Archive for category 複雑な幼稚性

ちいさな結論(その1)

5年前だったはずだが、菅野先生に、「敵は己の裡(なか)にある。忘れるな」と、言われた。

胸に握りこぶしを当てながら、力強い口調で言われた。
この、もっともなことを、人はつい忘れてしまう。
この菅野先生の言葉を思い出したのは、岩崎先生がなぜ「対決」されていたのか、
なに(だれ)と対決されていたのか、について考えていたからだ。

「自分の耳が違った音(サウンド)を求めたら、さらに対決するのだ!」

岩崎先生の、この言葉にある「違った音(サウンド)」を求めるということは、どういうことなのか。

「複雑な幼稚性」(その3)で、「人は音なり」と書き、悪循環に陥ってしまうこともあると書いた。

悪循環というぬるま湯はつかっていると、案外気持ちよいものかもしれない。
けれど、人はなにかのきっかけで、そのぬるま湯が濁っていることに気がつく。
そのときが、岩崎先生の言われる「違った音(サウンド)」を求めるときである。

Date: 9月 17th, 2009
Cate: 複雑な幼稚性, 言葉

「複雑な幼稚性」(その3)

「音は人なり」という五味先生のことばは真実であり、そこだけにとどまっていないと思う。
「人は音なり」も、また真実のような気がする。

「音は人なり」が示すように、その人の生き様が、音に反映される。
だがそれだけ終ってしまうわけではなく、その人となりが顕在化した音に、
聴き手は知らず知らずに影響を受けている。

使っているオーディオ機器、そこで鳴っている音に、聴く音楽が左右される。
オーディオ機器を使っているつもりで、油断しているとオーディオ機器に使われている。
鳴っている音に、影響されていないと断言できる人が、はたしているだろうか。

生き様が音にあらわれ、その生き様が音として、もどってくる。

ぬるい生き方ならば、ぬるい音がもどってくる。

いびつな生き方をしていたら、いびつな音がもどってくる。
そして音に影響され、またそのことが音に反映される。悪循環ではないか。

真剣な生き様であれば、真剣な音が鳴ってくる。
熱い生き様であれば、熱い音が鳴ってくる。
そういう音が戻ってくる、影響される。そしてまた音に反映される。

「オーディオは趣味だから」という逃げを口にしたら、そのことが音としてあらわれる。

Date: 4月 18th, 2009
Cate: 複雑な幼稚性, 言葉

「複雑な幼稚性」(その2)

解答 (=Solution)の「解」は、
MACPOWER vol.3(2008年)に掲載されている、川崎先生の「ラディカリズム 喜怒哀楽」を読んで、
解体・解剖・分解だと思ってきた。

もうひとつあることに、気がついた。
解放があった。
オーディオは、複雑な幼稚性から解放されなければならない。

Date: 12月 12th, 2008
Cate: 川崎和男, 複雑な幼稚性, 言葉

「複雑な幼稚性」(その1)

「現代的な幼稚症! それはオネゲルにおいてすでに告知され、ショスタコーヴィッチにおいて全盛をきわめた。
まさにアルバン・ベルグやシェーンベルクなどの重荷を負った労苦とは正反対のものである。
幼稚症は、さらに無遠慮に、自己の心理的な状況を大衆のそれに優先させようとする。」

こう、フルトヴェングラーが「音楽ノート」で語っているのは1945年のときである。
60年以上前の言葉なのに、いまもそうじゃないか、と、
「現代的な幼稚症」という言葉が心にひっかかってくる。

いまは「複雑な幼稚性」が静かに蔓延っている時代のように思えてならない。
オーディオもそうだ。
複雑な幼稚性が、大事な本質を覆い尽くそうとしている、といったら言い過ぎだろうか。

具体的な例はあえて挙げない。

ただ「単純 (=Simple)」を、否定的、消極的な意味で捉えているようでは、
いつまでも答は見出せない。そう確信している。

そして「答には、3つある」
MACPOWER vol.3に掲載されている「ラディカリズム 喜怒哀楽」で、川崎先生は書かれている。
「応答 (=Reply)」、「回答 (=Answer)」、「解答 (=Solution)」の3つである。
バックナンバーは入手可能のようだから、ぜひお読みいただきたい。