オーディオとは……(その1)
感覚の再現だとおもっている。
すくなくともこれまでずっとオーディオを通して音楽を聴く行為についてあれこれおもい考えてきて、
いまはそうおもっている。
感覚の再現の「感覚」は、
作曲家の、演奏家の、録音に携わった人たちのそれである。
感覚の再現だとおもっている。
すくなくともこれまでずっとオーディオを通して音楽を聴く行為についてあれこれおもい考えてきて、
いまはそうおもっている。
感覚の再現の「感覚」は、
作曲家の、演奏家の、録音に携わった人たちのそれである。
どのスピーカーシステムでもかまわない。
たとえばある人がJBLのフラッグシップモデルであるDD67000を手に入れたとしよう。
その人にとって、DD67000とイメージできる音がある。
それが、その人にとっての、そのスピーカー(ここではJBLのDD67000)の「顔」ということになる。
このDD67000の「顔」は、人が変れば、共通するところもあるにしても、
違ってくるところもまたある。
そのことは、ここではあまり問題にはならない。
とにかく、ある人にとって、DD67000の「顔」といえる音がある、ということが、
結局のところ「音は変らない」にかかってくることになっている。
そのDD67000の「顔」は、鳴らす人が変らないかぎり、
ずっと同じである、ともいえよう。
アンプを、それまで使っていたモノと正反対の性格のモノに交換したとしても、
その人にとってDD67000の「顔」が、
タンノイのKingdom Royalの「顔」になったり、B&Wの800 Diamondの「顔」になったりはしない。
鳴らす人が変れば、同じスピーカーシステムであっても、
また違う「顔」を見せることもあるにしても、
人が同じであるかぎり、しかもアンプやケーブルで「音は変らない」人が鳴らすのであれば、
よけいに「顔」は変らない、ともいえるのではないか。
だからといって、アンプやケーブルを替えても「音は変らない」──、
そういう音の聴き方をしていて、音楽を聴いていることになるのだろうか、と私はおもってしまう。
アンプやケーブルを替えても「音は変らない」と宣言した時点で、
どこか「仏つくって魂入れず」に近いことを、自分は行っている、と言っていることになるのではないだろうか。
私はスピーカーは役者だと、いまは捉えている。
だから、よけいにそんなふうにおもえてしまう。
スピーカーが音の「顔」だとすれば、
スピーカー以外では「音は変らない」も理解できないわけではない。
人の顔は、どんな表情をしていようと、その人の顔であり、
整形手術でもしないがぎり、決して別人の顔になることはない。
その意味で顔は変らない。
つまりスピーカーを替えないかぎり、「音は変らない」ということになる。
けれど人の顔には表情がある。
朝起きたばかり寝ぼけ眼の顔、すっきりと目覚めたときの顔、夜更けて睡魔に襲われている顔、
これだけでも同じ人の顔でもずいぶん印象は違う。
そして人には感情がある。
その感情がつくりだす表情も、またある。
喜怒哀楽──、
これだけでも同じ人の顔はずいぶん変って見えることがある。
笑っている顔でも、ほほ笑んでいるときの顔、大笑いしているときの顔、苦笑いの顔、つくり笑いのときの顔、
いろいろある。
同じような表情はあっても、ひとつとして同じといえる表情はない、ともいえよう。
顔は変る。変っていく。
けれど、あくまでもその人の顔であるという意味では、変りはない、ともいえる。
このことと同じ意味で、
アンプやケーブルによって「音は変る」という人と、
アンプやケーブルで「音は変らない」という人に分れるのではないのだろうか。
スピーカーの変更によってのみ変る要素とは、
スピーカーの支配する領域のことである。
こんな当り前すぎることを、今回改めて考えることになったわけである。
そしてこのことと同時に思いだしたことがある。
瀬川先生が熊本のオーディオ店で定期的にやられていた「オーディオ・ティーチイン」で、
アンプの比較試聴を行われた。
そのとき、こんなことをいわれた。
「アンプの音のち害がよくわからない、といわれる方がいらっしゃる。
スピーカーの音の違いというのは、人でいえば外観の違いであり、
アンプの違いは内面の違いともいえる。」
スピーカーの音が人に喩えれば外観であり、
アンプの音がその人の内面、という表現はわかりやすいと思ったし、
もちろん、この喩えには瀬川先生もこまかいことをつけ加えたいと思われていたであろうが、
オーディオ・コンポーネントの中におけるスピーカーとアンプの音のどういうところを支配、関係してくるのか、
そのことを的確に表現されている。
アンプやケーブルを替えても「音は変らない」と頑なに主張する人の音の聴き方が、
私なりに掴めた、とやっと思えた。
スピーカーが、いわば音の外観に深く関係しているということは、
そのシステムの音の「顔」といえる領域は、スピーカーの領域ともいえよう。
ほかにもいくつか理由となりそうなことを考えてみた。
自分でもこじつけとしか思えないものをふくめて、あれこれ理由となりそうなことを考えても、
私自身を納得させることは見つけられなかった。
なぜ「音は変らない」となるのか。
音は確かに変っている、にも関わらず。
だから、すこし考え方を変えてみた。
「音は変らない」と主張する人たちですら、
スピーカーを替えれば音は変る、と認めている。
ということはスピーカーによって変る要素とはなんであるのか、
またスピーカー以外で変らない要素(変らないといえる要素)とは、いったいあるのか、
あるとすればそれはなんであるのか。
そう考えたときに、やっと納得できる答(もの)が見つかった。
井上先生がよくいわれていたことのひとつに「頭で聴くな」がある。
音は耳で聴くものである。
だがオーディオに関心のある人、それも関心が強くなればなるほど、
時として耳ではなく頭で音を聴いてしまうことがないわけではない。
つまり、このスピーカーはこういう技術内容を持った製品だから、とか、
このアンプは真空管式だから、とか、
このケーブルの銅線の純度はきわめて高いから、とか、
このブライドの製品なのだから、
……この手のことは、際限なく書いていけるわけだが書いていってもあまり意味のないことだから、
このへんにしておくが、オーディオの知識が増えていくことで、
その知識が音の判断を時として誤らせてしまう、歪めてしまうことがある。
井上先生は、頭で聴くタイプの人は、音で騙すことができる、誘導することも簡単だともいわれていた。
だまされないタイプの人は、オーディオに関心のない、音楽好きの人でもある、と。
いい音を出していく為に身につけてきた知識や経験によって、
自分で自分を騙してしまうことが、まったくなかった、という人が果しているだろうか。
ケーブルやアンプで「音は変らない」という人たちこそが、頭で聴くタイプである、とはいえない。
頭で聴く人は、「音は変らない」と主張する人たちの中にもいるし、
「音は変る」という人たちの中にもいる。
スピーカー以外で「音は変らない」──、
そう主張する人たちがいる理由は、だから他にある、と考えるべきである。
昨夜書いた記事についてのkadhirさんのコメントを読んでいて思うことがあった。
こう書かれている。
「なにをしても音が変わる、というのはつらいと感じる人がいると思います。
つらいというか苦しいというか。際限のない地獄(金銭面でも)のような。」
確かに、音がささいなことで変化することには、そういう面がある。
ステレオサウンドにいたころ(20代前半だった)、
おもに井上先生の使いこなしによって、
こんなことで音は変っていくのか、と驚き、喜んでもいた。
そして井上先生の使いこなしによる音の変化に触発されて、
自分でも、こういうところでも音が変化することを見つけていくことに没頭していた。
自分で発見できたときは、また嬉しかった。
音はほんとうによく変る。
何かやれば、大なり小なり音は変化していて、
それに気がつくかどうかであることがわかる。
使いこなしの技能を身につけ磨いていくには、
こういう時期も必要である。
けれどオーディオの楽しみは、こういうことを発見するばかりでもない。
こんなことでも音は変ってしまう。
その現実に対して、意識的に拒否してしまいたくなる人もいて不思議ではない。
オーディオの目的は、音を変える要素を見つけていくことではないのだから。
だから、いまでは、こんなことで音は変ってほしくない、という気持の方が強い。
「際限のない地獄」と表現されている、その気持はわかるといえばわかる。
(私は地獄とは思っていないだけの話で、際限のないのは、そのとおりである)
けれど拒否しようとしても現実には拒否なんてできない。
さまざまな変動要素により音は変ってしまう。
だから私は、無数にあると思える要素をでひとつでも多くコントロールできるようにしたいと思っている。
いま別項で「plus」というタイトルで書こうとしていることの一部は、
このことへとつなげていく予定である。
オーディオ機器の性能を向上させるために、
いくつもの「新」技術がオーディオ機器にプラスされてきた。
それらはあらたな変動要素ともなっている。
何度か書いているように、世の中にはオーディオに関心を持ちながらも、
スピーカーを替えれば音は変ることは認めるけれど、
アンプやケーブルを替えても音は変らない、と頑なに主張する人がいる。
こういう人たちの耳が悪い、
この一言で片づけることはできる。
けれど、それだけで終らせてしまっていいものだろうか、とも思う。
音、オーディオに関心のない人が、音なんて変らない、というのとは違う。
関心を持っていながらも、それにオーディオ歴もそこそこ長いにも関わらず、
スピーカー以外では「音は変らない」となるのは、なぜなのか。
まず考えたのは、音の記憶力に関することだった。
たとえば写真や絵であれば、二枚のよく似た写真や絵を並べて比較することができる。
雑誌や新聞に片隅に載ることがある間違い探しである。
しかも写真も絵も時間によって変化することはないから、違いをゆっくり時間を気にせず探し出すことはできる。
音楽(音)は、たえず変化している。
そして比較試聴するアンプやケーブルの音を同時には出して聴くことはできない。
聴けるのは一組のアンプ、一組のケーブルである。
だから音を記憶していなければ、ふたつのアンプの音、ふたつのケーブルの音を比較はできない。
この記憶力は、人によって違いがある。
だからアンプやケーブルでは「音は変らない」という人たちは、
音の記憶力に欠けているのだと、最初は考えた。
けれど、それではスピーカーの違いによる音の違いも聴き分けられないことになる。
そうなると音の記憶力に関することではないのではないか。
「音は変らない」も、おかしな表現だということに気がつく。
「音は変らない」が何をいおうとしているのかはわかっているけれど、
それでもこの「音は変らない」だけを取り出してみると、おかしなことだと感じる。
音はいうまでもなく一瞬たりとも静止しない。
つねに変動・変化しているから音である。
そんな性質の音をとらえて、「音は変らない」はおかしい。
「音は変らない」の音とは、音楽を構成する音である。
音楽もまた、つほに変動・変化する音から構成されるものであるから、
音楽もまた一瞬たりとも静止することは、絶対にない。
よくよく考えてみると、この世の中に「変らない」ものなんて、
なにひとつ存在しないことに気がつかされる。
音のように変動・変化がはやいものもあれば、
たとえば非常に硬く安定している物質は長年に亘り変化しない──、
人間の目にはそう見えても微視的にみれば、まったく変化していないわけではない。
ただ、その変化があまりにも遅いために人間の生きている時間内ではなかなか認識しにくいだけのことであって、
未来永劫まったく変化しないものなど、この世の中に存在しない。
つまり「音は変らない」は、
正しくは「変らないように聴こえる」であり、
「変らないように聴こえる」には人間の能力に関係していることだから、個人差もあるということだ。
たとえ「変らないように聴こえる」のだとしても、
それはその人にとってのことであり、ほかの人にとっては必ずしもそうではない。
「音は変らない」と言い切ってしまうことほど、非科学的なこともない。
「再生音は現象」ということを、今年は実感することが多かった。
こうやって毎日ブログを書きながらも、そのことを実感していた。
再生音を現象と捉えることで、いくつかのことがらがつながってくる。
納得のいくこともある。
そして、ここでいう再生音とは、ステレオの再生音のことである。
モノーラルの音源をスピーカーシステム1本で鳴らすモノーラル再生音は、ここでは含まない。
モノーラルの音源でも、左右2本のスピーカーシステムで再生するのであれば、
その再生音は現象ということになる。
音楽を聴くには十分だ、とか、
これ以上の性能はオーバースペックだ、とか、
こういった類の表現が、昔からなされることがある。
オーディオは家庭で音楽を聴く行為である。
音ではなく、音楽を聴く──、
この「音楽を」を強調する意味も含めて、音楽を聴くには十分だ、という表現だということはわかっている。
わかっていはいる。
けれど、こういう表現をみかけると、黙ってはいられなくなる。
ほんとうに、音楽を聴くには十分なのだろうか、
音楽を聴くにはオーバースペックな性能なのだろうか……。
この手の表現からは、
私は音を聴いているのではない、音楽を聴いているのだ、という主張が顔をのぞかせていることがある。
にも関わらず、この手の表現には主語がないことがある。
私、ぼく、といった主語がなく、この手の表現が使われることには、
私は強い違和感をおぼえる。
私には十分だ、となっていれば、
こんなことを書くこともない。
けれど、不思議なことに、主語がないことのほうが多いようにも思うから、
こんなことをつい書いてしまっている。
誰しも嫌いな音、苦手な音とあることだろう。
私も、どうしてもダメな音がある。
どんな音かというと、磁石を砂鉄の中にいれると磁石に砂鉄がけば立つようについていく。
こういう感じの音が、どうしても苦手であり、
しかも安直にパソコンを使った音出しで、この手の音をだしているところがある。
さらに、この音を鮮度の高い音と判断する人がいるのに驚いてしまうのだが、
こういう音は鮮度の高い音では決してない。
とにかく、この種の音だけはいくつになってもダメである。
生理的に拒否してしまう音であり、たぶん死ぬまで、この種の音に対する反応は変らないだろう。
私がいま出したいとしている音は、嫌いな音、苦手な音を出すこととは直接の関係はない。
私が出したいのは「音は人なり」のうえでの、己の醜さ、愚かさを表現した音である。
一般的にいい音とされるのが、正の表現による音だとすれば、負の表現による音となるのかもしれない。
鏡をみて、己の醜さをそこに見つけて戦慄いてしまう、そんな音を出したい。
あの大きな事故以来、放射性物質の半減期は……、というのをよくみかけるようになった。
それ以前とは比較にならないほど目にするようになった。
半減期で思うのは、人の愚かさとか醜さ、そういったものに半減期はあるのだろうか、ということ。
あったとしても放射性物質の半減期よりもずっとずっと長いのかもしれない……。
そんなことを思っていると、「音は人なり」のもうひとつの側面について考えてしまうようになってきた。
愚かさや醜さを一切もたない人が、世の中にいるだろうか。
誰にだってある。
それを抑え込んでいるだけなのかもしれない。
それならば、「音は人なり」ならば、
愚かさ、醜さといった要素も、音として現れてくるのがほんとうなのではないだろうか。
現れてくる、というよりも、それを出してしまうのが、
コンサートに出かけていって音楽を聴くのではなく、
手塩にかけたオーディオによって、独りで音楽を聴くからこそできる表現なのではないか。
それは、いわゆる「悪い音」とは異る。
使いこなしの足りない音ではない。
その意味では、いい音ということになる。
けれど、顔を背けたくなる、耳で手で塞ぎたくなる、そういう類の音を出せるようになりたい。
そういう「音」を聴きたい、聴くことができるようになりたい、と強く思っている。
それにしても、なぜ音は所有できないのか……を考えると、
以前「再生音は……」で書いたことに行き着く、というより行き当る。
「生の音(原音)は存在、再生音は現象」だから、
われわれオーディオマニアはオーディオ機器、それを鳴らす環境は所有できても、
そこで鳴る音、鳴ってくる音は所有できないのではないのか。
オーディオに関することで家族への言い訳をあれこれ考えずにすんだ人は、
めぐまれた人といえるのだろうか。
家族といっしょに暮らしていて、
誰にもオーディオ機器の購入、その他に関することでまったく言い訳する必要のない人は、
まず金銭的にもめぐまれている人であることは間違いないであろう。
言い訳なんぞしなくてすむならしたくはない、考えることしたくはない。
そんな言い訳をしなくてもすむのだから、すくなくともオーディオ機器の購入に関しては、そうであるのだから、
やはりめぐまれている、ということになる。
そして自由に、欲しいオーディオ機器が登場したら、買い替えられる。
買い替える、もしくは買い足すことに誰も文句を言わない、
そういう環境の人は、ほんとうに誰にも言い訳をしていない、と言い切れるだろうか。
確かに家族に対しては、言い訳をする必要はないからしない。
けれど、彼らの中には、自分自身に対して言い訳をして、あれこれ買い替え、買い足している人だっている。
あのスピーカーシステムがあれば、こういう音が出せる、
あのパワーアンプに買い替えれば、このスピーカーからもっといい音を出せる、
ケーブルをさらに高価なものにしたら……、
つねにこんな言い訳を自分に対してしていない、と言い切れるだろうか。
オーディオは自分自身に言い訳をしなければ、いい。
自分自身に言い訳をしてしまったらダメなのが、オーディオである。