Archive for category 快感か幸福か

Date: 10月 23rd, 2011
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(続・音楽の聴き方)

ここに何度か書いているように、
井上先生から何度もいわれていてそれが身に沁みていて、私にとってはとうぜんのことになっているのが、
レコード(アナログディスク、CD含めて)とスピーカーを疑うな、ということ。

はじめてきくようなマイナーレーベルのレコードならまだしも、
名のとおったメジャーレーベルのレコードに、録音のおかしなものは原則として存在しない。

けれど、実際に自分のシステムで鳴らしてみると、うまく鳴ってくれるレコードがあるかと思えば、
まったく冴えない鳴り方のレコードもあり、
世間一般では録音がいいといわれていても、自分のところでうまく鳴ってくれなければ、
それは録音(レコード)が悪い、というふうに思ってしまう時期が誰にもあったはず。

けれど実際には、鳴らし方が悪かった、もしくは未熟なだけのことで、
真剣に真摯に音楽をオーディオを介して聴くことに取り組んでいれば、
いつしか、以前はうまく鳴らなかったレコード(録音)が、
うそのように自然な音で鳴ってくれる日が必ずやって来る。

スピーカーシステムに関しても、まったく同じことがいえ、
きちんとつくられたスピーカーシステムであれば、それがひどい音でしか鳴ってくれないならば、
機器の使い手である自分の未熟さが、そこにあらわれているわけだ。

井上先生のことばは、レコードやスピーカーに、己の未熟さを転嫁するな、ということである。

うまく鳴らないレコードがある、ということは、
オーディオの使いこなしが未熟である、どこかに未熟なところがある、ということであるわけだが、
またこうもいえる、と思っている。

うまく鳴らないレコードがある、ということは、音楽の聴き手として未熟だということ、でもある、と。

井上先生のことばをきいていたとき、私は20代前半だった。
そのころは、そのことばを額面通りに受けとめていた。
それはオーディオ的に未熟である、ということだと。

でも、いまはそればかりではない。
結局、音楽の聴き手としての未熟さが、うまく鳴らないレコードをつくり出していた、といまならそういえる。
どうすればいいのかというと、音楽をひたすら聴き込むことしかない。ただそれだけ、である。

Date: 10月 22nd, 2011
Cate: 快感か幸福か, 欲する

何を欲しているのか(快感か幸福か)

10代から20代にかけて、いっぱしの音楽の聴き手ぶっていたところで、
まだまだ若造に過ぎなかった音楽の聴き手であったことは、
この項の(その18)にも書いた。

けれど、この音楽の聴き手として未熟な時期に出会ったレコード(音楽)は、
だからこそ重要な意味を、大切な存在になってくるように思う。

黒田先生が「ぼくのディスク日記」にチャールス・ミンガスの「直立猿人」のことを書かれている。
ステレオサウンド 85号に掲載されている。
「音楽への礼状」においても、チャールス・ミンガスのことを書かれている。

チャールス・ミンガスの「直立猿人」を、黒田先生は「もっとも大切なレコードのひとつである」と書かれ、
「ことあるごとに、ぼくはこのレコードをききつづけてきた」とも。
黒田先生は「対象のさだかでない怒りの処置にてこずったとき」に、
いつでもチャールス・ミンガスの音楽をきいて、
「ぼくの怒りは、象の尻にたかる虻(あぶ)ほどもない、ごくちっぽけな、けちなものにしかすぎない」
と思えてきた、とも書かれている。

黒田先生にとって「直立猿人」は、
「物心ついてから後のぼくの人生を、このレコードに伴奏してもらったようにさえ感じている」存在である。

物心ついてから後の人生を伴奏してくれるレコードとは、
若く、音楽の聴き手としては未熟なときに出会うものである。

歳を重ね、音楽の聴き手として未熟なところを少しずつへらしていった後で出会える名盤と、
そこのところで違う。
どちらの名盤も、大切な愛聴盤ということでは同じであっても、
物心ついてから後の人生を伴奏してくれたレコードと、あとから出会ったレコードは、決して同じではない。

私にも、一枚、物心ついてから後の私の人生を、伴奏してもらったように感じているレコードがある。
未熟な音楽の聴き手のころに出会ったレコードだ。
いまも大切なレコードであり、この一枚と出会えたことこそが幸福であった、ともいえる。

Date: 10月 11th, 2011
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(音楽の聴き方)

27歳のときに左膝を骨折して入院した。
入院経験のある方ならおわかりのように健康状態を知るために血液検査がある。
そのとき看護婦さんが教えてくれたのが、血液検査をすると、けっこう多くの人が、いわゆる栄養失調なんだそうだ。

栄養失調といっても、遠い昔の栄養失調とは違うのだが、栄養が偏っている、ということでは、
やはり栄養失調ということになるらしい。

食うや食わずの、遠い昔と違い、いまの日本には食べ物は豊富にある。
それこそ好きなものだけを食べていても満たされる。
ずっと昔は、そんな好き嫌いをいっていては、満たされることはできなかったであろうに、
いまや嫌いなものを食べずに好きなものだけ、そして手軽なものだけを食べて、とりあえず満たされる。

いまのように自由に、というよりも好き勝手に食べるものを選べる時代よりも、
そんなことはいっていられなかった時代のほうがいろんな食べ物(栄養)を万遍なくとっていた、
ともいえるということは、音楽の聴き方もそうなっている、といえるのかもしれない、と思う。

アクースティック蓄音器の時代は、SPも蓄音器も非常に高価なものだった。
ラジオも高価だった。
生活の中にあって、音楽を聴ける機会は、いまと比較するまでもなく、ごくわずかだった。
そうやって音楽を聴いてきた人と、いまのようにレコードを買わずとも、
パソコンとインターネットに接続できる環境があれば、いくらでも手軽に聴くことができる。
それこそ好きな食べ物だけを食べていても満たされる(腹はふくれる)ように、
好きな音楽だけを聴いていても、満たされる(といおうか、時間は過ぎ去っていく)。

音楽の選択肢は、圧倒的に増加している、あふれかえっている……。
けれど、音楽を聴いて生きていくのに必ずしも幸福なこととは、思えない。

Date: 10月 10th, 2011
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(その10)

インターナショナルオーディオショウでの例、ステレオサウンドの試聴室での例とはすこし違う意味をもつが、
私にとっては、ふたつの例と関係してくるように思えてならないことが、ひとつある。

これもステレオサウンドにいたころの話である。
山中先生のところに原稿をとりに行った時のことだ。

話はまた横道にそれるが、このころステレオサウンドは富士通のワープロは導入していたけれど、
筆者でワープロを導入されたのは柳沢氏が最初だった。
そして黒田先生が導入された、と記憶している。
ほかの方々は手書きの原稿だった。
だから原稿を取りに行く、ということも仕事であった。
いまならメールで送信されてくるから、電車を乗り継いで原稿を取りに行くなんて、
時間のムダ、ということになるのだろうが、〆切で忙しいときに、
電車に乗って原稿を取りに行くのは気分転換になっていた。

それに手書きの原稿には赤をいれる。
この作業は、いまのメールで送信されてくるテキストデータを読むのとは、意味が異ってくる。
編集者として、手書き原稿を相手に仕事をしたことがないのは、時代が違うことはわかっていても、
やはり大きなマイナスだと思う。

話をもどそう。
その日、山中先生から連絡があり、何時にできるから、そのころ取りに来てほしい、ということだった。
時間ぴったりに伺うと、原稿はまだだった。
もうすこしかかる、ということだったので、山中先生のお宅の周辺で時間をつぶして、また来よう、と思っていたら、
リスニングルームに通された。そして「原稿が書き上がるまで、好きに聴いていていいよ」といわれた。

Date: 10月 7th, 2011
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(その9)

こういうこともあった。

ステレオサウンドにいたころ、M・O君が編集部にいた。私よりもすこし年下で、ロック小僧。
このM・O君が、ある試聴がおわったときにつぶやいた。

「山中先生が(試聴室に)入ってこられるだけで、音、変りますよね」

彼はオーディオに強い関心をもっていたわけでもなく、
「音は人なり」ということについてもまったく知らない。そのM・O君が、そうつぶやいた。

試聴室ではそのとき試聴に使うオーディオ機器のウォーミングアップをかねて、
午前中の準備が済んでずっと鳴らしながら、試聴に来られる方をまっている。

M・O君がつぶやいたときも、そうだった。
あるスピーカーシステムを鳴らしていた。
たしかに、山中先生が試聴室に入ってこられたと同時に、音のただずまいが変ったのは、私も感じていた。
鳴らしていたのは曲名は忘れてしまったが、クラシックだった、と思う。
M・O君はロック小僧だから、ほとんどクラシックは聴かない(カルロス・クライバーだけは例外だったけど)。

そんなM・O君が、山中先生が試聴室に入って来られる前の音と試聴室に入って来られてからの音、
このふたつ音の違いに反応していたことに、正直なところ、驚いていた。
そして、以前からこの時のように音が変ることを感じていたのは、私の気のせいばかりではないことを確認できた。

Date: 10月 6th, 2011
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(その8)

あと1ヵ月もすれば、インターナショナルオーディオショウがはじまる。
このインターナショナルオーディオショウの各ブースの音は、原則として、
そのブースの出展社(国内メーカー、輸入商社)の人たちが出している。

3日間の開催、各ブースでは評論家のによる音出しと話(つまりはイベント)が行われる。
一般的には、オーディオ評論家による講演、と呼ばれているし、以前は私もそう書いていたけれど、
さすがに「講演」という言葉は、菅野先生が不在になったいま、もう使わないことにした。

このときの音は、基本的には、そのブースの担当者の音、ということになる。
自分のイベントの時間だからといって、時間的余裕をもってそのブースに行き、
そこで鳴っている音を確認したうえで調整している人はいない。
これは当然のことであって、他の人もイベントを行うわけだから、
調整したいと思っていても、ノータッチが原則となる。

つまりあるブースで複数のオーディオ評論家によるイベントが行われるわけだが、
そこで、基本的にはイベントを行う人によって音が違ってくる、ということはまずないわけだ。

だが実際には、無視できない範囲で音が変ることがある。
こんなことをいうと、そのイベント目当てで来た人の数が違うのだから当り前だろう、という人もいるだろう。
たしかにそうなんだけれども、そういった要素による音の変化とは思えない音の変化がある、こともある。
これが、ないこと(感じにくいこと)もある。

そのブースのシステムを、そのときイベントを行っている人は調整していなくても、
それでも「音は人なり」ということを感じさせる音の変化が、
すべてのブース、すべてのイベントではないにしても、はっきりとある、といえる。

これはいったいなぜなんだろうか。

Date: 9月 28th, 2011
Cate: 使いこなし, 快感か幸福か

快感か幸福か(その7)

たとえばケーブルの聴き比べ、もしくはインシュレーターの聴き比べを行うために、
どこか誰かの部屋に仲間が、それぞれケーブルやインシュレーターを持ち寄って、音を聴く。
気の合う仲間同士であれば、楽しい、と思う。

でも同じケーブルやインシュレーターを持ち込むにしても、
たとえば誰かにシステムの調整を頼まれたときにも、そうするのはどうかと思う。

ここに書いたように、
私は調整を頼まれたときでも、直接手は出さない。
そしてもうひとつ、ケーブルやインシュレーター、置き台などのアクセサリーもいっさい持ち込まない。
なにか必要になったときでも、あくまでもその家にあるものを使う。

システムの調整(使いこなし)を頼まれて、いきなりケーブルやインシュレーター、置き台を持ち込むのは、
使いこなしを売り物にしている人にとって、それは恥ずかしい行為なのではないだろうか。
ケーブルやインシュレーター、置き台を持ち込み、それを変えていけば、音は確実に変る。
そのとき、使いこなしを売り物にしている人がやっていることは、いったいなんだろうか。

大事なのは結果である、つまり最終的に鳴ってくる音である、と、
使いこなしを売り物にしている人は、絶対に言う。
調整を依頼した人が満足してくれれば、それがケーブルを変えて(つまりケーブルを売りつけて)、
インシュレーター、置き台を変えて(売りつけて)の結果であっても、それでいいではないか、と。

だが、こういうとき、ほんとうに音は良くなっているんだろうか。
音は変っている。
その変った音を、いい音になった、と思い込まされているだけではないのか。

そう思うようになったのは、録音について書いている「50年」の項の(その9)に書いたことと関係している。

Date: 9月 24th, 2011
Cate: 使いこなし, 快感か幸福か

快感か幸福か(その6)

オーディオ機器は、高価なモノ、能力の高いモノ、そういったモノだけを揃えてポンとおいて鳴らしても、
いい音が鳴ってくることは、まずない。
たまたま、いくつかの条件がうまく組み合わさって、幸運が重なることで、
ポンとおいただけでも、そこそこいい音が鳴ってくることもあろう。
それでもそこから先の領域には、使いこなしが求められる、といわれつづけてきている。

使いこなしの重要性は、人一倍認識している。
けれど、最近、使いこなし、という言葉自体に抵抗感を感じはじめてもいる。

使いこなし、とひとことで表現しているが、
ここにはセッティング、チューニング、エージングがひとまとめになっているところもある。
セッティングとチューニングの違いとはなにか。
あるところまでセッティング、ここからはチューニングといえるようでいて、
はっきりとこのふたつに境界線があるわけではない。
それはチューニングとエージングに同じことがいえる。

便宜上、セッティング、チューニング、エージングとわけて説明することもあるが、
これらをふくんだ言葉として「使いこなし」という表現を使うことが、私は多い。
にもかかわらず、どうしても「使いこなし」を口にすることに抵抗を感じるようになったのはなぜなのか。

いくつか理由らしきことはある。

まず「使いこなし」を頻繁に口にする人、
しかも、それを売り物にしている人──人のシステムを調整して仕事としている人──に対して、
うさんくささを感じるようになったことも大いに関係している。

そして、そういった人たちが口にする「使いこなし」には、大事なものが欠けている、と感じているからでもある。

Date: 1月 1st, 2009
Cate: Kathleen Ferrier, 快感か幸福か

快感か幸福か(その5)

カスリーン・フェリアーのバッハ/ヘンデル集が録音されたのは、1952年。
モノーラル録音で、使われている器材はすべて真空管式である。

モノーラル録音ということに、いちども不満を感じたことはない。
デッカは、のちにオーケストラ・パートだけをステレオで録りなおして、
モノーラルのフェリアーの歌唱とミキシングしたディスクも出している。
指揮者は同じ、サー・エイドリアン・ボールトだ。

人は、生れる時代も性別も選べない。
だが、かりに選べたとして、選べることができるのだろうか。どうやって選ぶというのだろうか。

フェリアーの歌声と真空管器材による録音は、うまくいっている、合っている。
これが、もしトランジスター初期の、冷たく硬い音で録られていたら、どうなる。

時代の音というのが、儼然たる事実として、人にも器材にもある。
もうこの先、フェリアーのような歌手は登場しないだろう。

Date: 12月 31st, 2008
Cate: Kathleen Ferrier, 快感か幸福か

快感か幸福か(その4)

1年の最後に聴くディスクは、決めている。
カスリーン・フェリアーのバッハ/ヘンデル集である。
1985年に復刻されたCDを、いまでもずっと持ちつづけて聴いている。

このディスクだけは手離さなかった。
オーディオ機器も処分して、アナログディスクもCDも処分したときでも、
このディスクだけは手もとに残しておいた。

持っていたからどうなるものでもなかった。
聴くための装置もないし、ただもっているだけにすぎないのはわかっていても、
このディスクを手放したら、終わりだ、そんな気持ちがどこかにあったのかもしれない。

人の声に、神々しい、という表現は使わないものだろう。
でも、このディスクで聴けるフェリアーの声は、どこか神々しい。
いつ聴いても神々しく感じる。

厳かな時間がゆっくりと流れていく、とは、このことをいうのかと聴いていて思う。

23年間所有しているディスクだけに、ケースはキズがつきすこし曇っている。
けれど、ディスクにキズはひとつもない。

フェリアーのバッハとヘンデルを聴く時は、これから先もこのディスクで聴いていく。
いくら音が格段によくなろうと、PCオーディオにリッピングして聴くことは、
フェリアーの、この歌に関しては、ない。

愛聴盤を聴き続けていく行為とは、そういうものである。
だからこそ、愛聴盤になっていく。

いろいろあったし、これからもいろいろあるだろう。
でも、1年の終わりに、フェリアーをじっくり聴けるだけで、幸福というしかない。

Date: 9月 30th, 2008
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(その3)

最愛の人と仲睦まじく暮らしていても、
暖かい家族にめぐまれていても、
道を示してくれる師と呼べる人がいても、
忌憚なき意見を言ってくれる友人の存在があったとしても、
人はやはり、究極的には孤独(ひとり)である。

サミシイ……と嘆いて何になろう。

音楽を愛し、オーディオと真剣に向き合ってきたのなら、
なぜ、嘆く前に、愛聴盤に耳を傾けないのか。

孤独だからこそ、音楽の大切さを実感する、有難さが身に沁みる。
これを幸福と呼ばずして何を幸福というのだろうか。

Date: 9月 29th, 2008
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(その2)

20代のころ、音の表現として、
感心できる音、
感激できる音、
感動できる音、があると思ってきた。

30代のころ、感動の先にもうひとつあると思ってきた。
40になって、気づいた。
感謝できる音、があることに。

感心と感激は、快感の域、
感動、感謝が幸福の域、と言い切る。

Date: 9月 26th, 2008
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(その1)

愛聴盤が、思い描いた通りの音で鳴ったとき、
それ以上の音で鳴ったときに感じているのはなんなのか。 
ずっと欲しかったオーディオ機器を、やっとの思いで手に入れたときの感じもそうだ。 

快感なのか幸福感なのか。 

音の変化は快感をもたらす。でも、快感は一時的なものにしかすぎない。持続しない。
快感を追い求めつづけるのは否定はしない。快感の積み重ねが幸福につながるのかもしれない。
けれど、つねに変化を──、機器の入れ換え、ケーブルをあれこれ試してみたり、
インシュレーターを挿んだり重ねたり、やろうと思えば、際限なく行なえる。 

いい音の追求は、必ずしも幸福を得ることにつながっているのではない、という気持がどこかにある。

快感に、一時期とことん溺れてみるのは、経験しておいたほうがいいかもしれない。
けれど、いつまで経っても快感の追及だけだとしたら、虚しいではないか。

「芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、
むしろ、少しずつ、一生をかけて、
わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。
われわれはたったひとりでも聴くことができる。
ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、
美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の
諸要素を評価するようになってきているし、
ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ
自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている」。 

グレン・グールドの言葉である。
グールドについて語られるとき、よく引用されるから読まれた方も少なくないだろう。 

アドレナリンの瞬間的な射出を快感、
一生かけて、わくわくする驚きと落着いた静けさの心的状態を幸福として受けとめると、
グールドがコンサートをドロップアウトしたことが理解できそうでもあるし、
オーディオで音楽を聴くことが幸福の追求であるとも思えてくる。