Archive for category 瀬川冬樹

Date: 12月 15th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その8)

ここでのタイトルはあえて「AXIOM 80について書いておきたいこと」とはしなかった。
何かはっきりとした書いておきたい「こと」があったわけではなく、
ここでも半ば衝動的にAXIOM 80について書いておきたい、と思ったことから書き始めている。

書き始めは決っていた。
AXIOM 80というスピーカーユニットを知ったきっかけである。
それが(その1)であり、(その1)を書いたことで(その2)が書けて、
(その2)が書けたから(その3)が……、というふうに書いてきている。

ここではたどり着きたい結論はない。

ここまで書いてきて、オーディオにおける浄化について考えている。
オーディオを介して音楽を聴くことでの浄化。

浄化とは、悪弊・罪・心のけがれなどを取り除き,正しいあり方に戻すこと、と辞書にはある。
音楽を聴いて感動し涙することで、自分の裡にある汚れを取り除くことが、
オーディオにおける浄化といえる。

でもこの項を書いてきて、それだけだろうか、と思いはじめている。
裡にある毒(汚れとは違う)を、美に転換することこそが、
オーディオにおける浄化かもしれない、と。

Date: 12月 1st, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その7)

いまの時代、裡にある毒と共鳴する毒をもつスピーカーを求める人はどのくらいいるのか。
昔もそう多くはなかったのかもしれないが、
いまはもっともっと少ないような気がしないでもない。

それに毒をもつスピーカーが、現行製品の中にはたしてある、といえるのだろうか。
例えばローサーのユニットを復刻したといえるヴォクサティヴにしても、
いいスピーカーとは思いながらも、毒をもつ、とは感じていない。

ヴォクサティヴでもそうである。
それ以外のスピーカーとなると、毒とは無縁のところにある、と思う。
それが技術の進歩といえばたしかにそうであるわけだが、
それだけで美しい音を鳴らすことができるのだろうか、という疑問が残る。

新しいスピーカー、高価なスピーカーの中には、首を傾げたくなる音のモノがある。
そういうスピーカーは毒をもっているのかというと、
どうも私の耳には、そうは聴こえない。

それらのスピーカーが持っているのは毒ではなく、澱のような気がする。
最新のスピーカーであっても、澱がどこかに感じられてしまう。

Date: 11月 21st, 2016
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏からの宿題

私にとってのステレオサウンドは、というと、
まず41号から61号まで21冊とその間に出た別冊が、まずある。

リアルタイムで読んできた、純粋に読み手として読んできたステレオサウンドだけに、
私にとってのステレオサウンドとは、ここである。

その次に創刊号から40号までと、別冊である。
それから62号から89号。これは編集者として携わってきたステレオサウンドだ。

90号からのステレオサウンドもわけようと思えばいくつかにわけられるけれど、
ひとつにしておく。

私にとって中核といえる41号から61号のステレオサウンドについて、
「ステレオサウンドについて」で触れてきた。
この項を書くために、手元にバックナンバーをおいてページをめくってきた。
当時のことを思い出していた。

思い出しながら書いていた。
その過程で、瀬川先生からの宿題がいくつもあることを感じていた。

人によっては「ステレオサウンドについて」はつまらなかったかもしれない。
また古いことばかり書いている、と思った人も少なからずいたはずだ。

読み手のことを考えずに書いていたわけではないが、
「ステレオサウンドについて」は私にとって、
瀬川先生からの宿題をはっきりと認識するための作業であった。

Date: 11月 9th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その6)

AXIOM 80は毒を持っているスピーカーだ、と書いた。
その毒を、音の美に転換したのが、何度も引用しているが、
《AXIOM80の本ものの音──あくまでもふっくらと繊細で、エレガントで、透明で、やさしく、そしてえもいわれぬ色香の匂う艶やかな魅力──》
であると解釈している。

20代の瀬川先生が転換した音である。

心に近い音。
今年になって何度か書いている。
心に近い音とは、毒の部分を転換した音の美のように思っている。

聖人君子は、私の周りにはいない。
私自身が聖人君子からほど遠いところにいるからともいえようが、
愚かさ、醜さ……、そういった毒を裡に持たない人がいるとは思えない。

私の裡にはあるし、友人のなかにもあるだろう。
瀬川先生の裡にもあったはずだ。

裡にある毒と共鳴する毒をもつスピーカーが、
どこかにあるはずだ。
互いの毒が共鳴するからこそ、音の美に転換できるのではないだろうか。

その音こそが、心に近い音のはずだ。

Date: 11月 9th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その5)

瀬川先生は1955年ごろに、最初のAXIOM 80を手に入れられている。
1955年といえば瀬川先生はハタチだ。
まだモノーラル時代だから、一本のみである。

ステレオサウンド創刊号には、こう書かれている。
     *
 そして現在、わたしのAXIOM80はもとの段ボール箱にしまい込まれ、しばらく陽の目をみていない。けれどこのスピーカーこそわたしが最も惚れた、いや、いまでも惚れ続けたスピーカーのひとつである。いま身辺に余裕ができたら、もう一度、エンクロージュアとアンプにモノーラル時代の体験を生かして、再びあの頃の音を再現したいと考えてもいる。
     *
1966年時点で、すでにAXIOM 80は鳴らされていない。
ステレオサウンド 62号「音を描く詩人の死 故・瀬川冬樹氏を偲ぶ」には、
20年のあいだ鳴らされなかった、とある。

つまり瀬川先生にとってAXIOM 80は、20代前半のころのスピーカーである。
《AXIOM80の本ものの音──あくまでもふっくらと繊細で、エレガントで、透明で、やさしく、そしてえもいわれぬ色香の匂う艶やかな魅力──》、
この音を鳴らされていたのは、20代の瀬川冬樹である。

Date: 11月 9th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その4)

AXIOM 80の周波数特性グラフが、
ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 4に載っている。

低域は200Hz以下はダラ下り、
高域は水平30度の特性をできるだけフラットにするという、
往時のフルレンジスピーカーの例にもれず、AXIOM 80もそうであるため、
正面(0度)の音圧は1.5kHzくらいから上では上昇特性となっている。

10kHzの音圧は、1kHzあたりの音圧に比べ10dBほど高い。
だからといって30度の特性がフラットになっているかといえば、
ディップの目立つ特性である。

このへんはローサーのPM6の特性と似ている。
フィリップスのEL7024/01も同じ傾向があり、
いずれのユニットのダブルコーン仕様である。

AXIOM 80のスタイルを偏屈ととらえるか、
機能に徹したととらえる。
見方によって違ってこよう。

特性にしてもそのスタイルにしても、
新しいスピーカーしか見たこと(聴いたこと)がない世代にとっては、
いい意味ではなく、むしろ反対の意味で信じられないような存在に映るかもしれない。

AXIOM 80は毒をもつ、といっていいだろう。

その毒は、新しいスピーカーの音しか聴いたことのない耳には、
癖、それもひどいクセのある音にしかきこえないであろう。

それにいい音で鳴っているAXIOM 80が極端に少ないのだから。
それも仕方ない。
私だって、AXIOM 80がよく鳴っているのを聴いたことはない。

それに神経質なところをもつユニットでもある。
面倒なユニットといえる。

にも関わらず、AXIOM 80への憧憬は変らない。
《AXIOM80の本ものの音──あくまでもふっくらと繊細で、エレガントで、透明で、やさしく、そしてえもいわれぬ色香の匂う艶やかな魅力──》
瀬川先生が書かれたAXIOM 80の音、
これをずっと信じてきているからだ。

AXIOM 80の毒を消し去ってしまっては、
おそらく、「AXIOM 80の本ものの音」は鳴ってこないであろう。

Date: 11月 9th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その3)

AXIOM 80への思い入れ、それをまったく排除してひとつのユニットとして眺めてみれば、
エッジレスを実現するために、フレームがいわば同軸といえるかっこうになっている。

メインフレームから三本のアームが伸び、サブフレームを支えている。
このサブフレームからはベークライトのカンチレバーが外周を向って伸び、
メインコーンの外周三点を支持している。
ダンパーもカンチレバー方式である。

これら独自の構造により、軽量コーンでありながらf0は20Hzと低い。
この構造がAXIOM 80の特徴づけているわけだが、
聴感上のS/N比的にみれば、サブフレームに関してはなんからの対策をとりたくなる。

もっとも通常のコーン紙外周のエッジは、面積的には無視できないもので、
振動板とは別の音を発しているわけで、
エッジレス構造は、この部分の不要輻射による聴感上のS/N比の低下を抑えている。

けれどサブレームとそれをささえるアーム、そしてカンチレバー。
面積的にはけっこうある──。
エッジとはまた別の聴感上のS/N比の低下がある。

AXIOM 80に思い入れがいっさいなければ、この部分の影響に目が行くだろう。
けれど、いまどきAXIOM 80について書いている者にとっては、
そんなことはどうでもいい、となる。

聴感上のS/N比の重要性について言ったり書いているしていることと矛盾している、
そう思われてもかまわない。

Date: 11月 7th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その2)

50号の次にAXIOM 80がステレオサウンドに登場したのは、
1981年夏の別冊「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」だった。

セパレートアンプの別冊に、スピーカーユニットのAXIOM 80が、
それも大きな扱いの写真が載っている。

巻頭の瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」の中に、
AXIOM 80がある。

その理由はステレオサウンド 62号に載っている。
「音を描く詩人の死 故・瀬川冬樹氏を偲ぶ」に載っている。
     *
 この前のカラー見開きページに瀬川先生の1972(昭和47)年ごろのリスニングルームの写真がのっている。それを注意ぶかく見られた読者は、JBLのウーファーをおさめた2つのエンクロージュアのあいだに積んである段ボール箱が、アキシオム80のものであることに気づかれただろう。『ステレオサウンド』の創刊号で瀬川先生はこう書かれている。
〝そして現在、わたしのAXIOM80はもとの段ボール箱にしまい込まれ、しばらく陽の目をみていない。けれどこのスピーカーこそわたしが最も惚れた、いや、いまでも惚れ続けたスピーカーのひとつである。いま身辺に余裕ができたら、もう一度、エンクロージュアとアンプにモノーラル時代の体験を生かして、再びあの頃の音を再現したいと考えてもいる。〟
 そして昨年の春に書かれた、あの先生のエッセイでも、こう書かれているのだ。〝ディテールのどこまでも明晰に聴こえることの快さを教えてくれたアンプがJBLであれば、スピーカーは私にとってイギリス・グッドマンのアキシオム80だったかもしれない。
 そして、これは非常に大切なことだがその両者とも、ディテールをここまで繊細に再現しておきながら、全体の構築が確かであった。それだからこそ、細かな音のどこまでも鮮明に聴こえることが快かったのだと思う。細かな音を鳴らす、というだけのことであれば、これら以外にも、そしてこれら以前にも、さまざまなオーディオ機器はあった。けれど、全景を確かに形造っておいた上で、その中にどこまでも細やかさを追及してゆく、という鳴らし方をするオーディオパーツは、決して多くはない。そして、そういう形でディテールの再現される快さを一旦体験してしまうと、もう後に戻る気持にはなれないものである。〟
 現実のアキシオム80の音を先生は約20年間、聴いておられなかったはずである。すくなくとも、ご自分のアキシオム80については……。
 それでも、その原稿をいただいた時点で先生は8個のアキシオム80を大切に持っておられた。
 これは、アンブの特集だった。先生も、すくなくとも文章のうえでは、JBLのアンプのことを述べられるにあたって引きあいにだされるだけ、というかたちで、アキシオム80に触れられただけだった。
 でも……いまでも説明できないような気持につきうごかされて、編集担当者のMは、そのアキシオム80の写真を撮って大きくのせたい、と思った。
 カメラの前にセットされたアキシオム80は、この20年間鳴らされたことのないスピーカーだった。
〈先生は、どんなにか、これを鳴らしてみたいのだろうな〉と思いながら見たせいか、アキシオム80も〈鳴らしてください、ふたたびあのときのように……〉と、瀬川先生に呼びかけているように見えた。
     *
62号にもAXIOM 80の同じ写真が載っている。
62号を読んで、あのAXIOM 80が瀬川先生のモノだったことを知る。

Date: 9月 8th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その9)

昨夜(9月7日)のaudio sharing例会に来てくれた常連のAさん。
facebookに、「いい気づきを今回もいただきました」と投稿されていた。

人によるだろうが、私は「今日はいい音でした」といわれるよりも、
Aさんのように言ってくれる方を嬉しく思う。

気づき、発見、再発見。
私がオーディオ雑誌、オーディオ評論に望んでいるものである。

何を望むのか、求めるのかは人によって違うものだ。
オーディオ雑誌、オーディオ評論に、結果(答)を求める人もいよう。

そういう人にとっては、ベストバイやステレオサウンド・グランプリといった点数づけ、
権威づけに直接つながっていく賞がおもしろい、ということになるのだろう。

いま書店に並んでいるステレオサウンド 200号。
まだ見ていないが、ステレオサウンドのサイトでは、
特集は「誌面を飾った名スピーカー200選」とある。

見てなくとも、おおよその構成は想像できる。
大きく外れてはいないという自信もある。

選ばれている200のスピーカーについて、
オーディオ評論家と呼ばれている人たちが、それぞれに担当して書いているのだろう。
以前の「世界の一流品」や「ステート・オブ・ジ・アート」と同じ構成のはずだ。

「世界の一流品」や「ステート・オブ・ジ・アート」では、そういうやり方でもいいが、
今回は200号記念特集、つまり創刊50周年の記念特集であるわけだ。

ここで私が求めたいのは、50年を俯瞰しての読みものである。
つまりオーディオの系譜、スピーカーの系譜といったことを求めたいし、読みたい。

この「系譜」について、200号では語られているのだろうか。
ないような気がする。

私がこの項のタイトルを、「ヴィソニック David 50のこと」とせずに、
「瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50)」とした意図は、そこにある。

Date: 9月 7th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その8)

エラックのCL310とヴィソニックのDavid 50とに、いくつかの共通点を挙げることができるからといって、
CL310をDavid 50の系譜に置くのは間違っている、もしくはこじつけ、強引なこと──、
私はそうは思っていない。

CL310は奥行きこそ長いが、ミニスピーカーといえるサイズで、
驚く音を聴かせる。
知人宅でCL310のAudio Editonを聴いて、心底驚いたことをいまもはっきりと思い出せる。

ミニサイズなのに音量が出せる──、低音が出る──、
そういったレベルではなく、そこでのエネルギーの再現性に驚いた。

CL310以前にも小型スピーカーで驚く製品はいくつもあった。
セレッションのSL6(SL600)、アコースティックエナジーのAE2などがあった。
それぞれに驚かされる面をもっていたけれど、
CL310ほどエネルギーの再現性に優れていたとは思えない。

AE2の方がCL310よりも最大出力音圧レベルはとれるかもしれないが、
ホーン型に一脈通ずるようなエネルギーの再現性は、AE2には感じず、CL310にだけ感じたものだった。

そういうCL310だけに、セカンドスピーカー、サブスピーカーという捉え方からは完全に脱している。
David 50はセカンドスピーカー、と書いているではないか。
そう思われるであろう。

でもヴィソニックがDavidシリーズで目指していたのは、良質のセカンドスピーカーではないはず。
David(ダヴィッド)の名は、巨人ゴリアテを見事に倒したダヴィデから名づけられているからだ。

ヴィソニックのエンジニアが目指していたCL310の領域にあった、と私は思っているし、
瀬川先生がCL310を聴かれていたら、どう書かれるかを想像するに、
ヴィソニックの系譜に沿って書かれた可能性があった、と思う。

Date: 9月 6th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その7)

ヴィソニックのDavid 50の外形寸法はW10.7×H17.0×D10.3cm、
David 502はW10.3×H17.0×D10.7cm。わずかな違いはあるが、同じといっていい。

エラックのCL310はW12.3×H20.8×D128.2cmである。
奥行きが三倍近くあるが、横幅と高さはDavid 50に近い。
ユニットもウーファーは11.5cm口径、トゥイーターはAMTの2ウェイ構成。

エンクロージュアの横幅はDavid 50同様、ウーファー口径よりもわずかに大きいだけである。
David 50もCL310もフロントバッフルいっぱいにユニットがある。
バッフルの余白はどちらもあまりない。

それからCL310のエンクロージュアのアルミ製である。
ここも同じである。

ヴィソニックもエラックもドイツのメーカーである。

CL310を最初に目にしたとき、David 50の系譜だと思った。
David 50は1976年に登場している。CL310は1998年である。
20年の開きが、David 50の系譜を、ここまで進化させたのか、と音を聴いて思っていた。

価格も違う。
David 50は67,600円(二本)、David 502は60,000円(二本)、
CL310は260,000円(二本)である。

それでもCL310は、David 50の系譜だ、と感じていた。

Date: 9月 5th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その6)

ヴィソニックのDavid 50の系譜は、David 502、David 5000と続いていく。
日本ではDavid 5000で途切れてしまった感があるが、
David 5001まで続き、いまも購入可能(のようだ)。
ただしドイツ製なのかどうかは不明。

David 502のころに専用のサブウーファーSUB1が出てきた。
30cm口径ウーファーで、300Hzのカットオフ周波数のネットワークを内蔵していた。
重量は36kg。これを加えれば、低域の拡充が実現する。
ただしSUB1の価格は20万円だった。
David 502が一本3万円の時にである。

David 5000と同時期に、B&OからBeovox C75が登場した。
Beovox C75といっても、どんなスピーカーだったのか、思い浮べられる人は少ないだろう。
Beovox C75は、CX100のひとつ前のモデルである。

エンクロージュアの形状、材質も同じ。
ユニット構成もBeovox C75とCX100は同じである。

Beovox C75は一度も聴いていない。
CX100と同じ音だったのだろうか。
だとしたら、なぜ型番を大きく変更したのかだろうか、と思ってしまう。

瀬川先生はBeovox C75は聴かれていないのだろうか。
瀬川先生はCX100をどう評価されただろうか。

こんなことを考えながら、David 50のもうひとつの系譜といえるスピーカーのことを思い浮べている。
エラックのCL310である。

Date: 9月 5th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その5)

B&OのCX100を聴いてDavid 50のことを思い出した──、と書いた。
David 50のことを思い出すとともに、
あの時David 50という選択肢もあったのに……、とも思っていた。

私にとって最初ステレオサウンドとなったのは41号と「コンポーネントステレオの世界 ’77」である。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」に、David 50は登場している。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」では組合せの一冊で、
メインとなる組合せ記事のあとに、
ひとつの組合せ2ページで、30の組合せを紹介したページがある。
そこにDavid 50は登場している。

David 50の組合せは、もちろん瀬川先生。
アンプはサンスイのAU607、アナログプレーヤーはテクニクスのSL01。
カートリッジはオルトフォンのVMS20Eだ。

David 50が黒で、AU607、SL01も黒。
David 50はミニスピーカー、
SL01はミニとまでいえないが、ぎりぎりまで寸法をおさえたモデル。
組合せ合計は、244,400円。

チューナーは含まれてないが、AU607とペアになるTU707(54,800円)を加えても、
30万円を超えない組合せだった。

いまでもいい組合せだと思う。
CX100を聴いて、David 50を思い出した約30年前も、そう思っていた。
David 50の組合せそのままでも良かったのではないか、
むしろこちらのほうが良かったのではないか……、
思ってもどうにもならないことを思い出していた。

当時David 50を聴く機会があったら……、
そうも思っていた。
David 50のサイズ、それに瀬川先生も記事の中でセカンドスピーカーと語られている。
ここがひっかかっていたのだろう、いまにして思えば。

でも続けて、
《このスピーカーは小さいながらも10センチウーファーとドーム型トゥイーターの2ウェイで、音のつながりとバランスがとてもいいんです。低音のスケール感さえ望まなければ、中音以上の音のクォリティやバランスのよさ、指向性のよさについては第一級のスピーカーと比べても決してひけをとりませんね。》
と語られている。

David 50を最初に買う。
次のグレードアップとしてウーファーを追加する。
そういう楽しみ、発展の仕方もあったのに気づかなかった。

あの時は若かった(幼かった)のだ。
CX100の音は、そんなことさえ思わせた。

Date: 8月 29th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その4)

瀬川先生がいわれていたことを、
David 50、CX100について書いているとどうしても思い出してしまう。

音楽を聴くとき、常に左右のスピーカーから等距離のところ、
つまりセンターで聴いているわけではない、と。
身構えずに音楽を楽しみたいとき、音と対峙するような聴き方をしたくないときは、
オフセンターで聴くこともけっこうある、と。

オーディオで音楽を聴くときは、いつかなるときでも、スピーカー(音)と対峙して聴く──、
そういう人もいるかもしれないが、
音楽に身をまかせるような聴き方もあっていいし、
そういう聴き方をすることはある。

だからといって、何かをしながら音楽を聴くようなことをしているのではない。

ステレオサウンドベ雜「コンポーネントステレオの世界 ’79」でも、書かれている。
     *
 言いかえればそれは、ことさらに身構えずに音楽が楽しめそうだ、という感じである。ミニアンプ(を含む超小型システム)は、誰の目にも、おそらくそう映る。実際に鳴ってくる音は、そうした予感よりもはるかに立派ではあるけれど、しかしすでに大型の音質本位のアンプを聴いているマニアには、視覚的なイメージを別として音だけ聴いてもやはり、これは構えて聴く音ではないことがわかる。そして、どんな凝り性のオーディオ(またはレコード)の愛好家でも、身構えないで何となく身をまかせる音楽や、そういう鳴り方あるいはそういうたたずまいをみせる装置を、心の片隅では求めている。ミニアンプは、オーディオやレコードに入れあげた人間の、そういう部分に訴えかけてくる魅力を持っている。
     *
身構えずに好きな音楽を聴きたい、そう思って聴きはじめる。
聴きはじめのときは、耳の位置は臍より後にある。
けれど聴いているうちに、臍より前にあることだってある。

そういう時、かけているディスクを、
メインのスピーカーを置いている部屋(もしくはシステム)に持っていくのか。

少なくともヴィソニックのDavid 50、B&OのCX100ならば、
耳が臍よりも前にきたとしても、そのまま聴き続けられるだけの良さを持っている。
ここが、単なるサブスピーカー、ミニスピーカーの領域に留まらない

いつのまにか音楽に聴き入ってしまっている自分に気づくこともある。

Date: 8月 23rd, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その3)

B&Oのスピーカーシステムは、それまでにわずかとはいえ聴いたことがある。
Beovox MS150などを、ステレオサウンド試聴室で聴いている。
惚れ込むまではいかなかった。

B&Oはデンマークのメーカー。
でもそのスピーカーの音に、北欧的なものを感じることはできなかった。
同じトランスデューサーでもカートリッジのMMCシリーズの方が、
なるほどB&Oは北欧のメーカーなんだ、ということを認識させてくれていた。

MMCシリーズの音を、無意識にBeovoxシリーズにも期待していたのだろう。
勝手な期待とは違う音が出てきただけのこと、ともいえよう。

そんなことがあったからCX100から、MMCシリーズに通ずる音が鳴ってきたのには、嬉しくなった。
10cm口径のコーン型ウーファーを上下に配し、中間にドーム型トゥイーターをはさむという、
いわゆる仮想同軸配置をとる、このスピーカーのエンクロージュアもまたアルミ製である。

ヴィソニックのDavid 50もアルミ製のエンクロージュアで、10cm口径のウーファー。
しかもエンクロージュアの横幅は、ユニット幅ぎりぎりにおさめられている。

LS3/5Aも10cm口径ウーファーだが、エンクロージュアの横幅は19cm、
CX100は11cmと、David 50も10.7cmとここにも共通するところがある。

それにCX100もDavid 50も、さまざまな使い方に対応できるようブラケットも用意されていた。
壁にかけることもできた。机の上に置くのもいい。

専用スタンド上に置いて、
スピーカー壁から十分に離したセッティングを要求するスピーカーとは、ここが違う。

しかも高価なアンプも要求することもない。
もちろんアンプのグレードを高めていけば、それに対応していくが、
それこそBOSEが101MM用に発売した1701で、魅力的な音が損なわれてしまうことはない。

細やかでいながら、芯のしっかりした音は、David 50と共通するところであろう。

瀬川先生が「続コンポーネントステレオのすすめ」で書かれたことをもう一度引用しておく。
     *
たとえば書斎の片すみ、机の端や本棚のひと隅に、またダイニングルームや寝室に、あまり場所をとらずに置けるような、できるだけ小さなスピーカーが欲しい。しかし小型だからといって妥協せずにほどほどに良い音で聴きたい……。そんな欲求は、音楽の好きな人なら誰でも持っている。
     *
CX100は、まさにぴったりといえたし、そのクォリティは、ほどほどに、というレベルを超えていた。