五味康祐氏とワグナー(名盤・その3)
いずれにせよ、こうして弦楽四重奏曲から私は一人称のすぐれた文学作品を読んで来た。耳で読んだ。馬の尻っぽが弦をこする重奏がひびき出すと、私は今でも緊張する。オペラや歌曲は、どうかすれば一杯機嫌で聴くこともあるが弦楽曲はそうは参らない。その代りつまらぬクヮルテットは、聴くに耐えぬが、ちか頃はいい作品を聴くと死を考えてしまう。死ぬことを。私ももう五十を過ぎた、いつポックリ逝くかも知れない。そう想えば居ても立ってもいられぬ気持になり、結局、酔生夢死というのは、こんな私のような居ても立ってもいられぬ男を慰めるため、造られた言葉ではなかったか、そんな風にも懐うこともある。人間は何をして何を遺せるのか? 漠然とそんなことを考えているうちに、音楽家は作品で遺書を書いた場合があるのか? ふとそう思うようになった。
すぐ想い浮んだのはモーツァルトの『レクイエム』である。でもモーツァルトでは桁が違いすぎ、手に負えない。もう少しぼくらの手近かでと見渡したら直ぐ一人見つかった。ブラームスだった。私はヴィトーとエドゥイン・フィッシャーのヴァイオリン・ソナタ第一番(作品七八)を鳴らしてみた。ブラームスの誠実さはこの曲で充分である。ヴィトーはよく弾いている。だがこれは周知の通り、明るい夏の雨の気分を偲ばせるもので、プライベートなその初演にブラームスがピアノを受持ち、ヨアヒムがヴァイオリンを弾いてクララ・シューマン達に聴かせたといわれるように、幸せな頃であろう。遺書をつづる切なさを期待するのは、いかにそれがブラームスでも無理である。といって、最晩年の作がかならずしも遺書を兼ねているとは限らない。死をおもうのは年齢に関わるまい。
ブッシュ弦楽四重奏団で——私の記憶では——クラリネット五重奏曲(作品一一五)をいれたレコードがある。このロ短調の五重奏曲は、あらためて私が言うまでもなくクラリネット室内楽曲の傑作であるが、実を言うと昭和二十七年にS氏邸で聴かせてもらうまで、ブラームスにこの名品のあるのを私は知らなかった。どうしてか知らないが、聴いている裡に胸が痛くなりボロボロ涙がこぼれた。恐らく当時の貧乏暮しや、将来の見通しの暗さ、他にもかなしいこともあったからだろう。
——以来この曲を、なるべく聴かないようにして来たし、レコードも所持しない。したがってブラームスの遺言を聴き出そうにも、記憶の中で耳を傾ける以外にないが、二十年前泣いて聴いた曲からそんなものがきこえてくる道理がない。
(「音楽に在る死」より)
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ブラームスのクラリネット五重奏曲(作品一一五)のレコードを買うことは、
五味先生にとって造作もないこと。
なのに、あえて所持されなかった。
聴かないようにしてこられた。
つまらぬ曲だから、では、もちろんない。
このことはとても大事なことだ。