Archive for category ステレオサウンド

Date: 6月 4th, 2015
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド(195号)

ステレオサウンド 195号の第一特集は、「オーディオ評論家の音~評論家による評論家宅訪問〜」、
小野寺弘滋、三浦孝仁、柳沢功力、和田博巳の四氏がそれぞれのリスニングルームを訪問するという企画。
本来は傅信幸氏も参加予定だったけれど体調不良のため四氏になったそうだ。

まだ読んでおらずパラッと見ただけなので内容についてはふれない。
ただ、うまい企画だな、と思った。
いい企画だな、ではなく、あくまでも、うまい企画だな、と思った。

今回は小野寺氏のところに柳沢氏が、柳沢氏のところに三浦氏が……、といった具合である。
ということは、この企画には次があるということでもある。
次回は小野寺氏のところに柳沢氏以外の人(三浦氏か和田氏)が、
柳沢氏のところに和田氏か小野寺氏が訪問する──。

今回の企画が好評であれば、ほぼ間違いなく次回も予定されているだろう。
おそらく一年後の199号の特集は、「オーディオ評論家の音~評論家による評論家宅訪問~」第二回か。
今回と同じ四人のままでも三回目(203号)まで同じ企画のままいける。

次回では傅氏も参加ということになれば、あと四回はできる。
ステレオサウンドは年四回。
12月発売の号はステレオサウンド・グランプリとベストバイで固定されている。
残り三冊の企画を考えればいい。

今回の特集がしばらく続くのであれば……、
そう考えて、うまい企画だな、と思った次第。

Date: 5月 10th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・「含羞」)

「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」というマンガがある。
1990年代に週刊誌モーニングに連載されていた。
曽根富美子氏が作者だった。

この「含羞」が読みたくてモーニングを購入していた、ともいえるし、
単行本になるのが待ち遠しかった。

タイトルからわかるように、中原中也、小林秀雄が、
この物語の中心人物であり、ここに長谷川泰子が加わる。

これは読み手の勝手な想像にすぎないのだが、
「含羞」を描いて、作者は燃え尽きた、というよりも、精根尽き果てたのではないか、
そんな感じを受けた。

これは文字だけでは表現できない世界であり、
同じ絵であっても、動く絵のアニメーションよりも動かぬ絵のマンガゆえの表現だとも思う。

ここで描かれているのは、少し事実とは違うところもある。
それをわかったうえで読んで、小林秀雄に対する印象が、私の場合、大きく変化した。
そうだ、このひとには「乱脈な放浪時代」があったことも思い出した。

「含羞」は残念なことに絶版のままである。

Date: 5月 10th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その4)

「音楽談義」をきいていると、どうしてもいろんなことを思い考えてしまう。

「人は大事なことから忘れてしまう。」

これは2002年7月4日、
菅野先生と川崎先生の対談の中での、川崎先生の発言である。

残念なことに、ほんとうに人は大事なことから忘れしまう。
最近のステレオサウンドを見ていても、そう思ってしまう。

そう書いている私だって大事なことから忘れてしまっているのかもしれない。
そう思うから、毎日ブログを書いているのかもしれない。
大事なことをわすれないために、である。

別項でも書いているのだが、
ステレオサウンドの現編集長は、創刊以来続く、とか、創刊以来変らぬ、がお好きなようである。

でも大事なことから忘れてしまっているからこそ、創刊以来変らぬ、といえるのだろう。
大事なことを忘れずにいようとしていたら、そんなことはとてもいえない。

「音楽談義」は、他のオーディオ雑誌に掲載されたわけではない。
ステレオサウンド 2号に載ったものだ。

「音楽談義」そのものも忘れてしまっているのだろうか。
そんなふうに思えてしまう。

Date: 5月 9th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その3)

「音楽談義」には小林秀雄氏と五味先生の「対談」(あえて対談としたい)だけでなく、
五曲のSP盤復刻による音楽もふくまれている。

R.シュトラウス指揮ベルリン・フィルハーモニーによるモーツァルトの交響曲第40番の第一楽章の一部、
エルマンによるフンメルのワルツ イ長調、
ハイフェッツ、チョツィノフによるサラサーテのチゴイネルワイゼン、
クライスラー、ブレッヒ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団とによるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、
フーベルマンとシュルツェによるメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ピアノ伴奏、第三楽章縮小版)、
フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニーによるワーグナー「ジークフリートの葬送行進曲」、
これらが聴ける。

最初にかかるのはモーツァルトのト短調である。
「音楽談義」を最初に聴いた1987年では確信がもてなかったことがある。
あまり気にもしていなかったということもある。
けれど、ステレオサウンド 100号の特集「究極のオーディオを語る」、
ここで岡先生の文章を読んで、やっと気がついた。

《僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。》
小林秀雄氏の「モオツァルト」である。

このとき小林秀雄氏が聴いていたレコードが、
リヒャルト・シュトラウスがベルリン・フィルハーモニーを振ったものである。

岡先生は、なぜかという理由について、こう書かれている。
     *
「道頓堀を歩いていたら、突然『ト短調のシンフォニー』の終楽章の出だしのテーマが頭の中で鳴った……」という、あの有名な書出しで、彼の聴いたレコードはリヒャルト・シュトラウスがベルリンフィルを振ったものらしいことがわかる。なぜかといえば、昭和22年に入手出来たこの曲のレコードはシュトラウス盤とワルター盤で、ワルターとベルリンシュターツカペレによる日本コロムビア盤は出だしの1小節めで始まるヴァイオリンのテーマが全然聴こえない。2小節めから、まずチェロとコントラバスが2分音符を、1拍遅れて第2ヴァイオリンとヴィオラが3連4分音符を奏するが、2小節目後半でいきなりヴァイオリンが聴こえてくる。
 もし、小林がワルターの演奏で聴いていたら、『ト短調シンフォニー』終楽章の出だしのテーマの冒頭は聴くこともできなかったし、頭の中で鳴ることもなかっただろう。
     *
小林秀雄氏は「終楽章の出だしのテーマ」とは書かれていない。
「有名なテエマ」とだけあるが、新潮文庫の「モオツァルト・無情という事」を開けば、
終楽章であることがすぐにわかる。

小林秀雄氏の頭の中で鳴っていたのは、シュトラウスの演奏だったのか……、
とステレオサウンド 100号を気づかされた。

だからちょっと残念なのは、「音楽談義」では終楽章はおさめられていないことだ。

Date: 5月 7th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その2)

「音楽談義」は1967年春、鎌倉で行われた。
当時のことだからオープンリールのポータブルデッキでの録音だと思う。
当然モノーラルである。
それを編集してカセットテープ二巻におさめたのが「音楽談義」である。

そのことからわかるように、音は良くない。悪いといってもいい。
かなり聞き取りづらいところもある。
それでも聞いていると、話の面白さに引き込まれて、
まったく気にならないといえばウソになるけれど、がまんならないというほどではない。

この「音楽談義」から小林秀雄氏の発言だけを抜粋して、
「音楽談義」で語られているレコードを収録したものが、
いまも新潮社から発売されている「小林秀雄講演【第六巻】 音楽について」だ。

こちらはCD二枚組であり、収録されている音楽は「音楽談義」に収録されている数よりも多い。
けれどここでは小林秀雄氏の発言の抜粋であり、「音楽談義」そのものを聞くことができるわけではない。

このことを勘違いされていて、
「音楽談義」そのものが「小林秀雄講演【第六巻】」で聞けると思っている人がいる。

「音楽談義」には、ステレオサウンド 2号に掲載された「音楽談義」をおさめた冊子ついている。
その冒頭には、
このカセットブックの開設資料として、ステレオサウンド誌2号(昭和42年5月1日発行)に掲載されたものを、著作権者の許可を得て全文掲載いたします。
なお、両氏の加筆訂正を経て文字化された誌面と肉声のテープ内容とでは、表現等で多少の違いがありますことを予めお断りしておきます。
と書いてある。

小林秀雄氏は、話したものに対してかなり加筆訂正をされるときいている。
だからステレオサウンド 2号を読んでいるから「音楽談義」は聞く必要がないわけではないし、
「音楽談義」を聞いたからステレオサウンド 2号掲載の「音楽談義」を読まなくていいわけでもない。

ステレオサウンド 2号に掲載された「音楽談義」は、
新潮文庫「直観を磨くもの―小林秀雄対話集―」で全文が読める。

Date: 4月 2nd, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その1)

五味先生の命日である昨晩、ひさしぶりに「音楽談義」をきいた。

「音楽談義」はステレオサウンド 2号の特別企画として、
《音楽談義》 小林秀雄 きく人 五味康祐、というタイトルで載っている。
二部構成になっていて、第一部は「音楽の本質について」、
第二部は「ワーグナーの人と音楽」である。

「音楽談義」のことは、まだ読者であったころに知っていた。
けれど2号(1967年3月発売)という古いステレオサウンドは、
私がステレオサウンドを読みはじめた1976年の時点ではすでに入手できなかったのだから、
「音楽談義」のことを知った1979年3月の時点では読みたくとも読めなかった。

私が「音楽談義」を読んだのはステレオサウンドで働くようになってからだった。

ステレオサウンドは1986年に創刊20周年を迎えた。
創刊20周年を記念して、「音楽談義」はカセットテープによるオーディオブックとして一冊の本となった。
(発売は1987年だった)
当時、原田勲社長は、社員全員に「音楽談義」をくばられた。
それが、いまも私のもとにある一冊である。

この時「音楽談義」をきいた。
会社の取材用の録音機であったソニーのWM-D6できいた。

カセットデッキはその時もそれ以降も所有してこなかったから、
「音楽談義」をきいたのは、その一度限りだった。

昨晩、約30年ぶりに「音楽談義」をきいた。
これだけあいだがあいていると、初めてきくような感覚もあった。

Date: 3月 11th, 2015
Cate: JBL, ステレオサウンド

JBL DD77000とステレオサウンド 200号

JBL PROFESSIONALのスタジオモニターM2の存在を二年遅れで知り、
発表当時から知っていた人からすれば、いまさら……、と思われていようと、
M2というスタジオモニターは非常に興味深いだけでなく、
なぜM2に採用された技術がコンシューマー用スピーカーに採り入れられていないのかについて、
つい考えてしまう。

少なくともデュアルダイアフラムのD2ドライバーは、
すぐにもコンシューマー用に採用されても不思議でないのに……、である。

なぜか、という答はすぐに思いつく。
来年(2016年)は、JBL創立70周年である。
ということは、60周年記念モデルのDD66000に代るモデルとしてDD77000が開発中と考えられる。

JBLに関心のある人ならば、多くの人がDD77000の登場を予測しているだろう。
どういうシステム構成になるのか、DD66000と何が同じで何が違ってくるのか。

その最大のヒントとなるのが、D2ドライバーの存在といって間違いはないはず。
DD77000にはデュアルダイアフラムのコンプレッションドライバーが搭載されるはず。

ウーファーはM2と同じシングルなのか、DD66000と同じダブルなのかはわからない。
ホーンの形状もM2のホーンに多少変更が加えられるのか。
少なくとも材質は変更されるように思う。

それからM2はマルチアンプ駆動なのに対して、DD77000はネットワーク内蔵となることは間違いないだろう。
M2は単なるマルチアンプ駆動ではない。
そのへんをネットワークでどう対応するのか、もしかするとオプションでマルチアンプ駆動、
それも専用アンプとデジタル信号プロセッサーによるものが用意されるのだろうか。

M2はクラウン(アムクロン)のアンプがそうであるから、
DD77000では同じハーマングループのマークレビンソンのアンプが専用アンプとなるのか。

こんなことをM2の存在を知ってからの数日、考えていた。
この予測がどこまで当るのかは来年になればはっきりする。

仮にDD77000が登場するとして、それはいったいいつになるのか。
これに関してはけっこう自信がある。
おそらく9月になるはずだ。

2016年9月に出るステレオサウンドは200号、つまり創刊50周年記念号である。
ここに合わせてくるし、200号の表紙はDD77000のような気がしている。

つまりステレオサウンド 200号でDD77000はお目見えとなるはずだ。
発表は9月よりも少し早いかもしれない。
それでも情報解禁はステレオサウンド 200号の発売日になるのではないか。

あと一年と六ヵ月である。

Date: 3月 5th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 黄金の組合せ

黄金の組合せ(ステレオサウンド 194号)

昨夜、audio sharing例会でステレオサウンド 194号をじっくり見た(読んだとはあえて書かない)。

194号の特集が「黄金の組合せ」だと知り、
私だったら、こんなふうにする、と勝手に想っていた。

「黄金の組合せ」という表現を、いまあえて使い、
ステレオサウンドがどういう記事にするのか、非常に興味があった。

なにも私が想像していた通りでなければダメだとはまったく思っていない。
とにかくどういう内容で、どういう誌面構成にしたのかに興味があった。

特集の内容については、あえて書かない。
194号を見ながら考えていたのは、なぜ、この内容の特集に「黄金の組合せ」を使ったのか、である。

しかも「黄金の組合せ2015」となっている。
ということは、今回の特集の評判がよければ、来年の春号では「黄金の組合せ2016」をやるのだろうか。
冬号では、毎年恒例のステレオサウンド・グランプリとベストバイ、
春号は「黄金の組合せ」ということになれば……、
もうなんといったらいいのだろうか、言葉に迷ってしまう。

それとも来年秋の50周年記念号以降は、隔月刊にでもするのだろうか。
そのための布石としての「黄金の組合せ2015」だったのか、と、ちょっと思ったけれど、
隔月刊化は可能性としては低い。

そんなことよりも、なぜステレオサウンド編集部は、194号の特集に「黄金の組合せ」とつけたのか。
私は、ここに、なにがしかの「オーディオの想像力」を感じとることはできなかった。

Date: 2月 17th, 2015
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 200号に期待したいこと(その1)

あと一年半ほどで、ステレオサウンドは200号を迎える。創刊50周年である。
その200号にぜひともつけてほしいのが、
50号に巻末附録としてあった、創刊号から49号までの総目次とテストリポート掲載機種総索引である。

50号の時点で扉を含めて、この特別附録は32ページあった。
単純に計算すると200号はその四倍だから、128ページ。
実際には掲載機種数は多くなっているだろうから、ページ数はもう少し増えるであろう。

総目次と総索引、作成するのは地味な仕事である。
けれど読者にとっては、ひじょうにありがたい、役に立つページとなる。
読者だけではない、編集者にとっても同じである。

おそらく特別附録が200号につく可能性はかなり低いと思われるが、
それでも50年という節目でもあるわけだから、ぜひともつけてほしい。

Date: 12月 18th, 2014
Cate: 「ネットワーク」, ステレオサウンド

オーディオと「ネットワーク」(人脈力・その1)

ステレオサウンドの193号に、「難条件を克服するマイシステムの作り方」という記事が載っている。

この記事に「人脈力」なる言葉が登場している。
見出しにもなっているし、本文にも出てくる。

老人力という言葉が登場して以降、語尾に「力(りょく)」をつけられることが急に増えてきた。
たいていは、どこかいかがわしさ・うさんくささを感じさせるのが多いように私は感じている。

人脈力なる言葉は、はっきりとくっきりとステレオサウンドの中で浮いている。
人それぞれだから馴染んでいるといる感じる人もいるだろうし、なんとも思わない人、
私と同じように浮いていると感じる人もいるだろう。

馴染まないことがよくないことではない。
浮いてしまっている、と感じたから、些細なことを取り上げるな、と思われようと、ここで書いている。

これまでも、ステレオサウンドに対して厳しいことを書いてきた。
これからも書いていくであろう。
なぜ、そんなことを書くのか。

ステレオサウンドが素晴らしいオーディオ雑誌であってほしいからである。
毎号講読したくなる内容になってほしい、と思っている。
このブログを書く必要もない、と思わせる内容になってほしいからである。

でも、今回の「人脈力」に対しては、そういう気持とはすこし違うものがある。
「人脈力」が目に留った時、
「ステレオサウンドは大丈夫なのか」と心配になった。

たったひとつの言葉だろうに……、なんて大袈裟なと感じられるかもしれない。
よけいなお世話だといわれるかもしれない。

けれど、人脈力なる言葉が本文にも、見出しにも登場しているのをみると、
もやもやしたような、イヤな感じがしてしまう。

Date: 11月 5th, 2014
Cate: ステレオサウンド, デザイン

「オーディオのデザイン論」を語るために(その2)

付加価値ということを頻繁に使われるようになったのはいつごろなのか。
私の周りでは1982年あたりからだった。

ステレオサウンドで働くようになってしばらくして、付加価値ということをよく聞くようになった。
性能的に大差なくなった。他社製品との差別化のために付加価値が必要だ。
そんなふうな使われ方をしていた。

編集部の先輩と付加価値とはなんだろう、と話した記憶もある。
とにかく付加価値が必要、そんな感じの空気がこのころからあったように感じている。

付加価値。
生産過程で新たに付け加えられる価値。総生産額から原材料費と機械設備などの減価償却分を差し引いたもので,人件費・利子・利潤に分配される。一国全体の付加価値の合計は生産国民所得となる。
と辞書には書いてある。

だが「差別化のために必要な付加価値」は、辞書通りの意味ではない。
そしてこの付加価値として、デザインがいつしか語られるようになった。

デザインは付加価値だ。
そういう人が少なからずいる。
昔からいる。いまも相変らずいっている人がいる。

しかもそういう人が、オーディオのデザインについての持論を語る。
こんなことがいつまで続いていくのか。
私よりひとまわり以上年上の人たちに、そういう人が少なからずいる。

(失礼ながら)こういう人たちが去ってくれるまで、デザインは付加価値だ、ということが言われつづけていく。

Date: 11月 4th, 2014
Cate: ステレオサウンド, デザイン

「オーディオのデザイン論」を語るために(その1)

ステレオサウンドはあと二年で200号になる。
季刊誌で年四冊出ているから、50年。

このことは素直にたいしたものだと思う。
でも、いま48年、あと二年あるとはいえ、
200号までにステレオサウンドでオーディオのデザイン論が語られるとは思えない。

このオーディオのデザイン論こそが、ステレオサウンドがやってこなかったこと、やり残してきたことだ。
一時期、素人によるデザイン感的な文章が連載となっていた。
デザイン論とはとうてい呼べないものだった。
ほんとうにひどい、と思っていた。

その連載が終了して、デザインについてある人と話していた時に、この記事のことが話題になった。
「ひどい記事だったね」とふたりして口にしていた。

あれを当時の編集部はデザイン論と勘違いしていたのか。
私がいたときも、オーディオのデザイン論についての記事はつくっていない。
だからエラそうなことはいえないといえはそうなるけれど、いまは違うとだけはいえる。

瀬川先生もいなくなられてから、まともにオーディオのデザイン論は語られていない。
川崎先生の連載もわずか五回で終了してしまっている。

このことは以前も書いている。
それでも、またここで書いておきたい。
そのくらいに「オーディオのデザイン論」は大事なことであり、
これを蔑ろしていては、おかしなことになっていく。

すでにおかしなことになっているオーディオ機器もいくつか世に出ている。

200号は50歳である。
50歳は、もういい大人であるはずだ。
オーディオのデザイン論が語れる大人になっていなければならない。
ステレオサウンドはなれるのか(なってほしいのだが……)。

Date: 6月 17th, 2014
Cate: ステレオサウンド

ガロ

テレビは持っていない。
テレビ無しの生活が、ありの生活よりもずっと長くなっているけれど、
テレビ嫌いなわけではなく、むしろテレビ好きであり、
思い出したように実家に帰省したとき、何をしているかといえば、こたつにもぐってずっとテレビばかり見ている。

いまでもときどき友人宅に遊びに行った時にテレビを見ることはあり、
本人はそれほど真剣に見ているつもりはないけれど、「何、そんなに真剣に見ているんだ」とよくいわれる。

だからテレビを持たない生活を送っている。

海外ドラマが好きなので、Huluに加入している。
先月、Huluで「ゲゲゲの女房」が公開された。
NHKの朝の連続テレビ小説で、数年前の話題作をいまやっとMacで見た。

ひとりのマンガ好きの男として見ていて、いろいろおもうことはかなりあった。
ドラマの中では「ゼタ」という名称だが、ガロについて語られている。

ガロがどういう雑誌であったのかは検索すれば、すぐにわかることだ。
オーディオに関係することでおもったのは、ステレオサウンドはガロではなかったな、ということだった。

Date: 6月 3rd, 2014
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの表紙に感じること(その1)

書店にステレオサウンド 191号が並んでいる。
まだ読んでいないので、内容については書かない。

ここで書きたいのは、191号の表紙のこと。
191号の表紙の写真を見たのは、五月終りごろだった。
twitterに、191号の表紙をフォローしている人が添付していたからだ。

191号の表紙を、その時見て、私が最初に思ったことは、別冊を出したのか、だった。
写真だけでなくツイートされた文章も読んで、191号の表紙だと気づいた。

この十年くらいのステレオサウンドと別冊、
それを見てきた感じでいえば、191号の表紙はあきらかに別冊を思わせる印象がある。

これを書くためにステレオサウンドのサイトを見ているが、
やはり191号の表紙は、明らかに印象が違う。
どこがどうとはっきりと指摘できないけれど、いままでのステレオサウンドとは違う印象があることは感じられる。

Date: 4月 11th, 2014
Cate: ステレオサウンド

3.11とステレオサウンド(その2)

ステレオサウンドは二年後の2016年に創刊50周年を迎える。
オーディオ専門誌、それも三ヵ月に一度という季刊誌で、これだけ続いている。

創刊当時の苦労話のいくつかはステレオサウンドにいたころ、
その後、2008年2月、瀬川先生の墓参のときにも、原田勲氏から聞いている。

それだけでも、いかに大変だったかはわかる。

ステレオサウンドよりも長い歴史のオーディオ雑誌はある。
ラジオ技術、無線と実験がそうだが、
この二誌は誌名があらわしているように、最初は無線の雑誌であった。
最初からオーディオ専門誌であったわけではない。

ステレオサウンドは最初からオーディオ専門誌として、いまも続いている。
そういうステレオサウンドを、変えることは可能なのだろうか。

もう10年ほど前のことになるか。
ある時期、数人の人(それぞれに関係のない人たち)から、
「ステレオサウンドは、なぜ変らないんですか」ときかれたことがある。

変ってきているといえば、ステレオサウンドは変っている。
創刊号からいまにいたるまでには変化がある。

つまりここでの「変らないんですか」は、その時期のステレオサウンドに対して、である。
その時期といってもひどく曖昧で、ここでの「その時期」には創刊号からしばらくの号は含まれない。

私は話の流れから、「その時期」とは、60号以降のことだと感じていた。