Archive for category 世代

Date: 12月 16th, 2019
Cate: ヘッドフォン, 世代

世代とオーディオ(スピーカーとヘッドフォン・その5)

e☆イヤホンの活気ある店内から出て、
しばらく歩いていて、音元出版が秋葉原にあることを思い出していた。

音元出版は確か最初から秋葉原に会社があったはずだ。
いまも秋葉原にある。これから先もそうなのかもしれない。

ステレオサウンドは何度か引っ越ししている。
六本木周辺の時代が長かったが、今年、世田谷に移っている。

こんなことを書いているのは、オーディオの現場は? ということを考えるからだ。
十年前に「オーディオにおけるジャーナリズム(その33)」で、
オーディオの「現場」は、どこなのだろうか、と書いた。

十年経っても、はっきりと答を出せずにいるが、
秋葉原は、いまでも、オーディオの現場といえるのかもしれない──、
e☆イヤホンから出て、そう思っていた。

秋葉原はずいぶん変ってきた。
オーディオの街だったこともある。
ずいぶん昔のことではあるが、それでもオーディオの現場の一つなのだろう、と思う。

音元出版の人たちが、そんなことを考えているのかどうかはわからない。
けれどずっと秋葉原に音元出版はある。

オーディオの現場の一つといえる秋葉原に、音元出版があることは事実だ。

Date: 12月 14th, 2019
Cate: ヘッドフォン, 世代

世代とオーディオ(スピーカーとヘッドフォン・その4)

今日、秋葉原に行っていた。
いくつかの用事をすませて、上野まで歩いていこうと思い立ち、
てくてく細い道を選んで歩いていた。

e☆イヤホンが入っているビルの前を通った。
たまに寄ってみよう、とエレベーターで上の階まで行く。

平日の昼間、一度だけe☆イヤホンに寄ったことはあるが、
土日は初めてだった。

こんなに人が溢れているのか。
そう思わずにいられなかった。

オーディオがブームだったころでさえ、
オーディオ店にこれだけの人は集まらなかったのではないか。

ヘッドフォン祭にはここ数年毎年行っているから、
人は多いだろうな、ぐらいは思っていたが、
ヘッドフォン祭以上の込み具合にも感じられた。

活気がある。
ヘッドフォン祭の会場よりも、こちらのほうがそう感じた。

あとで気づいたのが、秋葉原近くでポタフェスがやっている。
それもあってのことで、人が多かった可能性はあるのだろうが、
それでも人が多いだけでは、ああいう活気は出ないようにも感じる。

Date: 12月 12th, 2019
Cate: モノ, 世代

モノと「モノ」(世代の違い・その6)

モノを買う、という体験は、実は能動的な体験なはずだ。
趣味に関係するモノ、感性と絡んでくるモノは、絶対的にそうである。

けれど受動的と考えている人、
受動的とまでは考えていないけれど、
能動的とは考えていない人は、意外と多いのかもしれないし、
そんなこと、まるっきり考えていない人も少なくないのかもしれない。

能動的か受動的か。
こんなことを考えていると、若い世代のいうところの、
モノよりも体験の「体験」とは、受動的な体験かもしれない、と思えてくる。

音楽に関して、ライヴを聴きに行ったり、
音楽フェスティヴァルに行ったりする。

チケットを入手して、会場となるところまで行く。
能動的といえば、そういえる。
自分の部屋でオーディオを介して音楽を聴く行為よりも、
よっぽど能動的、と多くの人はみてくれるはず。

行動するという意味では能動的であっても、音楽の聴き手としてははたして能動的なのか。
オーディオを介しての聴き手のほうが、実のところ、能動的といえる。
少なくとも私はそう思っている。

すべてのオーディオマニアがそうだとは、もちろんいわない。
それでも真摯に、オーディオを介しての音楽の聴き手は、能動的でなければならない。

Date: 12月 12th, 2019
Cate: モノ, 世代

モノと「モノ」(世代の違い・その5)

いまの時代だったら、18の私はどういう買い方をしただろうか。
当時のSMEの3012-Rのように、これからの自分のオーディオに絶対必要なモノを、
しかもそれが限定で、いま手に入れなければ……、となったときに、どうするだろうか。

あのころと同じ買い方をするしない、ではなく、できるだろうか、と思ってしまう。
どうなのだろう、自信をもっていえないところが残る。

なので、いまの若い世代の人たちに、
買うことも一つの、大きな体験だから、といえるだろうか。

まだまだそういえるジャンルのモノもある。
それでも、そうでなくなったジャンルのモノもある。
オーディオはどうなのか。

どこに住んでいるかによって、違ってこよう。
それでも、明るいことはいえそうにないような気がしてしまう。

世代によっても、違ってこよう。
いやいや、いい店はまだまだある、という人がいたとしよう。
その人がすすめる店は、ほんとうにいい店といえるだろうか。

上の世代の人たちがいう、こういうことは疑ってかかってもいい。
どこかストックホルム症候群的な感じがしてしまう。

そういう人がいる、といえる。
そういう人のいうことを信じない方がいい、と、若い人たちにはいいたくなる。

いまは買うという体験の何かがスポイルされてしまっている時代なのか。
モノを買わなくなった──、
その理由の一つは、そういうところにあるのかもしれない。

Date: 12月 12th, 2019
Cate: モノ, 世代

モノと「モノ」(世代の違い・その4)

その3)の終りに、いまはどうだろうか、と書いた。
しみじみ、いまはどうだろうか、とおもう。

インターネットの爆発的な普及は、モノの買い方を変えた。
昔、私が中学生、高校生ぐらいのとき、
通信販売はどこかアヤシイ雰囲気もあった。

少年マンガ誌の表3に載っていた通信販売の広告は、まさしくそうだった。
アヤシイ匂いをプンプン漂わせているけれど、つい目が留ってしまう。

一度も利用したことはないが、
東京に来て知り合った人が、この手の通信販売で買ったことを笑いながら話してくれたことがある。
やっぱり、そうだったわけだが、
そのころの通信販売のイメージは、インターネットの大手のところからはほぼ払拭されている。

使ってみると、便利である。
しかも規模が大きくなればなるほど、取り扱い商品のジャンルも広がっていく。

そして量販店もすごい。
私のいなかには、そしてそのころは量販店という店はなかった。
東京に来て、はじめてヨドバシカメラを知ったぐらいだ。

いまヨドバシカメラのオーディオコーナーに行けば、
かなり高額なモノまで取り扱っている。

オーディオ店に行く必要が、どの程度あるのだろうか。
そうおもわせるほどの品揃いである。

amazonにしても、たとえばJBLだと4312SEまでは購入できる。
いまのところは、である。
あと数年経てば、どうなるのかはわからない。

もっと上のクラスのモノまでamazaonで取り扱うようになる可能性は十分考えられる。
一方で、オーディオ店はどうだろうか。

Date: 12月 3rd, 2019
Cate: モノ, 世代

モノと「モノ」(世代の違い・その3)

18のときに、SMEの3012-R Specialを買った。
何度も書いているようにステレオサウンド 58号での瀬川先生の文章を読んでから、
このトーンアームが、私が望む音を出すためには絶対に必要なモノという思い込みがあった。
しかも当時の広告には、限定とあった。

どうにかして手に入れなければならない。
当時の価格は、88,000円だった。

それでも18の私には高価だった。
16の時に、サンスイのAU-D907 Limitedを買っている。
約二倍ほどの価格だったが、修学旅行に行かずに積立金と、
新聞配達で貯めたお金をあわせて、一括払いで買った。

でもSMEの時には、そういう手はなかった。
分割払いで買うしかない。
初めての分割払いである。
頭金は五千円くらいしか払えなかった。

それでもなんとか買うしかない、と意気込みだけはあった。
東京で、はじめてのオーディオ店で、見つけた。
これを買うしかない、これを逃したら……、
とにかく店員に声をかける。

もうこれだけでどきどきしながらの行動だった。
確か12回払いで買った。

秋葉原から、当時住んでいた三鷹まで電車で持って帰る。
袋に入っているから、周りの人には何を持っているのかはわからないが、
それでも、「今日からSMEオーナーだ」と誇らしい気持になっていた。

そういう買い方から、東京でのオーディオが始まった。
当時は、こういう買い方しかできなかった。
いまはどうだろうか。

Date: 12月 3rd, 2019
Cate: モノ, 世代

モノと「モノ」(世代の違い・その2)

さらにいえば、買うことも体験である。
近所コンビニエンスストアやスーパーでの買物ではなく、
分不相応と周りからいわれるモノを買うのは、一つの体験である。

高額品ではなく、きちんとした高級品、一級品のモノを買うのであれば、
高級店、一流店と評判の店で買う──、
これは体験と感じない人はいない、と思うのだが。

高額なモノだけを扱っているだけの店、
一流店とはいえない店で買うのも体験といえばそうなるのだが、
ここでの「体験」とは違ってくる。

オーディオも、東京ではトロフィーオーディオ屋としかいえない店もある。
そういう店かきちんとした店なのか、それを見極めることも含めて体験である。

1995年にロードバイク(自転車)を買う時が、私にとってはそうだった。
初めてのロードバイクである。
いい店で買いたいから、東京の自転車店だけでなく、神奈川、埼玉の店もいくつも行った。
そうやって店を決めた。

これでよかった、といまでも思っている。

きちんとした店で買うことによって、そこでの人との出会いがきちんとあるからだ。

Date: 12月 2nd, 2019
Cate: モノ, 世代

モノと「モノ」(世代の違い・その1)

数日前、ハタチぐらいの若者数人による座談会が、
インターネットの記事になっていた。

テーマは「若者のお金の使い方」についてだった。

ほぼ全員、いわゆるモノを買うのには、あまり興味がない、
モノより体験にお金を使う、とあった。

体験とは、スポーツ観戦だったり、音楽のライヴも含まれるし、
映画館に行くのも、テーマパークに行くのもそうであろう。

この若者たちに、司会者は訊ねなかったのか、と思うことがある。
クルマは確かにモノである。
高価なモノである。

けれどクルマは買ってオシマイ、というモノではない。
クルマを運転するという体験ができる、
運転して、どこかに行ける、ということも体験である。

オーディオもそうだ。
この座談会に登場したハタチぐらいの人たちにとっては、
われわれが購入するようなオーディオ機器は、高価過ぎるということになろう。

しかも高価過ぎるモノでしかないのだろう。
われわれはオーディオ機器というモノを買っているが、
けれどオーディオで音楽を聴く、ということは体験である。

音楽ライヴでは、一度きりの体験である。
オーディオでの音楽は、くり返し体験できるからこその発見がある。

クルマやオーディオは高価だけど、たとえばTシャツでもいい。
Tシャツのいちばんいいのが、どれだけするのかしらないが、
数千円出せば、いいTシャツが買えるはずだ。

ユニクロのTシャツも悪くはないが、
たとえば五千円ほどするTシャツを着れば、
その着心地の良さは驚くのではないのか。

これも体験である。
良質のモノは、すべて体験へとつながっていく。

Date: 11月 18th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その9)

機械(オーディオ機器)にふりまわされるな。
私がオーディオに興味をもった40年以上前も、このことはいわれていた。

正しい、といえば、そうである。
それでも、一度は、機械にふりまわされてみよう、といいたい。

機械にふりまわされるな、という人は、
使い手(人)が主で、オーディオ機器(道具、機械)は従の関係だ、ともいう。

これも正しい。間違ってはいない。
それでも、これに対しても、若いうちに、この主従関係を逆転させた時期を体験してほしい。

そうやって、オーディオの美の世界に、どっぷり溺れてほしい。
溺れないように、溺れないように……、
そんな及び腰でオーディオをやっていても、中途半端な楽しみでしかない、と私は思う。

溺れることを怖れずに飛び込んでこそのオーディオである。
インターネットは、溺れないための浮袋ではない。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その8)

私が10代、20代のころ、
インターネットに接続できる環境はなかったし、
SNSも当然なかった。

オーディオについて何かを書いたとしても、
それを不特定多数の人に向けて発表できる場はなかった。

いまは違う。
スマートフォンがあれば、いつでもどこでも接続できるし、
SNSもあるから、書くだけで公開できる、という環境が揃っている。

オーディオマニアも世代によって、違っている、ともいえるし、そうでもないといえるし、
世代による違いよりも、結局は個人の違いのほうが大きい、ともいえる。

それでもオーディオを始めたころから、
SNSがある世代とそうでなかった世代とでは、明らかな違いがあるようにも感じている。

いつでも、思ったこと、感じたこと、考えていることなど、
公開した、と思えば、すぐにできる。

そこに、「いいね」がついたりする。
会ったこともない人たちからの反応がある。

そういう世代のすべての人たちが──、とはいわないが、
一部の人たちは、反応を意識してのSNSの利用なのではないか。
そんな気がしてならないのだ。

他人の目(評価)なんて、まったく気にせずにオーディオを楽しめばいいのに──、
そう思うのだ。

SNSに捕われてしまっていることに気づかないままでいいのか。

Date: 11月 12th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その7)

(その6)にfacebookで、若い方からのコメントがあった。
私よりも二回りほど若い人である。

そこには、
オーディオ側から「どう、このいい音は」と言われているような音が好きではない、
だからそういう音にしないようにしている──、
そう書いてあった。

好き嫌いは誰にでもあることだから、第三者の私がとやかくいうことではない。
それはわかったうえで書くのは、
そういう音を、自在にだせるだけの力量を身につけているのか、である。

若いのだから、いろいろな音を出していってほしい、と思う。
コメントの人だけではない。
若いのだから、もっとのびのびオーディオをやってほしい。

好き嫌いもある時期無視してでも、
そこ(オーディオ)から出せる音の幅の広さを、とことんしゃぶりつくしてほしい。
なんという不徹底ぶりなのか、とも感じてしまうし、
中途半端なオーディオを、若い人がやるものじゃない、とも思う。

若いうちから老成ぶって、そういうことをいうのは早い、といっておく。
大人ぶることはないのだ。

大人ぶった子供(あえてそう書いておく)になぜなろうとするのか。
子供じみた大人(大人といえないのだろうが)にでもなってしまいたいのか。

Date: 11月 12th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その6)

オーディオでも、フツーにいい音、という表現が使われているのだろうか。
耳にしたことはある。

といって、私の周りではほとんど使われていない。
けれど人が変れば、フツーにいい音、という表現はよく使われているのか。

そういえば、普通の音、という表現もある。
この普通の音が使われるのは、
どこといって特徴のない音、際立ったところのない音、魅力のない音、
そういった音に対して使われることもある。

一方で、さりげない、なにげない、けれどいい音に対しても、
普通の音という表現は使われる。

そして後者の場合、普通の音を出すのが難しい、というふうにもつけ加えられることがある。
こうなると普通の音は褒め言葉である。

フツーと普通。
こうやって文字で表現すると、カタカナと漢字の違いもあるし、
フツウではなくフツーと、あえてしているわけで、音引きがつくかつかないのか、もある。

フツーにいい音、とはいうが、普通にいい音とは、まずいわない。
普通の音は、それ自体が、いい音である、ということを含んでいる場合があるからだ。

ただ普通の音こそだすのが難しい──、
こういったことをきくと、どのくらいの世代の人がいっているかによって、
私のなかでは、そういうことは、もっと歳をとってからにしようよ、といいたくなることがある。

いいたくなるだけで、いったりはしないし、
コメントに書いたりはしない。

それでも若い人が、普通の音こそだすのが難しい、といっているのをきくと、
若いのだから……、とおっせかいをいいたくなる。
余計なお世話といわれるのはわかっているが、
若いうちにしか出せない音があるのに、
若いうちから「普通の音こそだすのが難しい」といっている人も、
歳をとってから気づくのではないだろうか。

Date: 10月 24th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(老害、独断と分断・その1)

老害とは、
企業や政治の指導者層の高齢化が進み,円滑な世代の交代が行われず,組織の若返りがはばまれる状態、
と大辞林には、そう書いてある。

オーディオの世界でも、老害について書かれていることを、
SNSでもみかける。
割と多いのではないか、とさえ思うほど、頻繁にそうであったりもする。

それほど熱心にSNSをチェックしなくなったので、
たまたまみかけた、そういう書き込みについての印象でしかないのだが、
この人が指摘している老害は、ほんとうに老害なのだろうか、
と一言返したくなることもないわけではない。

面倒なので返信したりしないのだが、
老害といっておけば、それに賛同する人が必ず現れるというのが、
SNSの、オーディオに関する投稿ではないのか。

五年前に、twitterに、
《年寄りの話をきちんと聞けない、年寄りと会話できない人はオーディオに向いてない、と断言できる。》
と投稿した。

これに数年後、書いたことを忘れたころに返信があった。
見知らぬ人、フォローもしていない人からだった。

そこには、老人の話ばかりを有難がって、
若者の意見に耳を貸さないのは老害である──、
そんなことが書かれてあった。

どんな人なのかは、まったくわからなかったけれど、
おそらく私よりも若い人なのだろう、かなり若い人なのかもしれない。

その人の返信を読みながら、こんなふうにとらえるのか、とがっかりもした。

Date: 9月 15th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(略称の違い・その5)

オーディオの世界に若い人を──、
ということが今年のOTOTENのテーマとなっていた。

そして、こういうテーマになると、老害についてSNSにて発言する人が増える。

オーディオの世界における老害について、こまかく書いていこうとは考えていない。
ただ、ここでのテーマに沿って書けば、ないわけではない、と思っている。

その1)で、世代による略称の違いについて触れた。
マークレビンソンを、以前は略すならばレビンソンだった。
いまではマクレビである。

オーディオテクニカはテクニカだった。
いまではオーテクである。

こんなふうに略すのが、いまの若い人のセンスなのか。
私や私の周りでは、センスのない略のしかただな、と思っているわけだが、
ここで、私が老害と考えるのは、
そんな若者にすんなり迎合してしまう人たちである。

老害といわれたくないのか、
若者に、妙な理解を示す人たちが少なからずいる。

でも、これは理解なのか、と思う。

Date: 9月 9th, 2019
Cate: デザイン, 世代

世代とオーディオ(とデザイン)

ソニーがIFA2019で、SA-Z1を発表している。
ニアフィールド用のアクティヴ型スピーカーシステムである。

どういう製品なのかは、PHILE WEBAV Watchの記事をお読みいただきたい。

面白そうだな、と思うと同時に、なぜ? とも思っていた。
SA-Z1の写真を見ていると、どうにもブラウン管型のテレビを連想してしまう。

写真のアングルにもよるが、ブラウン管型のテレビ、
それも後側から眺めているような形が、なぜ? につながってしまう。

もう勝手な想像でしかないのだが、
SA-Z1をデザインした人は、テレビといえば液晶の薄型しか知らない世代なのか、と思う。
だから、こういう形にしても、なんとも思わないのか。

それとも、まったく逆なのか。
SA-Z1のデザイナーは、私と同じくらいの世代なのだろうか。
テレビといえば、ブラウン管型。
そういう人が、あえて、こういう形に仕上げたのか。

発売は2020年春(欧州において)。
それまでにデザインは変更されるのか、このまま登場するのか(その可能性は高い)。