Archive for category 瀬川冬樹

Date: 11月 9th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その3)

AXIOM 80への思い入れ、それをまったく排除してひとつのユニットとして眺めてみれば、
エッジレスを実現するために、フレームがいわば同軸といえるかっこうになっている。

メインフレームから三本のアームが伸び、サブフレームを支えている。
このサブフレームからはベークライトのカンチレバーが外周を向って伸び、
メインコーンの外周三点を支持している。
ダンパーもカンチレバー方式である。

これら独自の構造により、軽量コーンでありながらf0は20Hzと低い。
この構造がAXIOM 80の特徴づけているわけだが、
聴感上のS/N比的にみれば、サブフレームに関してはなんからの対策をとりたくなる。

もっとも通常のコーン紙外周のエッジは、面積的には無視できないもので、
振動板とは別の音を発しているわけで、
エッジレス構造は、この部分の不要輻射による聴感上のS/N比の低下を抑えている。

けれどサブレームとそれをささえるアーム、そしてカンチレバー。
面積的にはけっこうある──。
エッジとはまた別の聴感上のS/N比の低下がある。

AXIOM 80に思い入れがいっさいなければ、この部分の影響に目が行くだろう。
けれど、いまどきAXIOM 80について書いている者にとっては、
そんなことはどうでもいい、となる。

聴感上のS/N比の重要性について言ったり書いているしていることと矛盾している、
そう思われてもかまわない。

Date: 11月 7th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その2)

50号の次にAXIOM 80がステレオサウンドに登場したのは、
1981年夏の別冊「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」だった。

セパレートアンプの別冊に、スピーカーユニットのAXIOM 80が、
それも大きな扱いの写真が載っている。

巻頭の瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」の中に、
AXIOM 80がある。

その理由はステレオサウンド 62号に載っている。
「音を描く詩人の死 故・瀬川冬樹氏を偲ぶ」に載っている。
     *
 この前のカラー見開きページに瀬川先生の1972(昭和47)年ごろのリスニングルームの写真がのっている。それを注意ぶかく見られた読者は、JBLのウーファーをおさめた2つのエンクロージュアのあいだに積んである段ボール箱が、アキシオム80のものであることに気づかれただろう。『ステレオサウンド』の創刊号で瀬川先生はこう書かれている。
〝そして現在、わたしのAXIOM80はもとの段ボール箱にしまい込まれ、しばらく陽の目をみていない。けれどこのスピーカーこそわたしが最も惚れた、いや、いまでも惚れ続けたスピーカーのひとつである。いま身辺に余裕ができたら、もう一度、エンクロージュアとアンプにモノーラル時代の体験を生かして、再びあの頃の音を再現したいと考えてもいる。〟
 そして昨年の春に書かれた、あの先生のエッセイでも、こう書かれているのだ。〝ディテールのどこまでも明晰に聴こえることの快さを教えてくれたアンプがJBLであれば、スピーカーは私にとってイギリス・グッドマンのアキシオム80だったかもしれない。
 そして、これは非常に大切なことだがその両者とも、ディテールをここまで繊細に再現しておきながら、全体の構築が確かであった。それだからこそ、細かな音のどこまでも鮮明に聴こえることが快かったのだと思う。細かな音を鳴らす、というだけのことであれば、これら以外にも、そしてこれら以前にも、さまざまなオーディオ機器はあった。けれど、全景を確かに形造っておいた上で、その中にどこまでも細やかさを追及してゆく、という鳴らし方をするオーディオパーツは、決して多くはない。そして、そういう形でディテールの再現される快さを一旦体験してしまうと、もう後に戻る気持にはなれないものである。〟
 現実のアキシオム80の音を先生は約20年間、聴いておられなかったはずである。すくなくとも、ご自分のアキシオム80については……。
 それでも、その原稿をいただいた時点で先生は8個のアキシオム80を大切に持っておられた。
 これは、アンブの特集だった。先生も、すくなくとも文章のうえでは、JBLのアンプのことを述べられるにあたって引きあいにだされるだけ、というかたちで、アキシオム80に触れられただけだった。
 でも……いまでも説明できないような気持につきうごかされて、編集担当者のMは、そのアキシオム80の写真を撮って大きくのせたい、と思った。
 カメラの前にセットされたアキシオム80は、この20年間鳴らされたことのないスピーカーだった。
〈先生は、どんなにか、これを鳴らしてみたいのだろうな〉と思いながら見たせいか、アキシオム80も〈鳴らしてください、ふたたびあのときのように……〉と、瀬川先生に呼びかけているように見えた。
     *
62号にもAXIOM 80の同じ写真が載っている。
62号を読んで、あのAXIOM 80が瀬川先生のモノだったことを知る。

Date: 9月 8th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その9)

昨夜(9月7日)のaudio sharing例会に来てくれた常連のAさん。
facebookに、「いい気づきを今回もいただきました」と投稿されていた。

人によるだろうが、私は「今日はいい音でした」といわれるよりも、
Aさんのように言ってくれる方を嬉しく思う。

気づき、発見、再発見。
私がオーディオ雑誌、オーディオ評論に望んでいるものである。

何を望むのか、求めるのかは人によって違うものだ。
オーディオ雑誌、オーディオ評論に、結果(答)を求める人もいよう。

そういう人にとっては、ベストバイやステレオサウンド・グランプリといった点数づけ、
権威づけに直接つながっていく賞がおもしろい、ということになるのだろう。

いま書店に並んでいるステレオサウンド 200号。
まだ見ていないが、ステレオサウンドのサイトでは、
特集は「誌面を飾った名スピーカー200選」とある。

見てなくとも、おおよその構成は想像できる。
大きく外れてはいないという自信もある。

選ばれている200のスピーカーについて、
オーディオ評論家と呼ばれている人たちが、それぞれに担当して書いているのだろう。
以前の「世界の一流品」や「ステート・オブ・ジ・アート」と同じ構成のはずだ。

「世界の一流品」や「ステート・オブ・ジ・アート」では、そういうやり方でもいいが、
今回は200号記念特集、つまり創刊50周年の記念特集であるわけだ。

ここで私が求めたいのは、50年を俯瞰しての読みものである。
つまりオーディオの系譜、スピーカーの系譜といったことを求めたいし、読みたい。

この「系譜」について、200号では語られているのだろうか。
ないような気がする。

私がこの項のタイトルを、「ヴィソニック David 50のこと」とせずに、
「瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50)」とした意図は、そこにある。

Date: 9月 7th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その8)

エラックのCL310とヴィソニックのDavid 50とに、いくつかの共通点を挙げることができるからといって、
CL310をDavid 50の系譜に置くのは間違っている、もしくはこじつけ、強引なこと──、
私はそうは思っていない。

CL310は奥行きこそ長いが、ミニスピーカーといえるサイズで、
驚く音を聴かせる。
知人宅でCL310のAudio Editonを聴いて、心底驚いたことをいまもはっきりと思い出せる。

ミニサイズなのに音量が出せる──、低音が出る──、
そういったレベルではなく、そこでのエネルギーの再現性に驚いた。

CL310以前にも小型スピーカーで驚く製品はいくつもあった。
セレッションのSL6(SL600)、アコースティックエナジーのAE2などがあった。
それぞれに驚かされる面をもっていたけれど、
CL310ほどエネルギーの再現性に優れていたとは思えない。

AE2の方がCL310よりも最大出力音圧レベルはとれるかもしれないが、
ホーン型に一脈通ずるようなエネルギーの再現性は、AE2には感じず、CL310にだけ感じたものだった。

そういうCL310だけに、セカンドスピーカー、サブスピーカーという捉え方からは完全に脱している。
David 50はセカンドスピーカー、と書いているではないか。
そう思われるであろう。

でもヴィソニックがDavidシリーズで目指していたのは、良質のセカンドスピーカーではないはず。
David(ダヴィッド)の名は、巨人ゴリアテを見事に倒したダヴィデから名づけられているからだ。

ヴィソニックのエンジニアが目指していたCL310の領域にあった、と私は思っているし、
瀬川先生がCL310を聴かれていたら、どう書かれるかを想像するに、
ヴィソニックの系譜に沿って書かれた可能性があった、と思う。

Date: 9月 6th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その7)

ヴィソニックのDavid 50の外形寸法はW10.7×H17.0×D10.3cm、
David 502はW10.3×H17.0×D10.7cm。わずかな違いはあるが、同じといっていい。

エラックのCL310はW12.3×H20.8×D128.2cmである。
奥行きが三倍近くあるが、横幅と高さはDavid 50に近い。
ユニットもウーファーは11.5cm口径、トゥイーターはAMTの2ウェイ構成。

エンクロージュアの横幅はDavid 50同様、ウーファー口径よりもわずかに大きいだけである。
David 50もCL310もフロントバッフルいっぱいにユニットがある。
バッフルの余白はどちらもあまりない。

それからCL310のエンクロージュアのアルミ製である。
ここも同じである。

ヴィソニックもエラックもドイツのメーカーである。

CL310を最初に目にしたとき、David 50の系譜だと思った。
David 50は1976年に登場している。CL310は1998年である。
20年の開きが、David 50の系譜を、ここまで進化させたのか、と音を聴いて思っていた。

価格も違う。
David 50は67,600円(二本)、David 502は60,000円(二本)、
CL310は260,000円(二本)である。

それでもCL310は、David 50の系譜だ、と感じていた。

Date: 9月 5th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その6)

ヴィソニックのDavid 50の系譜は、David 502、David 5000と続いていく。
日本ではDavid 5000で途切れてしまった感があるが、
David 5001まで続き、いまも購入可能(のようだ)。
ただしドイツ製なのかどうかは不明。

David 502のころに専用のサブウーファーSUB1が出てきた。
30cm口径ウーファーで、300Hzのカットオフ周波数のネットワークを内蔵していた。
重量は36kg。これを加えれば、低域の拡充が実現する。
ただしSUB1の価格は20万円だった。
David 502が一本3万円の時にである。

David 5000と同時期に、B&OからBeovox C75が登場した。
Beovox C75といっても、どんなスピーカーだったのか、思い浮べられる人は少ないだろう。
Beovox C75は、CX100のひとつ前のモデルである。

エンクロージュアの形状、材質も同じ。
ユニット構成もBeovox C75とCX100は同じである。

Beovox C75は一度も聴いていない。
CX100と同じ音だったのだろうか。
だとしたら、なぜ型番を大きく変更したのかだろうか、と思ってしまう。

瀬川先生はBeovox C75は聴かれていないのだろうか。
瀬川先生はCX100をどう評価されただろうか。

こんなことを考えながら、David 50のもうひとつの系譜といえるスピーカーのことを思い浮べている。
エラックのCL310である。

Date: 9月 5th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その5)

B&OのCX100を聴いてDavid 50のことを思い出した──、と書いた。
David 50のことを思い出すとともに、
あの時David 50という選択肢もあったのに……、とも思っていた。

私にとって最初ステレオサウンドとなったのは41号と「コンポーネントステレオの世界 ’77」である。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」に、David 50は登場している。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」では組合せの一冊で、
メインとなる組合せ記事のあとに、
ひとつの組合せ2ページで、30の組合せを紹介したページがある。
そこにDavid 50は登場している。

David 50の組合せは、もちろん瀬川先生。
アンプはサンスイのAU607、アナログプレーヤーはテクニクスのSL01。
カートリッジはオルトフォンのVMS20Eだ。

David 50が黒で、AU607、SL01も黒。
David 50はミニスピーカー、
SL01はミニとまでいえないが、ぎりぎりまで寸法をおさえたモデル。
組合せ合計は、244,400円。

チューナーは含まれてないが、AU607とペアになるTU707(54,800円)を加えても、
30万円を超えない組合せだった。

いまでもいい組合せだと思う。
CX100を聴いて、David 50を思い出した約30年前も、そう思っていた。
David 50の組合せそのままでも良かったのではないか、
むしろこちらのほうが良かったのではないか……、
思ってもどうにもならないことを思い出していた。

当時David 50を聴く機会があったら……、
そうも思っていた。
David 50のサイズ、それに瀬川先生も記事の中でセカンドスピーカーと語られている。
ここがひっかかっていたのだろう、いまにして思えば。

でも続けて、
《このスピーカーは小さいながらも10センチウーファーとドーム型トゥイーターの2ウェイで、音のつながりとバランスがとてもいいんです。低音のスケール感さえ望まなければ、中音以上の音のクォリティやバランスのよさ、指向性のよさについては第一級のスピーカーと比べても決してひけをとりませんね。》
と語られている。

David 50を最初に買う。
次のグレードアップとしてウーファーを追加する。
そういう楽しみ、発展の仕方もあったのに気づかなかった。

あの時は若かった(幼かった)のだ。
CX100の音は、そんなことさえ思わせた。

Date: 8月 29th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その4)

瀬川先生がいわれていたことを、
David 50、CX100について書いているとどうしても思い出してしまう。

音楽を聴くとき、常に左右のスピーカーから等距離のところ、
つまりセンターで聴いているわけではない、と。
身構えずに音楽を楽しみたいとき、音と対峙するような聴き方をしたくないときは、
オフセンターで聴くこともけっこうある、と。

オーディオで音楽を聴くときは、いつかなるときでも、スピーカー(音)と対峙して聴く──、
そういう人もいるかもしれないが、
音楽に身をまかせるような聴き方もあっていいし、
そういう聴き方をすることはある。

だからといって、何かをしながら音楽を聴くようなことをしているのではない。

ステレオサウンドベ雜「コンポーネントステレオの世界 ’79」でも、書かれている。
     *
 言いかえればそれは、ことさらに身構えずに音楽が楽しめそうだ、という感じである。ミニアンプ(を含む超小型システム)は、誰の目にも、おそらくそう映る。実際に鳴ってくる音は、そうした予感よりもはるかに立派ではあるけれど、しかしすでに大型の音質本位のアンプを聴いているマニアには、視覚的なイメージを別として音だけ聴いてもやはり、これは構えて聴く音ではないことがわかる。そして、どんな凝り性のオーディオ(またはレコード)の愛好家でも、身構えないで何となく身をまかせる音楽や、そういう鳴り方あるいはそういうたたずまいをみせる装置を、心の片隅では求めている。ミニアンプは、オーディオやレコードに入れあげた人間の、そういう部分に訴えかけてくる魅力を持っている。
     *
身構えずに好きな音楽を聴きたい、そう思って聴きはじめる。
聴きはじめのときは、耳の位置は臍より後にある。
けれど聴いているうちに、臍より前にあることだってある。

そういう時、かけているディスクを、
メインのスピーカーを置いている部屋(もしくはシステム)に持っていくのか。

少なくともヴィソニックのDavid 50、B&OのCX100ならば、
耳が臍よりも前にきたとしても、そのまま聴き続けられるだけの良さを持っている。
ここが、単なるサブスピーカー、ミニスピーカーの領域に留まらない

いつのまにか音楽に聴き入ってしまっている自分に気づくこともある。

Date: 8月 23rd, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その3)

B&Oのスピーカーシステムは、それまでにわずかとはいえ聴いたことがある。
Beovox MS150などを、ステレオサウンド試聴室で聴いている。
惚れ込むまではいかなかった。

B&Oはデンマークのメーカー。
でもそのスピーカーの音に、北欧的なものを感じることはできなかった。
同じトランスデューサーでもカートリッジのMMCシリーズの方が、
なるほどB&Oは北欧のメーカーなんだ、ということを認識させてくれていた。

MMCシリーズの音を、無意識にBeovoxシリーズにも期待していたのだろう。
勝手な期待とは違う音が出てきただけのこと、ともいえよう。

そんなことがあったからCX100から、MMCシリーズに通ずる音が鳴ってきたのには、嬉しくなった。
10cm口径のコーン型ウーファーを上下に配し、中間にドーム型トゥイーターをはさむという、
いわゆる仮想同軸配置をとる、このスピーカーのエンクロージュアもまたアルミ製である。

ヴィソニックのDavid 50もアルミ製のエンクロージュアで、10cm口径のウーファー。
しかもエンクロージュアの横幅は、ユニット幅ぎりぎりにおさめられている。

LS3/5Aも10cm口径ウーファーだが、エンクロージュアの横幅は19cm、
CX100は11cmと、David 50も10.7cmとここにも共通するところがある。

それにCX100もDavid 50も、さまざまな使い方に対応できるようブラケットも用意されていた。
壁にかけることもできた。机の上に置くのもいい。

専用スタンド上に置いて、
スピーカー壁から十分に離したセッティングを要求するスピーカーとは、ここが違う。

しかも高価なアンプも要求することもない。
もちろんアンプのグレードを高めていけば、それに対応していくが、
それこそBOSEが101MM用に発売した1701で、魅力的な音が損なわれてしまうことはない。

細やかでいながら、芯のしっかりした音は、David 50と共通するところであろう。

瀬川先生が「続コンポーネントステレオのすすめ」で書かれたことをもう一度引用しておく。
     *
たとえば書斎の片すみ、机の端や本棚のひと隅に、またダイニングルームや寝室に、あまり場所をとらずに置けるような、できるだけ小さなスピーカーが欲しい。しかし小型だからといって妥協せずにほどほどに良い音で聴きたい……。そんな欲求は、音楽の好きな人なら誰でも持っている。
     *
CX100は、まさにぴったりといえたし、そのクォリティは、ほどほどに、というレベルを超えていた。

Date: 8月 23rd, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その2)

ヴィソニックの小型スピーカーというよりも、
ミニスピーカーといった方がぴったりくるサイズのモデルは、
David 30、David 50、David 60、David 80、David 100があった。
ウーファー口径は30と50が10cm、60は13cm、80は17cm、100は20cm。
トゥイーター口径は30と50が1.9cm、60が2.5cm、80と100が3.7cm(スコーカー)と1.9cmで、ドーム型。

エンクロージュアはアルミ製だったはずだ(残念なことに現物を見たことがない)。
ネットもアルミ製だった。

Davidシリーズは30が302に、50が502、60が602、80が803に型番が変更になった。
まずオーバーロードインジケーターが付いた。
おそらくいい音がするものだから、
ついパワーをいれすぎてユニットを飛ばす人が少なかったのだろう。

David 50が502になり、トゥイーターがカタログ上では2.0cmになっている。
クロスオーバー周波数は1.8kHzから1.4kHzに下がっている。

David 50は1976年、David 502は1978年、
1979年にはDavid 5000になり、エンクロージュアの形状も変更になっている。
トゥイーターは2.5cmになり、クロスオーバー周波数は2.5kHzになっている。

このころにはDavidシリーズの他に、Expulsシリーズ(フロアー型)も展開するようになった。

David 50の系譜は聴いてみたかった。
けれど私がステレオサウンドで働くようになったころはまだ現行製品だったが、
セレッションのSL6が登場し、小型スピーカーが大きく変ろうとしていた時期と重なったためか、
どのモデルも聴く機会はなかった。

ステレオサウンド編集部にいると、次から次と新製品に触れる機会がある。
そうこうしているうちにDavid 50のことはすっかり忘れていた。

思い出させてくれたのは、B&OのCX100の登場だった。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その1)

1970年代後半、ミニスピーカーのちょっとしたブームがあった。
アメリカのADC、西ドイツのブラウン、ヴィソニックなどが積極的に製品を出していた。

瀬川先生はヴィソニックのDavid 50を高く評価されていた。
ステレオサウンド別冊「続コンポーネントステレオのすすめ」で、こんなふうに書かれている。
     *
 たとえば書斎の片すみ、机の端や本棚のひと隅に、またダイニングルームや寝室に、あまり場所をとらずに置けるような、できるだけ小さなスピーカーが欲しい。しかし小型だからといって妥協せずにほどほどに良い音で聴きたい……。そんな欲求は、音楽の好きな人なら誰でも持っている。
 スピーカーをおそろしく小さく作った、という実績ではテクニクスのSB30(約18×10×13cm)が最も早い。けれど、音質や耐入力まで含めて、かなり音質にうるさい人をも納得させたのは、西独ヴィソニック社の〝ダヴィッド50〟の出現だった。その後、型番が502と改められ細部が改良され、また最近では5000になって外観も変ったが、約W17×H11×D10センチという小さな外寸からは想像していたよりも、はるかに堂々としてバランスの良い音が鳴り出すのを実際に耳にしたら、誰だってびっくりする。24畳あまりの広いリスニングルームに大型のスピーカーを置いて楽しんでいる私の友人は、その上にダヴィッド50(502)を置いて、知らん顔でこのチビのほうを鳴らして聴かせる。たいていの人が、しばらくのあいだそのことに気がつかないくらいの音がする。
     *
「私の友人」と書かれている。
実際に友人で、そういう人がいたのだろう。
でも、瀬川先生自身もまったく同じことをやられていた、とつい先日ある方から聞いた。

世田谷に建てられたリスニングルームに移られる前のこと。
瀬川先生のリスニングルームをうかがったら、何も言わずに音を聴かせてくれた。
4343とは思えぬ、いい感じで弦の音が鳴ってきた。
帰り際に、種明かしをしてくれたそうだ。

実は鳴っていたのは4343の上に置いているヴィソニックだった、と。
この話をしてくれた人も、ヴィソニックを買ってしまった、とのこと。

ヴィソニック(Visonik)は、2000年代までは小型スピーカー(Davidシリーズ)を出していたが、
いまはヴィソニックというブランドでは作っていないようだ。

www.visonik.deとURLをブラウザーに直接入力してみると、
AUDIUMというスピーカーメーカーのサイトに行くようなっている。
Davidシリーズは、既にない。

Date: 8月 21st, 2016
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その1)

ステレオサウンド 56号、
瀬川先生はロジャースのPM510のところで、書かれている。
     *
 JBLが、どこまでも再生音の限界をきわめてゆく音とすれば、その一方に、ひとつの限定された枠の中で、美しい響きを追求してゆく、こういう音があっていい。組合せをあれこれと変えてゆくうちに、結局、EMT927、レヴィンソンLNP2L、スチューダーA68、それにPM510という形になって(ほんとうはここでルボックスA740をぜひとも比較したいところだが)、一応のまとまりをみせた。とくにチェロの音色の何という快さ。胴の豊かな響きと倍音のたっぷりした艶やかさに、久々に、バッハの「無伴奏」を、ぼんやり聴きふけってしまった。
     *
ここでのバッハの無伴奏チェロ組曲については、
誰の演奏なのか、それすら書かれていない。

ステレオサウンド 58号。
EMT・927Dstとトーレンスのリファレンスの比較試聴で、書かれている。
     *
 しかし、PM510にしたときに、明らかに印象に残るのは、やはり弦楽器の音の美しさだ。ことにこのスピーカーは、チェロの音がいい。わけても、チェロ特有の豊かで温かい低音に支えられてあくまでも艶っぽく唱う倍音の色あい。「リファレンス」では、その倍音の透明感、ひろがり、漂い、消えてゆく余韻のデリカシーに、思わず聴き惚れるような雰囲気の良さがある。しかし反面、チェロという楽器がまさしく眼の前で演奏されているかのような実在感、あの大きな木の胴体が朗々と響くところから得られる中低音域のふくよかさ。あたたかさ。その部分にこそ、927Dstの素晴らしさが如才なく発揮される。
 そのことから、ヴァイオリンは「リファレンス」、チェロは927……などと思わず口走りたくなるような気さえする。
     *
ここにもチェロが出てくる。
この記事では試聴機材について表記があるが、
試聴レコードについては一切ない。

ここでのチェロも、バッハの無伴奏なのだろうか。
そうだとも思える。

だとしたら、瀬川先生はPM510でぼんやり聴きふけってしまった、というバッハは、
いったい誰の演奏だったのかが、気になってくる。

59号は1979年に出ている。
なのである程度限られてくる。

カザルス、フルニエ、シュタルケル、ナヴァラといったところ。
瀬川先生が、これらすべてをもっておられたとして、
どの演奏を聴かれたのだろうか。

カザルスではないように思える。
シュタルケルも、PM510の音の性格からすると、少し違う気もする。
なるとフルニエかナヴァラか。

フルニエかな、と思う……、
けれどナヴァラかもしれない、という気持もかなり強い。

誰の無伴奏チェロ組曲に、ぼんやり聴きふけられたのだろうか。

Date: 8月 2nd, 2016
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その15)

グッドマンAXIOM 80からJBLへ。
岩崎先生も瀬川先生も、この途をたどられている。

岩崎先生はAXIOM 80からD130へ、
瀬川先生は175DLHへ。

そう思っていた。
瀬川先生がD130を鳴らされていたことを想像できなかったことが、
そう思わせた、ともいえる。

けれど瀬川先生もD130を鳴らされていた時期があった。
その話を、元サンスイのNさんから聞いたのは何年前になるだろうか。

とても意外な気がした。あまりにも意外だったので「ほんとうですか?」といってしまった。
冷静になって瀬川先生が書かれたものをふりかえってみれば、
D130を鳴らされていても不思議ではないことにも気づく。

たとえばステレオサウンド 9号ではこう書かれている。
     *
 LE15Aに変えたとき、それまで間に合わせに使っていた国産15インチにくらべて、大口径とは思えないそのあまりにも軽やかな中音域にすっかり感心したものだったが、そこがマニアの業の悲しさ、すでに製造中止になった150−4型ウーファーの方が、375ともっとよく音色が合うのではないかと、つい思いはじめる。しかも150−4を最もよく生かすエンクロージュアは、これも製造中止になった〝ハーツフィールド〟のはずだ……。
     *
瀬川先生のハーツフィールドへの憧れは、
ハーツフィールドの当て字のペンネーム、芳津翻人(よしづはると)を使われていたことでもわかる。
ステレオサウンド 9号には、こんなことも続けて書かれている。
     *
何年かかるか知らないが、なんとか手段を労して、いつかわがものにしてみたいと企んでいるが、はたせるかどうか。現用の箱をいま無理してオリムパスあたりに代えてしまうと、〝ハーツフィールド〟入手の努力も鈍るだろうから、その意味では、今の箱でもうしはらく我慢している方がいい。ものは考えようというわけだ。
     *
結局、ハーツフィールドは瀬川先生にとって求める音でないことを悟られる。
とはいえ、ここまでハーツフィールドに憧れていた人で、
150-4についても上記のように書かれているのだから、D130に関心を持たないわけがない。
そのことに気づく。

Date: 7月 26th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ステレオサウンド 61号・その5)

あと一ヵ月とちょっとでステレオサウンド 200号が出る。
瀬川先生が登場しているのは60号までである。
1/3にも満たない。

いまのステレオサウンドの中心読者層にとって、
瀬川先生はどうでもいい存在であっても不思議ではない。
ということはステレオサウンド編集部もそうであっても不思議ではないし、
いまの誌面をみるかぎり、そうであろうと思う。

しつこいぐらいに書くが、
瀬川冬樹について誰よりも解っていなければならないのは、
ステレオサウンドの編集に関わっている人たちだ。
編集部であり、筆者である。
だから解るべきであり、解るために瀬川冬樹賞が必要だと考えるわけだ。
本来ならば解らせる立場にいるべき人たちなのに……だ。

ステレオサウンド編集部、筆者のために瀬川冬樹賞は必要になっている。
もちろん名ばかりの瀬川冬樹賞ではあっては、そうはならないことは自明だ。

編集部も筆者も新陳代謝していくと書いた。
だから、何年後か、何十年後かに編集部、筆者が瀬川冬樹賞の必要性に気づく日がくるかもしれない。
その日を俟っていたら……、とどうしても思う。

それに創刊50周年の今年こそ、瀬川冬樹賞をはじめるあたって絶好の年ではないか。

Date: 7月 25th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ステレオサウンド 61号・その4)

昨夏、瀬川冬樹賞があるべきではないか、と書いた。
ステレオサウンドに、これだけは期待したい。

創刊50周年を迎えるということは、つぎの50年のために……を考えることでもある。
だからこそ瀬川冬樹賞を本気で考えてほしい。

ステレオサウンドがオーディオ評論を真剣に考えているのであれば、
瀬川冬樹賞がどうあるべきかもわかるはずである。

昨夏までは、そう考えていた。
いまは少し違ってきた。

この項の(その1)にも書いた。
菅野先生の書かれたものをもう一度じっくり読み返してほしい。

《彼の死のあまりの孤独さと、どうしょうもない世間馬鹿のこの才能豊かな一人の人間の生き様は、多くの人達には解るまい。もし解っていたら、世の中、もっとよくなっているはずだ。》

瀬川冬樹という《どうしょうもない世間馬鹿のこの才能豊かな一人の人間の生き様》を解るためにも、
瀬川冬樹賞は必要だと考えるようになった。

瀬川冬樹賞によって、瀬川先生を解っていくことが、オーディオ界をよくしていくことのはずだからだ。

いまのステレオサウンドにそれを期待するのは無理だろう、と思う人の方が多いはず。
私もその一人だが、そう思っているからこそ、瀬川冬樹賞をやるべきだと考えている。