ハイ・フィデリティ再考(その30)
切り離されていくことで、「純化」される、と書いた。
人という「濾過」をかさねていくから、だとも書いた。
もうひとつ、視覚情報が欠落しているから、だとも思う。
「録音」という言葉があらわしているように、
マイクロフォンがとらえテープに磁気変化として記録されるのは、音のみである。
磁気テープが登場する前、エジソンがシリンダーに溝として刻んだものも「音」のみである。
録音された時点で、というよりもマイクロフォン(エジソンの時代ではラッパか)が収録した時点で、
視覚情報と完全に切り離される。
それが1980年代にはいり、レーザーディスクやVHDディスクの開発・登場、
それにビデオデッキのステレオ化などによって、
AV(オーディオ・ヴィジュアル)時代の幕開け、だと騒がれはじめた。
そして、映像をともなった音楽の鑑賞こそ、本来のありかただと、AV関係の雑誌ではさかんにいっていた。
いまも同じなのだろうか……。
こんなことを書くまでもないと思うが、彼らの言い分は、演奏会場では視覚情報もある、である。
音のみの、従来の音楽鑑賞は、ひじょうに不自然だ、とさわいでいた。
けれど、「純化」というところに目を向けてみれば、視覚情報がないからこそ自然なあり方だ、といえよう。