Archive for category 戻っていく感覚

Date: 12月 24th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その1)

私が初めて読んだ黒田先生の文章は、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」巻頭の「風見鶏の示す道を」である。
サブタイトルとして、音楽が呼ぶ夢の顕在としてのコンポーネント、とある。

《汽車がいる。汽車は、いるのであって、あるのではない。りんごは、いるとはいわずに、あるという。りんごはものだからだ。》

ここから「風見鶏の示す道を」をはじまる。

駅が登場してくる。
幻想の駅である。

駅だから人がいる。
駅員と乗客がいる。

しばらく読んでいくと、こんな会話が出てくる。
     *
「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」
「どの汽車って、どちらにいらっしゃるんですか?」
「どちらといわれても……」
     *
不思議な会話である。
駅でなされる会話とはおもえぬ会話があった。

38年前に、この文章を読んでいた。
ちょうどいまの季節である。
二度三度読み返した。

13歳の中学生には、わかったようで、この人(黒田先生)が何を書きたいのか、
ほんとうのところはつかめずにいた。
それでもなにかしら惹かれるところがあって、そのあとも何度か読み返している。

Date: 11月 7th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(なのだろうか)

本だけでなく、DVDやゲームソフトも取り扱っている書店には、
液晶テレビが置いてあり、話題のDVDのデモが映し出されている。
今年は、ここに「アナと雪の女王」がよく映し出されていた。

ほとんどの場合、液晶テレビの前に小さな子供がいた。
じぃーっと「アナと雪の女王」を見ている。
くいいるように見ている。
お母さんもいっしょに見ていることが多い。

もうひとつ「妖怪ウォッチ」のようかい体操第一もよく映し出されていた。
こちらも子供たちがくいいるように見ているところに何度も遭遇している。

そんな子供たちの姿をみていると、
私もこのくらいのころは、こんなふうにテレビをみつめていたのか、と思う。

子供には子供向けのテレビ番組がある。
ずっと昔からある。
世代が違えば見てきた子供向けのテレビ番組は違っている。

人によっては割と早い時期から子供向けの番組は見なくなるだろうし、
ほとんどの人がもう見ていない、となる。

それでも結婚し子供が生まれ、子供がテレビ番組に興味を持ちはじめるころになれば、
子供と一緒に子供向けのテレビ番組を見ることになる。

世代が同じでも、子供といっしょに子供向けのテレビ番組をみるころには、
人によって、その時期は違ってくる。
早く子供が生まれた人、遅くに生れた人とでは10年くらいの開きがあっても不思議ではない。

子供もひとりだけの人もいればふたり、三人という人もいるから、
そうなると、子供向けの番組を二番目の子供、三番目の子供といっしょに見ることになる。

結婚していなかったり子供がいなかったりしたら、
大人になってから子供向けの番組を見ることはないのが、普通ということになるのか。

「子供向けだからなぁ……」という人がいる。
ここでの「子供向けだからなぁ……」には、
「子供だましだからなぁ……」というニュアンスがふくまれていたりする。

だがほんとうに子供だましなのか。
少なくとも「アナと雪の女王」、「妖怪ウォッチ」のようかい体操第一を見ている子供たちの表情をみれば、
子供だましではないことが伝わってくる。

戻っていく感覚(ネオ・ファウスト)

手塚治虫の未完の作品のひとつが「ネオ・ファウスト」。
タイトルからわかるようにゲーテの「ファウスト」を題材としていて、
手塚治虫は三度「ファウスト」を作品化している。

第一作は1949年(1950年かもしれない)に「ファウスト」というタイトルで不二書房から出ている。
第二作は1971年に「百物語」のタイトルで、少年ジャンプでの連載が開始。
第三作の「ネオ・ファウスト」は1988年1月から朝日ジャーナルでの連載が始まっている。
ゲーテの「ファウスト」は第一部が1808年、第二部がゲーテの死後の1883年に発表されている。

「ファウスト」の第一部から「ネオ・ファウスト」の連載開始までの180年。
科学技術はおそろしく進歩していった。
手塚治虫の「ファウスト」から「ネオ・ファウスト」までの39年でも、大きく進歩している。

だからこそ手塚治虫は「ネオ・ファウスト」を描いたような気がしてならない。

ゲーテの「ファウスト」の時代、ホムンクルスは錬金術による人造人間だったのが、
「ネオ・ファウスト」ではバイオテクノロジーが生み出す人造人間となっている。

ゲーテの「ファウスト」ではホムンクルスの登場は少ない。第二部に登場してエーゲ海であっけなく消える。
「ネオ・ファウスト」の第二部にホムンクルスは登場する予定だった。
だが手塚治虫の死で第二部は二話で未完となってしまう。
ホムンクルスはまだ登場せずに、だ。

手塚治虫の死後に出た関連書籍を読むと、ホムンクルスは最後まで登場する構想だったことがわかる。
重要な存在としてのホムンクルスであるところが、ゲーテの「ファウスト」と違ってくるところであり、
これこそが180年のあいだに進歩した科学技術があるからだ、と思う。

「ネオ・ファウスト」がどう話が展開して、どういう終りになるのかまったく想像はつかない。
けれど、倫理について語られるものがあった、と思う。

「ネオ・ファウスト」のホムンクルスは地球を破壊していく。
バイオテクノロジーに対する不安、拒絶反応が「ネオ・ファウスト」の大きなテーマ、ということだ。

21世紀を目前にしていた時代に、手塚治虫がどう倫理を描いていくのかを読みたかった。

戻っていく感覚

川崎先生の10月28日のブログ(『「アプロプリエーション」という芸術手法はデザインに非ず』)を読んで、
五味先生の文章を読み返した。

ステレオサウンド 51号、オーディオ巡礼である。
     *
 二流の音楽家は、芸術性と倫理性の区別をあいまいにしたがる、そんな意味のことを言ったのはたしかマーラーだったと記憶するが、倫理性を物理特性と解釈するなら、この言葉は、オーディオにも当てはまるのではないか、と以前、考えたことがあった。
 再生音の芸術性は、それ自体きわめてあいまいな性質のもので、何がいったい芸術的かを的確に言いきるのはむつかしい。しかし、たとえばSP時代のティボーやパハマン、カペー弦楽四重奏団の演奏を、きわめて芸術性の高いものと評するのは、昨今の驚異的エレクトロニクスの進歩に耳の馴れた吾人が聴いても、そう間違っていないことを彼らの復刻盤は証してくれるし、レコード芸術にあっては、畢竟、トーンクォリティは演奏にまだ従属するのを教えてくれる。
 誤解をおそれずに言えば、二流の再生装置ほど、物理特性を優先させることで芸術を抽き出せると思いこみ、さらに程度のわるい装置では音楽的美音——全音程のごく一部——を強調することで、歪を糊塗する傾向がつよい。物理特性が優秀なら、当然、鳴る音は演奏に忠実であり、ナマに近いという神話は、久しくぼくらを魅了したし、理論的にそれが正しいのはわかりきっているが、理屈通りいかないのがオーディオサウンドであることも、真の愛好家なら身につまされて知っていることだ。いつも言うのだが、ヴァイオリン協奏曲で、独奏ヴァイオリンがオーケストラを背景につねに音場空間の一点で鳴ったためしを私は知らない。どれほど高忠実度な装置でさえ、少し音量をあげれば、弦楽四重奏のヴァイオリンはヴィオラほどな大きさの楽器にきこえてしまう。どうかすればチェロが、コントラバスの演奏に聴こえる。
 ピアノだってそうで、その高音域と低域(とくにペダルを踏んだ場合)とでは、大きさの異なる二台のピアノを弾いているみたいで、真に原音に忠実ならこんな馬鹿げたことがあるわけはないだろう。音の質は、同時に音像の鮮明さをともなわねばならない。しかも両者のまったき合一の例を私は知らない。
 となれば、いかに技術が進歩したとはいえ、現時点ではまだ、再生音にどこかで僕らは誤魔化される必要がある。痛切にこちらから願って誤魔化されたいほどだ。とはいえ、物理特性と芸術性のあいまいな音はがまんならず、そんなあいまいさは鋭敏に聴きわける耳を僕らはもってしまった。私の場合でいえば、テストレコードで一万四千ヘルツあたりから上は、もうまったく聴こえない。年のせいだろう。百ヘルツ以下が聴こえない。難聴のためだ。難聴といえばテープ・ヒスが私にはよく聴きとれず、これは、私の耳にはドルビーがかけてあるのさ、と思うことにしているが、正常な聴覚の人にくらべ、ずいぶん、わるい耳なのは確かだろう。しかし可聴範囲では、相当、シビアに音質の差は聴きわけ得るし、聴覚のいい人がまったく気づかぬ音色の変化——主として音の気品といったもの——に陶然とすることもある。音楽の倫理性となると、これはもう聴覚に関係ないことだから、マーラーの言ったことはオーディオには実は該当しないのだが、下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数の伸び、歪の有無などばかり気にしている、それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
     *
読み返して、いま書いていることのいくつかの結論は、ここへ戻っていくんだ、という感覚があった。