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Date: 10月 13th, 2022
Cate: 菅野沖彦

10月13日(2022年)

四年が経った。
一年前に、三年が経った、
二年前には、二年が経った、と、
三年前には、一年が経った、と書いている。

ここまで書いて、来年(2023年)の1月で、このブログも終るのだから、
「五年が経った」と書くことはないのに気づいた。

私がステレオサウンドにいたころ、つまり1980年代なのだが、
菅野先生は何度か「若さはバカさ」といわれていた。

最近、この菅野先生のことばを思い出す。
「若さはバカさ」ならば、「バカさは若さ」ではないのか、と続けて思うようになった。

Date: 10月 6th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その13)

少し前に、心に近い音、耳に近い音について書いている。
結局のところ、ここで語っていることと、
心に近い音、耳に近い音について語っていることは、
私にとって同じことを、別の側面から語っていただけ、である。

リアルな音は、私にとって耳に近い音、
リアリティな音こそ、私にとっては心に近い音。

Date: 10月 4th, 2022
Cate: 菅野沖彦

Sugano 90(その2)

菅野先生生誕90年だから、たぶん無理なのはわかっていても、
つい期待したくなるのが、菅野先生録音のルドルフ・フィルクシュニーの再発である。

1983年に、菅野先生にとって初のデジタル録音で、
フィルクシュニーの来日にあわせて石橋メモリアルホールで収録されている。

レーベルは、オーディオ・ラボではなく、スガノ・ディスクだった。
マイクロフォンには三研製が使われた。
レコーダーは、ソニーのBVU200Bである。

Uマチックの器材だ。
マスターテープがきちんと保管されていたとしても、
きちんとした再生は器材の関係でかなり難しい。

それでもマスターテープが残っていて、
器材の条件が揃えば、MQAで再発してほしい、と思う。

Date: 9月 27th, 2022
Cate: 菅野沖彦

Sugano 90(その1)

今日(9月27日)は、菅野先生の誕生日だ。
グレン・グールドと二日違いの誕生日で、グールドと同じ1932年生れである。

このことを以前、菅野先生に話したことがある。
菅野先生も、このことに特別な親近感、つながりを感じている──、
そういったことを話してくださった。

グールドも菅野先生も天秤座である。
占星術ではバランス感覚に優れる星座である。

占星術をまったく信じない人もいるだろうが、
グールドと菅野先生、どちらもバランス感覚に優れた人であり、
そのバランス感覚は、いわゆるちまちましたバランス感覚ではなく、
一方に大きく振り切ったら、その反対にも大きく振り切ることのできるバランス感覚である。

そんなこと、私だってできる──、
そんなことをいう人は、往々にして一方に振り切ることはできても、
その反対方向に振り切れるわけではなかったりする。

本人は反対方向に振り切っているつもりであっても、
最初に振り切った方向とたいして違わないところでの振り切りであったりする。

正しく反対方向を見定めることができなければ、
ここでいうバランス感覚をもつことはできない。

Date: 9月 18th, 2022
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その9)

ステレオサウンド 59号掲載の、
瀬川先生によるアキュフェーズM100の新製品紹介の文章。

この文章が、読んだ時から、ずーっと心のどこかにひっかかっているような気がしていた。
アキュフェーズのM100に、当時、すごく関心を寄せていたわけではない。
自分でも不思議に思いながらも、
ひっかかっているような気がしていた、という感じだったので、
あまり、というか、ほとんどそのことについてそれ以上考えることはしなかった。

最近になって、ああそうだ、と気づいた。
     *
 そのことは、試聴を一旦終えたあとからむしろ気づかされた。
 というのは、かなり時間をかけてテストしたにもかかわらず、C240+M100(×2)の音は、聴き手を疲れさせるどころか、久々に聴いた質の高い、滑らかな美しい音に、どこか軽い酔い心地に似た快ささえ感じさせるものだから、テストを終えてもすぐにスイッチを切る気持になれずに、そのまま、音量を落として、いろいろなレコードを、ポカンと楽しんでいた。
 その頃になると、もう、パワーディスプレイの存在もほとんど気にならなくなっている。500Wに挑戦する気も、もうなくなっている。ただ、自分の気にいった音量で、レコードを楽しむ気分になっている。
 そうしてみて気がついたことは、このアンプが、0・001Wの最小レンジでもときどきローレベルの表示がスケールアウトするほどの小さな出力で聴き続けてなお、数ある内外のパワーアンプの中でも、十分に印象に残るだけの上質な美しい魅力ある音質を持っている、ということだった。夜更けてどことなくひっそりした気配の漂いはじめた試聴室の中で、M100は実にひっそりと美しい音を聴かせた。まるで、さっきの640Wのあの音の伸びがウソだったように。しかも、この試聴室は都心にあって、実際にはビルの外の自動車の騒音が、かすかに部屋に聴こえてくるような環境であるにもかかわらず、あの夜の音が、妙にひっそりとした印象で耳の底で鳴っている。
     *
瀬川先生の文章の終りのほうである。
ここのところが、ずーっと私の心のどこかにあった。

ここのところを読んで、どう思うのかは、人それぞれでしかない。
私は私の読み方をするだけで、
ここのところを読んでいると、
瀬川先生は独りでM100を聴かれているのか──、
そんなことを感じてしまうから、私の心のどこかにひっかかっていたのだろう。

そんなことはない。
ステレオサウンドの試聴室での試聴なのだから、
瀬川先生の隣には編集者が最低でも一人か二人はいるはずだ。

なのに、何度読み返しても、私には瀬川先生が独りで聴かれていくように感じてしまう。

Date: 9月 17th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その12)

リアルとリアリティについて考えていると、
別項「新月に出逢う」で書いているEn氏の人形に、
なぜこれまほどまでに惹かれるのか、その理由の輪郭がはっきりしてきそうである。

つまり、私はリアリティのある人形に惹かれているのであり、
リアリティを感じさせる人形を欲しい、と思っているのだろう。

En氏のつくる人形よりも、ずっとリアルな人形は世の中にたくさんあるだろう。
そういう人形を欲しい、と思わない。
欲しいのは、リアリティのある人形であり、
そのことは私にとっては、いまのところEn氏の人形であるが、
このことは、あくまでも私にとって、である。

私以外の人は、En氏の人形にリアリティを感じないのかもしれないし、
私と同じように強くリアリティを感じて惹かれる人もいることだろう。

この項の(その2)、(その3)で書いているように、
「五味オーディオ教室」を読みながら、中学二年だった私は、
ハイ・フィデリティよりもハイ・リアリティを、と思うようになっていた。

とはいっても、その時点では、あくまでも言葉の上だけでしかなかった。
それから四十年以上が経ち、ようやくハイ・リアリティとは──、
ということが摑めてきている。

Date: 7月 18th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その11)

「キングダム2 遥かなる大地へ」が公開されている。
一作目の「キングダム」は、プライムビデオで途中まで見てやめてしまった。

同じ理由で、「キングダム2 遥かなる大地へ」は観るつもりはない。
予告編を見ていて、そう思った。

「キングダム」が大作なのかは知っている。
つまらない映画とはいわない。
最後まで見ていないのだから。

途中で見るのをやめてしまったのは、些細なことだ。
その些細なことは「キングダム2 遥かなる大地へ」でも同じだ。

「キングダム」の時代設定、主人公の役どころ(当時の身分)からして、
あの歯の白さはないだろう、と思ってしまう。

二十数年前に「芸能人は歯が命」というキャッチコピーのコマーシャルが、
やたらとテレビから流れていた。
アパガードという歯磨き粉のコマーシャルだった。

映画に出演する役者も芸能人だから、「歯が命」、
歯の白さが命なのは理解しているつもりだけれど、
映画のなかでのあの白さは輝くばかりで、
主役級の役者の歯が見えるたびに、なんともいえない気持になってしまう。

映画だから──、そういわれそうなのだが、
ここで私が感じたのはリアルとリアリティの違いである。

「キングダム」での現代的な歯の白さは、映画からリアリティを消し去ってしまう。

Date: 6月 30th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その19)

カラヤンのレコーディング歴はながい。
SP時代から始まっている。
このころは当然モノーラルで、テープ録音はまだ登場していない。

その後、ドイツで世界初のテープ録音が行われる。
それでもまだモノーラルの時代だし、他の国ではディスク録音だった。

戦後、SPがLPとなる。それでもまだまだモノーラルである。
テープ録音も普及していく。
そしてステレオになっていく。

それからデジタル録音が登場してくる。
デジタルになる前にあった変化は、
録音器材の管球式からソリッドステートへの移行があった。
録音テクニックの変遷もある。

1982年10月、CDが登場する。

これらすべてをカラヤンは指揮者として経験している。
カラヤンと同世代の演奏家ならば、同じように経験してきているだろうが、
カラヤンほど積極的に経験してきている演奏家となると、多くはない、といえる。

そういうカラヤンだからこそ、
精妙な録音を行える、ともいえよう。

そのカラヤンが、いまの時代の若手指揮者だったら、どうだろうか。
録音を開始したころから、すでにデジタル録音で、
それも44.1kHz、16ビットではなく、
ハイレゾリューションでの録音が身近になっている時代しか経験していない。

そんなカラヤンがもしいたとしたら、精妙な録音を行なえただろうか。
これから先、精妙な録音を聴かせてくれる演奏家は登場してくるだろうか。

Date: 6月 22nd, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その18)

カラヤンの「ローマの松」と「ローマの泉」については、
ステレオサウンド 49号、岡先生の「クラシック・ベスト・レコード」のなかで、
すこし詳しく書かれている。

少し長くなるが、引用しておこう。
     *
《ローマの松》はカラヤンにとって二度目の録音だが、《泉》は初めてである。その《泉》の出だしの弱音のなかに、朝日にきらめく水のしぶきを描写したようなイメージを、喚起せずにはおかないさまざまな楽器の点描の美しさはたとえようもない。空気の透明さと音彩の純度のたかさが素晴らしい。その精妙なピアニシモがあればこそ、フォルティシモのあざやかさが生きてくるのである。
 この二、三年のカラヤンの録音は、ピアニシモをベースにしたダイナミックスの効果を、ひじょうに意識していることは明らかである。コンサートにおけるダイナミックスをそのままレコードにもりこむことは不可能であることはいうまでもないが、カラヤンは心理的にそのピアニシモをピアニシモまで拡大できるようなレコーディング効果を計算しているようにおもえる。たとえば《松》における、〝ジャニコロの松〟から〝アッピア街道の松〟への推移する部分である。ナイチンゲールの啼声の録音をつかうように指定されている〝ジャニコロ〟の最後の十四小節は、クラリネットのppのフレーズに弱音器をつけた弦が重ねられる。コントラバスを除く弦は十部に分奏される。ことに、ヴァイオリンは五部になっていて、pppからppppのトレモロが、順序を追って重ねられてゆく。その微妙な音の重なりかたによる効果が、きくものに幻想的なイメージを喚起して、アッピア街道を行進してくるローマ軍団の歩調がとおくから響いてくる終曲のムードをひきだすわけだが、その漸層的にたかまってゆく行進曲歩調のなかに、うすくつけられた弦が、リズムの和音のなかにめりこまず、絶妙な色彩的効果を添えるのである。
 こういうバランスは、多分、コンサートホールできくにはよほど条件のよい席でなければ感じとれないにちがいない。また再生装置のグレードがちがってすも、ニュアンスの相違が出るだろう。こういう音の細密表現がうまく再生されると、きき手は本当に〝息をのんで〟ききほれてしまうにちがいない。カラヤンはマイクをとおしての最良のバランスを、オーケストラにもとめているにちがいないコントロールを行っているのである。
     *
カラヤン/ベルリン・フィルハーモニーによる「ローマの噴水」と「ローマの松」は、
1977年12月、1978年1月、2月の録音である。

「ローマの噴水」は、瀬川先生の文章にも登場してくる。
56号掲載のトーレンスのリファレンスのところに、である。
     *
たとえば、カラヤン/ベルリン・フィルの「ローマの泉」の第二曲(朝のトリトンの噴水)の噴水の吹き上がる部分。リファレンスの音は、ほんとうに水しぶきが上がってどこまでも吹き上げる。水のしぶきに、ローマの太陽が燦然ときらめき映える。このレコードの音は、ずいぶんきわどく録音されているが、しかしやかましいという感じにならない。残念ながら、私が目下愛用しているマイクロ二連ドライブ+AC4000MC、それにMC30では、どうしても少々上ずる傾向になりがちだ。エクスクルーシヴとEMT930stでは、しぶきが十分な高さに吹き上がらない。そういう迫真力で格段の差を聴かせておきながら、少々傷んだレコードをかけてみても、他のプレーヤーよりその傷みからくる音の荒れが耳につきにくいというのは、何ともふしぎである。
     *
TIDALとe-onkyo、どちらもMQA(96kHz)である。
TIDALでは「ローマの噴水」はMQAなのだが、「ローマの松」はMQA Studioと表示される。

Date: 6月 17th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その17)

カラヤンと精妙ということで思い出すのは、
ステレオサウンド 52号で、
岡先生と黒田先生が「レコードからみたカラヤン」というテーマでの対談である。
     *
黒田 そういったことを考えあわすと、ぼくはカラヤンの新しいレコードというのは、音の面からいえば、前衛にあるとはいいがたいんですね。少し前までは、レコードの一種の前衛だろうと思っていたんだけど、最近ではどうもそうは思えなくなったわけです。むろん後衛とはいいませんから、中衛かな(笑い)。
 いま前衛というべき仕事は、たとえばライナー・ブロックとクラウス・ヒーマンのコンビの録音なんかでしょう。
 そこのところでは、黒田さんと多少意見が分かれるかもしれませんね。去年、カラヤンの「ローマの松」と「ローマの泉」が出て、これはびっくりするほどいい演奏でいい録音だった。ところがごく最近、同じDGGで小沢/ボストン響の同企画のレコードができましたね。これはいま黒田さんがいわれた、プロデューサーがブロック、エンジニアがヒーマンというチームが録音を担当しているわけです。
 この2枚のレコードのダイナミックレンジを調べると、ピアニッシモは小沢盤のほうが3dB低い。そしてフォルティシモは同じ音量です。したがって全体の幅でいうと、ピアニッシモが3dB低いぶんだけ小沢盤のほうがダイナミックレンジの幅が広いことになります。物理的に比較すると、そういうことになるんだけれど、カラヤン盤のピアニッシモのありかたというか、音のとりかたと、小沢盤のそれとを、音響心理学的に比較するとひじょうにちがうんです。
黒田 キャラクターとして、その両者はまったくちがうピアニッシモですね。
 ええ。つまりカラヤン盤では、雰囲気とかひびきというニュアンスを含んだピアニッシモだが、小沢盤では物理的に小さい音、ということなんですね。物理的に小さな音は、ボリュウムを上げないと音楽がはっきりとひびかないんです。小沢盤の録音レベルが3dB低いということは、聴感的にいえば6dB低くきこえることになる。そこで6dB上げると、フォルテがずっと大きな音量になってしまうから聴感上のダイナミックレンジは圧倒的に小沢盤の方が大きくきこえてくるわけです。
 いいかえると、カラヤンのピアニッシモで感心するのは、きこえるかきこえないかというところを、心理的な意味でとらえていることです。つまり音楽が音楽になった状態での小さい音、それをオーケストラにも録音スタッフにも要求しているんですね。これはカラヤンがレコーディングを大切にしている指揮者であることの、ひとつの好例だと思います。
 それから、これはカラヤンがどんな指示をあたえたのかは知らないけれど、「ローマの松」でびっくりしたところがあるんです。第三部〈ジャニロコの松〉の終わりで、ナイチンゲールの声が入り、それが終わるとすぐに低音楽器のリズムが入って行進曲ふうに第四部〈アッピア街道の松〉になる。ここで低音リズムのうえに、第一と第二ヴァイオリンが交互に音をのせるんですが、それがじつに低い音なんだけど、きれいにのっかってでてくる。小沢盤ではそういう鳴りかたになっていないんですね。
 つまりPがひとつぐらいしかつかないパッセージなんだけれど、そこにあるピアニッシモみたいな雰囲気を、じつにみごとにテクスチュアとして出してくる。録音スタッフに対する要求がどんなものであったかは知らないけれど、それがレコードに収められるように演奏させるカラヤンの考えかたに感嘆したわけです。
黒田 そのへんは、むかしからレコードに本気に取り組んできた指揮者ならではのみごとさ、といってもいいでしょうね。
     *
実演での精妙と精緻ということではない。
録音での精妙と精緻ということでいえば、
カラヤンは精妙であるとはっきりいえるし、小澤征爾は精緻ということか。

岡先生は、さらにこうも語られている。
     *
 六〇年代後半から、レコードそしてレコーディングのクォリティが、年々急上昇してきているわけですが、そういった物理量で裏づけられている向上ぶりに対して、カラヤンは音楽の表現でこういうデリケートなところまで出せるぞと、身をもって範をたれてきている。指揮者は数多くいるけれど、そこで注意深く、計算されつくした演奏ができるひとは、ほかには見当りませんね。ぼくがカラヤンの録音は優れていると書いたり発言したりすると、オーディオマニアからよく不思議な顔をされるんだけど、フォルテでシンバルがどう鳴ったかというようなことばかりに気をとられて、デリカシーにみちた弱音といった面にあまり関心をしめさないんですね。これはたいへん残念に思います。
     *
単なる物理的な弱音ではなく《デリカシーにみちた弱音》、
心理的な意味でのピアニッシモを実現してこその精妙である。

Date: 6月 16th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その16)

瀬川先生が、「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭に書かれている。
     *
 現にわたくしも、JBLの♯4343の物凄い能力におどろきながら、しかし、たとえばロジャースのLS3/5Aという、6万円そこそこのコンパクトスピーカーを鳴らしたときの、たとえばヨーロッパのオーケストラの響きの美しさは、JBLなど足もとにも及ばないと思う。JBLにはその能力はない。コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ。JBLがそれをならせないわけではないが、しかし、ロジャースをなにげなく鳴らしたときのあの響きの美しさは、JBLを蹴飛ばしたくなるほどの気持を、仮にそれが一瞬とはいえ味わわせることがある。なぜ、あの響きの美しさがJBLには、いや、アメリカの大半のスピーカーから鳴ってこないのか。しかしまた、なぜ、イギリスのスピーカーでは、たとえ最高クラスの製品といえどもJBL♯4343のあの力に満ちた音が鳴らせないのか──。
     *
ここに書かれていることも、精緻と精妙の違いのように読める。
4343の音は精緻、
LS3/5Aの音は精妙だからこそ、
《コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ》を、
鳴らしてくれるのではないのか。

Date: 5月 10th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その15)

カラヤンをお好きだった瀬川先生と黒田先生。
お二人ともJBLの4343でレコード(録音物)を聴かれていた。

瀬川先生は、ステレオサウンド 53号での4343研究で、
オール・レビンソン、
しかもウーファーに関してはML2をブリッジ接続してのバイアンプ駆動、
つまり六台のML2を用意しての4343を極限まで鳴らそうという企画をやられている。

この時の音は、この時代における精緻主義の極致であっただろう。

この時、誌面に登場する試聴レコードは、
菅野先生録音、オーディオ・ラボの「ザ・ダイアログ」、
それからコリン・デイヴィス指揮のストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス録音)、
アース・ウインド&ファイアーの「黙示録」に、
チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」である。

カラヤンのディスクはなかった。
53号を読んだ当時は、そのことに気づかなかった。
そういえばカラヤンのディスクがなかったな、と気づいたのは、
ずっとあとのことである。

気づいた後で、
ステレオサウンド 56号掲載のトーレンスのリファレンスの新製品紹介記事、
58号でのSMEの3012R-Specialの新製品紹介記事、
もちろん両方とも瀬川先生が担当されているわけで、
この二つの瀬川先生の文章を読み返すと、
精妙主義ということに、少なくとも私のなかではつながっていく。

同じことは黒田先生についてもいえる。

Date: 5月 9th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その14)

精妙と精緻は近いようでいて、同じではない。
カラヤンは精妙主義の指揮者であり、
別項で触れているマーラーの第一番をシカゴ交響楽団と録音したころのアバドは、
精緻主義の指揮者である。

カラヤンの精妙主義がもっともいかされていると私が感じるのは、
ワーグナーにおいて、である。

「パルジファル」がもっとも優れたカラヤンの精妙主義を聴くことができるが、
「ニーベルングの指環」もそうだと感じている。

室内楽的、といわれたのは黒田先生である。
たしかにカラヤンの「ニーベルングの指環」は室内楽的な印象を受ける。

五味先生はカラヤンを嫌われていた。
初期のカラヤンの演奏は高く評価されていたけれど、
フルトヴェングラーが亡くなって以降のカラヤンに関しては、
堕落した、とまでいわれている。

カラヤンの「ニーベルングの指環」は、
その五味先生のレコードコレクションの中にある。

いまでこそけっこうな数の「ニーベルングの指環」の録音はある。
けれど五味先生が生きておられた時代、
ショルティの「ニーベルングの指環」がまずあった。

それ以外の「ニーベルングの指環」となると、
いかな五味先生でもカラヤンの「ニーベルングの指環」を無視できなかったのだろう。

Date: 5月 7th, 2022
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(THAEDRAとJC-2・その4)

THAEDRAと組み合わせた時の音について別項でも触れているから、
ここでは省くけれど、THAEDRAも、どうしても欲しい、という人がいて、
結局、その人に譲ってしまった。

JC2とTHAEDRA。
これら以外のコントロールアンプも使ってきたけれど、
ふり返って思い出すのは、この二機種である。

使ったことがない、
つまり自分のシステムに組み込んだことがないモデルのなかでは、
マークレビンソンのLNP2は、いまでもいつかは──、というおもいがあるけれど、
使ったモデルに限定すれば、JC2とTHAEDRAということになる。

いま目の前に、この二つのコントロールアンプがあって、
どちら片方だけ選べといわれたら(もちろんどちらも同じ価格だとして)、
やはりTHAEDRAを選ぶ(資産価値で選ぶ人はJC2のはず)。

実際のところ、中古市場ではJC2のほうが高価である。
それでも、私がとるのはTHAEDRAであり、ここにおける選択は、
音があってのことであっても、別の理由もある。

別項で「オーディオ・システムのデザインの中心」を書いてる。
結論までにはもう少し書いていく予定なのだが、
私は、オーディオ・システムのデザインの中心はコントロールアンプだ、と考えている。

つまりJC2よりもTHAEDRAということは、
コーネッタをスピーカーに据えるシステムにおいて、
THAEDRAを、システムのデザインの中心に置く(選んだ)ことである。

Date: 5月 4th, 2022
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(THAEDRAとJC-2・その3)

水を得た魚のように、という表現がある。
GASのTHAEDRAと接いだSUMOのThe Goldはまさにそうだった。

SUMOのThe Powerがステレオサウンドの新製品紹介の記事に登場したとき、
コントロールアンプをTHAEDRAにしたら、鳴り方が大きく変った──、
そんなことが書かれていたことは、常に頭のなかにあった。

とはいうものの、ここまで変るのか、と驚いてしまった。

JC2を友人に譲ってからは、
エッグミラーのW85(H型アッテネーター)を使っていた。

アナログプレーヤーはトーレンスの101 Limited、
CDプレーヤーはスチューダーのA727を使っていたので、
どちらのモデルも出力にライントランスを介している。
バランス出力である。

だからW85を介してThe Goldのバランス入力に接続していた。

JC2、THAEDRAにはバランス出力はない。
アンバランス出力のみだから、The Goldのアンバランス入力に接ぐことになる。

The Goldの場合、アンバランス入力だと、
アンバランス/バランスの変換回路を通ることになる。
信号経路が長くなり、信号が通過する素子数も多くなる。

そのことがあったから、THAEDRAの音にそれほど期待していたわけではなかった。
理屈の上では、THAEDRAを介すことで音が良くなることはない。

でも、そんな理屈は実際に鳴ってきた音を、
ほんのわずかな時間聴いただけで消し飛んでしまう。