巧言令色鮮矣仁とオーディオ(その2)
「夢は薬 諦めは毒」という書籍が書店に並んでいた。
手にとってはいない。
どんな内容なのかは知らない。
だから、この本についてなにかいいたいわけではなく、
ただ「夢は薬 諦めは毒」は、ほんとうにそうなのか、と思った。
たいていの場合は、そうだろう、とは私だって思う。
けれど、ときには「夢は毒 諦観は薬」ではないだろうか、と思うからだ。
「夢は薬 諦めは毒」という書籍が書店に並んでいた。
手にとってはいない。
どんな内容なのかは知らない。
だから、この本についてなにかいいたいわけではなく、
ただ「夢は薬 諦めは毒」は、ほんとうにそうなのか、と思った。
たいていの場合は、そうだろう、とは私だって思う。
けれど、ときには「夢は毒 諦観は薬」ではないだろうか、と思うからだ。
別項で、「毒にも薬にもならない音」について、何度か書いてきている。
巧言令色鮮矣仁といえる音もまた、毒にも薬にもならない音であろう。
以前、「音を表現するということ(その4)」で、
優れたアナウンサーが、優れた朗読家とはかぎらない、と書いた。
アナウンサーはannouncer、つまりannounce(告知する、知らせる)人であり、
アナウンサーに求められるのは、情報の正確な伝達である。
ならばアナウンサーは、巧言令色鮮矣仁であってもいいのではないか。
巧言令色鮮矣仁がアナウンサーの理想なのかについては考えなければならないが、
仮にそうだとしたら、もっとも理想的なアナウンサーは、
これから先、AIがますます発達してきたら、人が読むよりも、
AIに読ませたほうが、より巧言令色鮮矣として、
より正確に情報を伝えてくれる可能性も考えられる。
アナウンサーは、人である。
男性か女性か、どちらかである。
けれどAIの発達は中性のアナウンサーを、見事につくりあげてくれるかもしれない。
中性的な男性、中性的な女性、そんな雰囲気の人はいても、完全な中性なわけではない。
完全な中性とは、どういうものだろうか。
両性具有が、完全な中性とは思えない。
性器をもたない者こそが、完全な中性だとしたら、
それはAIによるもののはずだ。
一方、朗読は、announceではなく、recite。
音楽や朗読などの少人数による公演は、recital(リサイタル)である。
ここに巧言令色鮮矣仁は、どれだけ求められるのだろうか。
毒にも薬にもならない──、という表現がある。
毒にも薬にもならない音、というのがある。
毒にならない音だから、一定水準以上の音であるともいえる。
少なくとも、けっして悪い音ではない。
毒にも薬にもならない──、
そういう録音について、以前、菅野先生と話したことがある。
誰の録音なのかは書かない。
けれど、その人の録音は、優秀録音として高く評価されている。
私はそれほど多くの、その人の録音を聴いているわけではないが、
確かに優秀な録音であるのは確かだ。
それでも、菅野先生が、毒にも薬にもならない、といわれたのはとてもよくわかる。
その人の録音だけでなく、毒にも薬にもならない音は、
再生音にも増えてきている、と感じている。
そして、そういう音が高く評価されているようにも感じている。
優秀な録音であったり、精度の高い再生音であったりする。
ケチをつけるというのを、あら探しを無理矢理するようなことなのかもしれない。
けれど「毒にも薬にもならない」のである。
そう感じる人がどのくらいいるのかというと、
いまでは少数のようにも感じている。
なぜ「毒にも薬にもならない」音が増えてきているのか。
誤解されたくない、という気持が根底にあるからではないだろうか。
オーディオの普及のためには、
オーディオを何も知らない人がみて、かっこいい、と思われないとダメだ──、
そんなことをSNSで見かけたことがある。
基本的には、というか、簡単に言葉にしてしまえば、私も同じ考えだ。
でも、SNSでそんなことを発言していた人のオーディオは、
私は少しもかっこいいとは思えなかった。
薄っぺらだな、と感じただけだった。
専用のリスニングルームに、高価な器材が並べてある。
そんな発言をしている人のリスニングルームだけにかぎったことではない。
同じように感じてしまう写真が、インターネットにけっこうあふれてたりする。
確かにこれだけの器材を買うだけでも、それだけの情熱は必要になる。
そんなことはわかったうえで、薄っぺらだ、と感じてしまうのは、
オーディオの楽しさが、少なくとも写真から伝わってこないからだ。
スイングジャーナルでずっと以前に載った瀬川先生のリスニングルームの写真を見て、
カッコイイと思った人は、
あの写真から、オーディオの楽しさを感じとっていたからではないのか。
岩崎先生の部屋に憧れる、といった人も同じだったのではないか。
タイトルで、どう表記するか。
かっこいい、カッコイイ、カッコいい、
それから漢字まじりだと、恰好良い、格好良いがあり、
恰好いい、恰好イイ、格好いい、格好イイ、などがある。
さらに強引にすすめれば、
恰好(格好)佳い、恰好(格好)善い、恰好(格好)好い、などもありか。
こんなことを書いているか、というと、
SNSで「かっこいいオーディオを目指している」とか、
「かっこいいオーディオこそが、オーディオの裾野をひろげる」とか、
そんなことをみかけることがあったからだ。
ここでの「かっこいいオーディオ」のかっこいいが、どの表記だったのかは憶えていない。
ただ、なぜ、この人は、かっこいいオーディオを目指すのか、
そして、この人は、自身のオーディオをかっこいい、と思っているんだろうな、
それから、この人の「かっこいい」はどの「かっこいい」なんだろうか。
そんなことを漠然と思ったことがある。
おもしろいもので、そういう人はたいていハイエンドオーディオと呼ばれるモノを持っている。
それから専用のリスニングルームを持っている。
つまりたいそうなお金をオーディオに注ぎ込んでいるわけだ。
でも、そういうリスニングルームをみると、
なぜだが、薄っぺらいと感じてしまう。
かっこいい、とはまったく感じない。
なんといったらいいのだろうか、
他人の目を気にしているようなところを感じてしまうからなのか。
別項でのコメントで、
スイングジャーナルでずっと以前に載った瀬川先生のリスニングルームが、
カッコイイと思った──、とあった。
この写真はステレオサウンド 62号にも載っている。
和室にJBLの3ウェイのシステム。
広い部屋ではない。
いまどきのおしゃれな部屋でもない。
昭和の時代の、決して高級ではない和室である。
自作のスピーカーエンクロージュアの上には、AXIOM 80のダンボール箱がある。
いまどきのおしゃれなオーディオをめざしている人は、
こんなことは絶対にしないであろう。
ダンボール箱のまま、押入れかどこかにしまっておくだろう。
数年前、岩崎先生のリスニングルームの写真をみて、
憧れる、という人もいた。
ステレオサウンド 38号に載っている写真である。
JBLのパラゴンがあって、アルテックの620Aが、その両端にあって、
パラゴンの中央にはマイクロのアナログプレーヤー。
それだけでなく、岩崎先生のリスニングルームには、アンプやチューナーなどのオーディオ機器が、
おしゃれなラックにおさめられることなく積み上げられている。
雑然とした部屋ともいう。
それに憧れる、といった人は、私よりも若い。
憧れるには、かっこいいが含まれていた、と勝手に受け止めている。
私の、この二人の部屋には憧れるところがある。
一方で、いまどきのオーディオ評論家のリスニングルームの写真を見ても、
憧れることは、ない。
「音は人なり」の容赦なさに耐えられなければならない──、
私はそう思っている。
容赦なさに耐える、ということは、じっとがまんすることではない。
しっかりと自己分析する、ということである。
デジタルの技術の進歩は、そういったことだけでなく、
趣味のオーディオの世界では、ハイレゾ(High Resolution)の方も向いている。
サンプリング周波数は高くなっていく。
別項で書いているように、
ハイアーレゾ(Higher Resolution)、
さらにはハイエストレゾ(Highest Resolution)を目指しているかのようでもある。
こういったデジタルの技術の進歩を、歓迎はしている。
けれど一方で、危惧するところもある。
デジタルの技術の進歩は、
鳴らし手に万能感を与えるのではないか、ということだ。
鳴らし手がほんとうに万能になるのではなく、万能感を与えるだけで終ってしまうのではないのか。
そうなってしまっては、完全に誤った道となってしまう。
そんな方向にオーディオが進んでしまった時、
それだけでなくオーディオマニアが、そんな方向に進んでしまった時、
オーディオがオーディオでなくなるとき──、ではないのか。
唐突なように感じる人もいるかもしれないが、
私は、ここでイェーツのよく知られる詩の一節をおもい出す。
“In Dreams Begin Responsibilities”
この短い一節をどう訳すのか、
どう受け止めるのかは人によって、大きく違ってくるかもしれないが、
それでも、“In Dreams Begin Responsibilities”のないオーディオは、
もうオーディオではなくなっている。
デジタルの技術は、さらにオーディオに深く入りこんできている。
自動補正も、いまやスマートスピーカーにまで搭載されるようになってきている。
(その13)で少し触れているように、
オーディオの世界にも、自動運転的な技術が当り前のようになってきている。
それはオーディオという趣味をつまらなくするとは考えていない。
再生レベルの底上げにつながっていく、という期待を私は持っている。
やみくもにスピーカーをセットして、
各種プロセッサー類を何もわからずに使っても、
いろんな偶然が重なって、いい音が出る可能性がまったくないわけではないが、
オーディオの世界は、そんな甘いものではない。
でもデジタルの技術の進歩は、最初の一歩を確実に変えていく。
レベルを向上させてくれる。
鳴らし手は、そこからスタートできるわけである。
そこまでの苦労こそが、その人の経験(実力)になっていくのは確かだが、
それでも長いことオーディオをやっている人でも、
最初の一歩ふきんで、ずっと堂々巡りしていることだってある。
オーディオは、クルマの運転と違い、教習所がない。
基本をきちんと教えてくれる人が基本的にはいない。
それに免許もいらない。
だからこそデジタルの技術の進歩が、
教習所がわり、教えてくれる人のかわりになってくれることで、
オーディオ全体のレベルは確実に上っていくはずだ。
オーディオにデジタルの技術が入ってきたことで、
レベルの底上げは確実に起った。
CDが登場する以前、カセットデッキにマイコンが搭載されるようになった。
アジマス調整、バイアス調整などをマイコンが自動的に行ってくれるようになった。
それまで、もしかするといいかげんなバイアスで録音していた人もいたであろうし、
アジマスの狂ったデッキで録音・再生している人も、まちがいなくいたはず。
そういった人たちが、マイコン搭載のカセットデッキを購入するのかはその人次第だが、
少なくともマイコン搭載のカセットデッキを使えば、
上記のようなことはまず起らない。
これだけでもテープ録音・再生のレベルの底上げにはなっていた。
そしてCDとCDプレーヤーが、1982年に登場した。
いまだ、この時、オーディオ評論家がこぞってCDを絶賛したから──、
という論調で批判する人が少なからずいるが、ほんとうにそうだろうか。
アナログディスクと比較して、CDは音が硬いとか冷たいとか、ギスギスしている。
そんなことがいわれたことがある。
いまもっていっている人もいる。
これもステレオサウンドで何度も活字になっていることなのだが、
アナログディスクをよく鳴らしている人のところでは、
CDを持ち込んでも、うまく鳴ることが多かった。
CDがひどい音で鳴る場合、たいていはアナログディスクの音も、
普遍性があまりない音で、かなり独断的な音で鳴っていた。
つまり、鳴らし手の独自の世界、といってしまうときこえはいいが、
実際のところ、独断の世界ができあがっており、
そこにCDという新しいメディアを持ち込めば、拒否反応が起る。
この拒否反応は、システムの音のことでもあり、その鳴らし手のなかで起きることでもある。
その拒否反応をどう受け止めるかで、
その後の、その人のオーディオは大きく変っていくであろうし、
あいかわらず狭い世界でままかもしれない。
そういう意味でも、CDとCDプレーヤーの登場は、
再生のレベルの底上げとなった。
「音は人なり」
オーディオを介してスピーカーから鳴ってくる音は、
まぎれもなく、そのスピーカーを鳴らしている人の表現である。
だからといって、自己表現ということばは使いたくない。
それでも己の、なんらかの表現であることは確かである。
「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」
13歳で出逢った「五味オーディオ教室」に、そう書いてあった。
他にもいくつか深く心に刻まれたことばはある。
その中でも、この「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」は、
オーディオの最終解答のようにも感じた。
「音は人なり」に「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」をあてはめようではないか。
そうすると、ここでの無音とは己の表現を無にした音なのではないか。
そうおもえてくる。
人は、自分のことも、誰かのことも、断片でしか、
いくつかの断片でしか捉えていない(知ることができない)。
断片がいくつかあるのかすらわかっていないように思う。
だから、自分のことであっても、いくつもある断片のなかのいくつかだけしか見ていない、
誰かに対しても同じであろう。
つきあいのながい人、そうでない人であっても、
その人のことをどれだけ知っているかというと、やはりいくつかの断片でしかなくて、
しかも、この人、いつもと少し違う──、と感じている時には、
いつもと違う断片のいくつかを、勝手に取捨選択してみているのかもしれない。
だからこそ「音は人なり」なのかと最近おもうようになってきた。
音は、その人のすべてが統合されて鳴ってきているのではないのか──、
そう考えるようになってきた。
もちろん、ここでも手前勝手に聴いている可能性はある。
それでも音を聴くことのほうが、単なる断片のいくつかとしてではなく、
いびつなかたちであっても、統合されているのではないか。
昨年末に、STAR WARS episode IXを観た。
スターウォーズで検索すれば、さまざまな映画評が表示される。
最高という声もあれば、まったく逆の声もある。
私は、というと、スターウォーズの映画で初めて「長いなぁ……」と感じてしまった。
1978年夏、熊本の映画館で観たときとは、まるで違っていた。
あの時の昂奮は、もうなかった、と感じた。
観終ってしばらくして、「これも時代の軽量化なのか……」とふと思った。
STAR WARS episode IXは大作だ。
制作費もそうとうな額なはずだ。
IMAXで観た。
最後の戦闘シーンでは、音で座席が揺れるぐらいであった。
つい、この映画一本を上映するのに、電気代はどのくらいかかるんだろうなぁ……、
そんなことも考えてしまうほど、
スクリーンに投影される光の量も、スピーカーからの音量、
それらを実現するための電気の量は、そうとうなものだろう。
そんな意味でも大作なんだろう、と思いつつも、
時代の軽量化とも感じた映画だった。
メリディアンの218について書いていて、
この項が途中なのを思い出していた。
マーラーを聴くにも十分だ、というツイートを見たことから書き始めたわけで、
この「マーラーを聴くにも十分だ」というツイートをした人が、
どういう人なのかはまったく知らない。
以前書いているように私がフォローしている人ではなく、
フォローしている人がリツイートしているのが目に留っただけである。
それでも、「マーラーを聴くにも十分だ」というのは、
こちらの心にひっかかってくる。
勝手な想像でしかないのだが、
「マーラーを聴くにも十分だ」とツイートした人は、
218(normal)の音を「マーラーを聴くにも十分だ」というであろう。
十分すぎる、ということだって考えられる。
そうだとしよう。
「マーラーを聴くにも十分だ」という人は、どういうマーラーを聴いているのだろうか。
バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの第九は、
そこに含まれているのだろうか。
譜面に記されたものが音となって聴こえてくれば「マーラーを聴くにも十分だ」ということになるのか。
だとしたら、バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの演奏でなくてもいいのではないか。
私がまったく聴きたいと思わないマーラーの演奏でも、いいのかもしれない。
くり返すが、私の勝手な想像で書いているに過ぎない。
でも思ってしまう。
「マーラーを聴くにも十分だ」の人は、
メリディアンの218(normal)と218(version 7)で、
バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの第九を聴いても、そういうのか。
インターナショナルオーディオショウで、それぞれのブースで待っている人たち、
またオーディオマニアの人たちの姿が、
「ゴドーを待ちながら」のウラディミールとエストラゴンと重なってきた。
われわれオーディオマニアは、ウラディミールとエストラゴンではないのか。
この二人が待つゴドーは、オーディオマニアにとっては原音ということになのか。
そう仮定すると、
ウラディミールとエストラゴンがゴドーを待ちながらやっていることは、
オーディオマニアがやっていることなのか。
そしてポッツォとラッキーという主従関係にある二人が、そんな二人の前に現れる。
ポッツォとラッキーは、オーディオマニアにとって何なのか。
これはいろんな解釈ができる、と再読せずに思っている。
ポッツォとラッキーは、ウラディミールとエストラゴンの前から去る。
するとゴドーの使者と思われる少年がやってくる。
今日は無理だが、明日は来る、というゴドーの伝言を伝える。
そして第一幕が終る。
第二幕でも登場人物に変りはない。
ポッツォとラッキーが再び現れるが、第一幕のままのポッツォとラッキーではない。
少年もまた現れる。
ゴドーは現れない。
こうやって書いていっていると、
書く前以上に「ゴドーを待ちながら」はオーディオという世界、
そしてオーディオマニアを当てはめることができる、と感じるようになった。