Archive for category 「オーディオ」考

Date: 1月 2nd, 2020
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その8)

メリディアンの218について書いていて、
この項が途中なのを思い出していた。

マーラーを聴くにも十分だ、というツイートを見たことから書き始めたわけで、
この「マーラーを聴くにも十分だ」というツイートをした人が、
どういう人なのかはまったく知らない。

以前書いているように私がフォローしている人ではなく、
フォローしている人がリツイートしているのが目に留っただけである。

それでも、「マーラーを聴くにも十分だ」というのは、
こちらの心にひっかかってくる。

勝手な想像でしかないのだが、
「マーラーを聴くにも十分だ」とツイートした人は、
218(normal)の音を「マーラーを聴くにも十分だ」というであろう。

十分すぎる、ということだって考えられる。

そうだとしよう。
「マーラーを聴くにも十分だ」という人は、どういうマーラーを聴いているのだろうか。
バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの第九は、
そこに含まれているのだろうか。

譜面に記されたものが音となって聴こえてくれば「マーラーを聴くにも十分だ」ということになるのか。
だとしたら、バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの演奏でなくてもいいのではないか。

私がまったく聴きたいと思わないマーラーの演奏でも、いいのかもしれない。

くり返すが、私の勝手な想像で書いているに過ぎない。
でも思ってしまう。

「マーラーを聴くにも十分だ」の人は、
メリディアンの218(normal)と218(version 7)で、
バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの第九を聴いても、そういうのか。

Date: 11月 24th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「ゴドーを待ちながら」再読(その4)

インターナショナルオーディオショウで、それぞれのブースで待っている人たち、
またオーディオマニアの人たちの姿が、
「ゴドーを待ちながら」のウラディミールとエストラゴンと重なってきた。

われわれオーディオマニアは、ウラディミールとエストラゴンではないのか。
この二人が待つゴドーは、オーディオマニアにとっては原音ということになのか。

そう仮定すると、
ウラディミールとエストラゴンがゴドーを待ちながらやっていることは、
オーディオマニアがやっていることなのか。

そしてポッツォとラッキーという主従関係にある二人が、そんな二人の前に現れる。
ポッツォとラッキーは、オーディオマニアにとって何なのか。

これはいろんな解釈ができる、と再読せずに思っている。

ポッツォとラッキーは、ウラディミールとエストラゴンの前から去る。
するとゴドーの使者と思われる少年がやってくる。
今日は無理だが、明日は来る、というゴドーの伝言を伝える。

そして第一幕が終る。

第二幕でも登場人物に変りはない。
ポッツォとラッキーが再び現れるが、第一幕のままのポッツォとラッキーではない。
少年もまた現れる。

ゴドーは現れない。

こうやって書いていっていると、
書く前以上に「ゴドーを待ちながら」はオーディオという世界、
そしてオーディオマニアを当てはめることができる、と感じるようになった。

Date: 11月 24th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「ゴドーを待ちながら」再読(その3)

「ゴドーを待ちながら」は学生のときに、図書館から借りて読んだだけだ。
なので手元にはない。
再読としているが、まだ再読していない。

学生のときだから、もう四十年近く前になる。
あらすじは憶えている。いまではその程度でしかない。

「ゴトーを待ちながら」の舞台は見ていない。
それでも、今回、ふと「ゴドーを待ちながら」が浮んできた。

あらすじはGoogleで検索すればすぐに出てくるので、そちらを参照してほしい。

「ゴドーを待ちながら」には、ウラディミールとエストラゴンという二人の浮浪者がいる。
この二人の浮浪者が、ゴドーを待ちつづけている。

しかも、この二人はゴドーに会ったことはない。
それなのに待ちつづけている。

ゴドーはGodotなので、英語の神(God)を意味しているともいわれているが、
そうなのかしれないし、他の解釈もできよう。

「ゴドーを待ちながら」をずっと以前に読んだ時、どう思ったのか、もう薄れてしまっている。

私にとって「ゴドーを待ちながら」はそういう存在でしかないのに、
今回思い出したのは、「ゴドーを待ちながら」がとても好きな知人がいるからかもしれない。

その知人は、Macのパスワードを、「ゴドーを待ちながら」につながる言葉にしている。
その知人と会ったわけでもない。
ここ数年会っていない。

知人の苗字はよくある。たまたま、同じ苗字を目にしたからなのか、
知人のこと、インターナショナルオーディオショウでのこと、
普段ならつながるはずのないことがつながっての「ゴドーを待ちながら」を思い出した。

Date: 11月 24th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「ゴドーを待ちながら」再読(その2)

最初テクニクスのスタッフの方によるSL-G700の説明があった。
長いのか、と思っていたら、来場者の気持がわかっている実に簡単な説明だった。

その後にUSBメモリーをフロントパネルにある端子に挿してのDSD再生、
それからSACDの再生、そしてMQAへ移っていくわけだが、
ここでMQAジャパンの方にバトンタッチ。

簡単に説明します、という前置きがだったけれど、意外に長い。
手元にはMQAのパンフレットもあるのに……、と思いつつも黙って聞くしかない。

結局18時5分くらいまでテクニクスのブースにいたけれど、
MQAの音をSL-G700では聴けずじまいだった。

こういう段取りは、今回のテクニクスだけではない。
延々と製品や技術の説明をするブースは、いまでも多い。

まず音を聴かせてほしい、とその度に思う。
一曲でいい。まず音を鳴らす、そして説明に入ればいいのに、と思う。

そんな来場者の気持を、テクニクスの人はわかっていたのだろう。
MQAの人はそうではなかった。

別に怒りがそこに対してあるわけではないが、
こういうことを毎年体験していると、そのことへの考えにも変化が生じてくる。

テクニクスのブースを足早に出て、東京駅の地下街まで歯の治療に向う途中、
何を待っていたんだろうか、と考えていた。

SL-G700によるMQAの音が鳴ってくるのを待っていた。
これははっきりしている。
でも、これだけなのだろうか……、と、
開始時間を待っている大勢の人たちの姿が重なってきて、
オーディオマニアは待っているのか、
待っているのだとしたら、何を待っているのか、
そんなことを連想していた。

Date: 11月 24th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「ゴドーを待ちながら」再読(その1)

二日前にインターナショナルオーディオショウに行った。
それぞれのブースは、人が大勢入っているところもあれば、そうでないところもある。

日に何度かオーディオ評論家によるイベントを行うところもある。
人気のあるオーディオ評論家の回だと、開始時間のかなり前から、大勢の人が待っている。
毎年、そういうのを眺めてきた。今年もそうだった。

今年は、少し違った。
待っている人を見て、この人たちは何を待っているのか、とふと思った。
開始時間を待っているわけなのに、
お目当てのオーディオ評論家が登場するのを待っているのはわかっているのに、
なぜかそう思った。

何を待っているのか。
待っている人一人ひとりに、「何を待っていますか」と訊いてまわっても、
答は「始まるのを待っている」、
「○○さん(オーディオ評論家)が登場するのを待っている」、
そんなところのはずだ。

きっと、何をわかりきったことを訊くんだ、と思われることだろう。
それでも、何を待っているのか、はっきりとわかっている人はいるのだろうか。

初日にインターナショナルオーディオショウに行った。
この日の最後に訪れたのはテクニクスのブースだった。

テクニクスのブースは、他のブースから離れたところにある。
この日は歯の治療に行かなければならなかったので、
最後にテクニクスのブースに寄って、18時には会場を出る予定だった。

17時半ごろに行くと、SL-G700のデモが始まるところだった。
椅子に座って待っていると、スタッフの方がパンフレットを配られている。

SL-G700のパンフレットか、と思っていたら、MQAのパンフレットだった。
MQAジャパンの人もいて、MQAのデモも行う雰囲気があった。

Date: 11月 9th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その16)

「音は人なり」の容赦なさに耐えられる人もいれば、そうでない人もいる。
耐えられない人は、どうするか。

愛聴盤ではないディスクはうまく鳴ってくれるのに、
肝心の愛聴盤が寒々しくしか鳴ってくれない原因を、どこに求めるのか。

システムのせいにしたくなる。
けれど、愛聴盤が寒々としか鳴らないのであれば、
それは自分の裡に求めるしかない。

逃げようがない状況なのだ。
ただただ、そのことを受け止めるしかない。

にも関らず、逃げ出したくなるのが人の常なのかもしれない。
そこで、ついどこかをいじってしまう。
いじりたくなる。
なんとかしたくなる衝動が、オーディオマニアならば沸き起こってこよう。

でも、そういう時はシステム側に、なんらかの答を求めようとしても無駄である。
無駄ということを、ここまでオーディオをやってきた、そう実感している。

愛聴盤以外のディスクはうまく鳴る。
愛聴盤がうまく鳴らない。

これは何度でも書くが、自分の裡に答を求めていくしかない。
無為に耐えるしかない。

Date: 10月 25th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その15)

いい音が鳴ってきた、と思う時がある。
オーディオマニアなら、誰にでもあろうことだ。

そういう時に愛聴盤、
それもとっておきの愛聴盤を、それこそ満を持してかける。

いい音よりも、もっともっと上の素晴らしい音で愛聴盤が鳴ってくれる──、
そういう期待がもう膨らみに膨らんでいる。

にも関らず、鳴ってきた音楽はすかすかだったりすることがある。
音は悪くないどころか、いい音ではある。

なのに音楽が、愛聴盤でこそ聴きたい音楽がすかすかとしか、
他に表現のしようがないほどに、なんら響いてこない。

虚しく、あちら側で鳴っている──、
そんな感じしかしない。
音楽に感動する、とか、そんなこと以前に、
かなしくなってしまう。

そういう時も「音は人なり」である。
そこで鳴ってきた、これまで大切にしてきた音楽がすかすかにしか鳴らないということは、
鳴らしている己がすかすかでしかない、ということを、
否応なく正面からつきつけられる。

どこにも逃げようがない。
愛聴盤をかけるまでは、素晴らしい音に仕上がった、と思っていただけに、
よけいに惨めさを味わうことになる。

そんな時に慰藉してくれる愛聴盤がまったく響いてこないのだから、
どこにも逃げ場はない。

「音は人なり」は容赦ない。
その容赦なさに、だまって耐えるしかない。

Date: 10月 22nd, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その14)

どんな時でも、同じ音が、自分のオーディオから鳴っている──、
そう心底思っている人は、まぁオーディオマニアではない、といえる。

いつ聴いても、ウチの音はいい音だ、
そう思い込んでいられる人は、シアワセだ。

そういう人にとって「音は人なり」を、重たく感じることはないはず。

けれど、実際は同じ音、さらにはずっといい音が鳴っているわけではない。
これ以上美しい音はないのでは……、
そんなふうに思える音が鳴る時がある。

そういう時であれば「音は人なり」は、
これ以上ない讃美のことばとして、受け止められる。
昔の人は、いいことをいったなぁ、と思うことだろう。

でも、それはずっとは続かないどころか、
あっさりと消えてしまったりする。
消えてしまうどころならば、まだいい。

どうして、こんなひどい音しか鳴らないのか、そう嘆く日もある。
そういう時も「音は人なり」である。
「音は人なり」を正面から受け止めなければならない。

箸にも棒にもかからない、そんなふうに表現するしかない音であっても、
どこまでも「音は人なり」はついてまわる。

都合のいいときだけの「音は人なり」ではない。

Date: 10月 22nd, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その13)

自己模倣から逃れられない──、
そうみえるオーディオマニアがいる。

私が勝手にそう想っているだけで、
他の人からみればそんなことはない、ということになることだってあるし、
当の本人にしてみれば、たとえそうであったとしても、よけいなお世話ということになる。

どこそこの誰が、自己模倣のまま、と指摘したいわけではない。
考えているのは、なぜ自己模倣をしてしまうのか。

別項「続・何度でもくりかえす」で、
無為に耐えられないから、ついつい手を出してしまう、と書いた。

とにかく、なにかあるとどこかいじっている人がいる。
時には屋上屋を重ねる的なことを、何度もくり返している人がいる。

もう少し、じっくり腰を落ち着けて音楽を聴いてからでも、
オーディオをいじるのは遅くないどころか、
昔からいわれているように、そのほうが確実である。

にもかかわらず、ここを変えたら……、
そんなことをずっと言っているオーディオマニアがいる。

そういう人たちは、無為に耐えられないのだろう、と思っている。

自己模倣の人たちも、同じに思う。
無為に耐えられない人なのだろう、と。

Date: 10月 17th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(若い人こそ)

デッカ・デコラについて書いている。
書けば書くほどに、書きたいことが浮んでくる。

だからこそ、若い人に、できるだけ若いうちに、
できれば10代、無理ならば20代のころに、一度でいいから、
わずかな時間でいいから、デコラの、いい状態の音を聴いてほしい、といいたい。

ステレオサウンド別冊Sound Connoisseur掲載の五十嵐一郎氏の「デコラにお辞儀する」に、
《大木忠嗣さん曰く、「これは長生きできる音だなぁ」》とある。

このことを、今回、じっくりデコラを聴いて実感しているところだ。
そういう音だからこそ、若い時に、わずかな時間ではあったが、
聴いておいて良かった、とおもう。

Date: 10月 16th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その13)

また別の人は、
デコラの脚を外して、分厚く重いベースを代りにしている。

これで音が良くなった──、そうである。

そういうことをすれば、かなり音は変化する。
買ったモノをどうしようと勝手だろ、
そういう人はいうのだろうか。

こう書いている私も、オーディオ機器に手を加えることがある。
それでも、自分にルールを課している。
そのルールからは決して逸脱しないようにしている。

ルールを自らに課すことなく手を加える行為と、
ルールを課して手を加える行為、
まったく手を加えないという人からすれば、
どちらも同じ穴の狢のはず。

それをわかった上で書いている。
デコラをもし手に入れることができたとして、何をするか。

私はデコラには何もしない。
それは、デコラが完結しているからだ。

デコラは、いわゆる電蓄である。
プレーヤーがあり、チューナーがあり、
コントロールアンプ、パワーアンプがあり、
そしてスピーカーシステムから構成される大型のシステムだ。

デコラが開発されてから、かなりの年月が経っている。
技術は大きく進歩している。

どんな技術であれ、完成するということはまずない。
だからこそ、デコラのようなシステムは特に完結していなければならない。

デコラは完結したシステムである。
そうおもうから、デコラに手を加えることは絶対にしない。

Date: 10月 15th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その12)

「デコラゆえの陶冶」というタイトルで書いている。

けれど、今回、「デッカ デコラ」で検索してみて、
やっぱり人さまざまなんだ……、と歎息するしかなかった人たちがいた。

デコラはナロウレンジである。
そんなことは測定データを示されなくともわかっている。

それでも、デコラの音を聴いてご覧なさい、といいたい。
聴けばわかる。

そう思っていた、というより、信じたい気持があった。

でもGoogleが示す検索結果のいくつかを見ていくと、
聴いてもわからない人がいる──、
そのことを知らされるわけだ。

デコラのトゥイーターはコーン型である。
口径からして、年代からして高域が上の方までのびているわけではない。
当時でも、採用されたトゥイーターよりも、
周波数特性の優れたユニットはあったように思う。

それでもデッカの開発陣は、EMI製のコーン型を選択している。

ある人は、高域をのばすために、
コーン型トゥイーターの前に、国産の安価なホーン型トゥイーターを設置している。

確かに周波数特性的には,そのホーン型トゥイーターの方がのびている。
でも、なぜそんなことをする?

その行為を、どう理解しようとしても、私にはまったく理解できない。
この人には、音の品位ということが、まったく理解できないのかもしれない──、
そうとしか思えなかった。

Date: 10月 8th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その2)

一年前に、(その1)を書いた。
そこで、オーディオの罠は存在しない、と思うように変った、と書いた。

それまでは、オーディオの罠といえるものが、存在しているように感じていた。
それを人は泥沼と呼んでたりしている。

そう書いた一ヵ月くらい後に、
自己模倣という純化の沼と書いた。

結局、この自己模倣という純化の沼を、
オーディオの罠のように錯覚しているだけなのだろう。

それをオーディオの泥沼と思っているだけなのだろう。

自己模倣という純化の沼を楽しみたければ、それもいい。
やめたほうがいいですよ、とは、もう言わないことにした。

Date: 9月 26th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その13)

一通のメールが、日付が変ったころに届いていた。
私より一世代若い方(Fさん)からのメールだった。

Fさんのメールには《取り留めもない話ばかり》とあった。
それでも、Fさんは、いまのオーディオの在り方に何かを感じていて、
そのもやもやとした気持が、メールになって届いたような感じを受けた。

Fさんと同じような気持のオーディオマニアの方は、少なからずおられると思っている。

Fさんのメールの最後には、
《楽がすべてなのかと悶々としています》とある。

メールにもあったが、
自動車は自動運転を目指している。

自動運転に向っているのは、私はけっこうなことだと考えている。
クルマの運転を趣味としない人にとっては楽で、
さらに、どこまでなのかははっきりとはいえないが安全も確保されるであろう。

悲惨な交通事故は大きく減ってくれるはずだ、と期待している。

クルマの運転を趣味としている人にとっては、自動運転はどうだろうか。
余計なことをしやがって、と捉える人もいよう。

でも、自動運転が支配的ではなく補助的に働くことで、
自動運転の機能なしでは避けられない事故を防ぐことは可能になるはずだし、
事故を避けられなかったとしても、被害をできるだけ小さくできる可能性もある。

なかには、そういう人もいるのかもしれないが、
クルマの運転の楽しみは、スリルを味わうことではない。

クルマの運転の楽しみ、趣味性を高めることのできる自動運転の補助的利用方法は、
十分考えられることのはずだし、
自動運転機能の利用の仕方は、二つに分れていくように思っている。

Date: 7月 6th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その10)

今年のOTOTENに出展していたESD ACOUSTICは、中国の若いメーカーである。

中国は、衣食住足りて、いま文化的なことに目を向けている──、
そういう意見を目にした。
ESD ACOUSTICは、そういう背景から生れたメーカーなのかもしれない。

日本の、1970年代のオーディオブームも、そうだったのかもしれない。
高度成長期を経て、文化的なことに目を向けるようになってのオーディオブームだったのか。

そうともいえるし、
そうだとしたら、衣食住足りて、いま文化的なことに目を向けている」ということでは、
日本と中国も同じなのか、という気もする。

けれど違う背景がある、とも思っている。
決して衣食住足りている、とはいえない時代に、
オーディオに真剣に取り組んでいた人たちが日本にはいた。

五味先生がそうだった。
芥川賞を受賞されるまでのこと、
受賞されてからも、それ以前の生活とたいしてかわらなかったこと、
剣豪小説を書く決心をされるまでのことは、
五味先生の書かれたものを読んできている人ならば知っている。

そうであっても、五味先生は、いい音を求めて続けられていたからこそ、
「オーディオ愛好家の五条件」の一つに、
「金のない口惜しさを痛感していること」を挙げられている。

五味先生だけではない、瀬川先生もそうだ。
ステレオサウンド 62号、63号の記事を読んで、瀬川先生の少年時代の家庭事情を知った。
瀬川先生も「金のない口惜しさを痛感している」人であった(はず)。

衣食住足りなくとも、オーディオに、音に情熱を注いできた人たちがいる。
衣食住足りている時代以前の背景が、
日本と中国とでは違うのではないだろうか。

中国に、五味先生、瀬川先生のような人はいなかったのではないか。
中国だけではない、他の国でもそうなのではないだろうか。