Archive for category 「ネットワーク」

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その16)

なぜ、そう確信できるのか。
もうひとつ五味先生の文章を引用しておく。
     *
『レクィエム』は、むろん、こんなことばかりを私に語りかけてきはしない。私は自分のためでしかレコードは聴かない。私の轢いてしまった二人の霊をどうすれば弔うことができるのか。それを、私はモーツァルトに聴く。明らかに救われたいのは私自身だ。人間のこのエゴイズムをどうしたら私から払拭できるか、私はそれをモーツァルトに聴いてみる。何も答えてはくれない。カタルシスといった、いい音楽が果してくれる役割以上のことは『レクィエム』だってしてはくれない。しかし、カタルシスの時間を持てるという、このことは重大だ。間違いもなく私は音楽の恩恵に浴し、亡き人の四十九日をむかえ、百ヵ日をむかえ、裁判をうけた。
     *
できれば、もっともっとながく引用しておきたい。
すべてを引用しておかなければ、読む人に誤解を与えるのはわかっている。
だからといって、これ以上ながく引用すると、よけいに誤解をあたえそうな気がしてしまうのと、
結局、どこかで切るということが無理なことがわかってしまうから、
あえて、これだけの引用にしてしまった。

この文章は「西方の音」におさめられている。
「死と音楽」からの引用である。

このときなぜ五味先生はモーツァルトのレクィエムをくりかえしくりかえし聴かれたのかは、
「死と音楽」をお読みいただくしかない。

「何度、何十度私は聴いたろう」と書かれている。
それでもモーツァルトのレクィエムは、「何も答えてはくれない」。

五味先生がモーツァルトのレクィエムを「何度、何十度」聴かれたのは、
S氏邸で大晦日にトスカニーニのベートーヴェンの第九を聴かれたときから、10年近く経っている。

「何も答えてはくれない」は、だからそういうことだ。
これ以上書く必要はないだろう。読めばわかることなのだから。

誰も何も、答えてはくれない。
そのことに気づかぬ者が、誰かに何かに答を要求し、
そのことに気づかぬ者が、(気づかぬ者だけが答と思っているだけでしかない)答を語っている──、
それがなんになろう。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その15)

〝第九〟も同様だろう、あの優婉きわまりない、祈りの心をこめた、至福の恍惚境をさえしのばせるきわめて美しい緩徐楽章のあとに、ベートーヴェンは歓喜についての頌歌を加えるが、
 O Freunde, nicht diese Töne! ……
「おお、このような音ではなく、もっと心地よい、もっとよろこびに満ちたものを友よ、私たちは歌い出そうではないか」
 冒頭バリトン独唱によるこの歌詞をベートーヴェン自身で作っていることを、ここが歌われ出すたびに身のひきしまるおもいで私は想起する。音楽を聴いていて、居ずまいを正さずにはいられぬ作品はそう多くない。「襟を正す」という言葉を私はこの歓喜の章を聴くたびにおもうのだ。
 妻と別れようと考えた時期があった。〝二羽の鳩〟で結ばれた京都の人を失ったあと、〝ダフニスとクローエ〟に想いを托した女子大生へ、しだいに私がのめりこんでいた時だ。一度、佐藤春夫先生宅へ彼女を伴った。佐藤先生は素敵な乙女だと彼女を褒められた。そこへ佐藤夫人が外出先から帰ってこられた。夫人は、私の妻をよくご存じで、烈しい口調で私を叱られた。妻以外のそんな女性を佐藤邸につれてくるとは何事か、というわけだ。私はむっとした。叱るなら何故彼女のいない時に私を呼びつけて、叱られないのか。彼女の傷つくのが私には耐えられなかった。私はそういう人間だ。いつも自分のことは棚にあげて人さまを詰ろうとする。彼女の前で叱られればこちらは意地にでも彼女をかばう。つまり彼女サイドへかたむいてしまう。
 ところが、夫人が叱られると佐藤先生までが、口うらを合わせ、そうだ五味、きみはけしからん、とっとと帰れ。以後出入りはゆるさんぞ、と言われたときにはアッ気にとられ、一ぺんに肚がすわってしまった。私は彼女を見捨てるわけにはゆかぬ立場に自分がおかれたのをこの時感じた。あとからおもえば、彼女は傷ついて私の妻は傷つかないのか? そんな怒りをこめた夫人の叱声だったとわかる。だがいつも「あとから想えば」だ。この時は妻と別れねばなるまいと決めていた。といって彼女と結婚しようというのではない。とにかく、独りになって考えようと考えたのだ。私は妻を関西の実家へかえした。
 その年の暮、例によって大晦日にS氏邸で〝第九〟を聴いた。トスカニーニ盤だったとおもう。第四楽章合唱の部にはいったときだ、一斉に歌っている人々の姿が眼前に泛んできた。合唱のメンバーはすべて私の知っている人たちだった。当時神様のようにおもっていた高城重躬氏も、S氏も、私の老母も、佐藤夫妻も、知るかぎりの編集者、知人、心やすい映画スター……みな口をそろえ声を張りあげて歌っている。まさに歓喜の合唱である。その中に妻の顔もまじっていた。ところがどうしたことか、妻だけは、声が出ない。うなだれ涙ぐんでいる。どうしたのだ? 私は妻の名を呼びかけて励ました。妻が涙ぐんでいるのは私と別れるためなのはわかっていた。しかし、貴女はまだ若い、これからいい人が現われるにちがいない、元気を出すんだ、ぼくのような男でなく貴女にふさわしい人間がこの世にはいくらもいる、今にそんな一人が貴女を仕合わせにしてくれる……へこたれないで元気を出してくれ。……私は精いっぱい声をはりあげ、妻を激励した。だがついに、最後まで、妻は歌をうたえなかった。うなだれて泣いていた。それを見た時、彼女のためにハラハラと私は涙をこぼした。妻に同情した涙だ。どんなに私との別離で妻は苦しんでいるかを、その幻覚に私は見たのだ。
 おそらく、誰に意見されても人間の言うことなら私は肯かなかったろう。だがベートーヴェンの〝第九〟がまざまざみせてくれたこの場面は、私にはこたえた。おのれの非を私はさとった。
 私は妻を東京へ呼びもどすことにして、女子大生と別れた。彼女がのちに入水自殺をしたのは、私とは関係のない別の理由によることだと聞いている。真実はもう知りようがない。私たち夫婦には、その後、はじめて娘が生まれ、娘は今年十七歳になった。
     *
長い引用になってしまった。
五味先生の「ベートーヴェン《第九交響曲》」(オーディオ巡礼所収)からの引用である。

このとき、トスカニーニによるベートーヴェンの第九の第四楽章が、
五味先生にみせた幻覚は、答ではない。
五味先生も、ベートーヴェンの第九が与えてくれた答とは思われなかった、と思っている。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その14)

ステレオサウンドへの批判で比較的多く目にするのは、
測定をやっていないから、そこでの評価は信用できない、というものがある。

こういうものを目にするたび、いつの時代も、こういう人がいるのか……、と気持になってしまう。
勝手に想像するに、こういう人は、ステレオサウンドに答を要求しているのではないだろうか。

スピーカーシステムにアンプにしろ、CDプレーヤーにしろ、
何がイチバンいいのか、それを示せ、と。
ここまで極端でなくても、この価格帯でイチバンいいのはどれか、という答を、
ステレオサウンドというオーディオ雑誌に要求している、としか思えない。

ステレオサウンドは一時期測定をよくやっていた。
やっていたから、答を誌面で提示していたわけではないし、
そのための測定ではなかった。

ステレオサウンドは、そんな答を提示するオーディオ雑誌ではない。
これはステレオサウンドを否定しているのではなく、だからこそステレオサウンドを昔私は熱心に読んでいた。

そのことは、おそらく当時ステレオサウンドに執筆されていた方たちの暗黙の了解でもあったのではないだろうか。

オーディオ評論家は、読者に答を提示する存在ではない。
私は、オーディオ評論家は、読者に問いかけをする存在だとする。
読者に、音楽をオーディオを介して聴くということについて、
もっと深く考えてほしい、感じてほしい、という気持からの問いかけであるからこそ、
評論なのだと思う。「論」がそこにはついていくる。

Date: 11月 21st, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その13)

私の同じ世代、私より上の世代は、しっかりとした橋が架けられていた。
だから、その橋がかけられているところまで行き、その橋を渡ろうとおもった。
そして渡ってきた。

そのころの橋からすれば、いまの橋は……、とどうしても感じてしまう。
私や私より上の世代が知っていた、しっかりした橋を知らない世代にとっては、
いまどきの橋でも渡ろう、という気になるのだろうか。

そして、そのころは本というものがあいだにはいらなければ、
書き手と読み手のあいだに橋を架けることは、まず無理だった。

いまは違う。インターネットという環境がここまで整っているから、
書き手から読み手への直接の橋を架けようとおもえば、その手段はいくつも用意されていて、
書き手さえその気になれば、そのときから橋を架け始められる。

こんなことを書くと、
われわれはプロの書き手だから、無料で読めるところ(原稿料が発生しないところ)には書かない、
こんなふうな意見が返ってきそうである。

書くことで糧を得ているのだから、いちおうは理解できる。
それでも、あえて言いたい。

あなたには書きたいことがないのか、と。
書きたいことが、書き手にはきっとあるはず。
そうでなければ、ただ雑誌に文章を書いて原稿料をもらっていたとしても、それは「書き手」といえるのだろうか。

書きたいことを、つねに書かせてもらえるわけではない。
世の中はそういうものである。

だけど、いまは書く場所を自分でつくれば、書きたいことを書いていける。
書きたいことをもたない人にとっては、
わざわざそういう場をつくってまで書く必要性は感じないだろう。

オーディオ評論家と呼ばれている人たちの何人かは、
Twitter、facebookのアカウントをもち、書いている人がいるのは知っている。
でも、それは書きたいことを求めての行動とは感じられない。

書かない人は書かない。
書きたいことをもっていない人なんだろうから。

それよりも哀しいのは、書きたいことをもたないもそうだけれど、
書くべきことをもたないということである。

その人でなければ書けない、書くべきことをもっている人であれば、
きっと書く場をなんとかしてでも書いていくはず。

書くべきことをもたない書けない人は、橋を架けない人──。

Date: 11月 21st, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その12)

自分の言葉を、自分が渡る橋だと思いなさい。しっかりとした橋でなければ、あなたは渡らないでしょうから。

ユダヤの格言、ということで、今朝、Twitterを眺めていたら、フォローしている方がリツイートされているのが、
目に留った。

この項の(その7)、別項の「オーディオにおけるジャーナリズム」の(その2)で、
編集という仕事を、橋を架けることだ、と書いた。

やっぱり、「橋」なんだ、と実感した。
編集という仕事に限らない。

不特定多数の人が読むメディア(本、インターネットを含めて)に、なにかを書いていくということは、
橋を架けていくことであり、
ユダヤの格言にあるとおり、しっかりした橋でなければ、自分自身が渡らないし、
書いた本人が渡らない橋を読んだ人が渡ってくれようはずがない。

Date: 10月 23rd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その4)

聴感上のS/N比をよくしていくことは、音楽の鳴っている場の空気を清浄していくようなものである。
澱んだ空気の中で音楽を聴きたい、とは私は思わないから、
聴感上のS/N比は高くしていきたい。

でも、たとえばジャズのライヴ。
いまでこそ禁煙のところが増えているから、
ジャズのライヴでも全面禁煙もしくは分煙というところが増えているのかもしれない。
とするとジャズのライヴにおいても、タバコの煙がもうもうとしている、
昔の、ずっと昔のジャズのライヴの、そういったイメージのところはもはやないのかもしれない。

現実にはなくなってしまったかもしれない、そういう場を、
オーディオは再現しようと思えば、再現できないことではない。
クラシックが演奏されるホールとは違い、天井の低い、人が集まりすぎて空気が澱んでいるうえに、
タバコの煙まで、だれも遠慮することなく吸っては吐き出している場の雰囲気は、
聴感上のS/N比は悪くすることで、近づけることはできる。

これは特殊な聴き方かもしれない。
でも、そういう時代のそういう場で演奏される音楽を聴きたい、のであれば、
そういう聴き方を否定はしない。

それは、あえてそういう選択をした結果の音として、誰も否定することはできないことだ。

このことと、聴感上のS/N比を悪くしていく手法をチューニングと称する、おかしなこととは、
まったく意味の違うことである。

Date: 9月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その3)

S/N比は信号(signal)と雑音(noise)の比であり、
物理的なS/N比においては信号レベルが高く、雑音レベルが低ければS/N比は高くなる。

聴感上のS/N比でも基本的には同じであるわけだが、
例えば雑音(ノイズ)にしても、
耳につきやすい、つまりは音(信号)にからみつくような質(たち)のノイズと、
うまく信号と分離して聴こえ、それほど気にならないノイズとがあり、
測定上では同じ物理量であっても、聴感上のS/N比は後者のノイズのほうがいい、ということになる。

聴感上のS/N比がほんとうによくなってくると、
ボリュウムの位置はまったく同じでも、音量が増して聴こえるようになってくる。
これもよく井上先生がいわれていたことのくり返しなのだが、
つまりは聴感上のS/N比がよくなることで、ピアニッシモ(ローレベル)の音が明瞭に聴きとれるようになる。
それまで聴き逃しがちだったこまかな音まで聴きとれるようになると、
最大レベルは同じでもローレベル領域へダイナミックレンジが拡がったことにより、
ピアニッシモとフォルティッシモの差も明瞭になることによるものだ。

つまり、このことは聴感上のS/N比が劣化していく方向に音を調整していくと、
同じボリュウムの位置でも音量が下がったように聴こえるわけである。
聴感上のノイズレレベルが増しているわけだから、ピアニッシモの音が聴感上のノイズに埋もれてしまい、
聴き取り難くなってしまうからだ。

聴感上のS/N比がよくなれば聴感上のダイナミックレンジは拡がる。
聴感上のS/N比が劣化すれば聴感上のダイナミックレンジは狭くなる。

聴感上のダイナミックレンジが拡がれば、音量は増したように聴こえ、
聴感上のダイナミックレンジが狭くなれば、音量は減ったように聴こえるわけである。

このことは明白なことだと私は思っていた。
井上先生が聴感上のS/N比という表現を使われるようになって、すでに30年以上経つ。
誰もが口にするようになっている。
これも量に関することであるから、基本的なことを理解していれば間違えようがないはずだ、と。
そして、どちらがいいのかも明白なことのはず、である。

しかし、世の中には聴感上のS/N比を悪くしていく手法をチューニングと称している人がいる。
その人によると、音量が下がって聴こえる方が正しい、ということになる。

これはおかしな話だ。

Date: 9月 6th, 2012
Cate: 「ネットワーク」, 言葉

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その2)

AとBのふたつがあり、
その差がほんのわずかであれば、どちらの量が多いかの判断では、
差がわからない、はっきりとしないということもある。
わずかな差に対して敏感な人もいれば、それほどでもない人もいる。

けれどあきらかな差があれば、敏感な人もそうでない人でも、
どちらかの量が多いということはすぐに判断できるのが普通である、と思っていた。

音に関する表現でも、量を表しているものはいくつかある。
最近では、多くの人が使うようになって「聴感上のS/N比」がある。
S/N比そのものが、信号とノイズの量の比であるわけだから、
物理的なS/N比のように90dBとか81dBといった数字でこそ表示できないものの、
ふたつのオーディオ機器、ふたつの音があり、比較試聴したうえでの聴感上のS/N比は、
はっきりと差が出ることも多い。

聴感上のS/N比のほかには、音場感に関する表現がある。
左右の広がりぐあい、奥への展開のぐあい、など、
ふたつのオーディオ機器、ふたつの音を比較して、どちらが左右の広がりが広いのか、
奥行き方向の再現性が深い、といったこともはっきりと差が出ることも多い。
もちろん音場感については、それだけですべてが語れるわけでもないものの、
音場感は、量に関係する要素がある。

けれど、このふたつ──、
聴感上のS/N比と音場感に関することでも、ときどき首を傾げたくなることがある。
なぜ、このオーディオ機器、この音を聴感上のS/N比が高い、といえるのだろうか、と思うことは少なくない。

量についてのものであっても「聴感上」とつくからそこには主観的なこともはいってくる、
だから聴く人によって、聴感上のS/N比の高い低いは異る、という人がいるかもしれないが、
私はそうは思わない。

聴感上のS/N比は、私の知る限り、井上先生が最初に使われているが、
井上先生が定義した「聴感上のS/N比」とはかなり違う「聴感上のS/N比」がいくつも現れてきているようだ。

「聴感上のS/N比」は、本来、そういう曖昧な性質のものではなかった。
それがいつしか、本来の定義、意味などをシロウトもせずに、
なんとなく感覚的に、安易に使われることが増えてきている言葉のひとつである、と思う。

Date: 9月 5th, 2012
Cate: 「ネットワーク」, 言葉

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その1)

インターネットが登場し普及し、
個人によるWebサイトの公開もまた一般的なこととなり、
さらにブログの登場・普及は個人による情報発信を、
インターネット登場以前では想像できなかったほどに容易にした。

結果、情報量は急激に増大したかのように見える。
情報の「量」は確実に増えているのだろうか。
情報の「質」の判断は難しい面があるが、
こと量の判断、つまり多いか少ないかの判断に何が難しいところがあろう、
量の判断において、判断する人によって多い少ないが逆転することなんか起こりえない。

基本的にはそうだと思う。
けれども絶対に逆転することはない、とは言い切れないことがあることを、
オーディオにおいて知っているからだ。

Date: 9月 4th, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(続々twitter)

木製脚のハークネスはステレオサウンド 144号に載っている、
というコメントをfacebookでいただいた。

安齊吉三郎氏のAudio Components GALLERYで紹介されているハークネスは、
たしかに木製脚のモノである。

私にとってのハークネスは、
ステレオサウンド 45号の田中一光氏のリスニングルームに見事におさめられているハークネスが最初であり、
ハークネスがどういうスピーカーシステムであるのか知るほどに、
私自身の音の好みとは必ずしも一致しないスピーカーシステムでありながらも、
つねに気になり続けてきているスピーカーシステムであるだけに、
そのハークネスはやはり金属脚のハークネスであった。

だから木製脚のハークネスのことは、うまくイメージできなかった。
でも安齊氏の写真による木製脚のハークネスを見ていると、
金属脚と木製脚のハークネス、どちらをとるかと問われれば金属脚は即答はするものの、
木製脚のハークネスも、写真を眺めていると、しっくりくるものを感じられる。

となると木製脚と金属脚は時代によって切り替ったのだろうか。

Lansing HERITAGEのサイトには、古いJBLのカタログがいくつか公開されている。
1957年のカタログに”THE HARKNESS/C40″がある。
ここに載っている写真は、木製脚のハークネスである。
前年の1956年のカタログにはハークネスはないけれど、
C25/C37、C36/C38が載っていて、これらも木製脚に見える。

1962年のカタログになると、ハークネスの脚はアルミ製の金属脚に変更されているのがわかる。
C37、C36、C38も金属脚になっている。
これ以降のカタログを見ても、木製脚は登場してこない。

ごく初期のハークネスにおいて木製脚だったようだ。
ヴァリエーションではなく、1960年ごろに木製脚から金属脚へと変ったのだろう。

となると牽強付会といわれても、
ハークネスが金属脚にしたのは、ミニスカートの登場と決して無関係ではないように思えてくる。

ウィキペディアによれば、ミニスカートはイギリスのデザイナー、マリー・クヮントが、
1958年ごろから売り出した、とある。
同時期にフランスでも、アンドレ・クレージュによってミニスカートが登場している。
アメリカにではどうなのかははっきりとしないけれど、
イギリスとフランスで1958年ごろ登場しているのだから、
そう時間はかからずにアメリカでもミニスカートは登場したとみていいだろう。

JBLがハークネスの脚を木製から金属製に変えた時期と重なるのではないだろうか。
それは単なる偶然なのかもしれない。
けれど時代の風潮として、ミニスカートによる素足を露出させるようになってきたことと、
木製脚から金属脚への変更は、どこかでつながっているのかもしれない。

Date: 9月 3rd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(続twitter)

スピーカーユニットを構成する金属部分を人の素肌とすれば、
それらスピーカーユニットをつつむエンクロージュア(木)はさしずめ服ということになる。

スピーカーとしての素肌(金属)を見せないように服(木)をまとっている。
そんなふうに見ようと思えば、見えてくる。

JBLのハークネスの脚はアルミで金属。
ということはハークネスの脚は素足だ。

ハークネスが現役のスピーカーシステムだった1960年代にミニスカートが登場し大流行している。
ハークネスの脚は、そんな素足のように見えてくる。

ハークネスには木製の脚がついたものもある、という。
実物も写真も見たことはない。
木製の脚のついたハークネスは、ミニスカート姿ではなくパンツルックということになる(?)。

Date: 9月 2nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(twitter)

ツイートすることは昨年より少なくなってしまったけれど、
twitterのタイムラインはEchofonというソフトで、ほぼ常時表示している。

最大で140文字のツイートは、
AMラジオのような感じがしてくる。
私がフォローしている人たちは、オーディオの人たちが多いけれど、
まったくオーディオとは関係のない人も多い。
そういう人たちのツイートが流れていく。

フォローしている人たちのすべてのツイートをすべて読むことは、もう無理かもしれない。
読み逃しているツイートも少なくないはずだと思う。
ならばフォローしている人たちを減らせば、それですむことでもないと考えているし、
すべてのツイートを読むことがtwitterの楽しみ方でもないのだから、
いまのようにAMラジオをなかば聞き流すように、読み流していると、
思わぬツイートがひっかかってくる。

そういうツイートが、あまり関係のないことと結びつくことがある。

今日の私のtwitterのタイムラインにひっかかってきたのは、
「好き! すき!! 魔女先生」という、1971年から1972年にかけて放送されたドラマのカラーイラストだった。
このドラマは見たことはない。
私がそのころ住んでいたいなかでは、この番組は放送されていなかったのではないか。

「好き! すき!! 魔女先生」は石ノ森章太郎氏の「千の目先生」が原作であり、
今日、そのカラーイラストをtwitterで見かけた。
スラッとした綺麗な脚の女性のイラストを見ていて、
私が連想していたのはJBLのハークネスの、アルミ製の脚だった。

ハークネスの脚が、石ノ森章太郎氏のカラーイラストの女性の脚と重なってみえてきた。
ハークネスの脚は、女性の脚だったんだ、と勝手に、いまは思っている。

「千の目先生」は1968年に連載されたマンガ。
ハークネスの登場はもう少し前のことだが、1968年、ハークネスはまだ現役のスピーカーシステムだった。
ハークネスだけではない、このころのJBLのスピーカーには脚がついているものがあった。

脚の形状、材質は違うけれど、あのパラゴンにも脚がある。
メトロゴンにもある。

ハークネスの同じシリーズといえるバロンなどにも、やはり脚がついている。
そういえばQUADのESLにも、木製の脚がついている。

どの脚も下にいくにしたがって細くなる脚である。

脚のあるスピーカーシステムは、ないスピーカーシステムよりも、どこかセクシーに映える。

そういえば──、と思う。
アンプにはゴム脚は以前からついていた。
最近では金属製に変ってきているけれど、スラッとした脚ではない。
ハークネスの脚のようなモノではない。

構造的に、その手の脚を必要としない、といえばそうなだろうが、
かならずしも必要としていないわけでもない、と思う。
ただ脚をつければいいわけではないにしても、
脚の存在によって解決できることがあるような気がしてならない。

Date: 11月 15th, 2011
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その16)

ドラムスの収録を例にあげて、そこに分岐がある、と書いた。
けれど収録すべてが分岐というわけではないことも事実である。

ドラムスは「ひとつ」の楽器として見た場合にそこに分岐が生じるわけだが、
ほとんどの音楽の収録では複数の演奏者がいる。
つまりは「集中」させることも生じてくる。

2チャンネルにおいては、
必ずしも再生時の音像定位通りに収録時に演奏者がそのとおりに並んで演奏しているとは限らない。
そこでの音楽の種類や楽器編成の違いなどによってはマイクロフォンを中心に立て、
そのマイクロフォンを囲むように演奏者が位置し演奏が行われることもある。
だからといって、そうやって収録したものを再生したときに、
左右のスピーカーの中心を軸に演奏者が円をつくっているように聴こえるわけではない。

いわば、これはマイクロフォンに向って音を集めているわけだ。

ひとつひとつの音を鮮明に収録するために分岐する一方で、
音をそうやって意識して集めていくのも録音である。

オーケストラにしても小編成のものにしても、マイクロフォンをうまい位置をみつけそこに立てることで、
音を集め録音されたものを、われわれ聴き手は再生時に、それを展げていく。

録音系と再生系には、ネットワークとしてとらえたときに共通する要素がある一方で、
録音(集める)系と再生(展げる)系というところに、矛盾するようではあるが対称性を感じる。

Date: 11月 13th, 2011
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その15)

録音系はネットワークである、と私は捉えている。
そしてレコードやミュージックテープなどのパッケージメディアがつくられていく。
それが流通ネットワークにのり、そのパッケージメディアの聴き手であるわれわれのところに届く。

放送局ではパッケージメディアを音源として音楽を放送することが多いけれど、
放送局独自でコンサートを収録して放送することもある。
ライヴ放送だと、電波というネットワークを通じて、音楽の聴き手があるわれわれのところに届く。

これらの、収録された音楽を届けるネットワークもまた、ある種のフィルターともいえる。
アナログディスクにしてもCDにしても、
マスターテープに収録されているものすべてをそこに収録できるわけではない。
何かが抜け落ち、何かが附加される。
何かがなくなることは、そのパッケージメディアそのものがフィルターということになる。

マスターテープから直に一対一でダビングしたとしても、
それもマスターデッキと同じデッキを使って慎重に行ったとしても、
テープ間のダビングは、アナログであれば必ず劣化が生じる。
マスターテープと同じ形態、環境を揃えたとしても劣化は生じ、これもまたフィルターといえる。
FM放送もまた然りである。

ではデジタルで収録されたものをデジタルでコピーすれば、
そこに、ここでいっているフィルターは存在しなくなるのかといえば、そうでもない。
デジタル録音といってもサンプリング周波数、ビット数がパッケージメディアと違うことがある。
同じことも多い。
CDと同じ44.1kHz、16ビットで録音されたマスターであれば、それをそのままCDにコピーできるといえばできる。
データとしては同じものがCDにコピーされる。
でもマスターはテープという形態、CDはディスクという形態。
この形態の違いによる条件の違いが、結果としては音の違いを生むことになる。

そういう一種のフィルター的なパッケージメディアにおさめられている音楽を受け取るには、
アナログディスクにはアナログディスクプレーヤーが、
CDにはCDプレーヤーが、ミュージックテープであればカセットデッキ、オープンリールデッキ、
FM放送にはチューナー、というそれぞれ専用に設計製造されたハードウェアが必要となる。

これらの入力機器もけっして完全・完璧なモノは存在しないから、
ここでもそれぞれの機器がフィルターということになる。

これらの入力機器がつながれる先が、再生系においてはコントロールアンプということになる。
録音系の現場におけるミキサーと同じように、
再生系ではコントロールアンプが、そのネットワークの要的存在といえよう。

Date: 11月 12th, 2011
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その14)

ドラムスという複数形の名称が示しているように、ドラムスは数種類の打楽器の集合体であり、
これをひとつの楽器としてみた場合、その収録にもっともマイクロフォンの数が多く使われる楽器でもある。

楽器としての規模はグランドピアノのほうがドラムスよりも大きくても、
ピアノの録音に使われるマイクロフォンの数は、それがオンマイクで収録される場合でも、
ドラムスの収録に使われる数には及ばないだろう。

そしてドラムスの録音ではオンマイクでの収録も多い。
マイクロフォンの数が多いのだから、
逆にオフマイクで収録してはマイクロフォンの数を増やした意味も薄れるので、
マイクロフォンの数が増えるということは必然的にオンマイクになっていく傾向はある。

マイクロフォンの数が多く、距離も近い(オンマイクである)ということは、
マイクロフォンをフィルターとしてとらえれば、その遮断特性がより急峻なものとして使い方といえる。

たとえばシンバルを鮮明に録りたいから、シンバル用にマイクロフォンを選択し、設置する。
そのマイクロフォンにはできるだけシンバルの音だけをいれたい。
他の楽器の音は極力いれたくないわけだから、
これはマイクロフォンをシンバル用のフィルターをかけたような使い方ともいえる。

これは分岐とフィルターであり、
この分岐とフィルターの設定をうまくやらなければドラムスの音をうまく録ることはできないはず。

ドラムスという楽器のために複数のマイクロフォンが立てられる。
つまりそのマイクロフォンの数だけ分岐点とフィルターが存在している、ということでもある。
これをどう録音するのか。
マルチマイクロフォン・マルチトラック録音であるならば、
マイクロフォン1本に対し、テープレコーダーの1トラックを割り当てることができる。
いきなり2チャンネルのステレオ録音にするのであれば、ミキサーを通すことになる。
もちろんマルチマイクロフォン・マルチトラック録音でも、
最終的に2チャンネルにするためにミキサーを通す。

ドラムスの収録に10本のマイクロフォンに仮に使用したとすれば、
ミキサーを通すことで2チャンネルに統合されることになる。

ひとつの楽器を録音するのに、複数の分岐点とフィルターを設定して、
分岐点の数だけのラインがあり、それをミキサーによって2チャンネルに統合する。
これを図に描けば、ネットワークそのものである。

つまり、録音の現場にも、分岐点(dividing)と統合点(combining)、それにフィルターがある、というわけだ。