Archive for category 録音

Date: 9月 18th, 2013
Cate: 録音

PCM-D100の登場(その1)

2010年5月8日に、こんなツイートをしている。

《いまのソニーにただひとつ期待しているモノ──。
PCM-M10、PCM-D50ではなく、DSD-M10、DSD-D50といったモノ。
でも、きっと出ないと思っているけど、それでも、ほんのちょっとだけ、もしかすると……とも思っている。》

このとき、ソニーのプロダクト・デザイナーのO氏から、返信があった。
「いつか出します」ということだった。

それに対し、こう書いた。

《目標を明確化し、そこに集中・注力したときのソニーの開発力のすごさで、ぜひ製品化してください。
すごくすごく期待しています。》

本音で期待していた。
あれから一年が経ち、二年が経ち、もうそういうモノはソニーから出てこないのか……、となかばあきらめていた。

ソニーの開発力をもってすれば、こんなに時間がかかるとは思えなかったからだ。

昨日、Twitterを眺めていたら、
ソニーからPCM-D100が出た、とあった。
あの日から、三年以上経っている。
でも、とにかくソニーから出た。

型番からいえば、PCM録音モデルで、DSD録音器ではないのか、と思えそうだが、
PCM録音(24ビット、192kHz)、DSD録音(2.8MHz・1ビット)ともに可能としている。

DSD録音だけであれば、さほど売れなかったかもしれない。
だから、PCM録音とDSD録音、どちらにも対応したのかもしれない。
そのへんの事情は、どうでもいい。

ソニーが、やっと、こういうモノを出してくれたことは、素直に喜びたい。

発売は11月21日、オープン価格(10万円前後になるらしい)。

PCM-D100を買っても、特に録音したいものがない、という人もいると思う。
私だって、PCM-D100を買って、これを録音したい、と決めているものがあるわけではない。
そういう意味では、使用目的を明確にせずに、ということになる。

けれど、こういうモノは、いいな、欲しいな、と少しでも感じたり、思ったりしたら、
そして経済的に余裕があれば、まずは買ってみることだ。
買ってみて、触ってみて、とにかく身近な音から録音してみる。

そこから、何かが始まる予感を、使い手にもたせてくれる、そういうモノだと思っている。
そして、PCM-D100についてこうやって書けることが、素直に嬉しい。

Date: 8月 8th, 2013
Cate: 録音

インバルのマーラー・ツィクルス

エリアフ・インバルのマーラーの交響曲の録音は、
1980年代、デンオンへの録音があり、
四番と五番は録音の良さでかなり話題になったし、
ステレオサウンドの試聴室で、この二枚のマーラーはどれだけの回数再生されただろうか。

四番の録音はワンポイントということで話題になった。
五番はワンポイントではないものの、補助マイクロフォンに対してデジタル信号処理によるディレイをかけて、
メインのマイクロフォンとの時間のズレを補正していることで話題になっていた。

売行きが良かったこともあり、当時登場した金蒸着CDも発売された。
インバルのマーラーをそれほどいいと思っていなかった私だけれど、
金蒸着CDを買ってしまった。

でもしばらくすると聴かなくなっていた。

このインバルのマーラーを、私は高く評価しないけれど、
録音だけでなく、演奏においても高く評価する人が少なくないことは知っていた。

このことに関しては、どちらの耳が確かなのか、といったことよりも、
マーラーの音楽に何を聴き取ろうとしているのかの違いでもあり、
ひとりの人間でも、いろんなマーラーの演奏を求めて聴くわけで、
その範囲がかなり広い人もいれば、そうでない人もいる。

私の場合、その範囲にインバルはひっかかってこなかっただけである。

いまインバルと東京都交響楽団によるマーラー・ツィクルスが始まっていることは、
そんな私でも知っている。
エクストン・レーベルからSACDで出ている。

一番と二番がレコード店の店頭に並んでいる。
一番はワンポイント録音である。

デンオン録音のインバルでも、一番はワンポイントではなかった。
デンオンでのインバルとエクストンでのインバルとのあいだには、約30年の開きがある。

その月日がどう録音に関係してくるのかに、興味がないわけではない。
エクストンでの二番はワンポイントではない。
編成の規模からすれば当然だろう。

でもきっと四番はワンポイント録音で出てくる、と期待している。
もしかすると五番もワンポイント録音になるのでは、とこれもまた期待している。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: 境界線, 録音

録音評(その3)

ステレオサウンドがある六本木にWAVEができるまでは、
レコードの購入といえば、銀座だった。
コリドー街にあったハルモニアでよく買っていた。
それから山野楽器にもよく行った。

田舎に住んでいたころ、まわりにあったのは国内盤のLPばかりだった。
輸入盤にお目にかかることはまずなかった。

そんなことがあったからだと自分では思っている、
東京に住むようになり、輸入盤のLPを買うという行為は、
どこか晴れがましい感じがあった。

東京生れ、東京育ちの人の銀座に対する感覚と、
田舎育ちの銀座に対する感覚はずいぶん違うのではなかろうか。

いまの若い人にはそういう違いはないかもしれない。
でも、私のころ(少なくとも私)にはあった。

東京の中でも、銀座は、やはり特別なところだった。
その特別なところにあるレコード店で、それまでの田舎では買えなかった輸入盤を、
それこそお金さえあれば、いくらでも買うことができる。
お金がなくとも、ただ見ているだけ、触れるだけでも、
国内盤のLPのときとは何か違うものを感じていた。

そんな私も、六本木に、大資本によるWAVEができてからは、
銀座にレコードを買いに行くことがめっきり少なくなった。

Date: 1月 24th, 2013
Cate: 境界線, 録音

録音評(その2)

再生音の芸術性は、それ自体きわめてあいまいな性質のもので、何がいったい芸術的かを的確に言いきるのはむつかしい。しかし、たとえばSP時代のティボーやパハマン、カペー弦楽四重奏団の演奏を、きわめて芸術性の高いものと評するのは、昨今の驚異的なエレクトロニクスの進歩の耳に馴れた吾人が、そう間違っていないことを彼らの復刻盤は証してくれるし、レコード芸術にあっては、畢竟、トーンクォリティは演奏にまだ従属するのを教えてくれる。
     *
これは五味先生が、ステレオサウンド 51号掲載の「続オーディオ巡礼」に書かれていることである。
たしかに「トーンクォリティは演奏にまだ従属」している。

従属しているからこそ、クラシックのCDでは、いまだ復刻盤が新譜のように発売され、店頭に並ぶ。
昨年末、ふたつのレコード店のクラシックCDの売上げがウェヴサイトにて公表された。
ひとつはHMV、もうひとつは山野楽器銀座店である。

どちらもクラシックのCDの売上げなのに、そこに並ぶタイトルは重なっていない。
HMVに関しては、ブリュッヘン/18世紀オーケストラにベートーヴェンの新録をのぞけば、
他はすべて復刻盤、
もしくはいまだCD化されていなかった音源(バーンスタイン/イスラエルフィルハーモニーのマーラーの九番)、
山野楽器では日本人演奏家のCDが目立つし、多くが新録音の新譜である。

山野楽器の売上げは銀座店のみであり、
HMVの売上げはオンライン通販のものである。
つまり片方は銀座という街に来る人による売上げであり、
他方は日本全国の人による売上げ、といえよう。

Date: 10月 28th, 2012
Cate: 録音

ショルティの「指環」(続々続・スコア・フィデリティ)

けれど、そのCDでもオペラによっては幕の途中でかけられるものがある。
ワーグナーのパルジファルや神々の黄昏、ジークフリートなどが、そうだ。

これはもうしかたのないことだと、CDが出たときからそう思ってもいたし、
もしもう少しCDのサイズが大きかったら、
ワーグナーの楽劇でも幕の途中でかけかえるということはなくなったかも、と思わないではなかった。

とはいえ、こういう長さの作品のほうが、音楽の全ジャンルをみてもごく少数なのだから、
注文をつけることではないのはわかってはいる。
それでも、今回のショルティのニーベルングの指環がブルーレイディスク1枚にすべておさまっている、
ときくと、やっとこういう時代が来た、という感がある。

ニーベルングの指環は四夜にわたって演奏されるわけだから、
ディスク1枚ごとに、ラインの黄金、ワルキューレ、ジークフリート、神々の黄昏がおさまって、
計4枚のセットでいいわけだが、それを飛び越えてすべてが1枚にまとまってしまった。

収録時間という点からのスコア・フィデリティにおいて、これ以上のものは必要としない。

とはいえ、CDでもリッピングしてコンピューターに取り込んでしまえば、
スコア・フィデリティは文句なしになる。

楽章の途中でも幕の途中でもリッピングしてしまうことで、
ひとつの楽章、ひとつの幕として切れ目なく再生してくれる。
このことはデジタルの大きなメリットだといっていい。

いまはハードディスクが大容量化されているから、
以前のように圧縮しなくてもCDのデータをそのまま取りこめる。
そうしたデータをコンピューターから再生してもいいし、
iPodにコピーして、ワディアのiTransportなどを利用してデジタル出力を取り出しD/Aコンバーターに接続、
という聴き方をすれば、
iPodがブルーレイディスクをこえる記録容量をもつパッケージメディアとみることができる。

だから私は、別項「ラジカセのデザイン!」の(その11)でも書いているように、
iPodを21世紀のカセットテープだと考えている。

カセットテープの対角線は、世に出なかったものの、もともとのCDの直径でもある11.5cm。
もしCDが11.5cmのまま登場していたら、
16ビット、44.1kHzの規格ではベートーヴェンの第九は1枚に収まらなかった。
フィリップスは最初14ビットで行こうとしていた。16ビットを強く主張し実現させたのはソニーである。
14ビットだったら、11.5cmでも第九はすんなりおさまったのかもしれない。

とにかくいまはどんなに長い演奏時間を必要とする作品でも、
切れ目なく再生することがいともたやすくできる時代になった。

それは、聴き手に音楽を聴くことのしんどさを思い出させてくれることでもある。

Date: 10月 27th, 2012
Cate: 録音

ショルティの「指環」(続々・スコア・フィデリティ)

ベートーヴェンの第九交響曲は、ベートーヴェンの作曲した交響曲の中でもっとも長いし、
ベートーヴェン以前の作曲家による、いかなる交響曲よりも長い演奏時間を必要とするけれども、
うまいぐあいにLPだと、それぞれの楽章がレコードの片面におさまってくれる。

けれど同じベートーヴェンのフィデリオになると、そううまくいかない。
フィデリオは2幕からなるオペラだが、
第1幕の演奏時間は約70分、第2幕は約60分だから、
LP片面に1幕すべてを刻むことは、
どんなにカッティングレベルを低くしたところで無理なことであって、
幕の途中でレコードをかけかえることが、聴き手に要求される。

とうぜん、きりのよいところでかけかえられるようにはなってはいても、
幕の途中であることにはかわりはない。
どんなにレコードの扱い、レコードプレーヤーの扱いになれている人でも、
カートリッジを盤面からあげてトーンアームをもどし、レコードをとりあげ裏返してターンテーブルにセットする。
それからカートリッジを降ろす。

レコードプレーヤー目の前に置いている人ならば、これだけの時間でまたフィデリオの再生は始まるが、
目の前にオーディオ機器を置くのが嫌なひとは、
レコードプレーヤーのところまでいって椅子に戻るまでの時間も、さらに必要となる。

ベートーヴェンがフィデリオを作曲していたときにはまったく考えていなかった、考える必要もなかった、
こんな時間が、LPのときには生じていた。

交響曲でもマーラーとなると、
たとえば第二交響曲の第五楽章は、通常33分ぐらいから38分ていど演奏時間がかかる。
LP片面の収録時間は約30分。
音を犠牲にすれば、なんとかカッティングできるのだろうが、
マーラーの交響曲で音を犠牲にしてしまっては……、ということにもなる。

SPにくらべればぐんと収録時間は長くなり、かけかえの回数も減ったLPでも、
曲によっては楽章、幕の途中でかけかえることになっていた。

CDでは74分、実際にそれ以上の収録時間になってたため、
フィデリオもマーラーの第二交響曲も幕、楽章の途中でのかけかえはなくなった。

この意味での、スコア・フィデリティは、SPよりもLP、LPよりもCDが高い、ということになる。

Date: 10月 25th, 2012
Cate: 録音

ショルティの「指環」(続・スコア・フィデリティ)

ここでいいたいスコア・フィデリティは、別項にて書いている、
録音におけるコンサート・フィデリティとスコア・フィデリティの違い──、
そこでのスコア・フィデリティとは少し異る。

ここでいうスコア・フィデリティとは、
CDの直径が11.5cmから12cmに変更されたことによって増すこととなったスコア・フィデリティである。
簡単にいえば、収録時間に関することだ。

CDの直径が12cmに決ったことで収録時間は約74分になり、
ベートーヴェンの第九交響曲がCD1枚、
つまり片面で収まるようになった。
1楽章から4楽章まで、ディスクのかけかえをやることなく聴き続けられる。

なんだ、そんなことかと思われるかもしれない。
でも、家庭においてパッケージメディアで音楽を聴くうえで、
これは大事なことである。

LPではベートーヴェンの第九は、ほとんどが2枚組だった。
4面を必要としていたから、最後まで聴くには3回、レコードをかけかえなくてはならない。

この手間が面倒だと感じているわけではない。
私の世代はLP(アナログディスク)で育ってきているから、
2枚のLPのかけかえを面倒だとは思ったことはない。

でも、ベートーヴェンが第九を作曲した時代は、レコードなんてものは存在しなかった。
音楽を聴くということは、目の前に演奏者がいて、彼等が目の前で演奏している音楽を聴く、ということだった。
ベートーヴェンは(ベートーヴェンに限らずほかの作曲家も)、
レコードの収録時間を気にして作曲していたわけではない。
レコードで、家庭で、演奏者のいない空間で音楽が聴かれるようになるとは、まったく想像していなかった。

クラシック音楽を、いまの時代、オーディオを介して聴くということはそういうところとも関わってくる。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: 録音

ショルティの「指環」(スコア・フィデリティ)

9月末に、ショルティ指揮のニーベルングの指環の限定盤がデッカから発売になった。
話題になっていたから、クラシックに関心の高い人ならばすでにご存知で入手されている方も少なくないだろう。

新たにリマスターされたCDの17枚組にDVD、30cm×30cmのブックレット、
それとは別の冊子などのほかに、この限定盤の最大の目玉(特典)といえるのが、
ブルーレイディスク1枚におさめられた24ビット・96kHzによる音源である。

CD17枚分、しかもサンプリング周波数もビット数も、
通常より高くそれだけデータ量を必要とするにもかかわらず、
ブルーレイディスクだと、1枚におさまってしまうことに、
記録密度の向上はめざましいものがあることは知ってはいても、
こういうふうに具体的な形で登場すると、
CD登場からちょうど30年の今年、その間のデジタル技術の進歩を、音とは違う面で実感できる。

DAD(Digital Audio Disc)がCDに統一されるまでは、
国内のオーディオメーカーからいくつもの規格が提案されていた。
ディスクのサイズもLPと同じ30cmで、収録時間も数時間というものがあった。

そんなに収録時間を長くして、いったいどんな音楽を入れるんだよ、という否定的な意見もあった。
たしかに、LPで流通していた音楽の大半は、それほど長い収録時間は必要としない。
クラシックの曲の大半だって、それほど長い収録時間はいらない。

けれど、オペラとなると、収録時間が長いディスクがあれば、
今回のショルティのブルーレイディスクのように1枚におさめられる。

こんなことを書くと、そんなにディスクの交換が面倒なのか、と思われそうだが、
ここでいいたいのはそんなことではない。
ディスクの枚数が減る、できれば1枚にまとめられれば、
そのことはスコア・フィデリティに関しては、高い、ということになる。
そのことをいいたいのである。

Date: 10月 15th, 2012
Cate: 録音, 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その13)

不思議なもので、人は映像のズームに関しては不自然さを感じない。
映画、テレビにおけるズームを不自然と感じる人は、現代においていない、と思っていいだろう。

なのに音の世界となると、人は音のズームを不自然と感じてしまう。
菅野先生が山中先生との対談で例としてあげられている
カラヤン/ベルリンフィルハーモニーのチャイコフスキーの交響曲第四番。

スコア・フィデリティをコンサート・フィデリティよりも重視した結果、
オーケストラが手前に張り出してきたり、奥にひっこんだりするのを、
左右のふたつのスピーカーを前にした聴き手は、不自然と感じる。

なぜなのだろうか。

考えるに、映像は平面の世界である。
映画のスクリーンにしてもテレビの画面にしても、そこに奥行きはない。
スクリーンという平面上の上での表現だから、人は映像のズームには不自然さを感じないのかもしれない。

ところが音、
それもモノーラル再生(ここでのモノーラル再生はスピーカー1本での再生)ではなくステレオ再生となると、
音像定位が前後に移動することになる。

奥行き再現に関しては、スピーカーシステムによっても、
スピーカーのセッティング、アンプやその他の要因によっても変化してくるため、
ひどく平面的な、左右の拡がりだけのステレオ再生もあれば、
奥行きのあるステレオ再生もあるわけだが、奥行き感を聴き手は感じているわけだから、
ある音がズームされることによって、その音を発している音源(音像)の定位が移動することになる。

こう考えていったときに、(その9)に書いたカラヤンの録音に存在する枠とは、
映画におけるスクリーンという枠と同じ存在ではないか、という結論に行き着く。

こういう「枠」はバーンスタインのベートーヴェンには、ない。

Date: 10月 10th, 2012
Cate: 録音, 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その12)

グレン・グールドの、シベリウスのソナチネの録音における試みは、
グールドが自身がのちに語っているように、けっして成功とはいえないものである。

アナログディスクで聴いても、1986年にCD化されたものをで聴いても、
グールド贔屓の聴き手が聴いても、やはり成功とは思えないものではあった。

それでもグールドがシベリウスの録音でやろう、としていたことは興味深いものであるし、
1976年からそうとうに変化・進歩している録音技術・テクニックを用いれば、
また違う成果が得られるような気もする。

グールドが狙っていたのは、音のズームである。
そのためにグールドは、4組のマイクロフォンを用意して、
4つのポジションにそれぞれのマイクロフォンを設置している。
ひとつはピアノにもっとも近い、いわばオンマイクといえる位置、
それよりもやや離れた位置、さらに離れた位置、そしてかなり離れた位置、というふうにである。

これら4組のマイクロフォンが拾う音と響きをそれぞれ録音し、
マスタリングの段階で曲の旋律によって、オンマイクに近い位置の録音を使ったり、
やや離れた位置の録音であったり、さらにもっとも離れた位置の録音にしたりしている。

ピアノの音量自体はマスタリング時に調整されているため、
マイクロフォンの位置による音量の違いは生じないけれど、
ピアノにもっとも近いマイクロフォンが拾う直接音と響き、
離れていくマイクロフォンが拾う直接音と響きは違ってくるし、その比率も違ってくる。

だからピアノにもっとも近い位置のマイクロフォンが捉えた音でスピーカーから鳴ってくるピアノの印象と、
もっとも遠くの位置のマイクロフォンが捉えた音で鳴るピアノの印象は異ってくる。

同じ音大きさで鳴るように調整してあっても、
響きの比率が多くなる、ピアノのマイクロフォンの距離が開くほどに、
ピアノは遠くで鳴っている、という印象につながっていく──、
これをグールドは、音のズームと言っていた。

Date: 10月 7th, 2012
Cate: 境界線, 録音

録音評(その1)

「北」という漢字は、右と左の、ふたりの人が背けた状態の、
人をあらわす字が線対称に描かれている──、
ということは川崎先生の講演をきいたことのある方ならば耳にされているはず。

「北」がそうであるように、「化」も人をあらわす字が線対称的に描かれた文字である。
左の「亻」も右の「匕」も、そうである。

「花」という漢字は、艹(くさかんむり)に化ける、と書く。
ならば、「音」に化ける、と書く漢字もあっていいのではないか、と思う。

花が咲く、茎や枝の色とくらべると、花の色は鮮かな色彩をもつ。
音楽も、豊富な色彩をもつ、音が化けることによって。

花と、茎や枝の色は違う。
けれどあくまで花は、枝や茎の延長に咲いている。
ここからここまでが茎(枝)で、ここから先が花、という境界線は、
実はあるようにみえて、はっきりとその境界線を確かめようと目を近づけるほどに、
境界線は曖昧になってくる。

音と音楽の境界線も、あるようでいてはっきりとはしていない。

よくこんなことが、昔からいわれているし、いまもいわれている。
「このディスクは録音はいいけれど演奏がねぇ……」
「このディスクは演奏はいいけれど録音がもうひとつだねぇ……」
そんなことを口にする。
私だって、時にはそんなことをいう。

昔からレコード評には、演奏評と録音評がある。
オーディオ雑誌、レコード雑誌に載る演奏評、録音評は、たいてい別のひとが担当している。
演奏評は音楽評論家、録音評はオーディオ評論家というぐあいにだ。

ただ、これもおかしなはなしであって、
菅野先生はかなり以前から、そのことを指摘されていた。

Date: 9月 8th, 2011
Cate: 録音

50年(その10)

テープやなにがしかのメディアに音を記録することを「録音」という。

昨日書いたことの、脳にいったん記憶して音を聴いているとすれば、
それは「憶音」と呼びたい。

Date: 9月 7th, 2011
Cate: 録音

50年(その9)

同じ場所で、同じ時間に、同じ音を聴いても、聴く人によって、その印象は同じところもあれば、
まったく異ることも珍しくはない。

同じ場所で、同じ時間といっても、厳密には、それぞれの人が坐っている位置にはわずかの違いがある。
そのことによる音の違いは当然あるわけだが、
ここでいっている受け手による印象が大きく異ることに関しては、そんなことが関係してのこととは考えにくい。

あきらかに、他の要素が関係しているはずである。
そう考えたとき、妄想じみた考えではあるが、人はその場で鳴っている音を聴いているのではなく、
実のところ、いったん脳に記憶にされた音を聴いているのではないだろうか。

つまり3ヘッドのテープデッキのような仕組みである。
録音ヘッドがテープに記録した磁気変化を、すぐ隣りにある再生ヘッドが読み取り電気信号へと変換する。
テープが脳にあたる。
ただひとつ違うのは、テープには「記録」されるのであって、脳には「記憶」されることだ。

記憶は、まわりの事象と無関係ではない。
むしろそういった事象と密接に関係している、と私は思う。
だから同じ音を聴いていても、人によって事象との関係性の広さ・深さは違う。
つまり脳にいったん記憶される音がすでに違っている。

音を聴くという行為が、それを再生しているのであれば、
そこで鳴っていた「音」が人によって違っていて、むしろ当然であり、
完全に同じであることの方がむしろおかしい、ともいえる。

Date: 6月 28th, 2011
Cate: 録音

50年(その8・追補)

音に対する視覚的な感覚について考えるとき、
ソニック・ステージを提唱したジョン・カルショウ、
この人の視覚的感覚はどうだったんだろうと思ってしまう。

Date: 6月 26th, 2011
Cate: 録音

50年(その8)

それにしても、なぜ音から、こういう視覚的な感覚を味わえるのか、とずっと疑問だった。
同じレコードを同じ音、つまり同じ場所、同じ時間で聴いても感じとれる人と感じとれない人がいる。
同じレコードであっても、再生するオーディオの違い(音の違い)によって、感じとれないこともある。

感じとれない人からすれば、感じとれる人のことを、錯覚、という一言で片づけてしまえるだろうが、
感じとれる人にとっては、やはり同じように感じとれる人がいる以上、錯覚の一言で片づけるわけにはいかなくなる。

菅野先生のところで、違う時に聴いたふたりが、感じとっていたということは、
菅野先生の出されている音に、なんらかの視覚的感覚を刺激するものがあったのかもしれない。

なぜか、というその疑問に、ひとつのヒントが与えられた。
川崎先生が以前いわれていた「ロドプシンへの直感」であり、ロドプシンである。

このロドプシンが脳の一部である海馬と関係しているのではないか、ということを以前書いた

いま川崎先生が、ご自身のブログで音に関係することを書かれている。
その中の23日のブログに、ロドプシンのことを書かれている。

聴覚と海馬とロドプシンが、どう関係しているのかが解明されれば、
オーディオの世界だけでなく、映像に世界においても、大きな変化・進化が訪れるのかもしれない。