598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その8)
私が読みはじめたころ(41号)は、すでに書かれなくなっていたが、
長岡鉄男氏はステレオサウンドのレギュラー筆者だったころがある。
ステレオサウンド 50号の巻末には創刊号から49号までの総目次が附録として載っている。
意外に思われるかもしれないが、
菅野先生は創刊号には書かれていなくて、2号からであるし、
長岡鉄男氏は創刊号から23号(1972年夏号)まで書かれている。
私も、50号の巻末を見ていて、意外に思っていた。
時代がかわれば、人も本もかわっていくものだろう。
長岡鉄男氏がステレオサウンドから離れられた理由は、私は知らない。
ただ長岡鉄男氏は、1972年当時も売れっ子の書き手であったはずである。
にも関わらず……、であるわけだ。
1972年オーディオブームの最盛期といえよう。
そのころに、ということを考えると、よけいにあれこれ考えてしまう。
オーディオブームは、それまでオーディオに関心のなかった層まで取り込んだといえるだろう。
私も、1976年に「五味オーディオ教室」と出逢ったからこそ、であるわけで、
この「五味オーディオ教室」もオーディオがブームだったからこそ出版された、ともいえる。
そうやってオーディオの世界に入ってきた人たちが、
オーディオマニアに向いていたのかどうか、ということを思ってしまう。
少し前に、音楽が好きで、少しでもいい音で聴きたい、と思い、
オーディオに熱心に取り組んでいても、本質的にオーディオマニアではない人がいる、と書いた。
オーディオに関心のない人からみれば、そういう人も立派なオーディオマニアだし、
私はそう捉えていても、他の、オーディオに取り組んできた人たちから見ても、
立派なオーディオマニアとうつる人でさえ、本質的にオーディオマニアだろうか、と、
この十年ほど、そう感じるようになってきた。
結局、オーディオマニアとは、頭のおかしい人のことだ、
狂っている人のことだ。
だからオーディオマニアと呼ばれたくない、という人もいる。
そういう人たちのほうが、オーディオを趣味としてまともに楽しんでいるのかもしれない。
かといって、オーディオマニアと呼ばれて喜んでいる人のすべてが、
何度もいうようだが、本質的にオーディオマニアとは限らない。
オーディオブームとは、
そういう本質的にオーディオマニアでない人たちを、
オーディオマニアであると勘違いさせていた(思い込ませていた)のではないのか。