Archive for category 「オーディオ」考

Date: 12月 22nd, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その6)

QUADのESLをつかったことのある人ならば気づかれていると思うが、
ESLの後側丈夫にある木製フレームの中央は、わずかだかふくらんでいる。
ちょうど手のかかるくらいの幅で、ふくらんでいる。
しかもその部分のESLの裏側を覆うパンチングメタルは、このあたりがわずかだか凹みがもうけられている。
つまり、木製フレームのでっぱり(ふくらみ)は、ESLを持ち運ぶための把手のようなものといっていい。

ESLはモノーラル時代に登場したコンデンサー型スピーカーシステムである。
QUADのESL以前にコーナーリボンと呼ばれていた、
その名の示すとおりコーナー型のスピーカーシステムを出していた。
それにESLはパネルヒーターに似たパンチングメタルが前面を覆っている。

これらのことから、少々強引に推測すれば、
QAUDは、少なくともスピーカーシステムを家具としてもみていた、と思われる。
だから最初のスピーカーシステムはコーナー型、
つづくESLは動作原理上、構造上からもコーナー型とはできないけれど磁気回路を必要としないESLの重量は軽い。
片手で持てる重量しかない。
しかも裏側に把手がついている。

これはもう聴かないときはESLは部屋の隅、もしくは邪魔にならないところ、
目につかないところに片付けておくことを前提としているのでないだろうか。
日本のちゃぶ台に似た考えともいえる。

ステレオであれば2台のESLを必要として、その位置関係の問題もあるため、
聴かないときはどこかにしまっておき、聴くときに所定の位置にESLを設置する、というのは、
正直めんどうな作業になってくる。
シビアに聴こうとすればするほど、簡単に持ち運びできるESLであっても、だ。

だがモノーラル再生であればESLは1台ですむ。
その1台のESLだけを聴くときは目の前に持ってくればいい。
ここにはステレオ再生に要求される2本のスピーカーシステムの厳密な位置関係は求められないから、
今日は少し大きめの音で聴きたいな、と思えば、ぐっと近くにもってきれるのもいいし、
なんとはなしに小音量でバックグラウンド的に鳴らしたいのであれば、
それほど前に出してこずに鳴らす、という自由度もある。

こんな使い方をピーター・ウォーカーが考えていたのかどうかは、はっきりしない。
でも実際にESLを使ってみると、どうしてもそういう意図があったように思えてならない。
そして、やはりこれはESL、つまりはスピーカーシステムを家具とみている、
もしくは家具に似せた、家具と錯覚するようなものにしたかったから、ではないのか。

そして、この点が、ESLとESL63の大きな違いともいえる。

Date: 12月 21st, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その5)

アクースティック蓄音器を、音を奏でる家具としてとらえてみた場合、
モノーラル時代に数多く登場してきたコーナー型のスピーカーシステムも、
家具としての見方が可能なようにも思えてくる。

アクースティック蓄音器に電気が加わり、いわゆる電蓄になり、
さらにそれまでひとつにまとめられていた構成パーツが単品パーツとして独立していく。
SPがLPになり、その傾向はますます強くなっていく。
もちろんこの時代にも電蓄と呼ばれるモノはあったし、その頂点にあるのがデッカのデコラであり、
デコラが、オーディオが家具だった時代の最後ともいえるだろう。

電蓄から、プレーヤー、アンプ、スピーカーシステムが独立して存在していくことで、
オーディオ(蓄音器といったほうがいいだろう)が家具だという印象も、同時に解体されていったのであろうが、
それでもスピーカーシステムに関しては、その大きさ、存在感からなのか、
まだまだ音を奏でる家具という印象が色濃く残っていた、と私は思う。

モノーラルLP時代の、いま名器と呼ばれているスピーカーシステムの多くはコーナー型である。
コーナー型である理由は、
部屋のコーナーをホーンの延長として利用して低音域の再生の拡充をはかることである、となっている。
たしかにオーディオ的・音響的にはそうであろうが、
家具としてスピーカーシステムをとらえた場合には、
それはコーナー型というのが必然的な形態ではなかったのか、と思えてくる。

タンノイのオートグラフ、JBLのハーツフィールド、エレクトロボイスのパトリシアン、
その他にも同時代のコーナー型スピーカーシステムはみな大型。
1954年にARのスピーカーシステムがワーフェデールの大型スピーカーシステムを公開試聴で負かすまでは、
充分な低音域を確保するためには大型化するのはさけられなかった。

大型であれば、それだけ部屋にあれば目につくことになる。
スピーカーシステムは音を鳴らさないときは、ほとんど何の役に立たない。
箱なのに、なにかを収納出来るわけでもない。
そんなモノが部屋の中にごろんとあったら、オーディオに関心のない家人はどう思うだろうか。
邪魔物でしかないはずだ。

だから大型スピーカーシステムほど、できるだけ部屋の中にあっても邪魔にならない場所、
つまり部屋のコーナーに、いわば押し遣られる。
そして家具として美しくなければならない。
これらの要求から生れてきたのが、
ハーツフィールドであったり、オートグラフ、パトリシアンなどのコーナー型スピーカーシステム──、
こんな想像も成りたつのではないかと思うのだ。

Date: 12月 15th, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その4)

エディソンのフォノグラフにしても、ベルリナーのグラモフォンにしても、
最初からくり仕掛けの器械だったのが、
ベルリナーのグラモフォンに絞られたことにより発展していく。
そしてアクースティック蓄音器は、ビクトローラのクレデンザ、
HMVの202、203という名器を生み出すまでになっていった。

クレデンザにしてもHMV・203にしても、もう、からくり仕掛けの器械ではなくなっている。
蓄音器の仕組みはおそらく広く理解されていたであろうし、
クレデンザにしても203にしても、それに、他のアクースティック蓄音器は、
このころにはすでに家具として認識されていたのではなかろうか。
音を奏でる家具としての存在が、アクースティック蓄音器であり、
だからこそクレデンザや203の意匠だと私は思っている。

クレデンザも203もアクースティック蓄音器である。
電気をいっさい使わない。
1896年にベルリナーがゼンマイ式のモーターを採用するまで、
フォノグラフもグラモフォンもレコードを聴くためには、
誰かかが一定の速度を保つようにたいへん気を使いながらハンドルを回していなければならなかった。

クレデンザが登場したのは1925年で、この年、アルフレッド・コルトーが電気録音を行っている。
さらにパナトロープ(電気蓄音器)も発売された。

それまで電気を使わずに機械的にカッティングされていたレコードの溝が、
マイクロフォンと真空管によるアンプ、それにカッターヘッドによって刻まれ、
サウンドボックスとラッパ(ホーン)だけによる再生が、
ピックアップ、真空管アンプ、スピーカーという構成へとなっていく。

アクースティック蓄音器から電気蓄音器(電蓄)へとなっていったわけだが、
この点が、最初から電気を必要としたテレビとは異り、
オーディオを家電製品と呼ぶことへの異和感へとつながっているのかもしれない。

Date: 12月 13th, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その3)

1週間前の12月6日は「音の日」だった。
1877年のこの日、トマス・アルヴァ・エディソンがフォノグラフ(phonograph)を完成させ、実験を行っている。
このときエディソンが「メリーさんのヒツジ」を歌ったことはよく知られている。
エディソン以前はどうだったかといえば、
レコードとレコードをつくり再生する仕組みの発明はなされていて、
それらいくつかの発明の中でもフランスのシャルル・クロによるパルレオフォン(parléophone)は、
歴史のいたずら(というよりパリの科学アカデミーの怠慢ゆえに)によって放っておかれ、
伝えられている日付が事実なら、このパルレオフォンこそが世界最初の蓄音器になっていたであろう。

とはいうものの、一般的認識としては、オーディオはエディソンの蓄音器、フォノグラフから始まっている。

エディソンのフォノグラフは、これ一台で録音・再生ができていた。
だから「メリーさんのヒツジ」をエディソンが歌った直後に、
フォノグラフからエディソンの声による「メリーさんのヒツジ」が聴こえてきたわけだ。
この事実が、実験に立ち合った人の何人かを、
発狂しそうなくらい驚かせたことに、深く関係している、と思う。

1877年当時の人たちにとってフォノグラフは、1877年までに存在していた他の器械とは違う、
理解しにくい、得体のしれない、からくり仕掛けの物体として映ったのかもしれない。
そうだとしたら、オーディオは最初はからくり仕掛けの器械だった──。

シリンダー状(錫箔管)だったエディソンのフォノグラフは、
その後ドイツ生れのエミール・ベルリナーの発明(1887年)、
グラモフォン(gramophon)にとって代わられることになる。
いうまでもなくベルリナーのグラモフォンは、現在のレコードの原型といえるディスク(円盤)状のもので、
エディソンのフォノグラフが形状的に持っていた、
複製をつくるのができない短所(欠点)を解消している。

原盤をつくり、あとはそのコピーを大量生産する、という目的にはディスク(円盤)は最適の形状といえるものの、
外周と内周とで線速度の違いから音質の差が生じる。
エディソンのフォノグラフでは、この問題はおこらない。
それに不確かな記憶で申しわけないが、ベルリナーのグラモフォンは再生だけだった、と思う。

ここから、エディソンのフォノグラフではひとつだった録音と再生が分かれてくことになる。

Date: 12月 12th, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その2)

巨大掲示板の2ちゃんねるの存在を知ったとき、
オーディオに関する項目がどこにあるのかを探して、ショックに近いものを感じた。

2ちゃんねるにはいくつもの大きなカテゴリーがあって、そのなかがさらに細かく分かれていて、
その先もまた細かく分かれていている。
大きなカテゴリーには、文化、学問・理系、学問・文系、趣味、音楽……など、いくつもある。
オーディオがどこに含まれるのか──。
家電製品のカテゴリーに「ピュアAU」というのがあり、
これが2ちゃんねる内のオーディオの掲示板であり、
2ちゃんねる内での位置づけである。

私はてっきり趣味か音楽のところかな、と勝手に思い込んでいただけに、
家電製品のところにあったことは、
つまりオーディオにこれといった関心を持たない人にとってのオーディオの位置づけがそうである、
そのことの反映と受けとらなくてはならないのだろうか……、
それがショックとまではいかなくとも、
それに近いものであったのは確かだった。

それまで、じつをいうと、オーディオはオーディオだ、ぐらいの認識だった。
電気を必要とするから電化製品といわれればたしかにそうではあるけれども、
だからといって家電製品とは思っていなかった。

電化製品も家電製品もほとんど同じようなものとして、このふたつの言葉は使われているにしても、
それでも家電製品と呼ばれるオーディオと
電化製品と呼ばれるオーディオとでは、
印象的に少し違ってこよう。
家電製品ということになってしまうと、
オーディオは洗濯機や掃除機、冷蔵庫と同じ括りになる。
テレビも家電製品だからオーディオも家電製品ということなのだろうか、
もしくは日本でオーディオ機器を作っていたメーカーのいくつかは家電製品も製造していたからなのか。

2ちゃんねるの、このカテゴリー分けは、いったいどうやって決まったのだろうか。
2ちゃんねるのカテゴリー分けで、オーディオが家電製品に含まれていようと、
オーディオを趣味とする者、さらには趣味以上のものとして取り組んでいる者が、
そう思っていなければそれですむことではあるというものの、
それでも、ここで考えていきたいのは、
オーディオとはいったいなんだったのか、なんなのか、である。

Date: 11月 10th, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その1)

ワイドレンジ考、現代スピーカー考、ハイ・フィデリティ再考、チューナー・デザイン考、など、
タイトルに「考」をつけたテーマでこれまでいくつか書きつづけてきている。

今日、あることがきっかけで、スピーカーやワイドレンジなどについて考えて書いてきているのに、
「オーディオ」そのものについて書いてきていないことに気がついた。

今夏からfacebookに「オーディオ彷徨」というページをつくった。
タイトルとURL末尾のjazz.audioからもわかるように、岩崎先生についてのfacebookページで、
定期的に、ではないが、不定期ながらわりとまめに更新してきている。

今日、いくつかの写真を公開した。
そのなかに1968年ごろの写真がある。
車(falcon)が写っている。そのトランクに左手をついているサングラスをかけた岩崎先生の写真だ。

この写真について、Twitterで
「オーディオがカッコよくて、オーディオ評論家もカッコよかった時代だなあ。」
というコメントがあった。

うん、うん、とうなずいていた。

また、1971年当時のJAZZ-O-DIOの店内写真を公開した。
これには、別のひとが、「めちゃ良い感じの写真!」というコメントをよせてくれた。

そう、オーディオとは、カッコいいもの、カッコいいことだったはず。
それがいつしか、なぜか、カッコわるいものの代名詞のように語られることが、いまではある。
なぜそうなったのだろうか。

……そんなことを思っていたら、「オーディオ」考について書いていかなきゃ、と思えてきた。

この項で、どんなことを書いていくのか自分でも見当がつかない。
それでも少しずつ書いていこう、と決めたところである。

Date: 9月 15th, 2008
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの「原点」

オーディオについて語るのは楽しい、 
掲示板で活発な議論がなされているのを読むのも楽しい。

でも、最近つよく思うのは、 
オーディオの「原点」とはなにかを、 
いちど徹底的に考えてみることである。