Archive for category 使いこなし

Date: 3月 24th, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その20)

3月のaudio wednesdayでいっしょに聴いていたHさんも、
この日のカラスの「カルメン」の鳴り方はよかった、と感じられていたようだった。

Hさんは、ULTRA DACでのマリア・カラスも聴かれている。

まだまだだ、と思うところはけっこうある。
それでもULTRA DACと218の価格、
2,500,000円と125,000円、
ULTRA DACは218の二十台分である。

これだけの違いがあるのだから、
ULTRA DACでは通常のCD、218ではMQA Studioというハンディキャップをつけている。

それでも……、というところがあるのも事実だ。
けれど、別の意味で、それでも! といいたくなる音が、この日は聴けた。

218といっても、手を加えた218なのだから、
その自慢をしたいのではなく、ここでいいたいのは、
何もしないで、ただひたすら鳴らして聴くことの重要さである。

ひどい音が鳴ってきたからといって、
それをその場しのぎでごまかすようなことをしていたら、
もしくは、そのひどい音でなんとか聴けるようなソースばかりを鳴らしていたら、
この日のように、短時間での大きな変化は無理であろう。

とはいっても、いいかげんなセッティングではダメである。
きちんとしたセッティングがなされていれば、
鳴らすことの大切さがわかるはずである。

何かをすることだけが使いこなしではない。

Date: 3月 23rd, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その19)

3月のaudio wednesdayで最初にかけたのは、
コンドラシンとアルゲリッチによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲だった。

コンドラシンによる「シェエラザード」とのカップリングのSACDだ。
各機器の結線が終った段階で、
すぐにでも音を鳴らしたかったので、まず「シェエラザード」をかけた。
鳴らしながら、スピーカーのガタとり、位置の微調整などをやって、
チャイコフスキーにを鳴らした。

「シェエラザード」もよい鳴り方とはいえなかったけれど、
チャイコフスキーは、さらにひどく感じた。

そのがさつな音から、二時間弱。
途中でメリディアンの218を使うようになったけれど、それ以外はなにもしなかった。
とにかく、鳴ってくる音の変化を聴いていただけだった。

それでもオーディオのおもしろいところは、
そうやって鳴らしたあとで、(その18)で書いているように、
MCD350からiPhoneにかえて、レネー・ゼルウィガーによる“Over The Rainbow”を鳴らしてみると、
最初の音からは想像できないほど、まともになっている。

もちろん2月のaudio wednesdayの音にはまだまだではあるけれど、
こういう変化が音に現れてくるなら、音楽が、その魅力を伝える鳴り方へと変っていく。

いくつか鳴らした後に、マリア・カラスの「カルメン」をかけた。
MQA Studio、96kHz、24ビットでの音は、まだまだ不備のある音ではあっても、
聴き惚れるくらいにまで変っていた。

何度も書いているように、
マリア・カラスの「カルメン」に関しては、
ULTRA DACで、通常のCDをshortフィルターで再生した音が、
私にとっての、喫茶茶会記での音のひとつの基準になっている。

その音に、218でどこまで迫れるかも、私にとって挑戦である。

Date: 3月 18th, 2020
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その22)

誰だったのかは忘れてしまっているが、
外国の著名な女優だったかもしれない、
「長い時間をかけて、やっと手に入れた皺」──、
そんなことを読んだ記憶がある。

エージングとは、そういうことではないだろうか。
スピーカーのエージングということが、むかしむかしからいわれ続けてきている。

エージングとは、いったいどういうことなのか。
人それぞれ違ってくることだろうが、
私には、皺を刻んでいくことのような気がするし、
それだけでなく、皺が似合うスピーカーとそうでないスピーカーとが、
大きく分ければ、そうであるような気がする。

どのスピーカーが、皺が似合うのか。
これも人によって多少は違ってこよう。

これまで、この項で書いてきている例でのスピーカーは、
私からすれば、もっもと皺が似合うスピーカーのひとつである。

アンチエージングということで、
皺を完全に拒否する生き方もある。

そういう生き方もあるだろうし、
そういう音のスピーカー、
つまり皺がまったく似合わない、
いつまで経っても似合いそうにない音のスピーカーもある、といえる。

どちらのタイプのスピーカーを選択するかで、
スピーカーのエージングとはどういうことなのか、
そのことに対する考え方は大きく違ってくるはずだ。

Date: 3月 6th, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その18)

メリディアンの218に電源スイッチはない。
なので私はずっと通電したままで使っている。

電源を切るのは手を加えるときぐらいだ。

audio wednesdayの前日の夜に準備をする。
218もその時バッグに収める。23時ごろには電源を切るわけだ。

audio wednesday当日は早ければ18時ごろには電源をいれる。
それでも本来の音が鳴ってきたな、と感じるのは、その二時間後ぐらいである。

今回は電源を入れたのが21時過ぎだった。
ほぼ丸一日電源を入れていない状態だった。

つまり218本来の音が鳴ってくるのは、その二時間後、
23時過ぎくらい、ということになる。
こればかりはどうにかできることではない。

鳴らしながら待つしかない。
だから22時30分ごろは、ようやく鳴り始めてきたな、という状態でもある。

やっとここで、編成の小さな、しっとりした感じが重要となる曲をかける。
それまでかけてきた曲とは、音量もぐんと小さくなる。

こういった曲が、なんとか鳴ってくれれば、まずまずということになる。
そして、この時点で、MCD350からiPhoneに変更した。

鳴らしたのは、映画「JUDY」(邦題:ジュディ 虹の彼方に)で、
主演のレネー・ゼルウィガーによる“Over The Rainbow”である。

MQAで、44.1kHz、24ビットである。

Date: 3月 6th, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その17)

今回のaudio wednesdayでは、SACDをけっこう持ってきた。
個人的にも、どんなふうに鳴ってくれるのか興味津々なところもあった。

でも、その期待は一瞬にして打ち砕かれた。
せっかくのSACDであっても、メリディアンの218を使えば、
DSD再生ではなく44.1kHz、16ビットの通常のCD再生となる。

スペック的には、音質的にも不利になる。
それでも218の音を聴いてみよう、と思うしかなかった。

218を通す以前かけていたSACDのCD層を鳴らす。
残念なこと、というべきなのかもしもないが、
218での音の方がよかった。

いくら手を加えた218とはいえ、
元のプログラムソースがSACDとCDとでは、
誰が考えてもSACDのほうが良く鳴ってくれる、と思う。
私だってそうだ。

またそうでなくては困る。
なのに、この日の結果は違っていた。

こうなるとMCD350の調子がどこかおかしかったのかもしれないが、
それを突き止める時間はなかった。

218で聴こう、と決めた。
何も知らずに訪れた人が聴いたら、ひどい音と感じただろう。
それでも、そのがさつな音に耐えていくしかない。

こういう時、時間の余裕がたっぷりとあれば、
やさしいソフトから徐々に鳴らしていく、というやり方もあるが、
そんな悠長なことはやってられない。

それでも218の良さは伝わってくる鳴り方はしていた。
結局、どうにか聴ける音になってきたと感じたのは22時30分ごろだった。

そのくらいかかると、218にした時点で予想できていた。

Date: 3月 6th, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その16)

audio wednesdayは毎月第一水曜日だから、
次回までは四週間もしくは五週間あることになる。

そのあいだは、誰かによって鳴らされていたり、
スピーカーを鳴らす必要のない人、
つまり喫茶茶会記のスペースを音楽、オーディオ以外に利用している人たちにとっては、
邪魔な存在になったりする。

今回は四週間ぶりになる。
しかも3月のaudio wednesdayは、どうしてもさけられない用事があって、
喫茶茶会記への到着がいつもより二時間以上遅くなってしまった。

音が鳴り始めたのは20時過ぎていた。
鳴ってきた音は、ひどかった。

この四週間のうちに、どれだけひどい扱いを受けてきたのか、
それともがさつな鳴らし方をされてきたのか、
そんなことを想像してしまうほど、がさつな音しか鳴ってこなかった。

時間の余裕があれば、あれこれやれるが、今回は違った。
もうただただ鳴らしていくしかない。

繊細さ、みずみずしさ、艶、そういった要素が皆無の、
野放図な音だった。
だから、がさつな音と表現したくなる。

2月のaudio wednesdayでの音は、いったいどこか消えてしまったのか。
そういいたくなるほどだった。
しかもSACDで、そういう鳴り方だった。

今回は遅くなったこともあって、
メリディアンの218は設置しなかった。
マッキントッシュのMCD350で、いい音がしたら、
そのまま行こうかな、と考えていただけに、
出てきた音のがさつな音の度合の大きさに、結局218を取り出すことにした。

Date: 12月 21st, 2019
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その21)

このブログを書き始めたころから、
セッティング、チューニング、エージングがあって、
これらを混同しないようにすべきだ、と書いてきている。

それから、オーディオには三つのingがある、とも書いている。
くり返すが、セッティング(setting)、チューニング(tuning)、エージング(aging)の三つであり、
私は使いこなしという言葉には、この三つを含めての意味で使っている。

その19)で挙げた例では、
エージングを友人に全面的にまかせてしまっている。

オーディオにおける使いこなしは、単純ではない。
複雑系といっていい。
それゆえに手あたり次第やっていても、悪い意味での堂々巡りに陥ってしまう。
そんな堂々巡りのなかでも音は変っていくのだから、
そこでの一喜一憂はまちがいなくあり、
そこに留まっているだけでも楽しいといえば、そうなるのかもしれない。

だから使いこなしにおいて、
セッティングをまずきちんとやることはとても重要であり、
この部分を信頼できる人にまかせるのはありだ、と私も考える。

(その19)での例では、そうではない。
絶対に人にまかせはいけない(私はそう信じている)ところを、
完全にまかせてしまっている。

まかせる方もまかせられた方も、
ほんとうにオーディオがわかっているのか、
オーディオにおける使いこなしとはどういうことなのかを、
ほんとうにわかっているのか。

わかっていないからこそできることだ。
当人たちは、この話をするときに、どこかうっとりしている。
当人たちにしかわからない友情がそこにはあって、
それを再確認しているからなのかもしれない。

鳴らし込みをまかされた男は、
自分のオーディオの腕にうっとりしているところがある。
それにプラスして、友人にそこまで信頼されている、というところでもそうなのだろう。
はっきりとナルシシストであり、
スピーカーの鳴らし込みをまかせた男は、友人のナルシシズムに陶酔しているのか──。

勝手に私がそう思っているだけなのだが、
そこに気持悪さを感じてしまうし、
スピーカーが、そんな友情(?)ごっこの犠牲になってしまっている気がしてしまう。

Date: 11月 19th, 2019
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その20)

その19)で挙げた例と同じ状況におかれた、私ならどうするか。

知人の友人と同じ状況だったら、どうするか、といえば、
会社を辞めることをまず考える。

欲しいと思い続けてきたスピーカーをなんとか手に入れることができた。
なのに海外への転勤が決まってしまい、
スピーカーは転勤先に持っていけないことになったら、
ここを読まれている方はどうするだろうか。

24時間空調が完備している倉庫で、日本に戻ってくるまで寝かしておくのか。
けれど、スピーカーというものは、鳴らさずに一年、二年……、と置いておくだけで、
本来の性能が失われていく。

これは不可避の現象である。
そういうことを知っていれば、なんとかしたい、と考える。

知人の友人は、だから、知人に預ってもらって、
転勤のあいだ、ずっと鳴らしてもらうことを考えついたのか。

新品で買ったスピーカーを、そうやって人に預けて鳴らしてもらう。
短期間ではない、海外転勤が終るまで、少なくとも一年とか二年はかかるのだろうか。

たとえば、誰かに預けるスピーカーが、
新品のときから鳴らしていて、すでに二年、三年が経っていたのであれば、
信頼できる人に預ける、ということを、私も考えるかもしれない。

けれど新品、もしくは数ヵ月程度しか鳴らしていないスピーカーを、
誰かに預けることは絶対に考えない。

だから、仕事を辞めるということを考える。
辞める、といっても、仕事の関係上、そうもいかないこともある。

私なら、そのままにしておく。
鳴らさずに置いておく。

確かに新品の状態を、いろんな意味で維持できなくなるのはわかっている。
それでも、誰かに鳴らされるよりは、そちらのほうがましだからだ。

Date: 7月 11th, 2019
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(ステレオゆえの難しさ・その4)

左右のスピーカーから等距離の位置で音を聴くわけだが、
あえて大きく左右どちらかに大きく動く。

どのくらいかというと、スピーカーの外側まで移動して音を聴く。
つまりスピーカー・エンクロージュアの側面が正面にみえるくらいに移動する。

スピーカーシステムによるのだが、意外にいい雰囲気の音を聴かせてくれることがある。
そういうスピーカーはエンクロージュアの側面を叩いてみると、いい響きのするモノが多い。
スピーカーユニットからの音とエンクロージュアからの輻射、
その比率が正面で聴くのと、ここまで大きくずれるのとでは、大きく変化する。

こんなことをやる理由は、エンクロージュアから輻射されている音(場合によっては響き)を、
意識的に確認してほしいからである。

特にフロントバッフルの面積があまりなく、
奥行きの長いエンクロージュアの場合、
スピーカーの振りによる音の変化(響きのまざりぐあいの変化)は、けっこう大きい傾向にある。

エンクロージュアからの輻射音は、極力聴きたくない、という考えの人もいる。
エンクロージュアの側面が聴取位置からほとんど見えないようにセッティングしたとしても、
側面からの輻射がなくなっているわけではないし、
側面からの輻射は、側壁との距離次第では、そういう設置であっても無視できるわけではない。

左右のスピーカーの中央寄りの側面同士の干渉も起っていると考えるべきである。
スピーカーの振りの角度を調整していくということは、
そういう要素を変えていることでもある。

いま行っている調整は、何を変化させているのかを少しでも明確にするためにも、
二本のスピーカーの中央から外れた位置で、
しかも大きく外れた位置での音、というより響きに注目して聴くことは、
意外なヒントに気づくことだってある。

Date: 4月 30th, 2019
Cate: 使いこなし

続・何度でもくりかえす

二ヵ月ほど前に「何度でもくりかえす」を書いた。
そこで、瀬川先生の「My Angle いい音とは何か?」からの、
使いこなしに関する大事なことを引用した。

そのうえで、どうも伝わりにくい(理解され難い)ようでもあるから、
これからも何度でもくりかえそうと考えている、とも書いた。

そして二ヵ月が経って、
やっぱり伝わっていなかった(理解されていなかった)と感じている。

本人は伝わった、理解した、というだろうが、
私からみれば、何ひとつ伝わっていない(理解していない)としか思えない。

本人は頭では理解しているつもりなのだろう。
けれど、やってしまう。
なぜだろうか。

結局、無為に耐えられないのではないのか。
無為に耐えられないから、ついつい手を出してしまう。

ケーブルを変えてみたり、置き台を工夫してみたり、あれこれやってみる。
しかも屋上屋を重ねる的なことをやらかす。

無為に耐えられないからやらかす。

無為に耐えられないのがオーディオマニアなのかもしれないし、
無為に耐えられるようになってこそオーディオマニアだと断言できる。

Date: 2月 17th, 2019
Cate: 使いこなし

何度でもくりかえす

二年前にも引用しているし、それ以前にも二回引用している。
つまりこれで四回目の引用である。
     *
 二年、などというと、いや、三ヶ月だって、人びとは絶望的な顔をする。しかし、オーディオに限らない。車でもカメラでも楽器でも、ある水準以上の能力を秘めた機械であれば、毎日可愛がって使いこなして、本調子が出るまでに一年ないし二年かかることぐらい、体験した人なら誰だって知っている。その点では、いま、日本人ぐらいせっかちで、せっぱつまったように追いかけられた気分で過ごしている人種はほかにないのじゃなかろうか。
 ついさっき、山本直純の「ピアノふぉる亭」に女優の吉田日出子さんが出るのを知って、TVのスウィッチを入れた。彼女が「上海バンスキング」の中で唱うブルースに私はいましびれているのだ。番組の中で彼女は、最近、上海に行ってきた話をして、「上海では、日本の一年が十年ぐらいの時間でゆっくり流れているんですよ」と言っていた。なぜあの国に生れなかったんだろう、とも言った。私は正直のところ、あの国は小さい頃から何故か生理的に好きではないが、しかし文学などに表れた悠久の時間の流れは、何となく理解できるし、共感できる部分もある。
 いや、なにも悠久といったテンポでやろうなどという話ではないのだ。オーディオ機器を、せめて、日本の四季に馴染ませる時間が最低限度、必要じゃないか、と言っているのだ。それをもういちどくりかえす、つまり二年を過ぎたころ、あなたの機器たちは日本の気候、風土にようやく馴染む。それと共に、あなたの好むレパートリーも、二年かかればひととおり鳴らせる。機器たちはあなたの好きな音楽を充分に理解する。それを、あなた好みの音で鳴らそうと努力する。
……こういう擬人法的な言い方を、ひどく嫌う人もあるらしいが、別に冗談を言おうとしているのではない。あなたの好きな曲、好きなブランドのレコード、好みの音量、鳴らしかたのクセ、一日のうちに鳴らす時間……そうした個人個人のクセが、機械に充分に刻み込まれるためには、少なくみても一年以上の年月がどうしても必要なのだ。だいいち、あなた自身、四季おりおりに、聴きたい曲や鳴らしかたの好みが少しずつ変化するだろう。だとすれば、そうした四季の変化に対する聴き手の変化は四季を二度以上くりかえさなくては、機械に伝わらない。
 けれど二年のあいだ、どういう調整をし、鳴らし込みをするのか? 何もしなくていい。何の気負いもなくして、いつものように、いま聴きたい曲(レコード)をとり出して、いま聴きたい音量で、自然に鳴らせばいい。そして、ときたま——たとえば二週間から一ヶ月に一度、スピーカーの位置を直してみたりする。レヴェルコントロールを合わせ直してみたりする。どこまでも悠長に、のんびりと、あせらずに……。
     *
瀬川先生の「My Angle いい音とは何か?」からの引用である。
これはとても大事なことだから、何度でもくりかえす。

しかも、どうも伝わりにくい(理解され難い)ようでもあるから、
これからも何度でもくりかえそうと考えている。

SNSをながめていると、システムを入れかえたばかりの人が、
あれこれ使いこなし的なことをやっているのが目に入る。

少し待とうよ、といいたくなる。
基本的なセッティングがまるでできていないのであれば、
それを解消するためのことは必要ではある。

けれど屋上屋を重ねる的な使いこなし的なことが目に入ると、
やはりいわずにはいられない。

Date: 10月 25th, 2018
Cate: 使いこなし

丁寧な使いこなし(続「つもり」)

どうして、気をつけていた「つもり」になってしまったのか。
理由ははっきりしている。

歳をとったことを考慮していなかったからだ。
もう少し若かったら……、同じ状況でも体調を崩すことはなかった。

若かったら……、と書いているが、20、30代のことをいっているのではない。
そんなに若い必要はない。
たかだか五年ほど、つまり50をこえる前くらいだったら、
こんなことで、というくらいだった。

それがいまでは、簡単に体調を崩し、
気をつけていた「つもり」になってしまった。

わずか数年とはいえ、これははっきりと老化なんだ、と受け入れるしかない。

急に来た変化(老化)ではない、徐々に変化していったのに、気にかけなかった。

若い、とよくいわれる。
けれどここ数年、白髪は増えてきたし、なによりも体が硬くなってきているのは自覚している。
以前はなんともなかった左膝が、天候不順になると痛むことがあるのは、
28年前の骨折の後遺症なのだろう。

そんな身体の変化を感じていたのに、自分の身体を過信していたわけだ。
数年前なら、この程度、大丈夫だった、という記憶がなまじあるから、
それが気をつけていた「つもり」にしてしまった。

私の身体だけが変化していったわけではない。
すべてが、そうやって徐々に変化していっている。
そのことを無視していては、丁寧な使いこなしは、「つもり」で終ってしまう。

Date: 10月 24th, 2018
Cate: 使いこなし

丁寧な使いこなし(「つもり」)

急に冷え込む日があったから、気をつけてはいた。
体調を崩さないように、気をつけていた。

でも、土曜日からなんとなく体調がすぐれず、
昨日と今日は、かなりしんどい。

結局、気をつけていた、と本人は思っていたけれど、
気をつけたつもりだった、にすぎなかったわけだ。

ほんとうに気をつけていたら、ここまで体調を崩すことはなかった。
予兆に気づいた時点で、どうにかしていただろうから。

そう「つもり」でしかなかったから、しんどいなぁ、といま感じている。

オーディオの使いこなしでも、同じにしたと同じにしたつもりは違う、とよくいってきた。
「つもり」は楽でもある。

同じにした、と本人は思っていても、結果(出てくる音)が違うのならば、
それは「つもり」でしかない。

Date: 8月 6th, 2018
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(セオリー通りかパターン通りか)

本文は必要なくなったと思いながら、タイトルを書いていた。
タイトルに書いたことがほぼすべてである。

その使いこなしはセオリー通りなのか、
それともパターン通りなのか。

この違いをはっきりと認識してこその使いこなしである。

Date: 4月 23rd, 2018
Cate: 使いこなし

丁寧な使いこなし(その5)

同じことは他のところにもいえる。
同じスピーカー関係でいえば、ネットワークのアッテネーターが挙げられる。

一般的な連続可変型で、どの程度減衰させるか調整したうえで、
同じ減衰量になるように良質の固定抵抗でアッテネーターを作る。

これもスピーカーを平台車に乗せて、あちこち移動して……、と同じ見逃しがあるからだ。

結局、どちらのやり方もおおよその目安がつくだけである。
でも、おおよその目安がつくだけでもいいじゃないか、
十分じゃないか、といわれそうだが、
そんなおおよその目安は、そんなことをやらずにもつくことである。

オーディオはなにかひとつ変えれば音は必ず変化する。
その変化量が大きいか小さいか、
小さい場合には変っていないと思ってしまうこともあるだろうが、
音が変らないということは、まずない。

音は変る。
変るから、どちらがいい音なのか、と判断しがちだ。

これはオーディオの初心者であろうと、キャリアのながい人であろうと同じだろう。
けれど、どちらがいい音なのか判断するということは、
どういうことなのかを、いまいちど考え直してほしい。

いままでの音をA、なにか変えた音をBとすれば、
Aがいいのか、Bがいいのか、
自分で判断することもあれば、微妙な違いであれば、
信頼できるオーディオ仲間に聴いてもらい判断する、ということだってある。

Bの音が良かった、と自分も仲間も同じ意見だとする。
この場合のBは、答である。

大事なのは、その答は、川崎先生がいわれていることなのだが、
応答なのか、回答なのか、解答なのか、である。