Archive for category ステレオサウンド

Date: 2月 29th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その21)

ステレオサウンド 45号の特集(44号から続くスピーカーの総テスト)には、
気になるモデルがほぼすべて載っていた。

KEFのModel 105、スペンドールのBCII、タンノイのArden、アルテックのModel 19、ヤマハのFX1、
そしてJBLの4343。
44号と45号、比較するようなものではないのだけれど、
オーディオに興味を持って一年ちょっとの私には、45号に登場するスピーカーの方が興味深かった。

「フロアー型中心の最新スピーカーシステム」のタイトル通りだな、と思いながら読んでいた。
しかも嬉しいことに、フロアー型、ブックシェルフ型だけでなく小型スピーカーも取り上げられていた。
ヤマハのNS10M、JRのJR149、スペンドールSA1、そしてロジャースのLS3/5Aの四機種が載っていた。

何度も読み返した。
記憶するほどに読んでいた。
カバンの中に教科書とともにステレオサウンドをつねに一冊以上入れていた。
すこしでも読む時間があれば、ページをめくっていた。

ステレオサウンドは次号(46号)でもスピーカーを特集している。
モニタースピーカーについて、だ。
三号続けてのスピーカー特集をくり返し読むことで、
スピーカーとはどういうモノなのか、
どういう存在として認識すべきなのかを学ぶきっかけとなった、といえる。

試聴記を、ただ単にどれがいいのか──、
そんな読み方ではないところでのスピーカー独特の面白さを味わえた。
いまのステレオサウンドは、こういう読み方ができるだろうか、とだから思ってしまう。
もしかすると、そういう読み方を拒否しようとしているのだろうか……。

45号の特集の最後に載っていたのはLS3/5Aだった。
LS3/5Aは、42号のアンケートはがき(ベストバイコンポーネントの投票はがき)のスピーカー欄に、
キャバスのBrigantinとどちらを記入しようかと迷いに迷ったスピーカーだ。
これは別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」での井上先生の組合せの影響からだ。

Brigantinは44号にも45号にも載っておらずがっかりしたけれど、46号に登場している。
読み手の勝手な期待を裏切らないところがあった。

そんなLS3/5Aのページを読み終えて数ページの広告をめくる。
すると、そこにはJBLのHarknessがあらわれる。
田中一光氏のリスニングルームに見事におさめられているHarknessは、
特集よりも印象に残っている記事である。

こういう部屋で音楽を聴ける大人になりたいと、ぎりぎり14歳だった私に思わせた。

Date: 2月 28th, 2016
Cate: ステレオサウンド,

賞からの離脱(賞がもたらしたもの)

最初のベストバイの号は35号。1975年6月にでている。
二回目の43号は1977年6月。
つまりベストバイは夏号の企画だった。

49号でState of the Art賞が始まる。
1978年12月に出ている。
State of the Artは途中でComponents of the yearと名称が変更になったが、
冬号掲載の特集ということは変らなかった。

73号(1984年12月発売)で、
ベストバイとComponents of the yearが同じ号にまとめられるようになった。
Components of the yearはいまではStereo Sound Grand Prixと変ったが、
ベストバイといっしょに冬号に掲載されることは30年以上続いている。

そうなったことがステレオサウンドに与えたことのひとつに、
年度の区切りがあると、私は思っている。

一年の締括りとしてComponents of the year賞とベストバイが行われる。
そのことがいいのか悪いのかはあえて語らないが、
ベストバイ、Components of the yearが定着する以前のステレオサウンドには、
一年の締括りというものがなかった、といえる。

それが73号以降、12月発売の冬号で一年を締括る。
そして3月発売の春号から新しい一年が始まる──。

もうじき春号(198号)が発売になる。
ステレオサウンドのウェブサイトに、どういう内容なのか告知されている。

一年前の春号(194号)のときにも気になっていた。
194号の特集は「黄金の組合せ2015 ベストバイスピーカーを鳴らす最良のアンプを選りすぐる」、
198号の特集は「タイプ別徹底比較! ベストバイスピーカー 19モデルの魅力」。
どちらにもベストバイスピーカーの文字がある。

つまりは前号(冬号)の特集であるベストバイの結果を受けての企画である。
198号はまだ発売されていないから内容については触れないが、
ここで冬号が一年の締括りだったことが、崩されようとしていることを感じる。

それが意識的なのか、それともそうでないのかはなんともいえないが、
これから先も春号でベストバイスピーカーを特集にもってくるのであれば、
一年を通じてのステレオサウンドの構成に微妙な変化をもたらすはずだ。

だから、意識的なのかそうでないのかによって、
そこで生じる微妙な変化に対する編集部の対応は違ってくる、ともいえるはずだ。

それから……、この件について書きたいことはまだあるけれど、今回はこのへんにしておく。

Date: 2月 25th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その20)

ステレオサウンド 44号について、ひとつ書き忘れていたことがある。
特集の「フロアー型中心の最新スピーカーシステム」のテスト機種として、
Lo-Dのブックシェルフ型のHS530が登場している。

この機種の試聴記の冒頭に瀬川先生が、こんなことを書かれている。
     *
 このメーカーの製品は、置き方(台や壁面)にこまかな注意が必要で、へたな置き方をして評価すると、このメーカーから編集部を通じてキツーイお叱りがくるので、それがコワいから、できるかぎり慎重に時間をかけてセッティングした……というのは冗談で、どのスピーカーも差別することなく、入念にセッティングを調整していることは、ほかのところをお読み下さればわかっていただけるはず。
     *
試聴記の1/3ほど、このことに割かれている。
41号から読みはじめた私には、このことがどういうことなのか、その詳細は当時はわからなかった。
なにかあったんだろうな、ということはわかっても、それ以上のことはわからない。

このころ瀬川先生は、私にとってもっとも信頼できるオーディオ評論家だった。
その瀬川先生が、あえて、こういうことを書かれている。
しかも、それが編集部によって削られることなく活字になっている。

いまのステレオサウンド編集部では絶対にありえないことだ。

Date: 2月 25th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その19)

ステレオサウンドを読みはじめて一年もすれば、次号の表紙はなんだろうな、と想像する。
このころはことごとく外れてしまっていた。

45号の表紙もKEFのModel 105だとは思わなかった。
何を予想していたのかはもう憶えていないが、
Model 105が表紙で嬉しかったのは憶えている。

いまはたいてい予想が当る。
毎号当るわけではないが、簡単に予想がつく号が、昔よりも増えてきている。

約40年前の予想といまの予想とでは違っていて当然であるが、
そればかりが表紙になる機種を当てられる理由ではないといっておきたい。

あのころは表紙の予想を含めて、ステレオサウンドを楽しんでいたし、楽しめた。

Date: 2月 25th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その18)

ステレオサウンド 45号の表紙はKEFのModel 105だった。

Model 105は44号の新製品紹介のページに登場していた。
山中先生と井上先生が評価されている。

Model 105のスタイルは、当時テクニクスがさかんに謳っていたリニアフェイズと同様だった。
マルチウェイの各ユニットの駆動中心を揃えている。

KEFがリファレンスシリーズと呼びはじめたModel 103、Model 104とは、
スタイルにおいてもサイズにおいても大きく違っている。
Model 105もリファレンスシリーズのモデルである。

44号の新製品紹介において、井上先生が語られている。
     *
井上 その一つの例をあげると、このシステムの振動板にはベクストレンという合成樹脂系のものが使われていますが、今までの合成樹脂系の振動板の音には一種の固有音めいたものがあったのですね。たとえばヴァイオリンではガット弦であるべきところがナイロン弦になったように聴こえてしまうところといった感じがつきまとっていたのですが、このシステムの場合それが感じられないといっていいと思います。これは大変な技術的進歩だといえますね。
     *
さらに井上先生は、こうもいわれている。
     *
井上 スピーカーを開発する場合、一方には「スピーカーは楽器なり」の考え方──開発・設計する側の一つの主張として感覚的なものを加えて独得な音色をつくり出す──もあるのですが、その痕跡はまったくといっていいほどこのシステムにはないですね。
     *
Model 105は、予価195000円(一本)とあった。
中学生には、これでも買えない金額だが、JBLの4343からすれば、1/3以下の価格だ。

山中先生がいわれているように《非常に理知的なスピーカー》という印象が、
外観からも、ステレオサウンドの記事からも充分伝わってきていた。

KEFのModel 105は、44号を読んで、私がいちばん注目していたスピーカーだった。
それが45号の表紙になっていた。

Date: 2月 24th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その17)

ステレオサウンド 44号が発売になったのは1977年9月。
41号、42号、43号と続けて買っていたけれど、44号はすぐには買えなかった。

当時中学三年だった私に1600円は、そうたやすく出せる金額ではなかった。
買いたい、すぐに買って帰って家でじっくりと読みたい……、
そう思いながら小遣いがたまるのを待っていた。

もうはっきりとは憶えていないが、一ヵ月以上経って、やっと買えた。
44号のスピーカーシステムの総テストには、JBLの4343は登場していない。
タンノイもBakeleyが載っていて、Ardenは載っていなかった。
スペンドールはBCIUIIで、BCIIではなかった。
アルテックもModel 15で、Model 19ではなかった。

当然これらのモデルが、スピーカーシステムの総テストから外れるわけがない。
注目のスピカーシステムなのだから、次号(45号)に載ることは、はっきりしていた。

44号を買ったのは10月にはいってからだった。
だから45号までは二ヵ月ほどしかなかったわけだが、
4343、Arden、BCIIが載るはずの45号だけに、その二ヵ月は、それまでの三ヵ月よりも長く感じたものだった。

できれば、その二ヵ月のあいだに、瀬川先生が試聴に使われたレコード、
黒田先生が使われた10枚のレコードのうちの数枚は買っておきたかった。

買って聴いていれば45号が、より濃密に読めるはず、と思いながらも、
一枚も買えずに12月になったものだった。

Date: 2月 23rd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その16)

ステレオサウンド 44号、45号のスピーカーシステム総テストにおいて、
瀬川先生が使われた試聴レコードは、八城一夫の“SIDE by SIDE Vol.3”の他に、
カラヤン/ベルリンフィルハーモニーによるベートーヴェン序曲集、
ギレリスのピアノ、ヨッフム/ベルリンフィルハーモニーによるブラームスのピアノ協奏曲、
ウィーンフィル室内アンサンブルによるベートーヴェンの七重奏曲Op.20、
フィッシャー=ディスカウによるシューマンのリーダークライス、
これらはすべてグラモフォンである。

あとはバルバラの「孤独のスケッチ」(フィリップス)、
テルマ・ヒューストンの「アイヴ・ゴッド・ザ・ミュージック・イン・ミー」、
このディスクはシェフィールドのダイレクトカッティング盤である。

さらに、その他、数枚適宜使用、とも記してある。

これらすべてのレコードについても、“SIDE by SIDE Vol.3”についてと同じように書かれていたら……、思っていた。
いまも思う。

《クラシックから歌謡曲まで、一枚一枚のレコードについて言い出せば、ゆうに本誌一冊分も書かなくてはならない》、
そう書かれているぐらいだから、
定期刊行物であるステレオサウンドにそれを求めるのは無理としても、
別冊というかたちで出版してくれていたら……、と思っていたし、いまも思っている。

オーディオは趣味だから……、という発言をこれまでに何度も耳にしてきた。
これから先も何度も聞くはずだす、目にするはずだ。

「オーディオは趣味だから……」の「……」のところ。
これを口にする人は「……」のところをどう考えているのだろうか。

中には趣味なのだから、好き勝手に聴けばいい、という。
この手のことを聞くたびに(目にするたびに)、
瀬川先生が《一枚一枚のレコードについて》、ステレオサウンド一冊分を書いてくれていたら……、とやはり思う。

瀬川先生だけではない、他の方々も書かれていたら、どうなっていただろうか。
ステレオサウンド 44号、45号での黒田先生の試みも、ここだけで終ってしまった。

黒田先生の試みは、そこに登場するレコードを持っていなかった(聴いていなかった)者にとっては、
わかりにくい、もしくは音をイメージしにくい面もあったし、
いま読んでも、このままでは試みとしては未熟な面があるといえるけれど、
なぜ、このような試みをあえてされたのかは、よくわかる。

「オーディオは趣味だから……」と簡単に口にするような人には伝わらないことだと思っている。

Date: 2月 22nd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その15)

ステレオサウンド 43号について書き始めたら、
どうしてもベストバイのことについて書きたいことが、とにかくあって、
書き続けていたわけだが、ベストバイの号は47号、51号、55号、59号……ずっと続いていく。

それぞれの号のところで書いていけるので、
ここらで43号(ベストバイ)からはなれて、次の号にうつっていきたい。

44号の表紙はゲイルのスピーカーシステムGS401Aだった。
ゲイルのスピーカーシステムの手前には、ブランデーグラスがぼんやりと写っている。

44号は秋号である。
秋の夜長に……、というわけでもないのだろうが、そんなことを思わせる表紙だ。

ゲイルのGS401Aは、両サイドをクロームメッキ処理したスピーカーで、
ステレオサウンドを読み始めてやっと一年の私にとって、初めて見る意匠でもあった。

特集は「フロアー型中心の最新のスピーカーシステム総テスト(上)」。
(上)とあることから、45号もスピーカーシステムの総テストだとわかる。

42号のプリメインアンプの総テストのスピーカーシステム版かというと、そうとはいえない。
44号、45号のスピーカーシステムの総テストは、42号と同様のスタイルの試聴記と測定ではなかった。

黒田先生の「スピーカー泣かせのレコード10枚の50のチェックポイントグラフ」、
それから特集冒頭の「最新スピーカーシステムの傾向をさぐる」(瀬川先生が書かれている)の最後、
どのレコードの、どういうところをどう聴いているのかが、ある程度具体的に示されている。

瀬川先生の、そのところを引用しておく。
     *
 あまり抽象論が続いても意味がないと思うので、ここで仮にただ一枚のレコードをあげて、その一枚でさえいかに再生が難しいかを考えてみる。クラシックからロックまでの幅広いジャンルのほぼ中ほどから、ジャズを一枚。それも、あまり古い録音や入手しにくい海外盤を避けて、オーディオラボの菅野沖彦録音から、“SIDE by SIDE Vol.3”をとりあげてみよう。今回の私のテストの中にも加えてあるが、私のその中で SIDE A/BAND 2の“After you’ve gone”をよく使う。
 SIDE by SIDEは、ベーゼンドルファーとスタインウェイという対照的なピアノを八城一夫が弾き分けながら、ベースとギター、またはベースとドラムスのトリオで楽しいプレイを展開する。第一面をベーゼンドルファー、第二面をスタインウェイと分けあって、それにひっかけてSIDE by SIDEのタイトルがついている。
 After you’ve goneは、まず八城のピアノと原田政長のベースのデュオで始まる。潮先郁男のギターはしばらくのあいだ、全くサイドメンとして軽いコードでリズムを刻んでいる。ところがこのサイドのギターに注意して聴くと、スピーカーによってはその存在が、耳をよく澄まさなくては聴き分けにくいような鳴り方をするものが少なくない。またギターそのものの存在が聴き分けられても、それが左のベース、中央のピアノに対して、右側のギターという関係が、適度に立体的な奥行きをもって聴こえなくてはおかしい。それが、まるでスクリーンに投影された平面像のように、ベタ一面の一列横隊で並ぶだけのスピーカーはけっこう多い。音像の定位とは、平面だけのそれでなく前後方向に奥行きを感じさせなくては本当でない。適度に張り出すとともに奥に引く。奥行き方向の定位感が再現されてこそ、はじめてそこにピアノ、ギター、ベースという発音体の大きさの異なる楽器の違いが聴き分けられ、楽器の大きさの比が聴きとれて、つまり音像は立体的に聴こえてくる。
 次に注意しなくてはならないのは、ベーゼンドルファーというピアノに固有の一種脂こい豊麗な音色がどれだけよく聴きとれるかということ。味の濃い、豊かに丸味を帯びて重量感のあるタッチのひとつひとつが、しっとりとしかもクリアーに聴こえるのがほんとうだ。ことに、左手側の巻線の音と、右手側の高音域との音色のちがい。ペダルを使った余韻の響きの豊かさと高音域のいかにも打鍵音という感じの、柔らかさの中に芯のしっかりと硬質な艶。それらベーゼンドルファーの音色の特色を、八城の演奏がいかにも情感を漂わせてあますところなく唄わせる。この上質な音色が抽き出せなくては、このレコードの楽しさは半減いや四半減してしまう。
 ところで原田のベースだが、この音は菅野録音のもうひとつの特長だ。低音の豊かさこそ音楽を支える最も重要な部分……彼(菅野氏)があるところで語っているように、菅野録音のベースは、他の多くのレコードにくらべてかなりバランス上強く録音されている。言いかえれば、菅野録音のベースを本来の(彼の意図した)バランスで再生できれば、それまで他のレコードを聴き馴れた耳には、低音がややオーバーかと感じられるほど、ベースの音がたっぷりした響きで入っているのだ。
 ところがこのレコードを鳴らしてみて、むしろベースの音をふつうのバランスに聴かせてしまうスピーカーが意外に多い。むろん、同じ一つのスピーカーで、菅野録音とそれ以外のレコードを聴きくらべてみれば、相対的にその差はすぐわかる。だが、このレコードのベースの音は、ふつう考えられているよりもずっとオーバーなのだ。それがそう聴こえなければ、そのスピーカー(またはその装置あるいはリスニングルーム)は、低音の豊かさが欠如していると言ってよい。
 お断りしておくが、私はこのレコードのベースのバランスが正しいか正しくないかを言おうとしているのではない。あくまても、レコード自体に盛られた音が、好むと好まざると、そのまま再生されているかいないか、を問題にしているので、その意味でもこのレコードは、テストに向いている。
 ところで最後に、テストに向いているというのはあくまでもこのレコードのほんの一面であって、ここで展開される八城トリオの温かく心のこもったプレイは、そのまま、音楽そのものが聴き手をくつろがせ、楽しませる。良いスピーカーでは右の大別して三つの要素が正しく再現されるということは良いスピーカーの最低限度の条件にすぎないので、その条件を満たした上で、何よりもこの録音が最も大切にしているアトモスフィアが、聴き手の心に豊かに伝わってくることが、実は最大に重要なポイントなのだ。面倒な言い方をやめてたったひと言、このレコードが楽しく聴けるかどうか、と言ってしまってもよい。ところがこのレコードの「音」そのものは一応鳴らしながら、プレイヤーたちの心の弾みや高揚の少しも聴きとれないスピーカーがいかに多いことか。

 たった一枚のレコードをあげてでも、そしてその中のたかだか3分間あまりの溝の中からでも、ここに書いたよりさらに多くの音を聴きとる。スピーカーテストとはそういうことだ。そういうレコードを十枚近く用意すれば、そのスピーカーが、「音楽」を聴き手に確かに伝えるか否かが、自ずから明らかになってくる。クラシックから歌謡曲まで、一枚一枚のレコードについて言い出せば、ゆうに本誌一冊分も書かなくてはならないが、逆にいえばどんなレコードでもいい。聴き手にとってより知り尽くした一枚のレコードに、いかに豊かな音楽が盛られているかを教えてくれるスピーカーなら、おそらくそれは優れたスピーカーだ。
     *
オーディオラボの“SIDE by SIDE Vol.3”は、まだ持っていなかった。
歩いて行けるところにあるレコード店ではオーディオラボのレコードは扱ってなかった。

バスで約一時間、LPほぼ一枚分の乗車賃を払って熊本市内のレコード店に行かなければならなかった。
しかも、そこで“SIDE by SIDE Vol.3”をみかけたことはなかった。

それでも瀬川先生の書かれたものを読み返しては、
いつか“SIDE by SIDE Vol.3”を買ったら、そこに書かれている聴き方をするんだ、と思い続けていた。
14歳のときの話だ。

Date: 2月 20th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その14)

出している、と変換したいのに、ときおり「堕している」と出る。
このまま「堕している」にしておこうかと、その度に思う。

AppleのPowerBook G4と親指シフトキーボードで、このブログを書いている。
最近PowerBook G4の液晶ディスプレイの具合が悪いことが頻繁で、
iMacでローマ字入力で書くことも増えてきたが、
このブログのほとんどはPowerBook G4と親指シフトキーボードの組合せで書いてきた。

つきあいの長いPowerBook G4と親指シフトキーボードの組合せだから、
私がステレオサウンドを、どう思っているのか、わかっていて「堕している」と変換候補を出しているような気さえする。

私は、ステレオサウンドがおもしろくない、と感じているわけでも、考えているわけでもない。
「堕している」があらわしているように、ダメになってしまった、と感じているし考えている。
オーディスト」のことに関しても、そうである。

そういう私に、いまのステレオサウンドはおもしろいという人(一人ではない)がいる。
もうそういう問題ではなくなっている、と感じている。

そういう人たちから感じられるのは、自分こそがステレオサウンドの良き理解者だ、という、
安っぽい正義感とでも言おうか、なんとも表現しにくい気持悪さである。

Date: 2月 19th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その13)

ステレオサウンドに対して批判的、否定的なことばかり書くやつだと思われているようで、
数度、いまのステレオサウンドはおもしろい、といったことをいわれたことがある。

そういってくる人が、ステレオサウンドを読みはじめて二年くらいの、
そして10代の若者であれば、そう思ってしまうのは当然だと思うし、
私だって、いま10代で、ステレオサウンドを読みはじめて二年くらいであれば、そう思うだろう。

けれど、私に、いまのステレオサウンドはおもしろい、おもしろくなってきている、
といってきた人は、いずれも私よりも年輩の、
私よりも古くからステレオサウンドを読んできている人であった。

えっ、と思う。
ほんとうに、この人は、いまのステレオサウンドをおもしろいと思っているのか。
だから理由をきく。
返ってくることをきいていてると、
いまのステレオサウンドがおもしろい、とはいったいどういうことなのか、と考えてしまう。

少なくとも私は、そういう人たちが返してくる「ステレオサウンドがおもしろい」理由に納得できなかった。
納得できないから、もういいや、と思うときもあるし、さらにつっこんでききかえすこともある。
そういうときにも「時代が違うから……」が出てくる。

私に対して、「時代が違うから……」という人は、
いまのステレオサウンドの理解者である、と私にいいたいのだろうか。

私に対して、おまえはいまのステレオサウンドを理解していない──、
そういいたいのだろうか。

こういう時、私が思っているのは、理解と同情は違う、ということである。

Date: 2月 18th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その12)

ステレオサウンドのベストバイ特集の一回目の35号と二回目の43号までの二年間には、
六冊のステレオサウンドと二冊の別冊の他に、
HI-FI STEREO GUIDEが夏と冬に刊行されていた。

いまのステレオサウンドはどうだろう。
毎年冬号でベストバイは第二特集として定番となっている。
けれど前年の冬号からの一年間に、どれだけの内容を世に送っているだろうか。

まず別冊は出ていない。
そういうと、出しているだろう、という反論があるのはわかっている。
確かに別冊は出ているが、それはステレオサウンド編集部とは別の編集部による別冊であり、
1970年代に出ていた別冊と違う別冊である。

だから同じには考えられない。
そしてHI-FI STEREO GUIDEも出ていない。

特集記事を見ていくと、どうだろうか。
徹底試聴、総テストと呼べる特集が、いまのステレオサウンドで組まれているのかといえば、
残念ながら、そうではない。

43号のベストバイ特集と、現在のベストバイ特集とでは、
背景が大きく違っている。

こう書くと、時代が違う、という反論をいってくる人がいる。
時代は確かに違う。

だからといって、時代が違う、は何のいいわけにもならない。
編集者が「時代が違うから……」と、もしいっているようでは、
口にしていなくとも、心の中でそう思っているのであれば、
その本には、もう期待できないといっていいだろう。

では読者が「時代が違う」というのはいいのか。
私は、これも問題だと捉えている。

結局、そういってしまったことが伝われば、編集部を甘やかすことに、
編集部にいいわけを与えることにつながっていくと考えるからだ。

時代は変っていく。
ただ変っていくだけなのか。
どう変っていっているのか。
そのことを見極めずに「時代が違うから……」といってしまって、どうするというのか。

Date: 2月 14th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その11)

ベストバイという企画は、人気のある特集である。
だからこそ43号以降、毎年一回、ステレオサウンドはベストバイを特集にもってきている。
実際にベストバイの号の売行きはいい、ときいているし、
最近では年末の号(ベストバイが第二特集となっている)では、特別定価である。

つまりベストバイの号だけ買う読者がいる、ということである。
その一方で、ベストバイの号だけは買わない、という読者がいる、ということもきいている。

買わないという人たちに共通する意見として、
ベストバイはカタログ誌(号)である、というのがある。
口の悪い人になると、ベストバイだけではない、最近のステレオサウンドすべてがカタログ誌だ、と。

以前も書いたことだが、ほんとうにいまのステレオサウンドはカタログ誌だろうか、
もっといえばカタログ誌たりえているだろうか。

昔からステレオサウンド、その別冊を読んできた者にとっては、
年二回刊行されていたHI-FI STEREO GUIDE(のちのStereo Sound YEAR BOOK)こそが、
カタログ誌と呼べる内容の本だった。

ベストバイの号をカタログというのは、侮蔑の意味が込められている。
けれどカタログは必要でもあり、
カタログ誌も必要なものである。

カタログはメーカーや輸入商社、もしくはオーディオ店から貰うものかもしれないが、
これらはカタログは、当然のことながら、
そのメーカーの、スピーカーならスピーカーだけ、アンプならアンプだけのカタログであることが多い。

けれど、これがカタログ誌となると、すべてのブランドの、すべての機種を一冊で網羅している。
HI-FI STEREO GUIDEは、その意味でカタログ誌であり、そこには侮蔑の意味はまったくない。

HI-FI STEREO GUIDEは地味な存在である。
けれど大切にしなければならない存在でもあった。

Date: 2月 13th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その10)

一回目のベストバイの35号、二回目のベストバイの43号、
この二冊のステレオサウンドのあいだに、六冊のステレオサウンドと二冊の別冊が刊行されている。
性格には「世界のオーディオ」シリーズも刊行されているが、
編集意図が異る別冊なので除外する。

36号の特集は「スピーカーシステムのすべて(上)」、続く37号は「スピーカーシステムのすべて(下)」で、
この二冊で80機種のスピーカーシステムを試聴している。
38号は「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」、
39号は「世界のカートリッジ最新123機種の総試聴」、
40号は「世界のプレーヤーシステム最新50機種の総試聴」、
41号は「コンポーネントステレオ世界の一流品」、
42号は「プリメインアンプは何を選ぶか 最新35機種の総テスト」となっている。

別冊は1976年夏に「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」が出ている。
ここでは72機種のセパレートアンプの試聴が行われている。

もう一冊の別冊は1976年暮の「コンポーネントステレオの世界 77」で、
45の組合せが登場する。

この時代のステレオサウンドは、総試聴、総テストという言葉があらわしているように、
徹底した試聴と、そして測定を行っていた。

スピーカーシステムの総テストを二号にわたっておこなう。
このスタイルは44号、45号でも引き継がれている。
この二冊は「フロアー型中心の最新スピーカーシステム総テスト」であり、
さらに46号では「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」で、
つまり三号続けてのスピーカーシステムの特集となっていた。

25号と43号のあいだで、
ステレオサウンドはアナログプレーヤー、カートリッジ、プリメインアンプ、
コントロールアンプとパワーアンプ、そしてスピーカーシステムと、
全ジャンルの総テストを行っている。
(カセットデッキ、オープンリールデッキは隔月刊のテープサウンドが行っていた。)

これだけのことが行われてきたうえでの、43号のベストバイ特集である。

Date: 2月 11th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その9)

ステレオサウンド 43号の特集は、
35号に続いて二回目のベストバイである。

35号と43号とのあいだにはちょうど二年ある。
ベストバイは、その後47号、51号、55号……と続き、
毎年夏号掲載は冬号掲載に変り、現在に至っている。

私にとっては43号のベストバイが、最初のベストバイだった。
だから、というわけではないが、43号のベストバイがもっとも読み応えのあるベストバイ特集である。

35号はステレオサウンドで働くようになって読んだ。
43号以降、ベストバイ特集は一度も43号を超えてはいない。
だから35号のベストバイ特集が気になっていた。

35号は私が41号を手にした時には、すでにバックナンバーは売切れだったのだから、
期待は高まっていた。
35号のベストバイは43号のベストバイよりも、もっと読み応えがあるのかもしれない、と。

結果は43号のベストバイが、もっともいい。
そしてもうひとつはっきりといえるのは、
このころのベストバイといつのころからか変質してしまった現在のベストバイは、
同じ「ベストバイ」特集と謳っていても、同じとはいえない。

このことはベストバイの号だけ比較しての話ではない。
ベストバイの号とベストバイの号のあいだに発行されるステレオサウンドの特集と関係しているし、
ベストバイ特集が持っていた意味が大きく変化したというよりも、失われてしまった、ともいえる。

Date: 2月 10th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その8)

ステレオサウンド 42号、43号の表紙を見て私が想像したようなことは、
ステレオサウンド編集部はまったく意図していなかったことなのかもしれない。

意図しての表紙だったともいえるし、そうでないともいえる。
どちらなのかはわからないし、どちらでもいいと思っている。

当時中学生だった私が、42号、43号の表紙を見て、組合せを想像したことが大事なことであって、
こういう想像を喚起させる何かが、いまのステレオサウンドの表紙からはすっぱりと消えてしまっている。
そのことを残念だと思う。

いま書店に並んでいる197号。
表紙はB&Wのスピーカーシステムだが、
このモデルになることは、そこそこステレオサウンドを読んでいて、
新製品情報をこまめにチェックしている人ならば、容易に予想できていたはずだ。

だから12月に書店で197号を見かけて、やっぱりね、としか思えなかった。
それでもこちらが気づかない良さを表紙が感じさせてくれるのであれば、まだしもといえるけれど、
それすら感じられない表紙を見ていると、どうしてもなぜなんだろう? と考えてしまう。

現編集長の染谷一氏の年齢を知らない。
写真をみるかぎり、私よりも一世代若い方のようだ。
だとしたら42号、43号をその当時読んでいたわけではない。

でも、それだけが理由だろうか。
そういうことは理由にはならないようにも思う。

ステレオサウンドで働くということは、過去のステレオサウンドを自由に読めるということでもあるからだ。