Archive for category 戻っていく感覚

Date: 4月 10th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その11)

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版、
「私の推奨するセパレートアンプ」のところで、瀬川先生がこんなことを書かれている。
推薦機種としてのGASのTHAEDRAとAMPZiLLAのところである。
     *
 耳当りはあくまでもソフトでありながら恐ろしいほどの底力を感じさせ、どっしりと腰の坐った音質が、聴くものをすっかり安心感にひたしてしまう。ただ、試聴記の方にくわしく載るように、私にはこの音が男性的な力強さに思われて、個人的にはLNP2とSAE♯2500の女性的な柔らかな色っぽい音質をとるが、そういう私にも立派な音だとわからせるほどの説得力を持っている。テァドラ/アンプジラをとるか、LNP2/2500をとるかに、その人のオーディオ観、音楽観のようなものが読みとれそうだ。もしもこれを現代のソリッドステートアンプの二つの極とすれば、その中間に置かれるのはLNP2+マランツの510Mあたりになるか……。
     *
瀬川先生のこの文章を、いま読んで思い出すことがある人もいれば、そうでない人もいる。
何かを思い出す人でも、何を思い出すのかは人によって違うだろうが、
記憶のよい方ならば、「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の巻頭、
瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」であろう。

ステレオサウンド 62号、63号には、「音を描く詩人の死」が載っている。
瀬川先生に関する記事である。

この記事を執筆されたのは、編集顧問のYさん(Kさんでもある)だった。
そこに、こうある。
     *
 昨年の春、こういう書きだしではじまる先生のお原稿をいただいてきた。これはその6月に発刊された特別増刊号の巻頭にお願いしたものであった。実は、正直のところ、私たちは当惑した。編集部の意図は、最新の世界のセパレートアンプについての展望を書いていただこうというものであった。このことをよくご承知の先生が、あえて、ちがうトーンで、ご自身のオーディオ遍歴と、そのおりふしに出会われた感動について描かれたのだった。
     *
最新の世界のセパレートアンプについての展望というテーマということであれば、
編集部は「コンポーネントステレオの世界」の’79年版の巻頭、
「’78コンポーネント界の動向をふりかえって」、
’80年版の巻頭「80年代のスピーカー界展望」、どちらも瀬川先生が書かれているが、
こういう内容の原稿を期待しての、
最新の世界のセパレートアンプについての展望という依頼だったのだろう。

なのに「いま、いい音のアンプがほしい」の文章の中ほどまでは、
マッキントッシュのC22、MC275、マランツのModel 7、そしてJBLのSA600、SG520、SE400、
これらの、1981年の時点でもすでに製造中止になっていたアンプのことが占めている。
     *
 JBLと全く対極のような鳴り方をするのが、マッキントッシュだ。ひと言でいえば豊潤。なにしろ音がたっぷりしている。JBLのような〝一見……〟ではなく、遠目にもまた実際にも、豊かに豊かに肉のついたリッチマンの印象だ。音の豊かさと、中身がたっぷり詰まった感じの密度の高い充実感。そこから生まれる深みと迫力。そうした音の印象がそのまま形をとったかのようなデザイン……。
 この磨き上げた漆黒のガラスパネルにスイッチが入ると、文字は美しい明るいグリーンに、そしてツマミの周囲の一部に紅色の点(ドット)の指示がまるで夢のように美しく浮び上る。このマッキントッシュ独特のパネルデザインは、同社の現社長ゴードン・ガウが、仕事の帰りに夜行便の飛行機に乗ったとき、窓の下に大都会の夜景の、まっ暗な中に無数の灯の点在し煌めくあの神秘的ともいえる美しい光景からヒントを得た、と後に語っている。
 だが、直接にはデザインのヒントとして役立った大都会の夜景のイメージは、考えてみると、マッキントッシュのアンプの音の世界とも一脈通じると言えはしないだろうか。
 つい先ほども、JBLのアンプの音の説明に、高い所から眺望した風景を例として上げた。JBLのアンプの音を風景にたとえれば、前述のようにそれは、よく晴れ渡り澄み切った秋の空。そしてむろん、ディテールを最もよく見せる光線状態の昼間の風景であろう。
 その意味でマッキントッシュの風景は夜景だと思う。だがこの夜景はすばらしく豊かで、大都会の空からみた光の渦、光の乱舞、光の氾濫……。贅沢な光の量。ディテールがよくみえるかのような感じは実は錯覚で、あくまでもそれは遠景としてみた光の点在の美しさ。言いかえればディテールと共にこまかなアラも夜の闇に塗りつぶされているが故の美しさ。それが管球アンプの名作と謳われたMC275やC22の音だと言ったら、マッキントッシュの愛好家ないしは理解者たちから、お前にはマッキントッシュの音がわかっていないと総攻撃を受けるかもしれない。だが現実には私にはマッキントッシュの音がそう聴こえるので、もっと陰の部分にも光をあてたい、という欲求が私の中に強く湧き起こる。もしも光線を正面からベタにあてたら、明るいだけのアラだらけの、全くままらない映像しか得られないが、光の角度を微妙に選んだとき、ものはそのディテールをいっそう立体的にきわ立たせる。対象が最も美しく立体的な奥行きをともなってしかもディテールまで浮び上ったときが、私に最上の満足を与える。その意味で私にはマッキントッシュの音がなじめないのかもしれないし、逆にみれば、マッキントッシュの音に共感をおぼえる人にとっては、それがJBLのように細かく聴こえないところが、好感をもって受け入れられるのだろうと思う。さきにもふれた愛好家ひとりひとりの、理想とする音の世界観の相違がそうした部分にそれぞれあらわれる。
 JBLとマッキントッシュを、互いに対立する両方の極とすれば、その中間に位置するのがマランツだ。マランツの作るアンプは、常に、どちらに片寄ることなく、いわば〝黄金の中庸精神〟で一貫していた。
     *
私は、ここのところと
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版でのGASについての文章とがリンクしてしまう。

Date: 4月 7th, 2022
Cate: 戻っていく感覚
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GAS THAEDRAがやって来る(その10)

SAEのMark 2500の音について、瀬川先生はこう語られている。
     *
 聴いた順でいえば、ダイナコ、ハーマンカードン、それからマッキントッシュの系列の腰の太い音というのが個人的には嫌いで、もっと細身の音が好きなんです。SAEの音はその意味ではまず細い。低域の方でちょっとふくらむぶんには、むしろぼくは歓迎する。つまり、プロポーションとしては、非常にぼく好みの音がしたわけです。
     *
瀬川先生が細身の音を好まれていたのは確かにそうであるのだが、
だからといって、下半身から肉づきをすべて削ぎ落とした音を、
瀬川先生が好まれた音と勘違いしている人がいるのを知っている。

以前、別項で書いているから詳しいことはくり返さないが、
中低域から下の帯域の量感を根こそぎ削ってしまった音を、いい音だ、
それだけでなく、瀬川先生の音を彷彿とさせる音、とまで言った男がいる。

彼は、瀬川先生の文章のどこを読んでいたのだろうか。

女性のプロポーションでいえば、ウェストに肉がついているかのような音は、
瀬川先生が嫌われていたことは、試聴記を読んでいくだけですぐにわかることだ。

けれどその下、つまりお尻まわりの肉づきは、
SAEのMark 2500の音を高く評価されていたことからも、
瀬川先生自身語られていることからも、好まれていたこともすぐにわかる。

自分にとって都合のいいところだけ読んで、
そうでないところはまるでなかったかのように無視して、
あげくの果てに、瀬川先生の音を彷彿とさせる音と、
似ても似つかない自身の音を、そう表現する。

それで誰かに迷惑をかけるわけでもないし、
その男の音を聴いている人はそう多くないから、
まして瀬川先生の音を聴いている人はもっと少ないのだから、
実害はあまりない、といえばそうである。

それでもいいたいのは、もっときちんと読もう、ということだ。

Date: 4月 7th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その9)

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版には、
SAEのMark 2500も登場している。

この「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版での試聴がきっかけとなって、
瀬川先生はMark 2500を買いこまれてしまった。
そのことは、テスト後記にも書かれている。

で、ここでまたテーマから逸れてしまうのだが、
瀬川先生のテスト後記には、ジュリアン・ハーシュのことが出てくる。

ジュリアン・ハーシュといって、いまはどのくらい通じるのだろうか。
ジュリアン・ハーシュの名前は知らなくても、
アンプの理想像の代名詞的に使われる“straight wire with gain”。

この表現を使ったのが、ジュリアン・ハーシュで、
彼はアメリカのオーディオ誌“Stereo Review”の書き手の一人である。

瀬川先生は、ジュリアン・ハーシュについてこう書かれている。
     *
 もっとも、アメリカのオーディオ界では(いまや日本でも輸出に重点を置いているメーカにとっては)有名なこの男のラボ(自宅の地下室)に招かれて話をした折、こんな男の耳など全くアテにならないという印象を持ったほどだから、ハーシュの(測定や分析能力は別として)音質評価を私は一切信用していないのだが、右の例を別にしても、国産のアンプが海外ではそれなりに高い評価を受ける例が少しずつ増えていることは事実なのだ。
     *
これを読んでどうおもうかは、その人の勝手(自由)である。

話を元にもどそう。

Date: 4月 6th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その8)

瀬川先生は、GASのアンプの音について、
《もっと下の肉がたっぷりついてくるという感じ》と語られているが、
このことについては補足が必要だろう。

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版で、こう語られている。
     *
 音は、ぼくの聴き方ではやや太っているんだけれど、それはたとえば太ったいやらしさじゃなくて、いかにもあるべきところにきちんと肉がついていて、安定感がよくどっしりと地面に立っているという安心感を感じる。だから、どのレコードを聴いても、もうこのアンプで聴いていれば本当に安心できるという気がするわけです。
 しかし、このアンプを自分で買うだろうかと考えると、必ずしもそうはいえないわけです(笑)。なぜかということを考えていたんですけれども、一つのたとえでいえば、このアンプは男性的な音だと思うんです。立派な、見事な男と会っている、あるいは眺めているような感じの音で、ぼくは自分が男だから゛やはりもう少し女っぽくないとやりきれないところがあるんです。同じ言葉をしゃべっても、男がしゃべるのと女がしゃべるのとの違いみたいなもので、ぼくはやはり女がしゃべってくれた方が魅力を感じるわけですね。その意味でテァドラ+アンプジラはとても男性的だし、LNP−2と510Mは比較の上で女性的です。
     *
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版でも、
井上先生、黒田先生は試聴メンバーである。岡先生も入っている。

「HIGH-TECHNIC SERIES 3」の巻頭座談会とあわせて読むことで、
瀬川先生がどういう音を求められていたのかが、よりはっきりと浮び上ってくる。

少しテーマから逸れてしまうが、
ステレオサウンドの瀬川冬樹著作集「良い音は 良いスピーカーとは?」、
このムックに不満があるのと、こういう点である。

合わせて読むことで、瀬川先生がどういう音を求められていたのか、
それを知る手がかりになる記事の掲載という視点が欠けている。

そういう視点を持った編集者が、ステレオサウンドという会社にはもういないのだろう。

Date: 4月 5th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その7)

GASのアンプの音のことで思い出すのは、
ステレオサウンド別冊「HIGH-TECHNIC SERIES 3」である。

アンプの別冊ではなく、トゥイーターの別冊である。
なのにGASのアンプの音に関連して思い出すのは、巻頭座談会があるからだ。

JBLの4343のトゥイーターを、他社製のトゥイーター五機種につけかえての試聴。
井上先生、黒田先生、瀬川先生による試聴と座談会である。

ピラミッドのリボン型トゥイーターのT1のところ、
瀬川先生が、こんなことを語られている。
     *
瀬川 この「ピラミッド」の音を「2405」との比較でいうと、たとえば、アンプの聴き比べをしている時の、「ガス」対「マークレビンソン」の音のように思えてならないのです。「2405」の場合にはいまも三人三様の言い方をしたけれども、かなりくまどりのはっきりした、いわば言葉に出していえる差みたいなものが表に押し出されて、そこがたいへん快くもある。あるいはそれが少し硬めの艶を乗せて快く聴かせる。と同時に、玄の音などで、やや金っ気を混ぜて聴かせるという、いやみな点もある。これは「マークレビンソン」のアンプにもあるのですけれど、あのいかにも線の細い、高域を少し強調するところですね。それが「マークレビンソン」をきらう人にとっては相当気になる部分だとぼくは解釈している。
 ただ、ぼく個人の言い方をすれば、それは大変好きな部分なんです。それが「ガス」系のアンプにすると、もっと下の肉がたっぷりついてくるという感じで、そして、高域のキラキラ光ったところが抑えられてくる。つまり、トータルで言えばより自然になったという言い方が成り立つと思うのです。「ピラミッド」をスーパートゥイーターにつけた「4343」は、あらゆる楽器に対してここにいるぞ、ここにいるぞみたいなことを言ってこないで、ごく自然に目の前に展開したという印象が強いんです。
     *
「HIGH-TECHNIC SERIES 3」を読んだ時、
マークレビンソンのアンプは数回聴いていた。
でもGASのアンプは聴く機会がなかった。

それもあって、2405とピラミッドの音についての座談会を、
私はマークレビンソンとGASの音の違いについてのことでもある──、
そう受けとりながらくり返し読んでは、その音を想像していた。

念のため書いておくと、
ここでの「マークレビンソン」のアンプとは、
LNP2であったりML1(JC2)であったりするわけで、ML7以降の音のことではない。

Date: 3月 31st, 2022
Cate: 戻っていく感覚
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GAS THAEDRAがやって来る(その6)

1970年代に登場したトランジスターアンプをすべて聴いているわけではない。
なのにおもうのは、意外にもGASのTHAEDRAとSAEのMark 2500の組合せこそ、
マッキントッシュのC22とMC275のトランジスターアンプ版といえるのではないか、と。

C22とMC275の組合せ、C28とMC2105の組合せは聴いたことがある、
といっても、比較試聴しているわけではない。
それぞれ別の場所で、まったく違うスピーカーで聴いたことがある、というだけでしかない。

どちらのアンプの組合せも、新品同様の性能(音)を維持していたのかは、はっきりしない。
そういう状態での、いわば記憶のなかでの比較でしかないのだが、
C28+MC2105は、C22+MC275とはずいぶん違った方向の音のように感じてしまった。

もちろんC28+MC2105に、C22+MC275そっくりの音を求めていたわけではない。
私が感じている音の良さを引き継いでいてほしかった、というだけのことで、
私がそう感じないからといって、他の人もそうだ、とは思っていない。

また、その音を聴いてもいないのに、
THAEDRAを落札した時から、Mark 2500との組合せは、
私にとってのC22+MC275のトランジスターアンプ版といえる存在になってくれるのかも──、
そんな予感が生れてきた。

マークレビンソンのLNP2とスチューダーのA68の組合せも、
また充分魅力的なのだが、この組合せはC22+MC275のトランジスター版ではない。

LNP2とMark 2500の組合せも、ちょっと違う。
あくまでも感覚的なことでしかないし、
こんな感覚的なことは、誰かに理解してもらう、なんてこととは無縁のこと。

つまりは、書いても無駄なことなのかもしれないが、
それでも私にとって大事なのは、そう感じてしまった、ということである。

Date: 3月 30th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来た

三十分ほど前に、ヤフオク!で落札したGASのTHAEDRAが届いた。
SAEのMark 2500の上に置いて、眺めているところ。

ヤフオク!の写真のとおり、かなり程度はいい。
THAEDRAのリアパネルは酸化していたり、錆びついてたりしていることが、割と多い。

THAEDRAはヤフオク!に、よく出品されている。
このブログを読んで、THAEDRAを買ってみようかな、と思う人がいるのかどうかはわからない。
もしかすると一人くらいはいるのかもしれない。

そういう人に一つだけいえるのは、
リアパネルの写真がないTHAEDRAの出品は用心した方がいい、ぐらいである。
リアパネルの写真がなかったら、出品者に質問して写真を追加してもらった方がいい。

THAEDRAの音は──、というと、まだ音を出していない。
音が出ない、とあったわけだから、来週あたり、少し時間がとれるようになったら、
内部をチェック、分解掃除して、それからになる。

20代のころ、SUMOのThe Gold(中古)を買った時も、そうした。
丸一日かけてすみずみまで分解掃除して、それから電源投入。
それから一週間は、なにかあっても大丈夫なように、10cmのフルレンジを鳴らしていた。

安心して使えるという確信が得られてから、
当時鳴らしていたセレッションのSL600に接続したものだ。

今回のTHAEDRAも、同じようにする。

別項「サイズ考(SAE Mark 2500を眺めていると)」でも書いているように、
THAEDRAも、いま見ると、意外にコンパクトなコントロールアンプとして映る。

それからMark 2500もAGIの511もそうなのだが、
このころのアメリカのアンプの板金加工は、いい感じだな、と思ってしまう。

天板といっても平らな金属板ではなく、側版もかねているからコの字型である。
曲げ加工が施されているわけだが、そのカーヴが、アメリカのアンプだな、と感じさせる。

金属から削り出された筐体も魅力的ではあるが、
この時代の筐体も、私にはとても魅力的である。

Date: 3月 29th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その5)

コーネッタを、
マークレビンソンのLNP2とスチューダーのA68で鳴らしたい、と欲求は、
いまもかなり強く持っている。

けれど、以前から思っていることの一つに、
五味先生はタンノイ・オートグラフをマッキントッシュのC22とMC275で鳴らされていた。
この組合せがメインだったし、
晩年は、カンノアンプの300Bシングルで鳴らされてもいた。

C22とMC275はどちらも管球式である。
トランジスターアンプで、C22とMC275にかわる組合せは、なんだろうか。

中学生のころから、そんなことをあれこれ想像していた。

ステレオサウンド 47号の「オーディオ巡礼」のなかで、
五味先生は、こう書かれている。
     *
南口邸ではマッキントッシュではなくスレッショールドでタンノイを駆動されている。スレッショールド800がトランジスターアンプにはめずらしく、オートグラフと相性のいいことは以前拙宅で試みて知っていたので南口さんに話してはあった。でも私は球のマッキントッシュを変える気にはついになれずにきたのである。
     *
スレッショルドの800Aは、そのころの私にとっては憧れのパワーアンプだった。
A級動作で200W+200Wの出力を誇る。
同時代の日本のA級アンプの代表的存在であったパイオニアのExclusive M4が50W+50Wだった。

価格が違うにしても、アメリカと日本という国の規模の大きさが、
そのまま出力にもあらわれている──、とそう感じたものだった。

そのころは可変バイアスによる動作だ、ということはまだはっきりとしていなかった。
なので素直にA級動作と信じていた。

とにかくスレッショルドの800Aは、理想のアンプに近かった存在ともいえた。
オートグラフをトランジスターアンプで鳴らすのなら、800A!
それしかない!、と思えていた時期が私にはあった。

800Aの音は、個人宅で二回(違う方のリスニングルーム)、
熊本のオーディオ店でも何度か聴く機会があった。

800Aを手に入れようとしたことがあった。
それでも、それは800Aをいいアンプと思ったからで、
800AがMC275の代り、というか、MC275のトランジスター版だと思っていたわけではない。

五味先生もそうだったはずだ。
だから、C22とMC275のトランジスター版といえる組合せは、どういうものがあるのか。

マッキントッシュのC28とMC2105がそれにあたる、とはどうしても思えなかった。

Date: 3月 29th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その4)

SAEのMark 2500とGASのTHAEDRAはどうなのか。
悪くないはずだ、という予感はもっているが、
音だけは実際に聴いてみないことには、何もいえない。

それでも悪くない、と思うのは、
どちらもジェームズ・ボンジョルノが設計に関わっていること、
それにステレオサウンド 37号の新製品紹介の記事でTHAEDRAが取り上げられている。

そこで試しにMark 2500と組み合わせてみたら、ひじょうにいい結果が得られた、
と井上先生が語られている。

そうであろう、と思うだけでなく、
その結果は、やはりTHAEDRAの初期モデルだったから、よけいにそうだったのか、とも思う。

初期モデルということで思い出すのは、
これまでに別項で何度か引用している五味先生の文章だ。
     *
 JBLのうしろに、タンノイIIILZをステレオ・サウンド社特製の箱におさめたエンクロージァがあった。設計の行き届いたこのエンクロージァは、IIILZのオリジナルより遙かに音域のゆたかな美音を聴かせることを、以前、拙宅に持ち込まれたのを聴いて私は知っていた。(このことは昨年述べた。)JBLが総じて打楽器──ピアノも一種の打楽器である──の再生に卓抜な性能を発揮するのは以前からわかっていることで、但し〝パラゴン〟にせよ〝オリンパス〟にせよ、弦音となると、馬の尻尾ではなく鋼線で弦をこするような、冷たく即物的な音しか出さない。高域が鳴っているというだけで、松やにの粉が飛ぶあの擦音──何提ものヴァイオリン、ヴィオラが一斉に弓を動かせて響かすあのユニゾンの得も言えぬ多様で微妙な統一美──ハーモニイは、まるで鳴って来ないのである。人声も同様だ、咽チンコに鋼鉄の振動板でも付いているようなソプラノで、寒い時、吐く息が白くなるあの肉声ではない。その点、拙宅の〝オートグラフ〟をはじめタンノイのスピーカーから出る人の声はあたたかく、ユニゾンは何提もの弦楽器の奏でる美しさを聴かせてくれる(チェロがどうかするとコントラバスの胴みたいに響くきらいはあるが)。〝4343〟は、同じJBLでも最近評判のいい製品で、ピアノを聴いた感じも従来の〝パラゴン〟あたりより数等、倍音が抜けきり──妙な言い方だが──いい余韻を響かせていた。それで、一丁、オペラを聴いてやろうか、という気になった。試聴室のレコード棚に倖い『パルジファル』(ショルティ盤)があったので、掛けてもらったわけである。
 大変これがよかったのである。ソプラノも、合唱も咽チンコにハガネの振動板のない、つまり人工的でない自然な声にきこえる。オーケストラも弦音の即物的冷たさは矢っ張りあるが、高域が歪なく抜けきっているから耳に快い。ナマのウィーン・フィルは、もっと艶っぽいユニゾンを聴かせるゾ、といった拘泥さえしなければ、拙宅で聴くクナッパーツブッシュの『パルジファル』(バイロイト盤)より左右のチャンネル・セパレーションも良く、はるかにいい音である。私は感心した。トランジスター・アンプだから、音が飽和するとき空間に無数の鉄片(微粒子のような)が充満し、楽器の余韻は、空気中から伝わってきこえるのではなくて、それら微粒子が鋭敏に楽器に感応して音を出す、といったトランジスター特有の欠点──真に静謐な空間を持たぬ不自然さ──を別にすれば、思い切って私もこの装置にかえようかとさえ思った程である。でも、待て待てと、IIILZのエンクロージァで念のため『パルジファル』を聴き直してみた。前奏曲が鳴り出した途端、恍惚とも称すべき精神状態に私はいたことを告白する。何といういい音であろうか。これこそウィーン・フィルの演奏だ。しかも静謐感をともなった何という音場の拡がり……念のために、第三幕後半、聖杯守護の騎士と衛士と少年たちが神を賛美する感謝の合唱を聴くにいたって、このエンクロージァを褒めた自分が正しかったのを切実に知った。これがクラシック音楽の聴き方である。JBL〝4343〟は二基で百五十万円近くするそうだが、糞くらえ。
     *
4343を鳴らしていたアンプはGASのTHAEDRAとマランツのModel 510Mである。
この時のTHAEDRAも初期モデルだったはず。

Date: 3月 29th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その3)

THAEDRAの音は、わりと誤解されているのかもしれない。

GASはGreat American Soundのことである。
そのGASのデビュー作がAMPZiLLAなのだから、
ユニークなネーミングと受けとる人もいれば、
ふざけたネーミングだと憤る人もいるのが世の中だし、
どちらにしてもGASと名乗る会社のアンプだけに、
いかにもアメリカンな音がするもの──、
とその音を実際に聴いていない人ならば思い込んでいたとしてもおかしくない。

GASの音は、当時から男性的といわれていた。
けれど如何にも、その力を誇示するような音では本来なかったのだが、
GASのアンプも、海外製アンプの例にもれず、
型番は同じでも製造ロットによって、けっこう音の傾向が変ってきている。

瀬川先生は、
《初期の製品だけが持っていた、素直さが魅力につながるような、控え目ゆえの好ましさ》、
そんなことを書かれている。

THAEDRAに、それはあてはまる。
むしろTHAEDRAとAMPZilLAが、特にそうだ、ともいえる。

THAEDRAはTHAEDRA IIになり、THAEDRA IIBが日本に入ってきている。
末尾に何もつかないTHAEDRAにしても、
内部をみると、こまかなところが変更されているのがわかる。

どの時期のTHAEDRAを聴いているのか、
それによってTHAEDRAの音の印象は、かなり違っていることだろう。

私は幸運なことに初期のTHAEDRAの音を聴いている。
私が20代のころに自分のモノとしたTHAEDRAもそうである。

今回のTHAEDRAは、まだ届いていないのでなんともいえないが、
ヤフオク!の写真で判断するかぎりでは、初期のモノの可能性が高い。

初期のTHAEDRAこそが最高、といいたいのではない。
私が求めているTHAEDRAは、初期のモノだというだけのことだ。

Date: 3月 28th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その2)

GASのTHAEDRAの落札は昨晩、つまり日曜日である。
ヤフオク!にはいくつかのクーポンがある。

土日落札分にかぎり、10%割引(上限5,000円まで)というクーポンもある。
このクーポンが使えて、33,000円の落札金額は10%割引の金額になった。

こんな金額で落札してTHAEDRAに申しわけない、みたいな気持もある。
とはいっても、四十年以上のアンプを入手して、
そのまま使おう、とはまったく考えていないわけで、
メインテナンス、場合によっては修理が必要になることも、
その費用も考慮して、つねに落札金額を決めて入札している。

応札することは、なので、まずない。

ヤフオク!を眺めていると、
ジャンクと説明されているアンプを、けっこうな金額で落札する人がいる。
そういうモノのなかには、写真で判断するかぎり、かなり手入れが必要と思われるのがある。

その費用はけっこう金額になるであろうに、
そんな金額で落札するのか──、
落札した人は、どこに修理依頼するのか、それとも自分で直すのか、
まさかそのまま聴くということはないであろうに、
いったいどうするつもりなのか。よけいなことをつい考えてしまう。

話が逸れてしまったが、
今回、THAEDRAをもう一度と思ったのには、いくつかの理由がある。
といっても、欲しい、というまず気持があっての、後付けみたいな理由なのだが、
THAEDRAのヘッドフォンアンプとしての実力を知りたい、というのがまずある。

以前、別項で書いているように、ロジャースのLS3/5AをTHAEDRAで鳴らしたことがある。
私にとって、LS3/5Aの最上の音は、この時の音である。

多くの人がもっているGASのアンプの音のイメージとは、違っているのかもしれない。
LS3/5Aから、馥郁たる響きが鳴ってきた。

馥郁たる響きといっても、人によってイメージする響きは、たぶん大きく違うだろう。
ここで聴けた響きこそが、イギリスの、あの時代のスピーカーだからこそ聴けた響きであり、
THAEDRAの繊細な一面をはっきりと聴きとれた。

LS3/5Aを持っている人は割と多い。
そういう人のところで、いくつかのLS3/5Aの音を聴いてきたけれど、
THAEDRA+LS3/5Aの音を超えていない。

Date: 3月 27th, 2022
Cate: 戻っていく感覚
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GAS THAEDRAがやって来る(その1)

GASのTHAEDRAをヤフオク!で落札したばかりだ。
音が出ない、ということがあってか、33,000円(税込み)という、
予想していた価格よりもかなり安価で落札できた。

音は出ないわけだから、どこかが故障しているわけだ。
それでも写真を見る限りは、さほどくたびれた印象は受けない。
となると、音が出ない原因は、おそらくあそこだろう、という見当はついている。

実は20代のころ手に入れたTHAEDRAも、最初音が出なかった。
輸入元のエレクトリで、私のところに届く前にチェックされているにもかかわらず、である。

なので原因はここじゃないか、と思うところがあった。
事実、そこが原因だったし、簡単に修理できた。

今回も同じところが原因であれば、すぐに音は出るようになる。
もっとも実物が届いてみないことには、なんともいえないけれど、
この値段で手に入れたのだから、いろいろやって楽しむつもりでいる。

これまでいろんなオーディオ機器を使ってきたけれど、
一度手離した機種をふたたび使うようになるのは、今回が初めてだ。

それにしても2020年に、タンノイのコーネッタを、
2021年に、SAEのMark 2500を、
そして今回(2022年)に、GASのTHAEDRAである。

すべてヤフオク!で、そのころの落札相場よりもかなり安価で落札できている。

コーネッタを手に入れたとき、
アンプはマークレビンソンのLNP2とスチューダーのA68の組合せで鳴らしてみたい、
そんなことをおもっていたのに、
現実には、Mark 2500にTHAEDRAである。

THAEDRAはジェームズ・ボンジョルノの作である。
Mark 2500の回路の基本設計もボンジョルノである。

いったいどんな音がするのだろうか。

Date: 2月 20th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その18)

その17)を書いていて、思い出す。
五味先生の文章を思い出す。
     *
 とはいえ、これは事実なので、コンクリート・ホーンから響いてくるオルガンのたっぷりした、風の吹きぬけるような抵抗感や共振のまったくない、澄みとおった音色は、こたえられんものである。私の聴いていたのは無論モノーラル時代だが、ヘンデルのオルガン協奏曲全集をくり返し聴き、伸びやかなその低音にうっとりする快感は格別なものだった。だが、ぼくらの聴くレコードはオルガン曲ばかりではないんである。ひとたび弦楽四重奏曲を掛けると、ヴァイオリン独奏曲を鳴らすと、音そのものはいいにせよ、まるで音像に定位のない、どうかするとヴィオラがセロにきこえるような独活の大木的鳴り方は我慢ならなかった。ついに腹が立ってハンマーで我が家のコンクリート・ホーンを敲き毀した。
 以来、どうにもオルガン曲は聴く気になれない。以前にも言ったことだが、ぼくらは、自家の再生装置でうまく鳴るレコードを好んで聴くようになるものである。聴きたい楽器の音をうまく響かせてくれるオーディオをはじめは望み、そのような意図でアンプやスピーカー・エンクロージァを吟味して再生装置を購入しているはずなのだが、そのうち、いちばんうまく鳴る種類のレコードをつとめて買い揃え聴くようになってゆくものだ。コレクションのイニシァティヴは当然、聴く本人の趣味性にあるべきはずが、いつの間にやら機械にふり回されている。再生装置がイニシァティヴを取ってしまう。ここらがオーディオ愛好家の泣き所だろうか。
 そんな傾向に我ながら腹を立ててハンマーを揮ったのだが、痛かった。手のしびれる痛さのほかに心に痛みがはしったものだ。
(フランク《オルガン六曲集》より)
     *
《再生装置がイニシァティヴを取ってしまう》、
コレクションのイニシアティヴは、聴く本人の趣味性にあるべきはずなのに、
いつの間にやらそうでなくなっていく。

五味先生だけがいわれていることではない。
私がオーディオに興味をもつ以前からいわれていることである。

心に近い音で鳴る再生装置であれば、
その再生装置がコレクションのイニシアティヴをとっても、
それは聴く本人の趣味性から離れることはないであろう。

耳に近い音だけの再生装置によるコレクションのイニシアティヴとは、
当然違ってくる。

五味先生は、コンクリートホーンをハンマーで敲き毀された。
徹底的に破棄する──、この行為こそが示す道がある。

Date: 2月 17th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(コントロールアンプのこと・その22)

SAEのMark 2500にはマークレビンソンのLNP2が、
私にとってのベストの組合せなのだろうが、
現実は違うわけで、いまのところメリディアンの218をダイレクトに接続している。

今年になって、
ふと思い立ってQAUDの405の相棒となっているAGIの511と組み合わせてみた。

この511はブラックパネルで、
RFエンタープライゼスの輸入品ではない。
並行輸入品である。

それでも、私にとってのAGIの511の音といえば、
このブラックパネルの音である。

以前書いているので詳細は省くが、
私が聴いた511の音は、ブラックパネルの511であって、
瀬川先生によれば、初期の511の音が聴けるのは、
並行輸入のブラックパネルの511だ、ということだった。

511の初期モデル、ブラックパネルの511に使われているOPアンプは、
一般的なFET入力型ではない。
全段トランジスターによる構成である。

511の改良モデルは、FET入力のOPアンプへの変更が主である。
アンプとしての特性は優秀になっているし、
音的にも現代的になっているともいえるが、
それでも初期の511の、音楽の表情のコントラストのはっきりとした音は、
FETが使われていないことによるものだ、と私は思っている。

そんな私の耳には、
やはりFETを使っていないMark 2500との相性も悪くないように聴こえる。

Date: 1月 10th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その17)

一年ほど前の(その16)で、この項は終りのつもりでいた。
けれど、いまこうやって、また書いているのは蛇足かもしれないと思いつつも、
やっぱり書いておこう、という気持のほうが強い。

その1)は七年ほど前。
だから、少しくり返しになるが、黒田先生の「風見鶏の示す道を」のことを書いておく。

《汽車がいる。汽車は、いるのであって、あるのではない。りんごは、いるとはいわずに、あるという。りんごはものだからだ。》

ここから「風見鶏の示す道を」をはじまる。

駅が登場してくる。
幻想の駅である。

駅だから人がいる。
駅員と乗客がいる。

しばらく読んでいくと、こんな会話が出てくる。
     *
「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」
「どの汽車って、どちらにいらっしゃるんですか?」
「どちらといわれても……」
     *
不思議な会話である。
駅でなされる会話とはおもえぬ会話があった。

13歳のときに、「風見鶏の示す道を」を読んでいる。
それだけに記憶に強く残っている。

どこに行きたいのか掴めずにいる乗客(旅人)は、
レコード(録音物)だけを持っている。

このレコード(録音物)だけが、行き先を告げてくれる。
けれど、その携えているレコードを、乗客(聴き手)は、どうやって選んだのだろうか。

嫌いな音を極力排除して、
そんな音の世界でうまく鳴る音楽だけを聴いてきた旅人が携えるレコードが示すのは、
どこまでいっても、耳に近い音なのではないだろうか。

心に近い音を示してくれることはないはずだ。