Archive for category High Fidelity

Date: 6月 10th, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続々続々・原音→げんおん→減音)

再生可能な音域を拡大するために複数のスピーカーユニットを組み合わせていく際に、
それぞれのスピーカーユニットには帯域制限を行う。
ウーファーには低い音を、トゥイーターには逆に低い音が入力されないようにする。
それぞれのスピーカーユニットの良さがもっとも発揮できる帯域のみをできるだけ使おうとして、
スピーカーシステムは設計されることが多い。

そのためにスピーカーシステムに内蔵するLCネットワークにするか、
パワーアンプを複数台使用することになるマルチアンプ方式にするか、の違いはあっても、
クロスオーバー周波数をどこに設定し、遮断特性はどういうカーヴにするのか──、
この組合せは文字通り無数にあり、その中からどのポイントとカーヴを選ぶのかは、
スピーカーシステムをまとめていく上で、もっとも面倒で難しく、
けれどスピーカーの奥深さを知ることができる、もっとも面白いことでもある。

これは、つまりフィルターの設定であり、
フィルターは周波数特性をもつ減衰回路である。

スピーカーの再生可能な帯域を拡大するためには、
いまのところ、どうしてもスピーカーユニットを組み合わせていかなければならない。
その組合せに絶対必要なものがフィルターである。いわば特定の帯域以外の音を減らすことである。

LCネットワークやデヴァイディングネットワークといったフィルターを使わずに
スピーカーユニットをただ組み合わせていっただけでは──ただ並列に接続しただけ──では、
まともな音にはならないどころか、まとも動作しない。
ちょっとでも音量をあげればトゥイーターはすぐに飛んでしまう。
ウーファーはその点大丈夫でも、音に関しては高音に関してはまともな音は期待できない。

フィルターはスピーカーユニットを守るためでもあり、音を整えるためにも欠かせない存在である。

音を減らす、ということは、音は整えるということでもある。

Date: 6月 2nd, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続々続・原音→げんおん→減音)

音を調整していく上で行っている行為──、
たとえばボリュウムの上げ下げ、スピーカーシステムのレベルコントロールの調整、
グラフィックイコライザーやパラメトリックイコライザー、トーンコントロールを使っているのであれば、
各種ツマミの調整、これらはすべて音を減らす行為である。

と書くと、スピーカーシステムレベルコントロールは、たいてい真ん中の位置に0ポジション(フラット)があり、
レベルを上げることもできる、と。
グラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザーにしてもそうだ、と。
ボリュウムも同じだろう、と。

でも、これらはすべて減衰量を調整しているだけである。
つまりそのオーディオのシステムでだせる最大のエネルギーを減らすことで、バランスを整えている。

スピーカーシステムのレベルコントロールで、たとえばトゥイーターのレベルを0ポジションから右回りにまわす。
トゥイーターのレベルは当然高くなる。
これはトゥイーターのレベルが相対的に増えているだけであって、
絶対的にみればそのトゥイーターが出し得る最大レベルから
減衰量を0ポジションの位置にあるときよりも少なくしているだけことである。
0ポジションにおいて減衰量がたとえば6dBだとしたら、
レベルコントロールを少しあげたことによって減衰量を6dBよりも少ない、4dBとか3dBにしているだけである。
レベルコントロール(アッテネーター)によって減衰させていることにはかわりはない。

アッテネーターは減衰器である。

グラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザーでのツマミの操作もそうだ。
0ポジション(フラット)の位置からツマミをあげれば、その帯域での出力レベルは増す。
でもそれはグラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザーに上昇分だけの余剰ゲインをもたせており、
それよりも減衰量が多いか少ないかだけのことである。

つまりボリュウムを最大にして、トーンコントロールやイコライザー類のツマミをすべて最大限にあげて、
スピーカーシステムのレベルコントロールもすべて最大にする。
この状態でまともな音が聴けることは、まずないけれど、
この状態こそが、そのシステムが出し得る最大のエネルギーである。

これを整えるためにトゥイーターのレベルを下げたり、スコーカーのレベルも下げる。
グラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザー、
トーンコントロールのツマミも最初は真ん中にもってくる。
そして肝心のボリュウムも下げるわけだ。

レベルを上下するということは、減衰量を可変していること。
レベルを上げたつもりでも、それは減衰量を以前の状態よりも減らした、ということである。
それを「上げた」と、いわば錯覚している、ともいえる。

Date: 6月 1st, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続々・原音→げんおん→減音)

断わっておくが、情報量が多いのは困る、少ない方がいい、と考えているわけではない。
基本的に録音側での情報量が多くなっていくのは歓迎するのだが、
再生側でそれをそのまま再生することももちろん重要なことではあるものの、
限られたなかでのオーディオゆえの独自の世界を築こうとするのであれば、
ある程度の情報量の取捨選択に近いことが求められるし、それがひとつの再生側の「美」につながっている。

このことは、オーディオに関心をもち始めたころから知っていたことである(知っていただけだった、当時はまだ)。
「五味オーディオ教室」に、それは書いてある。
     *
 ところで、何年かまえ、そのマッキントッシュから、片チャンネルの出力三五〇ワットという、ばけ物みたいな真空管式メインアンプ〝MC三五〇〇〟が発売された。重さ六十キロ(ステレオにして百二十キロ——優に私の体重の二倍ある)、値段が邦貨で当時百五十六万円、アンプが加熱するため放熱用の小さな扇風機がついているが、周波数特性はなんと一ヘルツ(十ヘルツではない)から七万ヘルツまでプラス〇、マイナス三dB。三五〇ワットの出力時で、二十から二万ヘルツまでマイナス〇・五dB。SN比が、マイナス九五dBである。わが家で耳を聾する大きさで鳴らしても、VUメーターはピクリともしなかった。まず家庭で聴く限り、測定器なみの無歪のアンプといっていいように思う。
 すすめる人があって、これを私は聴いてみたのである。SN比がマイナス九五dB、七万ヘルツまで高音がのびるなら、悪いわけがないとシロウト考えで期待するのは当然だろう。当時、百五十万円の失費は私にはたいへんな負担だったが、よい音で鳴るなら仕方がない。
 さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
 理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りに鳴ってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
 MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
     *
オーディオをやってきて30数年が経ち、五味先生が当の昔に書かれているところに来たわけだ。
マッキントッシュのMC3500のように、「音のすみずみまで容赦なく音を響かせる」のもよかろう。
でも、MC275のごとく「必要な一つ二つ輪郭を鮮明に描くが、
簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかして」しまう自由が聴き手にはある。

減音には、だからもうひとつの意味がある。
減りゆく音、減ってしまった音(失われた音)のことだけではなく、
聴き手があえて減らす音としての減音があり、聴き手はここで試されている、ともいえよう。

Date: 5月 31st, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続・原音→げんおん→減音)

マイクロフォンについてはいずれ書きたいと思っているので、
ここではこれ以上PZMについてはふれないものの、
どんなに性能が優れたマイクロフォンであっても、演奏の場のすべての音を電気信号に変換することはできない。
まずここで失われる音がある。その音の信号処理をみていっても、多かれ少なかれ失われていく音がある。

伝送系においても音は失われていく。
まったく失われない箇所というのは、オーディオの系の中にはない。

それから失われるまではいかないまでも、
歪やノイズや、その他の要因による固有音が附加されていくことによって、
これらにマスキングされて失われたように感じてしまう音もある。

音が失われていく箇所を、録音の現場から再生の現場までひとつひとつ丹念に数え上げていったら、
気の遠くなるような数になり、それらによって失われていった音がどれだけあるのか正確にはっきりと掴むことは、
正直、誰にもできないことである。

技術の進歩は、録音系ではできるだけ多くの音を収録する方向に、
再生系ではできるだけ多くの音を再現する方向にある。
情報量ということでは、確実に増えてきているし、情報量が多いことが良しとされる。

私も20代のころは、よく「情報量が」ということを口にしていた。
いまも情報量は、基本的に多いほうがいいということには変りはない。
けれど……、とも思う。

情報量は再生系、再生の現場においては、音量と密接に関係している。
音量との関係は絶対に切り離せないことである。

つまり情報量が増えていくほどに、リスニング環境のS/N比のはっきりとした改善がないかぎり、
音量は増していかざるをえない。
音量が増すことは、それなりの音量で聴くことになる。
そういう環境にある人でも、大音量を好まない人もいる。
音量の自由度は、オーディオの大切なことのひとつである。
その音量の自由度が、情報量が飛躍的に増えていくほどに、狭まっていく。

Date: 5月 27th, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→減音)

減音──、減りゆく音、減ってしまった音とすれば、それは録音系、再生系で失われていく音のこととなる。

マイクロフォンが空気の振動を電気信号に変換することから録音・再生のプロセスは始まるわけだが、
まずマイクロフォンが、その演奏の場にときはなたれた音のすべてを捉えているわけではない。
仮にマイクロフォンの振動板がとらえた音をなんの損失もなく100%電気信号に変換できたとしても、
マイクロフォンがすべての音を歪めずに拾えるとはいえない。

マイクロフォンには当然ながら、大きさがある。
どんな小さなマイクロフォンでもどこにマイクロフォンが設置されているのかすぐにわかる大きさはある。
マイクロフォンの中にも小さなモノもあれば比較的大きなモノもある。
つまりある大きさをもったモノが音を捉えるために設置されることで、
音の通り道の一部にマイクロフォンが立ちはだかっているのと同じことともいえる。

こんなことを考えるようになったのは、1980年ごろにアムクロン(クラウン)がPZMを出したからだ。
PZM(Pressure Zone Microphone)を、
(たしか無線と実験だったと記憶しているが)最初記事を読んだ時は、
なぜこういうマイクロフォンにする必要があるのか、なかなか理解できなかった。

私がPZMの記事を見かけたのは、その一回きりだったし、実際に使ったことはない。
録音においてどんな特徴をもつのかはわからない。
それでも、いまもクラウンがPZMを作りつぐけているということは、プロの現場で支持されているからであろう。
決してキワモノのマイクロフォンではないのだと思う。

実際のところはどうなのかはわからないが、私なりにPZMの形態とその使い方から考えると、
通常のマイクロフォンを通常の設置の仕方では、
音の波紋がきれいに拡散していくのを歪めてしまう可能性があり、
それを回避するためのモノとして登場してきた──、
そう思えてならない。

Date: 5月 18th, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→現音)

現音──、現れた音は、つまりは再生音のことである。

マイクロフォンが捉えた空気の疎密波を電気信号に変換し処理し、
LP、CD、ミュージックテープという形態で聴き手に届けられたモノから、
ふたたび電気信号に変換しスピーカーを駆動して空気の疎密波をつくり出すことで、
音が、そして音楽が聴き手の前に現れるわけだから、現音=再生音ということになる。

ただこれではあまりにも当り前すぎて、あえて当て字を当て嵌めて考えていく意味がない。
現音=再生音から離れたところでの現音とは、
何かを変えたり調整がうまくいったこ聴き手に姿を現す音のことだともいえよう。

昔はよく「レコードにはこんな音まで刻まれていたのか!」という表現が使われていた。
それまで聴こえてなかった音、意識されなかった音がはっきりと意識できるようになれば、
これはまさに現音であり、現音のいい例でもある。

調整の過程では時として使っているオーディオ機器の限界が見えてくることもある。
それまではそのオーディオ機器の音の個性として感じられていたのに、
そうなってしまうと音のクセとして気になってしまう。これも現音の一例だと思う。

「現」という漢字には、いままでみえなかったものがみえるようになるという意味がある。
だから、いままで聴こえてこなかった音がきこえてくるようになるのも現音であるわけだが、
その一歩先には、まさに目に見えるような音としての現音がある。

この現音は、ただ単に音像定位がいいとか、音像が浮び上る、とか、そういったこととは違う。
はっきりと、そういう音像とは違うものとしての現音を聴いた体験があるからだ。

Date: 5月 17th, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→)

ハイ・フィデリティ(High-Fidelity)再生は、高忠実度再生と訳され、
一般的には原音に対して高忠実度再生ということになっている。

この「原音」の定義がやややっかいなのだが、ここではあえてふれずに、
原音は(げんおん)であって、パソコンで「げんおん」と入力すると、大抵は原音と変換される。
けれど、「げん」と「おん」に分解して変換すれば、
原音以外に、限音、源音、現音、弦音、幻音、減音……などと変換することができる。

弦音(つるおと)以外は当て字なのだが、限られた音の限音、源(みなもと)となる音の源音、
現れた音の現音、幻の音の幻音、減りゆく音、減ってしまった音の減音……とすれば、
それぞれに、どういう音なのかを考えてもよさそうな気もしてくる。

Date: 9月 8th, 2011
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その29・追補)

昨夜(9月7日)の、「幻聴日記」の町田秀夫さんとの公開対談で「レコード演奏家」について、すこし語った。

「レコード演奏家」を英訳すると、町田さんが「幻聴日記」に書かれているように、Record Player となる。
菅野先生も最初「レコード演奏家」の英訳として、Record Player と書かれている。
その後、JBLのスタッフの「レコード演奏家」の概念について話し合われて、
英訳は Record Music Player と改められている。

ただRecord Player にしてもRecord Music Player にしても、そして「レコード演奏家」にしても、
オーディオにさして関心のない方にこれらの表現を使って、概念は伝わり難い。
レコード(アナログディスク、CDだけでなく記録されているメディアすべて)とオーディオとの関係、
それぞれの存在性について語っていかなければ、まず理解はされない、と思う。

「レコード演奏家」論をきちんと読んでいる人に対しては、
Record Player、Record Music Player、どちらもストレートに、その意味するところが伝わるし、
むしろ「演奏者」ではなく「演奏家」という表現に、
すこしばかり抵抗(そこまでいかなくてもそれに近いもの)を感じている人にとっては、
日本語での「レコード演奏家」よりも、
Record Player、Record Music Playerのほうがより抵抗感なく使えるのかもしれない。

私自身、菅野線瀬の「レコード演奏家」論には賛同・共感しても、
私自身の年齢もあってのことだが、「演奏家」という表現には中途半端な年齢にも感じていて、
まだ「演奏者」のほうがいいのだが、
「レコード演奏者」となると、なんとなく語感がしっくりこないところも、感じてはいる。

これらのことをふまえて、私としては、Player よりも、Reproducer としたほうが、よりいいのでは、と考える。

この項、それに別項の「音を表現するということ」でも書いているように、Re(リ)にあえてこだわりたい。
いまではHi-Fiと略されることが多いが、正確には High Fidelity Reproduction である。

Record Music Reproducer──、
これが、現在の私の「レコード演奏家」論に対する解釈でもある。

Date: 8月 24th, 2011
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その34)

1970年か71年に発売されたレコードに「パイオニアリング・サウンズ・イン・ジャズ」がある。
私がオーディオに興味を持ったのは1976年だから、このレコードに関しては、当時はまったく知らなかった。

「パイオニアリング・サウンズ・イン・ジャズ」は第3集まで出ている。
録音はすべて菅野先生が担当されている。
第1集と第2集は、無響室での録音という実験的傾向のひじょうに強いものである。
第3集は通常のスタジオ録音だが、やはりこれも実験的なレコードとして仕上がっている。

「パイオニアリング・サウンズ・イン・ジャズ」第3集は、
菅野先生による録音テープをアメリカに持っていき、ルディ・ヴァンゲルダーにカッティングしてもらい、
そのメタル原盤を日本に持ち帰り日本でプレスして発売されている。

私は、無響室での録音よりも、レコードというものについて考えるうえで、
この第3集のほうがずっと実験的だと思っている。

なぜ菅野先生は、こんな手間を敢えてかけてまで、この興味深いレコードをつくろうと考えられたのか。
スイングジャーナル 1971年3月号に掲載されている「オーディオロジー 音は人なり・機械も人なり」の中に、
その理由がある。
     *
何故、わざわざこんなことをしたかという疑問に対しては、いろいな答えが用意出来るけれど、その最大の理由は、レコードというものにとって、磁気テープへの原録音と同時に重要な音質形成のファクターとなるのが機械変換プロセスであるカッティングであり、そしてまた、カッティングというものが、機械がよくて、これを正しく操作すれば、誰がどこでカッティングしても同じであるという誤った考え方へのレジスタンスであった。日本の場合、原テープの忠実な再現ということがカッティングの絶対の目的基準とされている。それ自体は決して誤った考えではないし、録音再生のプロ世数技術的に管理するためには正しい考え方だ。しかし、ヴァンゲルダーのカッティングを聞いてみると、原テープを素材として、よりよい(ヴァンゲルダーの感覚で……)レコードへの努力が感じられる。これは、次元の相違があるとしか云えないことで、片や技術的に論理的に組み上げられた考え方であるのに対し、一方はずっとフレキシブルで芸術的だ。
     *
菅野先生は文章はこのあとも続くが、全文をお読みになりたい方は、
audio sharingで公開している「音の素描」におさめられているので、ぜひお読みいただきたい。

Date: 7月 21st, 2011
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その33)

2000年に、audio sharingを公開したときは、これで、ずっと残していける、と思っていた。
私が死んだ後でも、誰かaudio sharingを受けついでくれる人がいれば、ずっと残っていく。
audio sharingを残したわけではなく、 audio sharingで公開している文章を残していける、とそう思っていた。
そして、そのことに大きな意味がある、とも思っていた。

2008年からこのブログをはじめ、2009年にもうひとつのブログ、the Review (in the past)もはじめ、
2010年からTwitter、今年はfacebookもやり始めて、残していけるものが増えている。

まだまだ、これから先、もっと残していきたいと思っているものを、
できるだけ公開していきたい、と思いながらも、
レコードのコレクションと、じつはこれも同じことがいえて、
何を後世に残さないようにするかを考えたうえで、何を残していくかを考えるべきであることに気づいた。
後世に残してはいけないものを残さないようにするために、残していけなければならないものを考えていく、
いま、そういう時になっているのではないか。

残すだけであれば、極端な話、そこに教養・熟考は必要ない。ただ作業を続けていけばいい。
残さないようにしていくために精進していくことが、純化につながっていく気もしている。

Date: 7月 9th, 2011
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その32)

「五味オーディオ教室」の中の一章「どんなレコードを持たないかも、コレクションである。」に、
どういう曲をコレクションに持っているかは、どんな曲を持たないかと同等の意義がある、と書かれている。

これは、どういう曲をコレクションに持たないかは、どんな曲を持っているかと同等の意義がある、
と言い変えることもできるはずだ。

世界中で発売されたレコードすべてを購入できるだけの財力があったとしても、
人が一生をかけても死ぬまでに聴くことのできるレコードには限りがある。
それに実際には、そんな財力には遠く及ばない現実の中で、仕事をして、家族のために時間を費やし、
その残った時間で音楽を聴く──。
時間も金も限りある中で、音楽を聴いていくには、何かを選択することであり、何かを選択しないことでもある。

だから、その人のコレクションには意義がある。
大金持ちがすべてをコレクションしたものとは、そこが決定的に違う。

前者のコレクションには、その人の音楽的教養が求められる。
何を選び、何を選ばないかをくり返しながら、音楽的教養は身につき磨かれていき、
コレクションにはそれがはっきりと現れてくる。

Date: 2月 14th, 2011
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続・プログラムソースについて)

1948年に、アメリカ・コロムビアがマイクログルーヴ化したディスク、つまりLPを発表したとき、
マスコミに配布した写真を、レコードの歴史に多少なりとも関心の或る方なら、
どこかでご覧になったことがあると思う。

SPが堆くつまれた山(おそらく2mはゆうに越えている高さ)のとなりに、男性がひとり立っている。
彼は20枚くらいだろうか、LPを抱えている。

SPの山が、そっくり手に持てる量にまでコンパクト化された、ということだ。

SPもLPも、形としてはどちらも円盤であることに変りはないが、その姿は変ったいえよう。
そしてCDの登場。CDも円盤という形は同じで、Compact Discの名のとおり、
LPをさらにコンパクト化した。漆黒の円盤は虹色に時として輝く銀色の円盤へと、姿を変えた。

いまの光ディスク技術からすると、16ビット、44.1kHzのCDの規格であるならば、もっとコンパクトにできる。
円盤というモノである以上、やたら小さくしたら取扱い面での不都合が出てくるから、
円盤という形をとる以上、小さくなることは無く、DVDやSACDの登場にみられるように、
大容量化へと進んでいった。

SPからLP、LPからCDへの姿の変化(コンパクト化)からいえば、
円盤という姿そのものをなくす方向に進むのは、当然のことと、私は思っている。

プログラムソースの姿と形、
プログラムソースの変化・進化・純化、と考えていったとき、
純粋なかたちとしてのプログラムソースが、見えてくる、はずだ。

Date: 2月 13th, 2011
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(プログラムソースについて)

この項の(その28)に、
この「純化」は、「切り離す」ことで生れてくるもののはず、と書いた。

いまプログラムソースは、パッケージメディアという形から切り離されようとしている。
なんらかの「純化」がきっと起ると確信している。

Date: 12月 30th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その31)

切り離すこと、は、選び取ること、であり、
なにかを選ばないこと、でもある。

Date: 10月 24th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その30)

切り離されていくことで、「純化」される、と書いた。

人という「濾過」をかさねていくから、だとも書いた。

もうひとつ、視覚情報が欠落しているから、だとも思う。
「録音」という言葉があらわしているように、
マイクロフォンがとらえテープに磁気変化として記録されるのは、音のみである。

磁気テープが登場する前、エジソンがシリンダーに溝として刻んだものも「音」のみである。
録音された時点で、というよりもマイクロフォン(エジソンの時代ではラッパか)が収録した時点で、
視覚情報と完全に切り離される。

それが1980年代にはいり、レーザーディスクやVHDディスクの開発・登場、
それにビデオデッキのステレオ化などによって、
AV(オーディオ・ヴィジュアル)時代の幕開け、だと騒がれはじめた。
そして、映像をともなった音楽の鑑賞こそ、本来のありかただと、AV関係の雑誌ではさかんにいっていた。
いまも同じなのだろうか……。

こんなことを書くまでもないと思うが、彼らの言い分は、演奏会場では視覚情報もある、である。
音のみの、従来の音楽鑑賞は、ひじょうに不自然だ、とさわいでいた。

けれど、「純化」というところに目を向けてみれば、視覚情報がないからこそ自然なあり方だ、といえよう。