

ハーツフィールドとパラゴンの、瀬川先生にとっての相違点はどこにあるのか。
そして、もうひとつハーツフィールドよく似たスピーカーシステムで、
瀬川先生が「欲しい」と書かれているモノがある。

イギリス・ヴァイタヴォックスのCN191 Corner Horn だ。

Date: 11月 8th, 2010
Cate: 瀬川冬樹

続・瀬川冬樹氏の「本」

昨日(11月7日)は、このブログを読み続けてくださっている方には説明はいらないだろうが、
瀬川先生の命日だった。

この日に、とにかく間に合わせるために瀬川先生が書かれたものをできるだけ多くまとめたものを公開したい、
そう思ったのが7月末だった。
これに集中するために、8月で仕事をやめて、最初のうちは独自の記事を加えたものを、
この日までにつくりあげるつもりでいたけれど、
以前書いたようにやっていく途中で構想がふくれあがり、今回は第一弾として公開した。

この二ヵ月はずっと入力作業をしてきた。
じつは今回公開したもの以外にも入力したものはある。
対談、座談会での発言も入力しているし、未発表原稿もじつは入力が済んでいる。
ただ未発表原稿に関しては、どうしても判読できない文字が2、3あって、
それに元の原稿と同時に表示できるようにしたい、とか、そういう想いがあって、今回は発表済みのものだけにした。

結局、10年前に audio sharing をつくったときと同じことをやっていた。
audio sharing を公開して、しばらくしたころからPalmが流行ってきた。
私が最初に買ったのはHandspringのもの。
まだモノクロ画面の、Macでいえば漢字Talk6を思い出させるインターフェースで、
じつはこのとき、Palmの中に瀬川先生、五味先生の文章を収めていた。

audio sharing をつくっておきながら、こんなことを言うのもなんだが、
やはりパソコンの画面で読むことに、なにがしかの、小さな異和感があった。
馴れの問題だけでは片づけられないことで、だから画面が小さくても文字の表示品質は劣っても、
Palmで読んでみたいと思った。

でも、当時のPaimでは、私にとっては、読む、というよりも、
ただ瀬川先生、五味先生の文章を持ち歩けるということだけの満足にとどまっていた。
そのあとにカラー表示のPalmも買った。でも同じだった。

いつか、手にとって読める日がくることを、このときから待っていた。

audio sharing を公開してからちょうど10年目の今年、iPadが発表・発売された。
これだ、と感じた。

友人、知人からは、「iPadって、iPod touch(iPhone)が大きくなっただけでしょ?」ときかれた。
そういうところはあるけれど、そのサイズがの違いこそ、私がずっと待ち望んでいた。
目的に適した大きさは存在する。iPadのサイズが理想なのかどうかはおいておくとしても、
少なくとも、私にとって、瀬川先生、五味先生の文章を読むのに適した大きさである。
(個人的には7インチiPadよりも、もうすこし大きめのモノがほしい)

今回、電子書籍(EPUB形式)に仕上げる作業にとりかかったのは、11月にはいってからだった。
途中途中でどんな感じに仕上るのかを確認することは一度もやらず、
とにかく仕上げたあとにはじめてiPadにインストールした。11月7日の午前3時近くになっていた。

今回のは第一弾ということで、やっている私には、達成感はなかった。
とりあえず、ここまでできた、という感じだけだった……。

でも、iPadに表示してみると、手にとってそれを読みはじめたら、達成感とは違うけれど、
なにか実感がわいてきた。手にとって読んでいる、という実感がたしかにある。

じつは昨日、櫻井さん(瀬川先生の妹さん)から荷物が届いた。
そのなかに、瀬川先生が愛用されていたであろう革製の鞄がはいっていた。
見た瞬間、iPadがおさまる、と思った。実際に、ぴったりの大きさだった。

瀬川先生の文章をおめさたiPadが、瀬川先生の愛用されていた鞄のなかにおさまる。

Date: 11月 7th, 2010
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏の「本」

瀬川先生の「」(電子書籍)を公開しました。
EPUB形式ですので、iPadで読めます。

今回の「本」は第1弾であり、いわば予告的なものです。
いままで入力してきた瀬川先生の文章の大半を、一冊にまとめてあります。
いまiPadで見てみたところ、4000ページをこえています。

そのためか、ページをめくるのは問題ないのですが、
目次のページのスクロールが、かなりもっさりした感じです。

タイトルだけのページもありますが、ひたすらテキストだけの「本」です。
時間の関係で、写真・図版・グラフはいっさい掲載していません。
これらに関しては、来春以降に予定している第3弾にてまとめるつもりです。

いいわけになりますが、時間の関係で、校正が不十分のままです。
変換ミス・誤入力など気づかれましたら、ご連絡いただければ助かります。

またざっとiPadで見たところ、半角スペースをいれたところで、字間がひらきすぎて、
一部見苦しいところがあります。

とにかく今回のものをベースにして、来春発行予定の第3弾はきちんとします。
ただ、フォーマットに関しては変更する可能性もあります。

第2弾は、1月10日に公開します。
今回の「本」の増強版になります。

私の手もとには、瀬川先生のみ発表原稿、企画書、試聴メモ、写真、デザイン・スケッチなどがあります。
これらの公開は、第3弾にて行ないます。

Date: 11月 2nd, 2010
Cate: 瀬川冬樹, 真空管アンプ

真空管アンプの存在(番外)

瀬川先生とグッドマンのAXIOM80について、いつか書きたいと思っているが、
今日、ステレオサウンド 62号をめくっていて気がついたことがある。

瀬川先生がAXIOM80のためにUX45のシングルアンプをつくられたことは知られている。
     *
暗中模索が続き、アンプは次第に姿を変えて、ついにUX45のシングルになって落着いた。NF(負饋還)アンプ全盛の時代に、電源には定電圧放電管という古めかしいアンプを作ったのだから、やれ時代錯誤だの懐古趣味だのと、おせっかいな人たちからはさんざんにけなされたが、あんなに柔らかで繊細で、ふっくらと澄明なAXIOM80の音を、わたしは他に知らない。この頃の音はいまでも友人達の語り草になっている。あれがAXIOM80のほんとうの音だと、私は信じている。
     *
ステレオサウンド 62号には、上杉佳郎氏が「プロが明かす音づくりの秘訣」の3回目に登場されている。
そのなかで、こう語られている。

「試みに裸特性のいい45をつかってシングルアンプを作って鳴らしてみたら、予想外の結果なんです。
AXIOM80が生れ変ったように美しく鳴るんです。」

45のシングルアンプが、ここにも登場してくる。

瀬川先生の先の文章につづけて書かれている。
     *
誤解しないで頂きたいが、AXIOM80はUX45のシングルで鳴らすのが最高だなどと言おうとしているのではない。偶然持っていた古い真空管を使って組み立てたアンプが、たまたまよい音で鳴ったというだけの話である。
     *
出力管に UX45を使えば、それでシングルアンプを組めさえすれば、
AXIOM80に最適のアンプができ上がるわけでないことはわかっている。
どんな回路にするのか、どういうコンストラクションにするのか、配線技術は……、
そういったことがらも有機的に絡んできてアンプの音は構成されている。

それでも45のシングルアンプ、いちど組んでみたい気にさせてくれる。

Date: 10月 17th, 2010
Cate: 「本」, 瀬川冬樹
1 msg

オーディオの「本」(瀬川冬樹氏のこと)

はっきりと書いているわけではないが、私のTwitterもあわせて読んでいただいている方は、お気づきのように、
いま瀬川先生に関するオーディオの「本」の作業にかかりっきりになっている。

電子書籍として、まず11月7日に、そして来年の1月10日に出す予定で、いまやっている。
おそらく3月ごろまで最終的にかかるだろう。

最初は11月7日までにすべてまとめあげたいと考えていたが、やりはじめると、
せっかくやるのだから、あれもこれもとやりたいこと、おさめたいことが増えていき、
ページ数に制限のない電子書籍だから、すべてやろうと変更したため、11月7日には、
ともかくいま出せるところをダウンロードできるようにする。

とにかくいまは、瀬川先生の文章を集め入力している。

ステレオサウンドから出ていた「世界のオーディオ」シリーズのラックス号に載っていた「私のラックス観」、
これをさきほど入力し了えた。

ステレオサウンドにいた頃、ふるい号を読もうと思えばいくらでも読めた。もちろん仕事の合間にずいぶん読んだ。
でもそれは読んだつもりだった、としか、いまはいえない。
瀬川先生の「私のラックス観」を、なぜか読んでいなかったからだ。

「世界のオーディオ」シリーズは、
Vol. 1・ラックス、Vol. 2・マッキントッシュ、Vol. 3・サンスイ、Vol. 4・アルテック、Vol. 5・ビクター、
Vol. 6・パイオニア、Vol. 7・テクニクス、Vol. 8・ソニー、Vol. 9・オンキョー、Vol. 10・タンノイ、が出ている。

読んでいたのは、マッキントッシュ、アルテック、タンノイだけだった。
そのあとずいぶん経ってからサンスイとパイオニアを読んだだけだった。
手もとにある本とコピーをあわせると、ビクター以外はすべて読んだ。

そのどれとも、「ラックス観」はちがい、なにかちがうものが現れている。
     *
このメーカーは、ときとしてまるで受精直後の卵子のように固く身を閉ざして、外からの声を拒絶する姿勢を見せることがある。その姿勢は純粋であると同時に純粋培養菌のようなもろさを持ち、しかも反面のひとりよがりなところをも併せ持つのではなかろうか。
     *
これは、ラックスについてのことだけを語られているのではない。
「瀬川冬樹」についても語られている。
この数行前に、こうある。
     *
このメーカーの根底に流れる体質の中にどこか自分と共通の何か、があるような、一種の親密感があったためではないかという気がする。
     *
説明は要らないはずだ。