Archive for category 瀬川冬樹

Date: 6月 16th, 2014
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(こういう面も……)

瀬川先生がずっと以前はアンプ作りをされていたことは何度か書いているし、
古くからのオーディオマニアの方ならば、ラジオ技術に掲載された記事を読まれた方もいるだろう。

ラジオ技術の5月号には、瀬川先生のアンプ製作記事が復刻ページとして載っている。

ステレオサウンド 9号の第二特集として「オーディオの難問に答えて」が載っている。
ある読者の、改良したはずが改悪になっていないだろうか、という質問に瀬川先生が答えられている。
この読者は瀬川先生がラジオ技術に発表されたマランツのModel 7タイプのコントロールアンプを使っている。

瀬川先生の回答はこうだ。
     *
まずイコライザー回路ですが(「ラジオ技術」65年1月号)、あるの回路は、ぼくの悪いアマノジャク根性から、実は2〜3の陥し穴を、わざとこしらえてあるのです。たとえばイコライザーの定数は、あの数値ではRIAAカーブに乗りません。あなたは怒るかもしれないが、ぼくにしてみればイコライザーの定数ミスを発見できない人には、あの回路を作ってもどうせうまくいかないという気持(意地悪根性は重ねてお詫びします)があるのです。
     *
これを読んでの反応はさまざまかもしれない。

この時代、アンプを作るということは、そういうことでもあった。
そういうことがどういうことであるのかは、人それぞれなのかもしれない。

Date: 6月 15th, 2014
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その29)

ガリバーが小人の国のオーケストラを聴いている──、
こんなイメージに必要なのは、自分(ガリバー)が小人よりも大きいと意識できるかどうかであり、
実際に小人のオーケストラを聴いたことがあるわけではないが、
それでも想像できるのは目、耳と同じ高さに小人のオーケストラがあるよりも、
やはり下に位置した方が、より自分の大きさ(相手の小ささ)を意識できるのではないのか。

20代のある時期、私もLS3/5Aを鳴らしていたことがある。
あくまでもサブスピーカーとしてだったから、専用スタンドを用意することはなかった。
聴きたくなったら、何かの台にのせて鳴らしていた。
その台は、LS3/5A用として売られていたスピーカースタンドよりも低いもので、
LS3/5Aを斜め上から見下ろす感じで聴いていた。

そのせいか、いまでも小型スピーカーをごくひっそりとした音量で鳴らす時は、
こんなふうにして聴くことが多い。

ここでもう一度瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」の冒頭を読み返してみよう。
こうある。
     *
このゴミゴミした街が、それを全体としてみればどことなくやはりこの街自体のひとつの色に統一されて、いわば不協和音で作られた交響曲のような魅力をさえ感じる。そうした全体を感じながら、再び私の双眼鏡は、目についた何かを拡大し、ディテールを発見しにゆく。
     *
全体を感じながら、目についた何かを拡大し、ディテールを発見しにゆく、とある。
この聴き方こそ、瀬川先生の聴き方ななのかもしれない。

何かを拡大する──、そういう聴き方に向いているといえるのは、JBLだったといえないだろうか。

Date: 6月 13th, 2014
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その28)

音楽之友社が毎年出していた「ステレオのすべて」。
瀬川先生は、山中先生のリスニングルームに行きエレクトロボイスのパトリシアンを見るたびに、
横に倒したくなる──、そんなことを発言されている。

何もパトリシアンを横置きにしたほうが音が良くなる、という理由ではなく、
瀬川先生はとにかく背の高いスピーカーをダメだった。嫌われていた。
ただそれだけの理由でパトリシアンを横にしたくなる、ということだった。

その点、パラゴンは問題ない。

それは音に関してではなく、あくまで見たイメージの問題としてなのだが、
なぜ瀬川先生は背の高いスピーカーがダメだったのか。

いまとなっては、その理由はわからない。
ただ、瀬川先生が比較的小音量で聴かれることも、無関係ではないように思う。

ガリバーが小人の国のオーケストラを聴く。
このときオーケストラはガリバーの耳と同じ高さにあるのではなく、
下に位置するイメージを、私は描く。

瀬川先生が、小人の国のオーケストラ……、という発言をされたとき、
小人の国のオーケストラと聴き手の高さ方面の位置関係は、どう描かれていたのか。

瀬川先生が背の高いスピーカーを嫌われていることが、自然と結びついてくる。
小人の国のオーケストラを、斜め上から聴いている──、
私には、瀬川先生もそうだったのではないか、と思えてならない。

「いま、いい音のアンプがほしい」の書き出し。
目黒のマンションの十階からの眺め。
ここを読んでいるからなおさらである。

Date: 6月 10th, 2014
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その27)

ビッグバンド系のレコードではそれほど大きな音量にしない、と発言されている岩崎先生も、
以前は、かなりの大音量でビッグバンドのレコードも聴いていた、とある。

油井正一氏がこんなことを発言されている。
     *
大きな音量で聴くカウント・ベイシーがまた、なんともいえずよかった。それでぼくは、実際に聴いたらどんなに大きなボリュームでやるんだろうと思って出かけたら、意外にも想像してた音量の三分の一ぐらい。そのときぼくは2階のうしろのほうの席で聴いていたんだけど、これはいけないと思って1階におりて前のほうに行ったら、だいたい自分の部屋で聴いているくらいのボリュームになったんです。これにはびっくりしましたね。
     *
1960年代はじめのころの話である。
これを受けて岩崎先生はデューク・エリントン楽団で感じた、と言われている。
     *
実際のコンサートで聴いてみると、きわめてさわやかで、スカッとしていて、音量感なんてないんですね。一生懸命にやっていても、とても静かなんですよ。それでぼくは、同じジャズといっても、バンド・サウンドというものは、全体の音としては決してそんなに大きくないんだということを知ったわけです。
だからジャズというものは、ある程度音を大きくして聴く必要があるとは思いますが、楽団や演奏スタイルの性格によって、そこに時国漢の差があるということですね。
     *
この発言の数ヵ月後にパラゴンを手に入れられているわけだから、
ピアノ・ソロ、ピアノ・トリオといった小編成はかなりの音量で聴かれていたのだろうが、
ビッグバンドとなると、意外にも大きな音量ではなかったようにも考えられる。

岩崎先生もパラゴンの反射板をスクリーンとして捉えられていたのだろうか。

Date: 6月 9th, 2014
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その26)

私の偏見かもしれないが、日本のオーディオマニアには、
パラゴンは大音量で聴いてこそ映えるスピーカーだ、と思っている人が少なくない、と思う。

それも仕方ないことかもしれない。
1970年代、無線と実験には見開き2ページで、毎号、全国のジャズ喫茶を紹介するページがあった。
私が無線と実験を読みはじめたのは、1977年ごろだから、この記事をそれほど多く見ていたわけではないが、
それでもパラゴンを使っていることは多い、という印象は持っていた。

そして日本では岩崎先生がパラゴンの使い手・鳴らし手として知られていた。
岩崎先生は大音量ということで知られていた。
パラゴンは、岩崎先生のメインスピーカーのひとつだから、
誰もがパラゴンは大音量で鳴らされていた、と思っていても不思議ではない。

私もそう思っていたひとりだった。

だが「コンポーネントステレオの世界 ’75」に掲載された、
岩崎千明、黒田恭一、油井正一の三氏による「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」で、
岩崎先生の、こんな発言がある。
     *
ジャズの場合でも、ビッグ・バンド系のものはクラシックと同じようなことがいえると思いますね。だからぼくは、おかしな話しなんだけど人数が多いときはそれほど音量を大きくしなくて、人数が少なくなければなるほど音量は大きくなるんです(笑い)。
     *
岩崎先生がパラゴンを導入されたのは1975年夏のはずだから、
この鼎談の時は、まだである。

Date: 6月 9th, 2014
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その25)

パラゴン中央のゆるやかに湾曲した反射板。
ここに両端に位置する中音域を受け持つ375ドライバー+H5038Pホーンが向けられている。
375が受け持つ帯域は、パラゴンのクロスオーバー周波数は500Hzと7kHzだから約4オクターヴ。

これらのことからいえるのは、この反射板はスクリーンに相当している、ということ。
つまり375+H5038Pはプロジェクターともいえる。

このスクリーンの横幅は湾曲した状態で約160cm、高さは約70cm。
それほど大きなスクリーンではない。
むしろ寸法だけみていると、小さなスクリーンでもある。

この木製の音響的スクリーンに、両脇の375+H5038Pから映写(放射)される音により音像が結ぶ──。
と考えていくと、パラゴンというスピーカーシステムは、
確かに大型だし、搭載されているユニットもかなりの音圧が確保できるものではあるけれど、
実のところ、それほど大きな音量で聴くスピーカーなのだろうか、と思えてくる。

パラゴンの反射板(スクリーン)はさほど大きくない。
ここにオーケストラを映し出す。
それは意外にも小さな(つまり縮小した)オーケストラである。

しかもパラゴンは前述したように、椅子に坐って聴く場合の耳の位置はどこにあるのか。
パラゴンのスクリーンの大きさ(横幅と高さ)、それが位置するところ、そして聴き手の耳の位置、
これらの関係をみていくと、ガリバーが小人のオーケストラを聴いているイメージが浮んでくる。

Date: 6月 9th, 2014
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その24)

そして「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の巻頭「いま、いい音のアンプがほしい」だ。
     *
 二ヶ月ほど前から、都内のある高層マンションの10階に部屋を借りて住んでいる。すぐ下には公園があって、テニスコートやプールがある。いまはまだ水の季節ではないが、桜の花が満開の暖い日には、テニスコートは若い人たちでいっぱいになる。10階から見下したのでは、人の顔はマッチ棒の頭よりも小さくみえて、表情などはとてもわからないが、思い思いのテニスウェアに身を包んだ若い女性が集まったりしていると、つい、覗き趣味が頭をもたげて、ニコンの8×24の双眼鏡を持出して、美人かな? などと眺めてみたりする。
 公園の向うの河の水は澱んでいて、暖かさの急に増したこのところ、そばを歩くとぷうんと溝泥の匂いが鼻をつくが、10階まではさすがに上ってこない。河の向うはビル街になり、車の往来の音は四六時中にぎやかだ。
 そうした街のあちこちに、双眼鏡を向けていると、そのたびに、あんな建物があったのだろうか。見馴れたビルのあんなところに、あんな看板がついていたのだっけ……。仕事の手を休めた折に、何となく街を眺め、眺めるたびに何か発見して、私は少しも飽きない。
 高いところから街を眺めるのは昔から好きだった。そして私は都会のゴミゴミした街並みを眺めるのが好きだ。ビルとビルの谷間を歩いてくる人の姿。立話をしている人と人。あんなところを犬が歩いてゆく。とんかつ屋の看板を双眼鏡で拡大してみると電話番号が読める。あの電話にかけたら、出前をしてくれるのだろうか、などと考える。考えながら、このゴミゴミした街が、それを全体としてみればどことなくやはりこの街自体のひとつの色に統一されて、いわば不協和音で作られた交響曲のような魅力をさえ感じる。そうした全体を感じながら、再び私の双眼鏡は、目についた何かを拡大し、ディテールを発見しにゆく。
 高いところから風景を眺望する楽しさは、なにも私ひとりの趣味ではないと思うが、しかし、全体を見通しながらそれと同じ比重で、あるいはときとして全体以上に、部分の、ディテールの一層細かく鮮明に見えることを求めるのは、もしかすると私個人の特性のひとつであるかもしれない。
     *
いま、ここに思い至ったとき、
これまで読んできた瀬川先生の書かれたものとそれに関する記憶が、
D44000 Paragonとそのイメージとにしっかりと結びついていく。

Date: 6月 9th, 2014
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その23)

「コンポーネントステレオの世界 ’75」の鼎談は、かなり長い。そして読みごたえがある。
ただ長いだけではないからだ。

もう30年以上前の別冊だから持っていない人も少なくない。
私も、ステレオサウンド 61号の岡先生の書かれたものを読むまでは、この鼎談のことをくわしくは知らなかった。

いまは約一年前にでた「良い音とは、良いスピーカーとは?」で読める。

今回引用したいのは、鼎談の最後のほう、
瀬川先生の発言だ。
《荒唐無稽なたとえですが、自分がガリバーになって、小人の国のオーケストラの演奏を聴いているというようにはお考えになりませんか。》

これに対し、岡先生は「そういうことは夢にも思わなかった」と答えられ、
そこから岡先生との議論が続く。

瀬川先生はステレオサウンド 51号で、このことに少し触れられている。
前号から始まった連載「ひろがり溶けあう響きを求めて」の中に出てくる。
     *
 かつて岡俊雄、黒田恭一両氏とわたくしとの鼎談「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」(本誌別冊〝コンポーネントの世界〟’75)の中で、自分がガリバーになって小人の国のオーケストラを聴く感じが音の再生の方法の中にある、というわたくしの発言に対して、岡、黒田両氏が、そんな発想は思いもよらなかった、と驚かれるシーンがある(同誌P106~107)。ここでの発言の真意はその前後の話の筋道を知って頂かないと誤解を招きやすいが、少なくともわたくし自身、たとえば夜更けて音量を落して聴くときのオーケストラの音楽を、小人の演奏を聴くガリバーの心境で、あるいは精密な箱庭を眺める気持で受けとめていたことは確かだった。
     *
できればこの鼎談は全部読んでほしい。

Date: 6月 8th, 2014
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その22)

「コンポーネントステレオの世界 ’75」の鼎談とは、
岡俊雄、黒田恭一、瀬川冬樹の三氏で、
「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」というテーマで語られたもの。

岡、黒田、瀬川の三氏はクラシックに関して、で、
同じテーマでジャズについての鼎談も載っている。
こちらは岩崎千明、黒田恭一、油井正一の三氏。

この鼎談について、岡先生が後年書かれている。
ステレオサウンド 61号に、それは載っている。
     *
 白状すると、瀬川さんとぼくとは音楽の好みも音の好みも全くちがっている。お互いにそれを承知しながら相手を理解しあっていたといえる。だから、あえて、挑発的な発言をすると、瀬川さんはにやりと笑って、「お言葉をかえすようですが……」と反論をはじめる。それで、ひと頃、〝お言葉をかえす〟が大はやりしたことがあった。
 瀬川さんとそういう議論をはじめると、平行線をたどって、いつまでたってもケリがつかない。しかし、喧嘩と論争はちがうということを読みとっていただけない読者の方には、二人はまったく仲が悪い、と思われてしまうようだ。
 とくに一九七五年の「コンポーネントステレオの世界」で黒田恭一さんを交えた座談会では、徹底的に意見が合わなかった。近来あんなおもしろい座談会はなかったといってくれた人が何人かいたけれど、そういうのは、瀬川冬樹と岡俊雄をよく知っているひとたちだった。
     *
この文章を引用するためにステレオサウンド 61号をひっぱりだしてきた。
引用する前に、読みなおしていた……。

Date: 6月 8th, 2014
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その21)

パラゴンは背の高いスピーカーシステムではなく、
独特のユニット配置からしてもいえるのは、むしろ背の低いスピーカーシステムであるということだ。

ウーファー、スコーカー、トゥイーター、これらのうち二つのユニットの中心は同じ高さに位置していて、
トゥイーターのみがやや高いところに取り付けてある。
このことから連想するのは、LS3/5Aのことであり、
瀬川先生のLS3/5Aの聴き方のことである。

ステレオサウンド 43号で、
《左右のスピーカーと自分の関係が正三角形を形造る、いわゆるステレオのスピーカーセッティングを正しく守らないと、このスピーカーの鳴らす世界の価値は半減するかもしれない。そうして聴くと、眼前に広々としたステレオの空間が現出し、その中で楽器や歌手の位置が薄気味悪いほどシャープに定位する。》
と書かれている。

この「薄気味悪いほどシャープに定位する」のは、ミニチュアライズされたものである。
《あたかも眼前に精巧なミニチュアのステージが展開するかのように、音の定位やひろがりや奥行きが、すばらしく自然に正確に、しかも美しい響きをともなって聴こえる》(ステレオサウンド 45号)
《このスピーカーの特徴は、総体にミニチュアライズされた音の響きの美しさにある》(ステレオサウンド 46号)

瀬川先生がLS3/5Aについて書かれたことと、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’75」に掲載されている鼎談で述べられていること、
このふたつは切り離せないことであり、
それらのこととパラゴンを瀬川先生が59号で「欲しいなあ」と結ばれていること、
さらにステレオサウンド別冊「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の巻頭
「いま、いい音のアンプがほしい」の書き出し、
私の中では、すべてつながっている。

Date: 6月 8th, 2014
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その20)

JBLのD4400 Paragonは、実に堂々とした美しさにをもつ。
重量は316kg。
(時期によっては318.4kgと記載されている。それにJBLのスピーカーユニットと同じように、
コンシューマー用スピーカーだから梱包時の重量のはずである。)

通常のスピーカーシステムが左右チャンネルで独立したエンクロージュアを持つのに対し、
パラゴンは一体化されたエンクロージュアにしても、約300kgの重量は、
このスピーカーの「スケール」を十分に伝えてくれる。

パラゴンの横幅は263cm。かなりの大きさではあるが、
通常のスピーカーシステムを十分な間隔をあけて設置すれば、このくらいの幅は必要となる。

パラゴンの奥行きは74cm。低音部のホーン構造を考えるとこの奥行きは奥に長い、とはいえない。
74cmほどの奥行きのスピーカーシステムは、他にもある。

小さいとはいわないけれど、パラゴンは六畳間におさめようと思えば収まらないサイズではない。

しかもパラゴンの高さは、脚を含めて90cmと、わりと低い。
つまり椅子に坐って聴けば、パラゴンは聴き手の耳よりも低い。

パラゴンの湾曲したウッドパネルを聴き手の真正面にもってくるには、
パラゴンをぐっと持ち上げるか、聴き手が床に直に坐って聴くことになる。

Date: 3月 31st, 2014
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹という変奏曲(その5)

ステレオサウンド 3号の瀬川先生のアンプの試聴記は、すべてthe Review (in the past)で公開している。
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の「いま、いい音のアンプがほしい」も公開しているし、
2010年11月7日に公開したePUBにも収めている。

ひとつは試聴記という短い文章の集合体、
もうひとつはエッセイというかたちのながい文章。

この違いも、こじつけといわれようと、
グールドの最初のゴールドベルグ変奏曲と1981年再録のゴールドベルグ変奏曲との違いに近いものを感じる。

ステレオサウンド 3号の試聴記を読んでわかること、
「いま、いい音のアンプがほしい」を読んでわかること、
それは瀬川先生がどういう音のアンプを理想のアンプとして求められているかであり、
実のところ、ここに関しては、
ステレオサウンド 3号の1967年と「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の1981年、
ここには14年の歳月があるけれど、なにも変っていないことがわかる。

変ったのは、1967年の瀬川先生は「私はぜひ自分の手で作ってみたい気がする」と書かれているのが、
1981年の瀬川先生は「そんな音のアンプを、果して今後、いつになったら聴くことができるのだろうか」
と書かれていることだ。

Date: 3月 25th, 2014
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹という変奏曲(その4)

グレン・グールドはゴールドベルグ変奏曲の録音でデビューしている。
テンポのはやい、反復を省略したゴールドベルグ変奏曲だった。

グールドはゴールドベルグ変奏曲を1981年にふたたび録音している。
テンポはゆったりとなっている。

1981年のゴールドベルグ変奏曲が、グールドの最後の録音ではないけれど、
最晩年の録音のひとつである。

つまりはグールドの録音は、ゴールドベルグ変奏曲のアリアからはじまり、
1981年のゴールドベルグ変奏曲のアリアが終りをつげている、といえなくもない。

ゴールドベルグ変奏曲のアリアは、録音では始まりのアリアの録音をそのまま終りのアリアに使うこともできる。
こんなことは演奏会ではできない、録音だけが可能にしていることであるわけだが、
聴けばすぐにわかることだが、グールドはそういうことはしていない。

最初のアリアは最後のアリアは、まったく同じではない。
これは1981年の録音でもそうである。

グールドの最初のゴールドベルグ変奏曲のはじまりのアリアと、
1981年録音のゴールドベルグ変奏曲の終りのアリアが、瀬川先生の書かれたものと重なってくる。

ステレオサウンド 3号でのアンプの試聴記が最初のゴールドベルグ変奏曲のアリアと、
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」での「いま、いい音のアンプがほしい」が、
1981年録音のゴールドベルグ変奏曲の終りのアリアと。

Date: 3月 20th, 2014
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹という変奏曲(その3)

ステレオサウンド 3号でのJBLのSG520とSE400Sの瀬川先生の試聴記には、こう書いてある。
     *
マッキントッシュにJBLの透明な分解能が加われば、あるいはJBLにマッキントッシュの豊潤さがあれば申し分ないアンプになる。JBLのすばらしい低域特性は、スピーカーの低域が1オクターブも伸びたような錯覚を起させる。JBLとマッキントッシュの両方の良さを兼ね備えたアンプを、私はぜひ自分の手で作ってみたい気がする。
     *
この試聴記はステレオサウンドで働きはじめたころに読んでいた、はずだった。
読んだ記憶はたしかにある。
けれど、その時には気づかなかったことを、いま気づいている。

《JBLとマッキントッシュの両方の良さを兼ね備えたアンプを、私はぜひ自分の手で作ってみたい気がする。》
とある。

当時、この箇所は読んでいた。
瀬川先生は、このころまではアンプの自作をまだやられるつもりだったのか……、
そのくらいのことしか読みとれなかった。

いまは、この《私はぜひ自分の手で作ってみたい気がする》が、
一気に「いま、いい音のアンプがほしい」にまで飛び、そこと結びつく。

そしておもったのが、私は瀬川冬樹という変奏曲を読んできたのだ、ということだった。
さらにおもったのが、私にとって変奏曲といえば、まず浮ぶのはグールドのゴールドベルグ変奏曲であり、
ゴールドベルグ変奏曲はアリアではじまり、30の変奏曲をはさみ、最後もまたアリアである。

瀬川先生の残されたものを読んでいくと、
アリアではじまりアリアで終るながい変奏曲のようにみえてくる。

こじつけといわれようが、いまの私には、そうみえている。

Date: 3月 16th, 2014
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹という変奏曲(その2)

ステレオサウンド 3号の特集「内外アンプ65機種─総試聴記と選び方 使い方」に登場するアンプには、
いまではメーカーが存在していないモノもある。

こんなメーカーがあったのか、と思うメーカー製のアンプも載っていれば、
いまも名器として評価されているマッキントッシュのC22とMC275、JBLのSG520とSE400S、SA600、
QUADの22とIIなども載っていて、時代の流れによって何が淘汰され、何が語り継がれていくのかを、
時代を遡って実感できた。

マッキントッシュのC22とMC275の瀬川先生の試聴記には、こうある。
     *
こういう音になると、もはや表現の言葉につまってしまう。たとえば、池田圭氏がよく使われる「その音は澄んでいて柔らかく、迫力があって深い」という表現は、一旦このアンプの音を聴いたあとでは至言ともいえるが、しかしまだ言い足りないもどかしさがある。充実して緻密。豊潤かつ精緻である。この豊かで深い味わいは、他の63機種からは得られなかった。
     *
瀬川先生はしばしば透明を澄明と書かれることがある。
ステレオサウンド 3号の、この試聴記を読むと、マッキントッシュの、このペアの音を聴かれたからこそ、
あえて澄明と書かれるのか、と私などはおもってしまう。

池田圭氏の「その音は澄んでいて柔らかく、迫力があって深い」という表現と、
マッキントッシュのC22とMC275の音がもしなかったなら、透明感と書かれていったのかもしれない。