瀬川冬樹氏のこと(その37)
マーク・レヴィンソンは、書いている。
「日本文化のひとつの側面は、禅の教えです。瀬川さんのおっしゃる言葉には、禅の教えのように、心を打つものがありました。もちろん、おっしゃったことが正しかったからですが、それよりも私が非常に重要だと思うことは、氏のおっしゃり方、言われた人に伝わるそのお気持」にあるとしている。
レヴィンソンは、瀬川先生の一言で、「もっと内なる真実」を見つめることになる。
マーク・レヴィンソンは、書いている。
「日本文化のひとつの側面は、禅の教えです。瀬川さんのおっしゃる言葉には、禅の教えのように、心を打つものがありました。もちろん、おっしゃったことが正しかったからですが、それよりも私が非常に重要だと思うことは、氏のおっしゃり方、言われた人に伝わるそのお気持」にあるとしている。
レヴィンソンは、瀬川先生の一言で、「もっと内なる真実」を見つめることになる。
1982年には、さらにローコスト化を図ったML11LとML12Lが出てきた。
コントロールアンプのML12Lは、電源部を持たず、ML11Lから供給を受けるようになっていて、
それぞれ72万円という価格がつけられ、個別に売られているものの、基本的には組合せで使うものとなっていた。
これが、MLナンバーのついた、最後のアンプというのは、さびしいし、かなしい。
瀬川先生は、ML11LとML12Lはもちろん、ML9LとML10Lの存在もご存じないだろう。
1981年8月6日、ステレオサウンド創刊20周年記念号の取材中に倒れられ、翌7日に再入院されている。
亡くなられたのは、ちょうど3ヶ月後の11月7日の、午前8時34分。
レヴィンソンは、瀬川先生に、これらのアンプの存在を知られたくなかったのではないのか。
私は勝手にそう思っている。間違いないと思っている。
そしてこのころ、LNP2Lにも変化があった。
インプットアンプのゲイン切替えが、初期のモデルと同じ、0、+10、+20dBの3段階に戻されている。
別項の「Mark Levinsonというブランドの特異性」で書いていたが、
使い難さを指摘されながらも、+30、+40dBの5段階にしていたのは、
レヴィンソンにとっての、求める音のためであったのだろうし、
それを使いやすさのためだけに(私はそう思う)、音の冴えが損なわれるポジションのみとなったこと──、
すでにマークレビンソンというブランドは、レヴィンソンの手を確実に離れつつあった。
1981年の秋には、マークレビンソンから、ML9LとML10Lが発売された。
当時の価格は、どちらも85万円。普及価格帯の製品ではないが、
マークレビンソンとしては、初の価格を意識したアンプである。
このペアが、ステレオサウンドの誌面に登場したときは、まだ読者だった。
正直、落胆した記憶がある。マークレビンソンらしくないアンプだと感じたからだ。
ML9LとML10Lは、マドリガル体制になってからの、初のアンプでもある。
ただ、このことを知ったのは、数年後だった。
アンプの開発には、それなりの時間が必要だから、ML9LとML10Lを企画したのは、
事業経営に忙殺されていたレヴィンソンだったのか、マドリガルの首脳陣だったのかは、はっきりしない。
私にとって、マークレビンソンのアンプは、こちら側から近づいていく存在であり、
価格を抑えることで、向こうからこちらにすり寄ってきてほしくはない。
ステレオサウンドに入ったころは、傅さんが、ML7Lの購入を決意されていた頃でもある。
傅さんが、どれほどML7Lに惚れ込まれていたのかを、みて知っている。
頭金をつくるために、愛着のある、手もとに置いておきたいオーディオ機器の処分を決意され、
どれを手放さなければならないのか、リストアップされていたのを知っている。
支払いの計算も、用意できる頭金の額によって、いくつも計算されていた。
お金のなる木をもっている人ならば、ポーンと即金で買えるだろう。
だが、そんなものは、世の中にはない。傅さんも持っていなかったし、私も持っていない。
だから、MLナンバーがつく、マークレビンソンのアンプを購入するということは、苦労が伴うことでもあった。
そうしてでも手に入れる価値あるアンプだと、私は思っていたから、
言葉にしなかったが、傅さんには共感していた。心強く思ってもいた。
念願のML7Lを手に入れられた傅さんは、輸入元による付属のウッドケースが気にいらず、
オリジナルの、白木のウッドケースを取り寄せられている。
だから、ML9L、ML10Lが登場したとき、瀬川先生はなんとおっしゃるのか、それがとにかくも知りたかった……。
マーク・レヴィンソンは、このとき、瀬川先生のお宅の「壁ぎわに、古い小さなピアノがあるのに気がつき」、
10分間ほど、仕上げたばかりの自作の曲を弾いている。
弾き終ったレヴィンソンに、
「演奏中は、お顔の表情がまったく違っていましたよ。大変おくつろぎのご様子で、本当に幸せそうでした」と
瀬川先生はおっしゃったそうだ。
この瀬川先生の言葉を、レヴィンソンは「忘れることができないであろう一言」と、表している。
この瞬間(とき)、レヴィンソンは、「私の人生には音楽しかなく、会社経営とか技術という分野は元来、
自分の領域ではない、という私にとって動かしがたい真実」を、悟ったと書いている。
「真に幸せであるためには、いかなる変化が要求されようとも、私が生きていくためには、
音楽のためにより多くの時間と、空間を創り出すことが絶対に必要であること」も思い出している。
LNP2やJC2、ML2が高い評価を受けるとともに、会社も急激に大きくなり、
レヴィンソンの「心は事業経営に忙殺され」、音楽に費やす時間が、反比例して減っていく。
成功とともに失ったものに気づき、「音楽に再び帰るべきこと」を、
レヴィンソンは、瀬川先生の「思いやりのある言い方」で決心したのだろう。
瀬川先生は、「茶目っ気たっぷりの目をクリクリさせながら」言われたそうだ。
暗中模索が続き、アンプは次第に姿を変えて、ついにUX45のシングルになって落着いた。NF(負饋還)アンプ全盛の時代に、電源には定電圧放電管という古めかしいアンブを作ったのだから、やれ時代錯誤だの懐古趣味だのと、おせっかいな人たちからはさんざんにけなされたが、あんなに柔らかで繊細で、ふっくらと澄明なAXIOM80の音を、わたしは他に知らない。この頃の音はいまでも友人達の語り草になっている。あれがAXIOM80の、ほんとうの音だと、わたしは信じている。
誤解しないで項きたいが、AXIOM80はUX45のシングルで鳴らすのが最高だなどと言おうとしているのではない。偶然持っていた古い真空管を使って組み立てたアンプが、たまたま良い音で鳴ったというだけの話である。しかしわたくし自身はこの体験を通じて、アンプというもののありかたを自分なりに理解できたつもりであり、また同時に、無責任な「技術の進歩」などという言葉をたやすくは信じなくなった。
※
ステレオサウンドの7号(1968年)に、瀬川先生が書かれた文章である。
瀬川先生が理解された「アンプのありかた」、AXIOM80が啓示した「アンプのありかた」──、
これらのことが、瀬川先生とLNP2との出合いにつながっていく。
ステレオサウンドで働きはじめたばかりのころ、先輩編集者のSさんが、あるレコードを聴かせてくれた。
ポール・ブレイの「バラッズ」だ。
マーク・レヴィンソンがベーシストとして、2曲参加している。
録音は1967年だから、レヴィンソンは17か18歳だ。
レヴィンソンがミュージシャンとして、短い期間だが活動していたことは知っていたが、
こんなに若いときとは思いもしなかった。
Sさんは「レヴィンソンのアンプっぽい演奏だよ」と言っていた。
「ハメをはずすことのない、どこか神経質な感じを漂わせる演奏」というSさんの言葉が、
先にあったためか、たしかにジャズに詳しくない私の耳にも、そんなふうに聴こえていた。
マーク・レヴィンソンについて書いていたら、ふとこのレコードのことを思い出し、
検索してみたら、2000年にユニバーサルミュージックからCDが発売されていた。
CDのディスク番号は、UCCE3003。
すでに廃盤のようだが、Amazonで新品が入手できた。
それほど入手は難しくないようだ。
ただAmazonでは、新品が定価で買えるのに、中古盤が、ほぼ4倍の価格で出品されてたりもする。
今日届いたCDの帯には、「世界初CD化」とある。
おそらく日本盤しかないのだろう。
「これだ、これ。あの時聴いたレコードだ」と、27年前のことを、聴いていたら、けっこう鮮明に思い出せた。
ステレオサウンドで働いてなかったら、聴く機会はなかったであろうディスクだ。
レヴィンソンが参加しているレコードは、他にもあるらしい。
このころから、レヴィンソン自身が目指している音のベクトルと、
瀬川先生が求められている音の性格が、すこしずつ離れてはじめてきたようにも感じられる。
瀬川先生がLNP2をはじめて聴かれたときからML2L登場までの数年間は、それはぴったり重なっていたように、
読者だった私は、そんなふうに受けとっていた。
それがHQDシステムについて書かれた記事、ML3Lについての文章、
そして1981年6月にステレオサウンド別冊として出たセパレートアンプ特集号の巻頭の文章と読んでいくうちに、
すこしずつ確信を深めていくようになった。
あきらかにレヴィンソンと瀬川先生の求めている世界が変わりはじめていることを。
(レヴィンソン自身だけでなくブランドも含めて)Mark Levinsonにとって、
1977年は、パワーアンプのML2LによりHQDシステムを完成させただけでなく、
前述したようにレコード制作にも、いままで以上に積極的に取り組むなど、ひとつのピークを言えるだろう。
MLAのレコードが日本に正式に輸入されるようになったのは77年からだが、その約2年前に、
ピアノ・ソロのMLA2は録音され、レコードになっていたらしい。
このレコードにつかわれているピアノは、マーク・アレン・コンサートグランドという、はじめて聞くものだ。
70年代半ばごろに、アメリカでつくられはじめたカスタムメイドのピアノということで、
ベヒシュタインのメカニズムの流れを汲んでいるとか。
話を戻そう。
ステレオサウンド45号のインタビューによると、77年までに1ダース以上のHQDシステムを組み上げたとある。
最低でもML2Lを6台必要とし、コントロールアンプもLNP2LかML1L、それにLNC2も必要となる。
当時ML2Lの日本での価格は、1台80万円だった。これが6台……。
計算すると、1000万円では、まったく足りない。
ウーファーのハートレーをML2Lのブリッジ接続で駆動して、
QUADのESL1台に1台のML2Lをあてがっていくと、10台のML2Lが必要となる。
ここまでやって人がいるのかわからないが、HQDシステムにはそういう余地も残されている。
HQDシステムが、どういう音で鳴るのか──、
レヴィンソンは「HQDシステムが適切にセットアップされると実に面白い事が起こるのです。
誰もがオーディオについてもう語るのを止め、音楽にじっと耳を傾け出すのです」とインタヒューで答えている。
ステレオサウンドには、瀬川先生が書かれている。
ホテルの広間を借りて、レヴィンソン自身の調整によるHQDシステムに音について書かれている。
手もとに、その号がないため正確に引用できないが、これだけのシステムとなると、
聴き手の調整次第でどうにでも変化する。
そうことわられたうえで、その時鳴っていたHQDシステムの音には、
自分だったら、こうするのに、といったことを書かれていたように記憶している。
MLAのレコードは、ビクターが開発したUHQR(Ultra High-Quality Record)となる。
MLAのレコードに限らず、キングのスーパーアナログディスクなどの高音質を謳ったものは、
重量盤が大半で、厚みも通常のレコードの平均値と比して、けっこうな厚みである。
そのことに価値を見いだす人が多いからなのだろうが、個人的には重量盤、
正確に言えば厚みのあるレコードは、それほど好きとは言えない。
理由は、レコードの厚みが変われば、
カートリッジのヴァーティカルトラッキングアングルが変わってしまうからだ。
アナログプレーヤーの調整の基本として、レコード盤面にカートリッジの針を降ろした状態で、
トーンアームのパイプが水平にするようになっている。
実際に音を聴きながらトーンアームの高さを調整していくと、水平状態よりも、
ほんの気持分、トーンアームの支点(軸受け)側のほうが持ち上がっているほうが、
トレースも安定するようだし、音を聴いても納得できる。
長島先生も、すこし高めにしたほうがいい、としきりに言われていた。
完全な水平がいいのか、すこし高めにしたほうがいいのか、
どちらがいいのかは措いとくとしても、トーンアームの高さ調整が、
トレース能力、音に関係していることを否定される方はいないはず。
だから真剣にアナログディスク再生に取り組むのであれば、トーンアームの高さ調整は、
調整が進めば進むほど、ほんのわずかな差でもはっきりと聴き取れる差となってくる。
そうやって位置決めをしても、厚みのあるレコードをかけるならば、
その度にレコードの厚みによって調整をしなければならない。
そして、また平均的な厚みのレコードのときには、元に戻さなければならない。
正直、これはめんどうな作業でしかない。
いい音で鳴らすための調整ならば、いいポジションが決まるまで根気よく音を聴き、調整し、
という行為を飽きることなくくり返せるが、すくなくとも一度決めてしまったものを、
レコードをかけ替えるたびに、またいじるのは、ごめん蒙りたい。
トーンアームの高さ、つまりカートリッジのヴァーティカルトラッキングアングルに無頓着で、
「このレコード、重量盤だから音がいいんだよ」という言葉に、説得力はない。
同じことはターンテーブルシートにもいえる。
ターンテーブルシートの聴き比べを行なうのなら、トーンアームの高さを、
シートの厚みに合わせて一枚一枚調整していくのが基本である。
マーク・レヴィンソンは、アンプづくりだけでなく、レコードづくりのほうにも積極的に関わっていく。
MLAシリーズのレコードの発売後、MLA(Mark Levinson Acoustic Recording)社として、
録音部門を独立させている。
ステレオサウンドの45号のインタビューでは、スチューダーのA80のトランスポートを20台入手すると語っている。
これに自社製のエレクトロニクスをのせ、20台のマスターレコーダーをつくり、
録音時に同時に使い、いちどに20本のマスターテープを作るというものだ。
もちろん、20本のマスターテープは、特別価格で販売される(実際に発売されたのかはわからない)。
もし売り出していたとしたら、1本いくらしたのだろうか。
レコード制作に関しても、ハーフスピード・カッティングに優れた面を見いだしていたようで、
そのための器材の開発も行なっている、と語っている。
ただしインタビュー時点では、まだハーフスピード・カッティングは行なっていない。
レヴィンソンがハーフスピード・カッティングに目をつけた理由は、
カッティングヘッドそのもののスルーレートにあり、
これがカッティングに関して根本的な制約になっている考えからである。
1977年、当時のマークレビンソンの輸入元であった
R.F.エンタープライゼスが輸入していたMLAシリーズのレコードは,次のとおり。
MAL1 :バッハ/6つのシュブラー・コラールほか
マートル・リジョー(オルガン)
MAL2 :ラヴェル/高雅にして感傷的な円舞曲
ハイドン/ピアノ・ソナタ第49番
ロイス・シャピロ(ピアノ)
MAL3 :ヴィヴァルディ=バッハ、ウェーリング、ヒンデミット、ドビュッシー、アイヴスほか
ニュー・ヘヴン金管五重奏団(2枚組)
MAL5 :バッハ/フーガの技法(4枚組、45回転盤)
チャールズ・クリグハイム(オルガン)
価格は1枚7000円、4枚組のフーガの技法は28000円だった。
レコーダーにはスチューダーA80とのこと。
おそらくA80のトランスポートのみ使用し、エレクトロニクス部をつくり換えた、後のML5だと思われる。
マイクロフォンは、マークレビンソン・ブランドの製品のほかに、
一時期、ショップスのマイクロフォン用ヘッドアンプをつくっていたこともあるので、
ショップスか、B&Kの測定用のものだろう。
おそらくワンポイント録音だと思われる。
ノイズリダクション、リミッター、イコライザーの類はいっさい使っていない。
凝り性のレヴィンソンは、当時のアメリカの整盤技術に不満を持っていたため、
フィリップスやグラモフォンのレコードのプレスを行なっていたフランスのCD-S社に依頼している。
しかもそのためにフランスまで、録音したA80そのものをマスターテープとともに運んで、
カッティングとプレスを行なっている。
CD-SにもA80はあったと思われる。それでもA80をわざわざ運んでいるということは、
やはりエレクトロニクスを自社製のものに置き換えたA80なのだろう。
マーク・レヴィンソンは、次のように語っている。
※
私がいつも思うのは、いわゆるサウンドシステムというものはオーディオの全体の半分にしかすぎぬものということです。他の半分とは、われわれがそのシステムによって再生しようとするソース・マテリアルです。
今日において、われわれの有するステレオ・コンポーネントの数々は、その再生能力において普通手に入るソース・マテリアルの持つフィデリティーをはるかに凌駕するものがあると思います。実際に、私達の製品の持っている本当の能力を正しく評価するためには、音の差について判断を下すことを可能にするような、特製のレコードやテープを用いることなしには不可能です。
私の目標とするところは、音楽のイベントを再現することで、これは終始変わりません。ステレオ・コンポーネントの性能をどんどん高めてゆくと、非常に多くのレコードが音楽のイベントを正確に捉えていないという事実の認識に至らざるを得ません。そういった今までの多くのレコードをよい音で鳴らそうとすれば、再生機側に歪みや色付けを付け加えなければならないことすらあるのです。
※
1977年春に、マーク・レヴィンソンは8枚のレコード、
MLA (Mark Levinson Acoustic Recording Series) を世に出している。
ステレオサウンドの44号、45号は、「フロアー型中心の最新スピーカーシステム」と題し、
61機種のスピーカーシステムをとりあげている。
その中にKEFの105が含まれている(45号に掲載)。
瀬川先生の試聴記を書き写しておく。
※
一年以上まえから試作品を耳にしてきたが、さすがに長い時間をかけて練り上げられた製品だけのことはある。どんなプログラムソースに対しても、実に破綻のない、ほとんど完璧といいたいみごとなバランスを保っていて、全音域に亘って出しゃばったり引っこんだりというような気になる部分はほとんど皆無といっていい。いわゆるリニアフェイズ型なので、設置および聴取位置についてはかなり慎重に調整する必要がある。まずできるかぎり左右に大きくひろげる方がいい。少なくとも3メートル以上。スピーカーエンクロージュアは正面を向けたままでも、中音と高音のユニットをリスナーの耳の方に向けることができるユニークな作り方だが、やはりウーファーごとリスナーの方に向ける方がいいと思う。中〜高域ユニットの垂直方向の角度も慎重に調整したい。調整がうまくゆけば、本当のリスニングポジションは、ピンポイントの一点に決まる。するとたとえば、バルバラのレコードで、バルバラがまさにスピーカーの中央に、そこに手を伸ばせば触れることができるのではないかと錯覚させるほど確かに定位する。かなり真面目な作り方なので、組合せの方で例えばEMTとかマークレビンソン等のように艶や味つけをしてやらないと、おもしろみに欠ける傾向がある。ラフな使い方では真価の聴きとりにくいスピーカーだ。
※
そして45号には、マーク・レヴィンソンのインタビュー記事が載っている。
マーク・レヴィンソンは、1982年に、追悼文を書いたと、サプリームの発行日からも、そう思われる。
サプリームの「瀬川冬樹追悼号」を、私はいま読んでいる。そのことを幸運だと思ってもいる。
82年春に読んでいては、レヴィンソンにとって、1981年がどれだけ大変な1年であったのかが、
その時は伝わってこなかった情報によって、わからなかったからだ。
1981年は、瀬川先生の死だけではなく、彼自身の会社(MLAS=Mark Levinson Audio Systems)が、
マドリガル・オーディオ・ラボラトリーズのマネージメント下におかれることになり、
マーク・グレイジャー、フィリップ・ムジオ、サンフォード・バーリンによって、
すべてのエンジニアリングは管理・指揮されるシステムへと変わっていたのだ。
そして1984年、マーク・レヴィンソンは、MLASを離れる。
社名も、マドリガル・オーディオ・ラボラトリーズ・インクとなり、
マークレビンソンはブランド名となってしまう。
なぜ、この年だったのか……。
契約上、決ってきたことなのか、それとも他に理由があるのか。
私は思う──、1983年秋に、LNP2の製造が打ち切られている。
この決定によって、レヴィンソンは、自らつくった会社を離れる決心をしたのだ、と。
レヴィンソンが、瀬川先生と最後にあったのは、ひな祭りのときだとあるから、
1981年3月ごろのことだろう。
レヴィンソンは、この時、MLASの販売部長のリンダ・マリアーノと、
瀬川先生の新築なったばかりの、世田谷に建てられた、瀬川先生のリスニングルームを訪ねている。
「相当の労力が注ぎ込まれたことは明らかであり、設計や建築にあたって、
細心の行きとどいた配慮がなされていること」が一目瞭然の、
その「簡素で優雅なたたずまい」のリスニングルームに、ふたりは感銘を受けている。
さらに「このような品位の高さは、氏自身の資質をそのまま反映したもの」とも言っている。
このリスニングルームで、瀬川先生の音を聴き、いくつかの新旧のオーディオ機器の比較試聴をすることで、
ふたりとも「同じような聴き方をしているように」感じ、
「また録音や機器の評価の観点が、まったく同じであること」に、気づく。
瀬川先生の所見は「正鵠を得たもの」とし、このとき瀬川先生が語られた言葉は
「音楽の再生という仕事──の本質について、
生涯を賭した深い省察と緻密な研究にうらづけられた、真髄を衝いたもの」だったとしている。