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Date: 6月 10th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その10)

「五味オーディオ教室」にこんなことが書いてあった。
     *
 よくステレオ雑誌でヒアリング・テストと称して、さまざまな聴き比べをやっている。その結果、AはBより断然優秀だなどとまことしやかに書かれているが、うかつに信じてはならない。少なくとも私は、もうそういうものを参考にしようとは思わない。
 あるステレオ・メーカーの音響技術所長が、私に言ったことがあった。
「われわれのつくるキカイは、畢竟は売れねばなりません。商業ベースに乗せねばならない。百貨店や、電気製品の小売店には、各社のステレオ装置が並べられている。そこで、お客さんは聴き比べをやる。そうして、よくきこえたと思える音を買う。当然な話です。でもそうすると、聴き比べたときによくきこえるような、そんな音のつくり方をする必要があるのです。
 人間の耳というのは、その時々の条件にひじょうに左右されやすい。他社のキカイが鳴って、つぎにわが社の音が鳴ったときに、他社よりよい音にきこえるということ(むろんかけるレコードにもよりますが)は、かならずしも音質自体が優れているからではない場合が多いのです。ときには、レンジを狭くしたほうが音がイキイキときこえる場合があります。自社の製品を売るためには、あの騒々しい百貨店やステレオ屋さんの店頭で、しかも他社の音が鳴ったあとで、美しく感じられねばならないのです。いわば、家庭におさまるまでが勝負です。さまざまな高級品を自家に持ち込んで比較のできる五味さんのような人は、限られています。あなたはキチガイだ。キチガイ相手にショーバイはできませんよ」
 要するに、聴き比べほど、即座に答が出ているようでじつは、頼りにならぬ識別法はない、ということだろう。
 テストで比較できるのは、音の差なのである。和ではない。だが、和を抜きにして、私たちの耳は、音の美を享受できない。ヒアリング・テストを私が信じない理由がここにある。
     *
「五味オーディオ教室」を最初に読んだとき、
つまり中学二年だったころは、
ここに書いてあること、そのままに読んだ。

ヒアリングテストはあてにならない、ということ。
「五味オーディオ教室」が出た当時は、
自分のリスニングルームで比較試聴できる人は、ひじょうに限られていた、だろう、ということである。

でも、いま読むと,別の捉え方ができる。
あるステレオ・メーカーの音響技術所長の「キチガイ相手にショーバイはできませんよ」、
この発言こそが、オーディオブームを端的に語っている、ということだ。

Date: 6月 9th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その9)

この項の(その8)にfacebookでコメントがあった。
そこには、ある個人サイトのURLがコピーされていた。

DoromPATIOというサイトの中の「日々雑感2000」の6月6日の記事についてのリンクであった。
タイトルは「合掌:長岡鉄男氏逝去」である。

そこに次のような記述がある。
     *
と言う話とは関係なく、その初めて買った「ステレオサウンド」に、岩崎千明、瀬川冬樹(いずれも故人。当時のカリスマ的オーディオ評論家。以下、敬称略)、菅野沖彦などに混じって、明らかに異色・異質の長岡鉄男も参加した大規模な試聴会の記事が載っていた。何が異色・異質かと言えば、長岡鉄男だけが音をまともに論評しており、他の全員は音の前にブランドと国別の文化論を語っていたのだ。
このようなわけだから、その後、長岡鉄男が「ステレオサウンド」に登場することはなかった。
     *
facebookにコメントされた方も、ここのところに興味を持たれたようだ。
「岩崎千明、瀬川冬樹(いずれも故人。当時のカリスマ的オーディオ評論家。以下、敬称略)、菅野沖彦などに混じって、明らかに異色・異質の長岡鉄男も参加した大規模な試聴会の記事」、
この記事とはいったいどの号に載っているのだろうか。

「合掌:長岡鉄男氏逝去」の中で、こまかなことについては触れられていない。
私もすぐには、どの号なのか思い出せない。

大規模な試聴会とある。
総テストをひとつの売りにしていたステレオサウンドだから、
大規模な試聴会とは特集のことである。

特集記事で、岩崎千明、瀬川冬樹、菅野沖彦、長岡鉄男の四氏が参加されているとなると、
実は該当する記事を見つけられないでいる。

ステレオサウンド 50号巻末附録を見ているところだが、
どの記事のことを書かれているのだろうか。

4号の特集は「組み合わせ型ステレオの選び方・まとめ方」で、
岩崎千明、瀬川冬樹、菅野沖彦、山中敬三の四氏が登場されている。
特集後半の「オーソリティ10氏が推す組み合わせ決定版」に長岡鉄男氏は登場されているが、
10氏の中のひとりである。

ここでの長岡鉄男氏が語られていることが、異色・異質とは思えない。
それにこの号の後にも長岡鉄男氏はステレオサウンドに書かれているから、
4号ではないことは確かである。

16号の特集「ブックシェルフ型スピーカーシステム53機種の試聴テスト」にも、
長岡鉄男氏は登場されているが、この特集に登場されているのは、
上杉佳郎、岡俊雄、瀬川冬樹であり、岩崎千明、菅野沖彦の名前はない。
これも違うことになる。

17号の特集「コンポーネントステレオのすべて」も規模の大きな試聴である。
けれど、ここには岩崎千明の名前はない。

私が見落しているのだろうか。
岩崎千明、瀬川冬樹、菅野沖彦、長岡鉄男の四氏が参加された記事を見つけられないでいる。

それに長岡鉄男氏は、(その8)でも書いているように、
23号までステレオサウンドに登場されている。

23号の記事は連載の「オーディオ工作室」である。

仮に私が記事を見落していたとしても、
長岡鉄男氏が、特集記事で異色・異質なことを語られていたとしても、
それ以降、ステレオサウンドに登場されなくなった、という事実はない、といえる。

Date: 6月 7th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その8)

私が読みはじめたころ(41号)は、すでに書かれなくなっていたが、
長岡鉄男氏はステレオサウンドのレギュラー筆者だったころがある。

ステレオサウンド 50号の巻末には創刊号から49号までの総目次が附録として載っている。
意外に思われるかもしれないが、
菅野先生は創刊号には書かれていなくて、2号からであるし、
長岡鉄男氏は創刊号から23号(1972年夏号)まで書かれている。
私も、50号の巻末を見ていて、意外に思っていた。

時代がかわれば、人も本もかわっていくものだろう。
長岡鉄男氏がステレオサウンドから離れられた理由は、私は知らない。

ただ長岡鉄男氏は、1972年当時も売れっ子の書き手であったはずである。
にも関わらず……、であるわけだ。

1972年オーディオブームの最盛期といえよう。
そのころに、ということを考えると、よけいにあれこれ考えてしまう。

オーディオブームは、それまでオーディオに関心のなかった層まで取り込んだといえるだろう。
私も、1976年に「五味オーディオ教室」と出逢ったからこそ、であるわけで、
この「五味オーディオ教室」もオーディオがブームだったからこそ出版された、ともいえる。

そうやってオーディオの世界に入ってきた人たちが、
オーディオマニアに向いていたのかどうか、ということを思ってしまう。

少し前に、音楽が好きで、少しでもいい音で聴きたい、と思い、
オーディオに熱心に取り組んでいても、本質的にオーディオマニアではない人がいる、と書いた。

オーディオに関心のない人からみれば、そういう人も立派なオーディオマニアだし、
私はそう捉えていても、他の、オーディオに取り組んできた人たちから見ても、
立派なオーディオマニアとうつる人でさえ、本質的にオーディオマニアだろうか、と、
この十年ほど、そう感じるようになってきた。

結局、オーディオマニアとは、頭のおかしい人のことだ、
狂っている人のことだ。

だからオーディオマニアと呼ばれたくない、という人もいる。
そういう人たちのほうが、オーディオを趣味としてまともに楽しんでいるのかもしれない。

かといって、オーディオマニアと呼ばれて喜んでいる人のすべてが、
何度もいうようだが、本質的にオーディオマニアとは限らない。

オーディオブームとは、
そういう本質的にオーディオマニアでない人たちを、
オーディオマニアであると勘違いさせていた(思い込ませていた)のではないのか。

Date: 5月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その36)

長岡鉄男氏の、トータルバランスが重要という視点には、
多く欠けているものがあると、私は感じている。

それはデザインである。
オーディオにおけるトータルバランスを語る上でも、
どのジャンルにおいてもトータルバランスを語るのであれば、
デザインを除いて語ることはできない。

長岡鉄男氏の文章を当時読んでいたときには、このことは感じなかったが、
いまいくつか読み返してみると、
そして曖昧な記憶ではあるが思い出してみると、
デザインという視点を欠いたままトータルバランスであったことに気づく。

このことについて書いていくと、
ここでのテーマ、598のスピーカーから離れていくのは明らかだから、
ここではこのへんに留めておく。
別項で、書いていく。

Date: 4月 27th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その7)

本人が、自分は常識人だ、といっているから、そのまま鵜呑みにしているわけではない。

知人に「自己破滅型なんですよ、自分は……」といっていた男がいる。
少し誇らしげに、知人は、そう言っていた。

彼をあまり知らない人は、自己破滅型かも……、と思っていたようだが、
知人をよく知っている人(私も含めて)は、そうは思っていなかった。

誰と話していたのかは書かないが、
その人との会話で、知人のことが出てきた。
その人も私も、知人のことを「自己破滅型に憧れている安定志向型」ということで一致した。

知人の自己破滅型は、いわば演出といえよう。
周りからそう思われたいという願望からの演出だったのかもしれないし、
それは、かなりうまくいっていた、ともいえる。

でも、わかっている人には、そうでないことはバレていた。

私の見当違いの可能性を完全には否定できないが、
少なくとも私と同じに知人のことを見ていた人は、
私よりもずっと先輩で、見識をもつ人である。

そういう知人の例を知っているだけに、
本人が常識人とか自己破滅型といっていたとしても、そのまま信じるわけではないが、
常識人という長岡鉄男氏は、知人の例とは違う、と感じている。

長岡鉄男氏は、確かに常識人であり、
常識人であるからこそ、あれだけ多くのファン(読み手)がいたのだと思うのだ。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その6)

漢文学者・ 東洋学者の白川静氏によれば、
【くるう】という言葉は「くるくる回る」という場合の【くる】ね、
「くるくる」と同じ語源だそうで、
獣が自分の尻尾を追いかけてくるくる回ったりする、理解できない動作をする、
それが【くるう】ということ、だそうだ。

自分の尻尾を追いかけまわす、
こんな馬鹿げていて、無駄な行為はないだろう。
でも、それが狂っている、ということなのだ、ともおもう。

その意味からすると、確かに長岡鉄男氏は狂っていなかった。
常識人である。
だからこそ、長岡鉄男氏はあれほどコスト・パフォーマンスについて語られたのではないのか。

長岡鉄男氏は1926年1月5日生れである。
ぎりぎり大正生れである。

岩崎先生が1928年、井上先生が1931年、菅野先生、山中先生、長島先生が1932年、
瀬川先生が1935年生れだから、
長岡鉄男氏もラジオやアンプの自作の経験があるはずである。

以前、国産メーカーに勤務されていた方からきいたことがある。
昔の秋葉原は、テープデッキのヘッドも売っていた店があったそうで、
長岡鉄男氏はアンペックスのヘッドをその店から購入し、テープデッキを自作された、とのこと。

スピーカーの自作で知られていただけに、この話をきいたときは、
意外な感じもしたが、この時代の人だから、自作は当然のことだとも思った。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その5)

長岡鉄男氏は常識人──、ということに同意する人はどのくらいなのだろうか。

長岡鉄男氏の熱心なファンであった人たち(いまもそうである人たち)は、
果して長岡鉄男氏を常識人としてみているのだろうか。

書き手には熱心な読み手が、たいていはいる。
オーディオ評論家も同じで、長岡鉄男氏には、信者とよばれるほどの熱心な読み手がいた。

私も瀬川先生、五味先生の熱心な読み手であるが、
だからといって瀬川教の信者、五味教の信者とは思っていない。

けれど長岡鉄男氏の熱心な読み手は、そうでないようだ。
自他共に認める長岡教の信者であったりする。

私は、このことが長年不思議に思えていた。
なぜ、信者と呼ばれることに喜びを感じるほどの読み手がいるのか。

長岡鉄男氏がなくなられて20年近くが経つ。
いまだに中古市場で、長岡鉄男氏が絶賛されたオーディオ機器は人気がある、ときく。
長岡鉄男氏の本もいまだ人気がある、ともきいている。

これらのことも、私にとっては、なぜ? だった。

私の中での、このことについての結論は、
長岡鉄男氏は常識人だったから、である。

表現をかえれば、長岡鉄男氏は狂っていなかった、からだ。
狂っていない、という意味での、長岡鉄男氏は常識人なのである。

Date: 4月 16th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その4)

私が長岡鉄男という名前を知ったのは、電波科学でだった。
1976年ごろ、長岡鉄男氏は電波科学に二ページのコラムを連載されていた。

肩の凝らない、漫談的内容だった、と記憶している。
まだ中学生だった私は、けっこう楽しく読んでいた。
そのころは、まだ長岡鉄男氏のオーディオ機器の試聴記事、評論は読んでいなかった。

FM誌のはずだ、最初に長岡鉄男氏の試聴記事を読んだのは。
正直、あまり面白く感じなかった。
電波科学の連載コラムの面白さは、感じなかった、というか、
そこには微塵もなかった。

コラムと試聴記事という違いはあっても、
その落差にがっかりしたのかもしれない。

一本や二本くらいの試聴記事でそう感じたわけではなかった。
FM誌は、ほぼ毎号買っていたから、そこそこ読むことになる。
その他に、ステレオサウンドをはじめオーディオ雑誌はそこそこ講読していたから、
長岡鉄男氏の書かれたものは、読んでいた。

小遣いをやりくりして買った雑誌だから、すみずみまで読んでいた。
それでも長岡鉄男氏の書かれたものは、必ず読むというわけではなくなってきた。

ラジオ技術の1997年1月号では、
長岡鉄男氏は、自身のことを「常識人」と書かれている。

この「常識人」をどう受け取るかは、人によって違うのだろうか。
私は、すんなりそうだな、と受けとめた。

私が長岡鉄男氏の書かれたものを読まなくなってきたのは、
結局のところ、長岡鉄男氏は常識人だったから、といえる。

Date: 4月 15th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その35)

私の手元には、長岡鉄男氏の文章が載っているオーディオ雑誌はほとんどない。
それでも数冊はある。

その中の一冊、別冊FM fanの17号(1978年春号)、
特集記事は「プレイヤーはこうあるべきだ マイ・プレイヤーを語る」と
「最新カートリッジ26機種フルテスト」である。
つまりアナログプレーヤーの特集である。

巻頭の、カラーの見開きページには、
江川三郎、大木恵嗣、高城重躬、山中敬三、瀬川冬樹、飯島徹、長岡鉄男、石田善之、
八氏の愛用プレーヤーが紹介されている。

この記事で、長岡鉄男氏は、冒頭にこう書かれている。
     *
 プレイヤー・システムについての考え方も、プレイヤーそのものも、この十年間あまり変わってはいない。基本的には、動くものは丈夫で軽く、それを支えるものは丈夫で重く。そしてトータルバランスを重視するということである。
     *
トータルバランスという単語は、二ページの文章中四回登場する。
見出しにも、「トータルバランスを狙うこと」とある。

もう一冊、ラジオ技術の1997年1月号、
アンケート特集「ケーブルについてこう考える」でも、
長岡鉄男氏はバランスということについて触れられている。
     *
 金があり、あまっている人は別として、一般のユーザーは装置とのバランスで適当なケーブルを使うべきだ。ちなみに筆者の使用ケーブルは、価格的には一般ユーザーの水準をはるかに下回るものである。
     *
まっとうなことを書かれている。
その33)で引用したところにも、
598のスピーカーのアンバランスであることを指摘されているのは、
その流れで考えれば、ごく当り前のことであるわけだが、
ならばなぜ、598のスピーカー全盛のころ、
スピーカーシステムもトータルバランスが重要である、と書かれなかったのか、
そして実際の598のスピーカーのアンバランスさを指摘されなかったのかが、
疑問として残る。

おそらくというか、間違いなく、
長岡鉄男氏はスピーカーシステムもトータルバランスが重要であると考えられていたはずだ。

Date: 4月 5th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その3)

思いついたこととは、オーディオ評論家がオーディオ店店主だったら……である。

オーディオの専門家であるオーディオ評論家。
オーディオ店店主としての知識、経験、知恵などは持ち合わせている。

商売の腕は、人によって違うだろう。
うまくやっていけそうな人、どうにも苦手とする人……、
勝手に想像してみる。

店に客が多く集まっても、モノが売れるとは必ずしもいえないし、
客があまり来ず閑散としているようでも繁盛していることだってある。

想像するに、長岡鉄男氏はオーディオ店店主であっても、繁盛させたのではなかろうか。

私が通っていた熊本市内のオーディオ店の店主が言っていた。
1980年のころだ。

オーディオ評論家でSクラスは長岡鉄男氏ひとり、
Aクラスが菅野沖彦氏と瀬川冬樹氏のふたり、
他の人たちはBクラス、Cクラスにランクされている、と。

このランクづけを行っているのは、そのオーディオ店店主ではなく、
オーディオ業界、もっといえば国内メーカーということだった。
さらにいえば、おそらく営業関係者によるランクづけであろう。

さらにランクによってギャラの違いにまで、具体的な数字を挙げていた。
どこまで事実なのかははっきりしないが、大きくはズレていないはずだ。

そのころの私にとって瀬川先生よりも長岡鉄男氏がランクが上ということがすぐには信じられなかった。
でも、国内メーカーの売れ筋の製品にどれだけの影響力を持っているかということならば、
確かに瀬川先生、菅野先生よりも長岡鉄男氏が上にランクされるのは理解できた。

Date: 4月 5th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その2)

(その1)、(その2)……、と書き続けていくつもりはなかったけれど、
ふと思いついたことがあって、(その2)としている。

以前、オーディオ関係者と話していた。
なぜ、こんなにオーディオ界がひどくなったのか、ということになった。
その人は、まず第一にオーディオ店が挙げられる、といわれた。

仕事柄、全国のオーディオ店のかなりの数、行かれている。
ユーザーのところにも訪問されている。
オーディオ店店主とユーザーとの関係も見てこられている。
音も聴かれている。

そのうえでの発言である。
もちろんすべてのオーディオ店が……、ということではない。
けれどひどいところが多い。

そのことは多くの人が薄々感じていることかもしれない。
私もそう感じていたから、その実感のこもったことばをしっかり受けとめた。

だからといって、ここでオーディオ店批判をしていこうとは考えていない。
オーディオ界を悪くしている販売店もあれば、そうでない販売店もあるし、
良くする方向にもっていこうとしている販売店だってあるに違いない。

それからそれぞれの地域にそれぞれの事情といえることはあろう。
東京の販売店と小さな地方の販売店とでは、ずいぶんと環境は違うし、
それによって事情も違ってくるはず。
一概には語れないところがあるし、ユーザー(客側)からみた評価は、また違う。

私が熊本にいたころ、よく通っていた熊本市内のオーディオ店は、
ここでも書いているように瀬川先生を定期的に招かれていた。

私にとっては、それだけで、いいオーディオ店だった。
けれどステレオサウンドで働くようになって、
そのオーディオ店の業界内での評価(というより評判)を聞いて驚いた。
ひどい評判だったからだ。

このことはよくあることだ。
ユーザーからの評価と業界内での評価は、大きく違っていることが意外に多い、ということだ。
ここでのユーザーとは、販売店の客だけではない、
オーディオ雑誌を読んでいる人も含めてのことだ。

Date: 4月 4th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その1)

598のスピーカーについて書くことは、
長岡鉄男氏についても書くことになっていく。

昨年末にpost-truthについて、少しだけ書いた。
客観的な事実や真実が重視されない時代を意味する形容詞「ポスト真実」ということだ。

長岡鉄男氏の1980年代のやりかた、
つまりスピーカー、アンプを構成するパーツの重量をはかることは、
客観的な事実を書いているわけである。

音の表現。
長岡鉄男氏が、反応の速い音と感じたとしても、
すべての人が反応が速い音と感じると限らない。
感覚量であるからだ。

それは冷たい音、暖かい音といった音の温度感についてもいえる。
ある人が冷たい音と感じても、別の人はそうは感じないことはたびたびある。

こんな例は挙げきれないほどある。
一方、アンプのツマミの重量、ウーファーユニットのマグネットの重量は、
すべての人に対して客観的事実である。
重い、軽いは人によって違ってこようが、
ツマミの重量がこれだけ、マグネットの重量はこれだけ、というのは、
すべての人にとって同じであり、人によって500gが600gになるということは絶対にない。

オーディオにおける客観的な事実といえることといえば、
実のところ、こういったことぐらいである。

客観的な事実の提示、といえば、確かに長岡鉄男氏はそういうことになる。
その意味では、客観的な事実や真実が重視されない時代を意味する形容詞「ポスト真実」ではない。
けれど……、と考えてしまう。

ツマミやマグネットの重量、
他の個所に関しても重量が、音は無関係だとはいわない。
確かに関係はある。

しかも何度も書くが、重量は誰にとっても同じであり、客観的な事実ではある。
が、それは重視されること、それも他の要素よりも重視されることだろうか。

飛躍しているといわれそうだが、
長岡鉄男氏の、このやり方は、本人は意識されていなかったであろうが、
post-truthの先どりだったのではないだろうか。
そんな気がしている。

Date: 4月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その34)

ここで何度か、長岡鉄男氏の書かれたものはほとんど読んでない、と書いている。
たしかに「ほとんど」読んでいない、といえる。

けれどまったく読んでいなかったわけではない。
ステレオサウンド編集部には、当時は別冊FM fan、FM fanは送られてきた。
他のFM誌、オーディオ雑誌はどうだったかは、よく憶えていないが、
編集部が書店で購入していたのは無線と実験とラジオ技術くらいだった。
ステレオも届いていたようには記憶している。

編集部に新刊が届けば、やはり読む。
すべての記事をじっくり読むわけではないが、ページを開かない、ということはない。
開けば目を通す。

長岡鉄男氏の文章を、じっくりとは読んでいない。

つまり長岡鉄男氏は、こういうことを書かれていたはずだけど、
どの雑誌の、どの号に書かれていたか、
それらを記憶するほどには読んでいなかった。

その意味で、私は「ほとんど」読んでいない、としている。

そんな読み方しかしてこなかった私の記憶では、
598のスピーカーの重量が増していった一因は、長岡鉄男氏が煽られていたからだ、という印象があった。

とはいえ、そんな読み方しかしてこなかったから、
どこに書かれていたかまでは、どんな書き方をされていたかまでははっきりとしなかった。

facebookに、当時の598のスピーカーの、長岡鉄男氏の紹介記事をアップしてくれた人がいる。
デンオンのSC-R88とパイオニアのS701で、どちらも1986年のFM fanに載っている。

Date: 3月 28th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その33)

598のスピーカーの重量が増していったのは、
それもバランスを崩してまで増していったのには、
長岡鉄男氏の影響があったためだ、と私は受けとめている。

長岡鉄男氏は、ある時期から重量を量られていた。
そのこと自体には、長岡鉄男氏なりの考えが背景にあったためだろうが、
このことが598のスピーカーの重量化をエスカレートさせていったのは間違いない。

いま、1980年代の598のスピーカーのことを書いていて、
やはり気になるのは、長岡鉄男氏が、当時をふり返って何か書かれているのだろうか、である。

私は長岡鉄男氏の文章は、ほとんどといって読んでいない。
本も持っていない。

大きな図書館に行き、昔のFM誌、オーディオ雑誌を丹念に調べていけばいいこなのだが、
どこかめんどうだなと思う気持が強かった。

すこし前に、長岡鉄男氏の文章の一部をコピーして送ってくださった方がいた。
1993年に音楽之友社から出た「長岡鉄男の日本オーディオ史 1950〜82」掲載の一文である。
     *
 80年代に入って59800円のハイCP機が続々登場、世にいう「598戦争」である。当初20kgぐらいからスタートした598スピーカーはやがて重量競争に入り、最終的には鉛や人造石まで入って35kgに達した。鉛や人造石といってもコストはユニット一本ぐらいかかってしまうのでコストアップは免れない。ウーファーも30cmからスタートして、30・5cm、31cm、31・5cm、32cm、33cmと少しずつ大型化、また素材競争で高剛性化が進んだため、コーンの重い大口径ウーファーをドライブするには144φ×20mmもの大型マグネットが必要になり、これを支えるフレームは10mm厚、15mm厚、20mm厚と強力になり、正気の沙汰とは思えない無茶苦茶な競争になった。十万円のものを六万円で売るような激安合戦、新宿のカメラ屋なみである。これで音がよければいうことはなしだが、大口径化、高剛性化でバランスを失い、低音不足、ハイ上がりの硬質な音になってしまった。容積からすると25cmウーファー向きのキャビネットに30cm以上のウーファーを取付けたので理論的にも低音は出にくいのである。コスト面では完全な赤字、音質面ではユーザーの好みから離れ、87年を頂点に多くのメーカーは598スピーカーから手を引く。終わってみれば勝者なき戦いだったのだ。僕はビクターSX−511(¥59800)のユニットを使って大型フロアタイプを作ったことがあるが、ユニットだけ買っても六万円はする程の豪華なものだった。
     *
見出しには、熾烈な「598」戦争、とある。
書き写していて、意外な感じがした。

598のスピーカーのアンバランスさを、指摘されていることにだ。
1980年代後半の598のスピーカーのアンバランスぶりは,すごかった(というよりひどかった)。

確かに当時の598のスピーカーにかけられたコストは、もっと上のランクと同等だった。
その意味ではハイコストパフォーマンスとはいえるのかもしれないが、
オーディオ機器は、スピーカーに限らず、音である。

肝心の音までもがアンバランスで、ハイCP機といえるだろうか。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その32)

私がいたころのステレオサウンドは、598のスピーカーに対して、肯定的とはいえなかった。
そのことはいまでも間違っていなかったと思うが、それだけではだめだったという反省が、いまはある。

598のスピーカーの新製品が出れば、試聴室で鳴らす。
そこで鳴らすのは、当時リファレンス機器として使っていたアキュフェーズのセパレートアンプ、
CDプレーヤーはソニーであったりアキュフェーズであったりしたが、
アンプにしてもCDプレーヤーにしても、スピーカー単体の価格の軽く十倍以上するモノばかり。

新製品紹介の記事は、その製品のお披露目の場であるわけだから、
可能な限り良く鳴らした状態で、ということがあった。
これはいまでも間違っていない、と思う。

だがこれだけでは定期刊行物のオーディオ雑誌としては、不十分である。
598のスピーカーに肯定的でなかったステレオサウンドだから、
実際に598のスピーカーがユーザーのところにおさまったとき、
どう鳴らされているのかを取材しておくべきだった、と、この項を書きながら反省している。

ステレオサウンド試聴室と598のスピーカーのユーザーのリスニングルームとでは、
ずいぶん条件は違っているはず。
アンプもCDプレーヤーも、セッティング、チューニングのレベルも、それから鳴らす音量も違う。

当時の598のスピーカーを選んだ人たちが、どういう理由で選んだのか、
それすらも知らなかったし、知ろうともしなかった。

別のオーディオ雑誌(別冊FM fanなど)にまかせておけばいい、という空気があった。
いま考えているのは、なぜそういう空気がうまれたのか、を含めて、
どうするのが正しい編集だったのか、である。