Archive for category オーディオ評論

Date: 1月 21st, 2015
Cate: オーディオ評論

江川三郎氏のこと(その5)

岩崎先生が鳴らされるパラゴンの音は、聴きたかった。
いまでも聴きたい、とさえ思っている。

江川三郎氏のパラゴンの音は、私にとってどうか。
聴いてみたい、といえば好奇心から、そうだ、となる。
でも岩崎先生のパラゴンを聴きたかった、とは違う意味での聴いてみたいである。

それでも聴いてみたいと思っているのは、
江川三郎氏とパラゴンとの関係について考える上で、がその理由である。

おそらく二月発売のオーディオアクセサリーにはなんらかの記事が載るであろうし、
インターネットでも、いろんな人が江川三郎氏について書いていくであろう。

私は先に書いているように、1990年代以降はあまり読まなくなっていた。
そういう者に書けることは、それほど多くはない。
もっと多くのことを書ける人が大勢いることだと思う。

その人たちに私が期待しているのは、
江川三郎氏とパラゴンとの関係についてである。
江川三郎氏のパラゴンの音を聴いている人も、その中にはいるはず。

私がなんとなく感じているのは、江川三郎氏はオーディオ評論家だったのか、である。
オーディオ評論家だった時期はたしかにある。
けれど、それはパラゴンを手放された以降、徐々に変っていったようにも思う。

といっても江川三郎氏の熱心な読み手ではなかった私は、
このへんの事実関係をしっかり調べているわけではない。なんとなくの記憶から書いているにすぎない。

オーディオ機器の紹介記事を書いたり、
試聴をしたりするのがオーディオ評論家ではないことはないことはことわったうえで、
江川三郎氏はオーディオ評論家でありつづけたのか。

あといくつか江川三郎氏について書けることはあるけれど、
このへんにしておこう、と思っている。

Date: 1月 20th, 2015
Cate: オーディオ評論

江川三郎氏のこと(その4)

江川三郎氏は、逆オルソンをどこから発想されたのだろうか。
ある日、ふと頭に浮んだのだろうか。記憶にはない。

逆オルソンのことが載っている当時のオーディオ雑誌には、
そのへんのことが載っていただろうか。

もしかすると……、とおもうことがひとつある。
前述したように、逆オルソンのころはパラゴンを鳴らされていた時期でもある。
ウーファーのバックチェンバーの裏板を外されていたことも前述した通り。

パラゴンの、この部分の写真をみたことのある人ならすぐにわかる。
見たことのない人は、パラゴンで画像検索すれば内部構造図がすぐにみつかる。
二本のウーファーがどういうふうに(どういう角度で)取り付けられているのかわかる。

これが逆オルソンの発想のきっかけではなかったのか、そんなふうに思える。

パラゴンの上から身を乗り出して、この部分を覗き込む。
音を鳴らしている状態でこれをやれば、頭は下を向いている状態だから、
右チャンネルのウーファーの音は右耳に、左チャンネルのウーファーの音は左耳にはいる。

このときの音が意外とよかったのかもしれない、
何かを江川三郎氏に感じさせるものがあったのかもしれない。

私の勝手な想像である。
実際のところはわからない。

パラゴンの存在と逆オルソンがまったく無関係とは、それでも思えないのだ。

Date: 1月 19th, 2015
Cate: オーディオ評論

江川三郎氏のこと(その3)

なぜ私だけでなく、けっこう数の人が逆オルソンを試したのだろうか。
そして試した人がみな逆オルソンは採用していないのは、なぜか。

江川三郎氏による逆オルソンの記事には、ある図があった。
マイクロフォンとスピーカーの位置関係(相関関係)を示した図だった。

録音のときにマイクロフォンは、こう設置する、とあった。
再生ではマイクロフォンの位置と向きと同じになるようにスピーカーを設置するのが逆オルソンであり、
図はそのことを解説していた。

これにはうまくだまされた。
あえてだまされた、と書く。
完全に間違っているわけではないからだ。

確かに録音時のマイクロフォンは、その図にあるようにセッティングされることはある。
だがそれは純粋なワンポイント録音の時だけである。
それ以外の録音ではマイクロフォンの数はもっと多く、
その位置、向きもまた違っている。

ほとんどの録音はワンポイント録音ではない。
複数のマイクロフォンが使われる。

つまり逆オルソンの説明図にあったようなマイクロフォンとスピーカーの関係が実現できるのは、
ワンポイントマイクロフォンによる録音のみである。

高校生の時、そのことに気づかなかった。
気づいたとしてもワンポイント録音のレコードは、まだ持っていなかった。

これから先、逆オルソンをもう一度試すかどうかはなんともいえない。
もし試すことがあるとしたら、ワンポイント録音を用意して、である。

Date: 1月 19th, 2015
Cate: オーディオ評論

江川三郎氏のこと(その2)

江川三郎氏のことを昨夜知った時点で、江川氏について書こうとどうか迷った。
江川三郎ときいて私がまっさきに頭に浮かべることからもわかるように、
私が江川三郎氏の書かれたものを熱心に読んでいたのは1980年以前である。
1980年代もオーディオアクセサリーに書かれたものは読んでいた。
ヒントとなることがあったからだ。

1990年代にはいると、あまり読まなくなっていた。
この十年ほどはまったくといっていいほど読まなくなっていた。

そんな読み手でしかなかった私だから、江川三郎氏について何が書けるのだろうか、となる。
たいしたことは書けない。
それがわかっていても、いくつかのことは書いておこう、と思った。

まず書きたいのは、逆オルソンについてである。
私と同世代、少し上の世代のオーディオマニアの方だと、逆オルソンといえばすぐにわかってくれる。
そしてたいていの人が「やったことがある」と答えてくれる。
私も高校生のとき、逆オルソンはやってみた。

やっては元に戻し、また江川氏の記事を読んでは逆オルソンにしてみたり、
そんなことをくり返した。

逆オルソンとは、左右のスピーカーを中央にくっつかんばかりに寄せて、ハの字に向ける。
通常のスピーカーセッティングでは左右を離して、聴き手を向くように設置するが、
逆オルソンはスピーカーが聴き手ではなく壁に斜めを向くように置く。
そして左右のスピーカーのあいだに仕切り板を立てる。

最初逆オルソンを試した時、仕切り板がないままだった。
二回目は仕切り板を用意してやった。
けれど私は逆オルソンはとらなかった。

Date: 1月 19th, 2015
Cate: オーディオ評論, 訃報

江川三郎氏のこと(その1)

昨夜、facebookで江川三郎氏が亡くなられたことを知った。
オーディオフェア、ショウの会場ですれ違ったことが二回くらいあるだけだ。

私はステレオサウンドで丸七年働いていたけれど、
そのころは江川三郎氏はステレオサウンドとの関係はまったくなかった。
ご存知ない方もいまでは増えているようだが、
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のアルテック号には、江川三郎氏が登場されている。
アルテックのユニットを使った自作スピーカー記事「アルテクラフト製作記」を担当されていた。
この記事は面白かった。

私にとって江川三郎氏ということで頭に浮ぶのは、
この「アルテクラフト製作記」に出て来た604-8Gを使用したアクロポリスがまずあり、
それからハイイナーシャプレーヤー、逆オルソン方式である。
あと思い出すのは、JBLのパラゴンを鳴らされていたことである。

パラゴンは1969年にはすでに鳴らされていた。
当時の山水電気の広告「私とJBL」にパラゴンをバックにした江川氏が登場されている。

たしかトリオの会長の中野氏が鳴らされていたパラゴンだったはずだ。
パラゴンといえば私の中では真っ先に岩崎先生が浮ぶ。
けれど江川氏が岩崎先生よりも早く、パラゴンを鳴らされていたことは忘れてはならないことだと思う。

パラゴンも最後のほうではウーファーの裏板を取り外して鳴らされていたはず。
1980年代以降の江川氏のイメージとパラゴンは結びつきにくい。
けれど山水電気の広告の写真をみていると、そんな感じはしない。

この写真を見ていると、あれこれおもってしまう。

Date: 7月 12th, 2014
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その5)

ステレオサウンドの創刊号は持っていない。
私が持っているステレオサウンドでいちばん古いのは2号だ。

この2号の表紙をめくる。
そこは表2(ひょうに)と呼ばれるページ。

表1、表2、表3、表4とは、本の表紙の呼び方で、
表1(ひょういち)が表表紙、表4(ひょうよん)が裏表紙、
表2は表1の裏、表3(ひょうさん)は表4の裏のことだ。

表1以外の表2、表3、表4は広告として使われる。
広告料金表を見ればわかるが、これらのページは高い。

ステレオサウンド 2号の表2は広告ではなく、目次でもなく、
こう書いてあるページだ。
     *
STEREO SOUNDは眼で聴く雑誌です
ジムランという文字が眼にはいったら
ジムランの艶やかな音を
シュアーと読んだら
力強いシュアーの響きを耳に描いてください
レコードの話は
ターンテーブルの静かな回転を思い浮べながら
テープの記事は リールに巻きとられてゆく
テープの流れを追いながら
わたくしたちと音楽のつながりは
とくに深いものがあるようです。
本誌が「聴」の世界をひらく
眼による水先案内となれば幸いです
     *
誰の文章なのかはどこにも書いてないが、
ステレオサウンドを創刊した原田勲氏によるものだろう。

Date: 7月 9th, 2014
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その4)

別項(オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」)でも書いているように、
私はステレオサウンドには、オーディオ評論の本という側面が、以前は確かにあった、と感じている読み手である。

私はステレオサウンドをいつのころからかそんなふうに読んできたし、
そう読んでおもしろいオーディオ雑誌であった時期がある。
だからこそ夢中になって読んできた。

だが、このことは私の勝手な読み方だったのであろう、と、
2013年の、ステレオサウンド編集長の新年の挨拶を読むと、改めて思ってしまう。

本だけに限らない。
何であれ、送り手の意図とは違う受けとめられ方をされることは、決して少なくない。
むしろ意図通りに受けとめられることのほうが少ないようにも思っている。

ステレオサウンドというオーディオ雑誌を、どう読もうと、
ステレオサウンドを手にした人の勝手が許されるともいえるし、
送り手側にしてみれば、できればそうでないことを望んでいる。

2013年の新年の挨拶は、私がステレオサウンドに期待していることは、
期待すべきことではなかった、ということをはっきりとさせてくれた。

私はいまでも、ステレオサウンドはオーディオ評論の本として読み応えのある本であってほしい、
と望んでいるけれど、2013年の新年の挨拶にあるように
「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」こそが
ステレオサウンドの創刊以来変らぬ編集方針の柱であるのなら、望むのは筋違いでしかない。

そして考えたいのは、
「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」には、
オーディオ評論家は読者の代表という意識があるのか、ということ、
ステレオサウンド編集部にもそういう意識があるのか、ということである。

Date: 7月 9th, 2014
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その3)

ステレオサウンド編集長による2013年の新年の挨拶に、こう書いてあった。
     *
創刊以来、「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」との想いはただの一度も変ったことがありません。そして、これからもこの想いはけっして変ることがありません。
     *
茶化すつもりはまったくないのだが、
これを読んで、ステレオサウンドとはそういうオーディオ雑誌だったのか、と思った。

ステレオサウンド編集部に七年いた。
七年間で、「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」、
そうおもっていたことはなかったのではないか、とふり返ってみた。

この想いは創刊以来ただの一度も変ったことがありません、とあるから、
私がいた七年間(1982年〜1988年)もそうだったことになる。

つまり私は、その想いで本づくりをしていたわけではないことになる。
そうか、そうか、と妙に納得してしまった。

ステレオサウンドを読みはじめた中学二年のころは、
どのオーディオ機器がどういうふうにいいのだろうか、を知りたかったし、
それをステレオサウンドに求めて読んでいた。

そのころのステレオサウンドも
「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」
という想いでつくられていたとすれば、その想い通りに読んでいた読者になる。
それでもそんな読み方をずっと続けてきたわけでもない。

Date: 4月 14th, 2014
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その2)

オーディオ評論家は読者の代表なのか──、
このテーマについては昨夜書こうと思い立っただけで、なにか自分なりの結論めいたものがあるわけではない。
何を書いていこうかとも思っている。

なにしろ私自身は、オーディオ評論家を読者の代表とこれまで考えたこともなかったのだから、
オーディオ評論家を読者の代表ととらえている人のことをあれこれ想像してみても、ピンと来ない。
なのに、昨夜も書いているように、オーディオ評論家を読者の代表ととらえている人がいる、
このことには確信がもてる(何の根拠もないけれど)。

オーディオ評論家を読者の代表と考える人とそうでない人の違いは、何に起因するのか。
そんなことを考えていた。

オーディオマニアはいい音を求めている──、
さがしている、といってもいい。

この点においてはすべてのオーディオマニアに共通していえることだと思っていた。
だが、もしかするとそうでもないのかもしれない、と昨夜から思いはじめてもいる。

つまり、いい音ではなくて、選択を求めているんじゃないのか、と。
選択というよりも選択肢といったほうがいいかもしれない。

選択と選択肢は違う。
選択肢を求めている人が、オーディオ評論家を読者の代表とするのではないだろうか。

Date: 4月 13th, 2014
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その1)

オーディオ評論家は読者の代表なのか、
ということはこれまで思ったことはなかった。

ステレオサウンドで本づくりに携わっていたときも、そういう考えはなかった。

いまも個人的には、オーディオ評論家が読者の代表とは思っていない。

それでもオーディオ好きの人と話したり、
インターネットであふれかえっている書き込みを読んでいると、
この人はオーディオ評論家を読者の代表と思っているんじゃないか──、
そう思えることがある。

オーディオ評論家を読者の代表とみている人とみていない人とがいる。
そう考えると納得のいくことがある。

オーディオ評論家を読者の代表と考えている人と考えていない人とでは、どちらが多いんだろうか。
そして次に考えるのは、オーディオ評論家にも、
オーディオ評論家を読者の代表と考えている人と考えていない人がいるはずだということ。

Date: 1月 19th, 2014
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(300Bのこと・その7)

300Bシングルアンプの音が、楚々として細めという発言があって、
少なくともステレオサウンド 189号の座談会のまとめを読むかぎりでは、
賞の選考委員の全員が、300Bシングルアンプの音が、楚々として細めと受けとっているようだ。

ウエスギの300Bシングルアンプの音は、そんな300Bシングルアンプの音のイメージとは違う──、
そういうまとめかたになっていた。
(友人宅でちょっと読んだだけなので、正確な引用ではない)

これを読んでいて、ステレオサウンドグランプリの選考委員の誰ひとりとして、
伊藤先生の300Bシングルアンプの音を聴いたことがないんだろう、と思った次第だ。

何も選考委員全員が伊藤アンプの音を聴いていなければならない、なんてことは、
いわないし、求めたりもしない。

ただ誰も、ひとりもいないのか、と思っただけである。

これではなんのために選考委員が一人ではなく、何人もいる意味がどこにあるのだろうか。
オーディオ雑誌に、何人ものオーディオ評論家が書いている意味は、どういうことなのだろうか。

ひとりひとりには、オーディオ評論家としての役割があるから、だと私は考えている。

今回の件にしても、ひとりだけでいいから、伊藤先生の300Bシングルアンプの音を聴いた人がいるだけで、
座談会の内容は深みを増したであろうに……、と残念におもう。

Date: 1月 18th, 2014
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(300Bのこと・その6)

ステレオギャラリーQの300Bシングルアンプの登場から、
日本ではときどき300Bのアンプが製品化されてきた。

多くの人が記憶しているところではラックスからMB300という、
300Bシングルのモノーラルパワーアンプが出たこともある。
1984年ごろである。

300Bを、口の悪い人のあいだでは鳥カゴと呼ばれていた保護カバーで覆っていた。
これも電取法(電気用品取締法)のためである。

このころは300Bのアンプが出たことだけで話題になっていた。
いまではいくつかのメーカーから300Bを使ったアンプが登場してきていて、
300Bのアンプということだけでは、あまり話題にならなくなっている。

昨年、ウエスギから300Bのシングルアンプが登場した。
2013年のステレオサウンドグランプリに選ばれている。
いま書店に並んでいるステレオサウンド 189号で、
ステレオサウンドグランプリの座談会のまとめが読める。

ここに、300Bの一般的な音として、楚々としてやや細め、といった表現が使われている。
この表現そのものを問題としたいわけではない。
そういう音を出す300Bシングルアンプは、意外にも多いといえるのだから、
これまで市販された300Bシングルアンプの音を聴いてきて、そう思い込んでしまっても不思議ではない。

これが新製品紹介のページで、こういう表現が300Bシングルアンプに使われても、
わざわざここで取り上げたりはしない。
取り上げた理由は、座談会だから、である。

Date: 1月 8th, 2014
Cate: オーディオ評論, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(300Bのこと・補足)

ステレオサウンド 8号に掲載されている瀬川先生のステレオギャラリーQの300B/Iの記事、
読みたいという希望をありましたので、the Review (in the past)で公開しました。

ステレオサウンド 8号には、池田圭氏による「300A物語」も掲載されている。

Date: 1月 7th, 2014
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(300Bのこと・その5)

ウェスターン・エレクトリックの劇場用アンプで、91型アンプがある。
このアンプが、伊藤先生の300Bシングルアンプの、いわば原器である。

Sound Connoisseurにて、伊藤先生は91型アンプについて書かれている。
     *
音質が抜群に優れ、故障が少なく、維持費が低廉なため小劇場向きに高評を得ていたが、プリアンプを省いてメインアンプのゲインを高めたため、入力側の結線に細心の注意が必要であり、光電管側の出力トランスの断線が唯一の悩みの種であった。
終段に三極管を用い三段増幅で、よくもこれだけのゲインを稼げたものと思える設計である。負帰還を本格的に用いてフィルム録音特性に対応させた回路をメインアンプに備えたものとして、当時は目を瞠らせたものである。東京地区では歌舞伎座の向い側、いまはない銀座松竹映画劇場に在って僅か8Wの出力で十分に観客を娯しませていたのを憶い出す。
      *
300Bのシングルアンプが、楚々とした日本的な美しい音という枠だけにとどまった音しか出せないのであれば、
「僅か8Wの出力で十分に観客を娯しませ」ることは無理なのではないか。

映画ではさまざまな音が流される。
人の声もあれば、音楽も流される。
それ以外にも効果音と呼ばれる類の音も欠かすことができない。

スクリーンに映し出されるシーンに応じた音が求められ、スピーカーから流される。
そういう場で使われ、観客を娯しませてきた300Bシングルアンプ(91型)である。

300Bについて、
しかもオーディオ評論について書いている項で書いているのか、
察しの良い方は、ここまで読まれて気づかれているだろう。

Date: 1月 7th, 2014
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(300Bのこと・その4)

300Bはトーキー用のアンプに使われる出力管である。
このことを思い出してほしい。

しかもアメリカの映画館で使われていたアンプの出力管である。

サウンドボーイのOさんから聞いたことがある。
「300Bシングルは、いわゆる日本的なシングルアンプの音ではない」と。
Oさんは続けて「トーキー用アンプの球なんだから」とも。

1982年のステレオサウンド別冊 Sound Connoisseur(サウンドコニサー)に、
伊藤先生の300Bについての記事が載っている。
この記事(というよりサウンドコニサーそのもの)の担当はOさんだった。

この記事のタイトルは、「真空管物語」。
さらにこうつけ加えられている。
「ウェスターン・エレクトリックの至宝 極附音玻璃球」である。

極附音玻璃球は、きわめつきおとのはりだま、と呼ぶ。
300Bのシングルアンプ、それも伊藤先生のアンプを聴いたことのある者には、
この「極附音玻璃球」こそ300Bのことだと、頷ける。