Archive for category 人

Date: 12月 22nd, 2016
Cate: 川崎和男

KK適塾(二回目)

KK適塾二回目の講師は、澄川伸一氏と原雄司氏。
川崎先生を含めて講師は三人となると、
いつもと同じ時間であっても、短く感じてしまう。

タイムテーブル通りに進むことは大事であっても、
ひとりひとりの時間が短い。
三人ゆえの話も聞けたのだから……、と思っているけれど、それでも……、と感じる。

感じるといえば、今回はじめて感じたことがもうひとつある。
澄川伸一氏のプレゼンテーションで、はじめに三分ほどの動画が、
スクリーンに映し出された。

澄川氏がこれまでデザインされた作品が映し出された。
音楽も流れている。

そこでの音楽の選曲はよかった。
よかっただけに、そして映し出される澄川氏の作品が素晴らしいだけに、
その音の質が気になった。

作品、曲に対して、音が劣っている。
たいていのところで、音はないがしろにされている。
2015年度のKK塾、今年度のKK適塾、
会場は同じだから、そこで鳴る音がどの程度なのかはわかっている。

それまでも音は悪いな、と思うことはあったが、そこまでだった。
でも今回は、音の質。
ここでの質とは(しつ)であり(たち)でもあり、
特に質(たち)がスクリーンに映し出されている作品と曲にそぐわなすぎていた。

BGM(ここではBGMといっていいだろうかとも思う)の有無、
あるならばどういう曲なのかによって、スクリーンに映し出されるものの印象は、
大きく影響を受ける。

でもそこでの音の質(しつとたち)も同じに、影響を与える。
むしろ私の耳には、質(たち)のそぐわなさが気になりすぎた。

これからのプレゼンテーションにおける音の質(しつとたち)について、
これからのKK適塾がどう答(音)を提示してくれるのかが楽しみである。

Date: 12月 15th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その8)

ここでのタイトルはあえて「AXIOM 80について書いておきたいこと」とはしなかった。
何かはっきりとした書いておきたい「こと」があったわけではなく、
ここでも半ば衝動的にAXIOM 80について書いておきたい、と思ったことから書き始めている。

書き始めは決っていた。
AXIOM 80というスピーカーユニットを知ったきっかけである。
それが(その1)であり、(その1)を書いたことで(その2)が書けて、
(その2)が書けたから(その3)が……、というふうに書いてきている。

ここではたどり着きたい結論はない。

ここまで書いてきて、オーディオにおける浄化について考えている。
オーディオを介して音楽を聴くことでの浄化。

浄化とは、悪弊・罪・心のけがれなどを取り除き,正しいあり方に戻すこと、と辞書にはある。
音楽を聴いて感動し涙することで、自分の裡にある汚れを取り除くことが、
オーディオにおける浄化といえる。

でもこの項を書いてきて、それだけだろうか、と思いはじめている。
裡にある毒(汚れとは違う)を、美に転換することこそが、
オーディオにおける浄化かもしれない、と。

Date: 12月 12th, 2016
Cate: James Bongiorno

THE MOATのこと

ボンジョルノがGASを離れてSUMOを設立して発表したモデルは、
パワーアンプのThe Power、The Goldのほかに、THE MOATがあった。

THE MOATはパワーアンプではない。
ブリッジ接続アダプターである。
つまり入力はアンバランスで出力はバランスになっている。
ゲイン0dBのユニティアンプで構成されている。

THE MOATのmoatは、堀、環濠という意味である。
ブリッジ接続アダプターの名称としてぴったりだとは思わない。

おそらくmoatは、日本語の「もっと」だと思っている。
会社名を相撲が好きだからという理由で、SUMOとするくらいのボンジョルノだから、
パワーアンプをブリッジ接続することでパワーアップできるのだから、
もっとパワーを、という意味を込めての「THE MOAT」のはずだ。

そう確信するのにはひとつ理由がある。
THE MOATは左右のバランス出力のほかに、センター出力も持つ。
センターチャンネル用のレベルコントロール(±6dB)がついている。

パワーを「もっと」だけでなく、再生チャンネル数も「もっと」のはずだ。

1979年ごろのボンジョルノは、センターチャンネルを加えた再生を試していたのだろう。

Date: 12月 1st, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その7)

いまの時代、裡にある毒と共鳴する毒をもつスピーカーを求める人はどのくらいいるのか。
昔もそう多くはなかったのかもしれないが、
いまはもっともっと少ないような気がしないでもない。

それに毒をもつスピーカーが、現行製品の中にはたしてある、といえるのだろうか。
例えばローサーのユニットを復刻したといえるヴォクサティヴにしても、
いいスピーカーとは思いながらも、毒をもつ、とは感じていない。

ヴォクサティヴでもそうである。
それ以外のスピーカーとなると、毒とは無縁のところにある、と思う。
それが技術の進歩といえばたしかにそうであるわけだが、
それだけで美しい音を鳴らすことができるのだろうか、という疑問が残る。

新しいスピーカー、高価なスピーカーの中には、首を傾げたくなる音のモノがある。
そういうスピーカーは毒をもっているのかというと、
どうも私の耳には、そうは聴こえない。

それらのスピーカーが持っているのは毒ではなく、澱のような気がする。
最新のスピーカーであっても、澱がどこかに感じられてしまう。

Date: 11月 29th, 2016
Cate: 黒田恭一

「MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間」

12月23日公開の映画「MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間」は、
邦題が示しているように1970年代後半の五年間を描いている、とのこと。

ステレオサウンド 59号の黒田先生の連載「さらに聴きとるものとの対話を」は、
マイルス・デイヴィスのことだった。
「プレスティッジのマイルス・デイヴィスのプレスティジ」だった。
     *
 みんながいまのマイルス・デイヴィスをききたがっていることを、マイルス・デイヴィス自身が誰にもまして認識しているのかもしれない。にもかかわらず、いまなお、マイルス・デイヴィスは、新作を発表できないでいる。そして、その過去を整理するかのように、プレスティッジでのレコードがアルバムにまとめられ、さらにCBSでのレコードも似たようなかたちでまとめられた。マイルス・デイヴィスは、一九二六年生れであるから、一九八一年のいま五十五才である。過去を整理してはやすぎるとは思えない。
 それにしても、なにゆえに、マイルス・デイヴィスは、新作が発表できないでいるのであろうか。さしずめこのところしばらくのマイルス・デイヴィスは、ウタヲワスレタカナリヤである。ウタヲワスレタわけではないかもしれぬが、なぜかウタヲうたえないようである。マイルス・デイヴィスは、きっとつらいにちがいない。そのつらさが、漠然とではあるが、わかるような気がする。
     *
と書かれ、マイルスとの対比でデイジィ・ガレスピーについて触れられている。
マイルスのことを考えると暗示的に思い出されるひとりとしてのガレスピーである。

マイルスとガレスピーの音を、テノールにたとえられてもいる。
     *
 ガレスピーの音は、いつだって、とびきりいい音である。ああ、トランペットっていいな、とききてに思わせずにおかない音である。そこでのガレスピーの音もそうである。そういうガレスピーの音に較べれば、マイルス・デイヴィスの音は、きわだった魅力に欠ける。ガレスピーの音をイタリアのテノールの声にたとえれば、マイルス・デイヴィスの音は、さしずめドイツのテノールの声である。マイルス・デイヴィスの音は、「オ・ソレ・ミオ」をうたうためのものというより、「マタイ受難曲」のエヴァンゲリストのためのものといえるのではないか。ひとことでいえば、暗く、感覚的なよろこびに不足している。
     *
そのあとにもっとストレートな対比をされている。
1981年当時のマイルス・デイヴィスは《直立しない男根》、
《おのれの単婚が直立していることを意識さえしていないかのような》ガレスピー、と。

そして、マイルスは《不直立男根は不直立男根なりに意味をもってしまう不幸》を背負っているようであり、
マイルスはいまつらいのであろう、
《それゆえにまた、マイルス・デイヴィスの新作をききたいのである》と。

映画は、この時期のマイルスを描いているはずだ。
「プレスティッジのマイルス・デイヴィスのプレスティジ」を書かれた黒田先生は、
「MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間」をど鑑賞され、何を書かれるだろうか、
かなわぬこととはいえ、読み手はそれを読みたい、と思ってしまう。

Date: 11月 21st, 2016
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏からの宿題

私にとってのステレオサウンドは、というと、
まず41号から61号まで21冊とその間に出た別冊が、まずある。

リアルタイムで読んできた、純粋に読み手として読んできたステレオサウンドだけに、
私にとってのステレオサウンドとは、ここである。

その次に創刊号から40号までと、別冊である。
それから62号から89号。これは編集者として携わってきたステレオサウンドだ。

90号からのステレオサウンドもわけようと思えばいくつかにわけられるけれど、
ひとつにしておく。

私にとって中核といえる41号から61号のステレオサウンドについて、
「ステレオサウンドについて」で触れてきた。
この項を書くために、手元にバックナンバーをおいてページをめくってきた。
当時のことを思い出していた。

思い出しながら書いていた。
その過程で、瀬川先生からの宿題がいくつもあることを感じていた。

人によっては「ステレオサウンドについて」はつまらなかったかもしれない。
また古いことばかり書いている、と思った人も少なからずいたはずだ。

読み手のことを考えずに書いていたわけではないが、
「ステレオサウンドについて」は私にとって、
瀬川先生からの宿題をはっきりと認識するための作業であった。

Date: 11月 17th, 2016
Cate: 川崎和男

KK適塾(コンシリエンスデザイン)

2015年度のKK塾、
今年度のKK適塾。
コンシリエンスデザイン(Consilience Design)について、語られる。

その時にディスプレイに表示される図。
二本の垂直の矢印。
中間に円。

川崎先生のブログで「コンシリエンスデザイン」で検索すれば、
この図はすぐに見つかる。

この図を見て、川崎先生の話をきく。
KK塾でも毎回、そして今日のKK適塾でも、
この図は、オーディオを表している、と思う。

Date: 11月 17th, 2016
Cate: 川崎和男

KK適塾(一回目)

KK適塾に行ってきた。
今日から3月まで毎月一回、KK適塾が開かれる。

一回目の講師は、坂井直樹氏。
KK適塾の最後、坂井直樹氏と川崎先生の対談に「幸福」ということばがでてきた。

数日前から書き始めた「必要とされる音」は、この幸福について書くつもりでいる。
だから、今日きいたどんなことばよりも、この「幸福」が強い印象をもっている。

二日前にamazonがPrime Nowのサービスエリアを東京23区に拡大するニュースがあった。
Prime Now対象の商品であれば、専用アプリからの注文から一時間後配達する、というサービス。
これまではかなり限定された地区のみだったのが、23区に拡がっている。

おそろしく便利なサービスである。
従来では考えられなかったスピードで、配達される。
便利である。

便利であるけれど、それは幸福とはまったく別のところのものでしかない。

ずっと以前、ヤマト運輸の宅急便のアルバイトをやったことがある。
お歳暮の忙しい時期だけの短期間だった。
当時はインターネットで買物をする人はだれもいなかった。
amazonもなかったころの話だ。

助手とはいえ、宅急便のアルバイトはしんどいものだった。
そのころとは物量がまるで違うのが、現在の状況である。

誰もが手軽にインターネットで買物をする。
それだけ配達をする人の負担は増している。
疲弊していくだけではないか。

それでも誰かが幸福になっているのであれば……、
配達される人もまだ張り合いはあるのかもしれない。

でもamazonのPrime Nowは、ただただ便利なだけである。
誰も幸福にはならない。

Prime Nowで一時間以内に商品が届いたとして、
ほんとに届いた、おっ、すごい、とは思うだろう。
でも、それは幸福とは関係のないことだ。

せいぜいが快感につながるくらいである。
そこに何があるのだろうか、と誰もが思うようになるべきではないだろうか。

Date: 11月 9th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その6)

AXIOM 80は毒を持っているスピーカーだ、と書いた。
その毒を、音の美に転換したのが、何度も引用しているが、
《AXIOM80の本ものの音──あくまでもふっくらと繊細で、エレガントで、透明で、やさしく、そしてえもいわれぬ色香の匂う艶やかな魅力──》
であると解釈している。

20代の瀬川先生が転換した音である。

心に近い音。
今年になって何度か書いている。
心に近い音とは、毒の部分を転換した音の美のように思っている。

聖人君子は、私の周りにはいない。
私自身が聖人君子からほど遠いところにいるからともいえようが、
愚かさ、醜さ……、そういった毒を裡に持たない人がいるとは思えない。

私の裡にはあるし、友人のなかにもあるだろう。
瀬川先生の裡にもあったはずだ。

裡にある毒と共鳴する毒をもつスピーカーが、
どこかにあるはずだ。
互いの毒が共鳴するからこそ、音の美に転換できるのではないだろうか。

その音こそが、心に近い音のはずだ。

Date: 11月 9th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その5)

瀬川先生は1955年ごろに、最初のAXIOM 80を手に入れられている。
1955年といえば瀬川先生はハタチだ。
まだモノーラル時代だから、一本のみである。

ステレオサウンド創刊号には、こう書かれている。
     *
 そして現在、わたしのAXIOM80はもとの段ボール箱にしまい込まれ、しばらく陽の目をみていない。けれどこのスピーカーこそわたしが最も惚れた、いや、いまでも惚れ続けたスピーカーのひとつである。いま身辺に余裕ができたら、もう一度、エンクロージュアとアンプにモノーラル時代の体験を生かして、再びあの頃の音を再現したいと考えてもいる。
     *
1966年時点で、すでにAXIOM 80は鳴らされていない。
ステレオサウンド 62号「音を描く詩人の死 故・瀬川冬樹氏を偲ぶ」には、
20年のあいだ鳴らされなかった、とある。

つまり瀬川先生にとってAXIOM 80は、20代前半のころのスピーカーである。
《AXIOM80の本ものの音──あくまでもふっくらと繊細で、エレガントで、透明で、やさしく、そしてえもいわれぬ色香の匂う艶やかな魅力──》、
この音を鳴らされていたのは、20代の瀬川冬樹である。

Date: 11月 9th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その4)

AXIOM 80の周波数特性グラフが、
ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 4に載っている。

低域は200Hz以下はダラ下り、
高域は水平30度の特性をできるだけフラットにするという、
往時のフルレンジスピーカーの例にもれず、AXIOM 80もそうであるため、
正面(0度)の音圧は1.5kHzくらいから上では上昇特性となっている。

10kHzの音圧は、1kHzあたりの音圧に比べ10dBほど高い。
だからといって30度の特性がフラットになっているかといえば、
ディップの目立つ特性である。

このへんはローサーのPM6の特性と似ている。
フィリップスのEL7024/01も同じ傾向があり、
いずれのユニットのダブルコーン仕様である。

AXIOM 80のスタイルを偏屈ととらえるか、
機能に徹したととらえる。
見方によって違ってこよう。

特性にしてもそのスタイルにしても、
新しいスピーカーしか見たこと(聴いたこと)がない世代にとっては、
いい意味ではなく、むしろ反対の意味で信じられないような存在に映るかもしれない。

AXIOM 80は毒をもつ、といっていいだろう。

その毒は、新しいスピーカーの音しか聴いたことのない耳には、
癖、それもひどいクセのある音にしかきこえないであろう。

それにいい音で鳴っているAXIOM 80が極端に少ないのだから。
それも仕方ない。
私だって、AXIOM 80がよく鳴っているのを聴いたことはない。

それに神経質なところをもつユニットでもある。
面倒なユニットといえる。

にも関わらず、AXIOM 80への憧憬は変らない。
《AXIOM80の本ものの音──あくまでもふっくらと繊細で、エレガントで、透明で、やさしく、そしてえもいわれぬ色香の匂う艶やかな魅力──》
瀬川先生が書かれたAXIOM 80の音、
これをずっと信じてきているからだ。

AXIOM 80の毒を消し去ってしまっては、
おそらく、「AXIOM 80の本ものの音」は鳴ってこないであろう。

Date: 11月 9th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その3)

AXIOM 80への思い入れ、それをまったく排除してひとつのユニットとして眺めてみれば、
エッジレスを実現するために、フレームがいわば同軸といえるかっこうになっている。

メインフレームから三本のアームが伸び、サブフレームを支えている。
このサブフレームからはベークライトのカンチレバーが外周を向って伸び、
メインコーンの外周三点を支持している。
ダンパーもカンチレバー方式である。

これら独自の構造により、軽量コーンでありながらf0は20Hzと低い。
この構造がAXIOM 80の特徴づけているわけだが、
聴感上のS/N比的にみれば、サブフレームに関してはなんからの対策をとりたくなる。

もっとも通常のコーン紙外周のエッジは、面積的には無視できないもので、
振動板とは別の音を発しているわけで、
エッジレス構造は、この部分の不要輻射による聴感上のS/N比の低下を抑えている。

けれどサブレームとそれをささえるアーム、そしてカンチレバー。
面積的にはけっこうある──。
エッジとはまた別の聴感上のS/N比の低下がある。

AXIOM 80に思い入れがいっさいなければ、この部分の影響に目が行くだろう。
けれど、いまどきAXIOM 80について書いている者にとっては、
そんなことはどうでもいい、となる。

聴感上のS/N比の重要性について言ったり書いているしていることと矛盾している、
そう思われてもかまわない。

Date: 11月 7th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その2)

50号の次にAXIOM 80がステレオサウンドに登場したのは、
1981年夏の別冊「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」だった。

セパレートアンプの別冊に、スピーカーユニットのAXIOM 80が、
それも大きな扱いの写真が載っている。

巻頭の瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」の中に、
AXIOM 80がある。

その理由はステレオサウンド 62号に載っている。
「音を描く詩人の死 故・瀬川冬樹氏を偲ぶ」に載っている。
     *
 この前のカラー見開きページに瀬川先生の1972(昭和47)年ごろのリスニングルームの写真がのっている。それを注意ぶかく見られた読者は、JBLのウーファーをおさめた2つのエンクロージュアのあいだに積んである段ボール箱が、アキシオム80のものであることに気づかれただろう。『ステレオサウンド』の創刊号で瀬川先生はこう書かれている。
〝そして現在、わたしのAXIOM80はもとの段ボール箱にしまい込まれ、しばらく陽の目をみていない。けれどこのスピーカーこそわたしが最も惚れた、いや、いまでも惚れ続けたスピーカーのひとつである。いま身辺に余裕ができたら、もう一度、エンクロージュアとアンプにモノーラル時代の体験を生かして、再びあの頃の音を再現したいと考えてもいる。〟
 そして昨年の春に書かれた、あの先生のエッセイでも、こう書かれているのだ。〝ディテールのどこまでも明晰に聴こえることの快さを教えてくれたアンプがJBLであれば、スピーカーは私にとってイギリス・グッドマンのアキシオム80だったかもしれない。
 そして、これは非常に大切なことだがその両者とも、ディテールをここまで繊細に再現しておきながら、全体の構築が確かであった。それだからこそ、細かな音のどこまでも鮮明に聴こえることが快かったのだと思う。細かな音を鳴らす、というだけのことであれば、これら以外にも、そしてこれら以前にも、さまざまなオーディオ機器はあった。けれど、全景を確かに形造っておいた上で、その中にどこまでも細やかさを追及してゆく、という鳴らし方をするオーディオパーツは、決して多くはない。そして、そういう形でディテールの再現される快さを一旦体験してしまうと、もう後に戻る気持にはなれないものである。〟
 現実のアキシオム80の音を先生は約20年間、聴いておられなかったはずである。すくなくとも、ご自分のアキシオム80については……。
 それでも、その原稿をいただいた時点で先生は8個のアキシオム80を大切に持っておられた。
 これは、アンブの特集だった。先生も、すくなくとも文章のうえでは、JBLのアンプのことを述べられるにあたって引きあいにだされるだけ、というかたちで、アキシオム80に触れられただけだった。
 でも……いまでも説明できないような気持につきうごかされて、編集担当者のMは、そのアキシオム80の写真を撮って大きくのせたい、と思った。
 カメラの前にセットされたアキシオム80は、この20年間鳴らされたことのないスピーカーだった。
〈先生は、どんなにか、これを鳴らしてみたいのだろうな〉と思いながら見たせいか、アキシオム80も〈鳴らしてください、ふたたびあのときのように……〉と、瀬川先生に呼びかけているように見えた。
     *
62号にもAXIOM 80の同じ写真が載っている。
62号を読んで、あのAXIOM 80が瀬川先生のモノだったことを知る。

Date: 11月 3rd, 2016
Cate: 五味康祐

ラフマニノフの〝声〟VocaliseとグラドのSignature II

グラドのカートリッジに、かつてSignature Iがあった。
ステレオサウンド 41号の特集で菅野先生が紹介されている。

その後、Signature IはIBになり、Signature IIも登場した。
Signature IBが1979年当時で110,000円、Signature IIが199,000円していた。

いまでももっと高価なカートリッジがいくつもあるから、
そういう感覚では、Signature IIもそれほどでもない、と思うかもしれないが、
当時はおそろしく高価に感じた。

EMTのTSD15が65,000円、オルトフォンのSPU-G/Eが34,000円の時代で、
オルトフォンのMC30の99,000円でも、相当に高価だと感じていたところに、
その二倍もするカートリッジが登場した。

しかもTSD15も、SPUもMC30もMC型なのに、
Signature IIはMI型である。

発電方式だけで価格が決るわけではないというものの、
総じて手づくりの要素の強いMC型はMM型、MI型よりも高価につく。
そういう時代だったところに、20万円近いMI型カートリッジの登場は、
それだけでも目を引く存在といえた。

一度だけSignature IIを聴いている。
Signature IBは聴いていない。
瀬川先生が聴かせてくれた。

瀬川先生によれば、Signature IIの方がいい、ということだった。
だと思う。
瀬川先生はSignature IIを購われていた。

高いけれど、聴いてしまう……、
そんなことを話されていた。

ステレオサウンド 47号で、
《高価だが素晴らしく滑らかで品位の高い艶のある音が聴き手を捉える。》
と書かれている。

確かにそういう音だ。
けれど、グラドはそれでもアメリカのカートリッジであり、
品位の高い艶のある音には違いないが、
ヨーロッパのカートリッジの「品位の高い艶のある音」とは違う。
どこか甘美なのだ。

もう少し行き過ぎると、白痴美になってしまうのでは……、
そういう甘美さである。

ラフマニノフの「声」を、このグラドのSignature IIで聴いてみたい、
とも聴きながら思っていた。

Signature IIはもう40年近く前のカートリッジだ。
おまけに高価でもあった。
日本にコンディションのいいSignature IIがあるのかどうかもあやしい。

Signature IIを聴く機会はおそらくない。
でももしかしたら……、と思う。
その時は「声」のLPを探してきて、聴いてみたい。

私にとってグラドのSignature IIというカートリッジは、
ラフマニノフの「声」のために存在している。

Date: 11月 3rd, 2016
Cate: 五味康祐

ラフマニノフの〝声〟Vocalise

ラフマニノフの「声」を知ったのも、五味先生の書かれたものによる。
読んでいるうちに聴きたくなった。
けれどすぐにはLPがみつからなかった。
私もラフマニノフは、好まない。
いまもラフマニノフの曲はあまり持っていない。

でも、この「声」だけは聴きたい、と思い続けていた。
CDになったのは、あまり早くはなかった。
廉価盤の二枚組におさめられて、やっとCDになった。

ラフマニノフもあまり聴かないけれど、
オーマンディもあまり聴かない。
だから「声」のためだけに、二枚組のCDを買ったようなものだ。
     *
 ラフマニノフのこの曲は、オーマンディのフィラデルフィアを振った交響曲第三番のB面に、アンコールのように付いている。ごく短い曲である。しらべてみたら管弦楽曲ではなくて、文字通り歌曲らしい。多分オーマンディが管弦楽用にアレンジしたものだろうと思う。だから米コロンビア盤(ML四九六一)でしか聴けないのだが、凡そ甘美という点で、これほど甘美な旋律を他に私は知らない。オーケストラが、こんなに甘ったるく、適度に感傷的で美しいメロディを、よくもぬけぬけと歌いあげられるものだと、初めて聴いたとき私は呆れ、陶然とした。ラフマニノフの交響曲は、第二番を私は好む。第三番はまことに退屈で、つまらぬ曲だ。
 ラフマニノフ家は由緒あるロシアの貴族で、農奴解放運動で、しだいに父親は領地を失ったというが、そうした社会的変革はラフマニノフの音楽——その感性にさして影響は及ぼさなかった。しかしロシア革命は、彼の貴族生活を根底からくつがえし、ソヴィエト政権を嫌った彼は他の多くの白系貴族同様、一九一七年にパリに亡命し、翌年からはアメリカに住んでいる。
 おもしろいのは、彼のいい作品は——第二交響曲、有名な十三の前奏曲、第二ピアノ協奏曲、それにこの〝声〟など、すべてアメリカ永住以前に作られていることで、アメリカに住んでからは第三交響曲に代表されるように、まったく退屈な駄作しか作れなくなったことだ。この辺にセルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフの音楽の限界——その長所も欠点もが、あるのだろう。それはともかく〝声〟の甘美さは空前絶後といえるもので、一度でもこの旋律を耳にした人は、忘れないだろうと思う。どうしてこんな甘美な調べが、一般には知られていないのか、不思議である。もしかすればオーマンディの編曲が巧みだったからかも知れないが(原曲の歌を私は聴いたことがない)私の知る限り、〝声〟の甘さに匹敵するのはブラームスのワルツくらいだ。
     *
ほんとうにオーケストラが、
《こんなに甘ったるく、適度に感傷的で美しいメロディを、よくもぬけぬけと歌い》あげる。

今日(正確にはもう昨夜)、
audio sharing例会で、この「声」をかけた。
オーケストラがアメリカ、それもシカゴではなくフィラデルフィアということもあってだろう、
アルテックで鳴らすと朗々と鳴ってくれる。

JBLでは、こんなふうには鳴ってくれない、と思ってしまうほど、
アルテックの昔のスピーカーは、歌ってくれる。