Date: 6月 1st, 2012
Cate: High Fidelity
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ハイ・フィデリティ再考(続々・原音→げんおん→減音)

断わっておくが、情報量が多いのは困る、少ない方がいい、と考えているわけではない。
基本的に録音側での情報量が多くなっていくのは歓迎するのだが、
再生側でそれをそのまま再生することももちろん重要なことではあるものの、
限られたなかでのオーディオゆえの独自の世界を築こうとするのであれば、
ある程度の情報量の取捨選択に近いことが求められるし、それがひとつの再生側の「美」につながっている。

このことは、オーディオに関心をもち始めたころから知っていたことである(知っていただけだった、当時はまだ)。
「五味オーディオ教室」に、それは書いてある。
     *
 ところで、何年かまえ、そのマッキントッシュから、片チャンネルの出力三五〇ワットという、ばけ物みたいな真空管式メインアンプ〝MC三五〇〇〟が発売された。重さ六十キロ(ステレオにして百二十キロ——優に私の体重の二倍ある)、値段が邦貨で当時百五十六万円、アンプが加熱するため放熱用の小さな扇風機がついているが、周波数特性はなんと一ヘルツ(十ヘルツではない)から七万ヘルツまでプラス〇、マイナス三dB。三五〇ワットの出力時で、二十から二万ヘルツまでマイナス〇・五dB。SN比が、マイナス九五dBである。わが家で耳を聾する大きさで鳴らしても、VUメーターはピクリともしなかった。まず家庭で聴く限り、測定器なみの無歪のアンプといっていいように思う。
 すすめる人があって、これを私は聴いてみたのである。SN比がマイナス九五dB、七万ヘルツまで高音がのびるなら、悪いわけがないとシロウト考えで期待するのは当然だろう。当時、百五十万円の失費は私にはたいへんな負担だったが、よい音で鳴るなら仕方がない。
 さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
 理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りに鳴ってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
 MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
     *
オーディオをやってきて30数年が経ち、五味先生が当の昔に書かれているところに来たわけだ。
マッキントッシュのMC3500のように、「音のすみずみまで容赦なく音を響かせる」のもよかろう。
でも、MC275のごとく「必要な一つ二つ輪郭を鮮明に描くが、
簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかして」しまう自由が聴き手にはある。

減音には、だからもうひとつの意味がある。
減りゆく音、減ってしまった音(失われた音)のことだけではなく、
聴き手があえて減らす音としての減音があり、聴き手はここで試されている、ともいえよう。

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