バッハ 平均律クラヴィーア曲集(その6)
リヒテル、グールド、グルダがあればいい──、
というのは私の本音だ。
それでもマルタ・アルゲリッチ、内田光子の平均律クラヴィーア曲集が、
今後出ることがあれば、ぜひ聴きたい──、
というのも本音である。
この二人の、ピアノによる平均律クラヴィーア曲集が聴ける日は、来るのだろうか。
リヒテル、グールド、グルダがあればいい──、
というのは私の本音だ。
それでもマルタ・アルゲリッチ、内田光子の平均律クラヴィーア曲集が、
今後出ることがあれば、ぜひ聴きたい──、
というのも本音である。
この二人の、ピアノによる平均律クラヴィーア曲集が聴ける日は、来るのだろうか。
ピアノで弾かれた平均律クラヴィーア曲集ならば、
私はリヒテル、グールド、グルダがあれば、いい。
他にもいくつかのディスクは聴いている。
といっても、市販されたディスクの半分も聴いていないはずだ。
リヒテル、グールド、グルダの演奏よりも、もっと素晴らしい演奏がすでにあるかもしれないし、
いまはなくとも今後登場してこないとは言い切れない。
それでも、私は、もうこの三組の平均律クラヴィーア曲集で充分である。
クラシック、ジャズ好きの人に多いように感じているが、
グールド一番だ、とか、コルトレーンは金メダル、とか、
そんな表現をしがちな人がいる。
演奏は競技ではないのに、なぜ、一番とか金メダルとか、
そんな表現をするのだろうか。
グールドは素晴らしい、コルトレーンは素晴らしい、でいいではないか。
なぜ、そこに順位をつけるようなことをいうのだろうか。
結局、これは、自分は一番いいものを知っている、
その良さを理解している──、
そんなふうに主張したいだけなのか。
そんな人は、平均律クラヴィーア曲集に関しても、
私なんかよりももっともっも多くの録音を聴いて、
これが一番! というのだろう。
そこには、自分はこれだけの枚数を聴き込んできた、という自慢も含まれているのか。
満たされる、ということはないのか。
満たされる、ということがないまま音楽を聴き続けていくのだろうか。
それにしても、なぜ、このSACDは限定発売だけだったのか。
私の探し方がヘタだったのか、タイミングが悪かったのか、
ディスクユニオンで、中古盤をみかけたことがない。
だからヤフオク!で入手した。
けっこう強気の値段で出品している人もいる。
2012年当時の価格は、12,000円(税抜き)である。
ぜひ再販してほしい。
SACDが無理ならば配信してほしい。
そうすれば、廃盤ということはなくなる。
SACDだから、DSDでの配信もいいが、
ライナーノートによれば、
オリジナルのマスターテープからは96kHz、24ビットでデジタルに変換され、
マスタリング作業を行う日本に送られている。
ならば96kHz、24ビットのfalcかWAVでの配信でもいい。
でも私がもっとも望むのは、MQAでの配信である。
SACDになんら不満があるわけではない。
それでも、96kHz、24ビットでのデジタル変換の文字をみると、
MQAだったら、と思ってしまう。
リヒテルのピアノの音色以上に、
録音現場の響きの濃さが違ってくるように思う。
聴ける日がきてほしい。
ライナーノートによれば、
SACD化にあたって、
《真のオリジナル・アナログ・マスター・テープにさかのぼって真の音を探し出すことを第1の目標》
とする、とある。
かなり大変な作業だった、ようだ。
このへんのことはライナーノートにある。
そして、こうも書いてある。
*
トランスファー本番ではリヒテルの弾く「平均律」の音から、これまで気づかなかったいろいろなことが見えてきました。何といっても、真のオリジナル・マスターの音は非常に柔らかい天国的な音です。以前のCDではシャープに聴こえていた爪の音が意外に小さいこと、前奏曲とフーガにおける右手と左手に微妙なバランスの違いがあること、そして3回のセッションにおける音の違いが手に取るようにわかります。
*
リヒテルの平均律クラヴィーア曲集が、教会で録音されたことは知っていたが、
今回のSACDで、第一集が、クレスハイム宮とエリーザベト教会、
第二集がクレスハイム宮とポリヒムニア・スタジオでの録音だったことを知る。
「3回のセッション」とは、そういうことである。
ライナーノートにあるように、セッションによる音の違いがよくわかる。
そして《非常に柔らかい天国的な音》という表現も、誇張ではない。
私が聴いたLPは、日本ビクターのだった。
それ以外のLPは聴いていない。
それらの音が、どんなだったのかはわからないが、
少なくとも2012年発売のSACDは、もう.これでいい、と思わせる。
1978年に発売されたLPのタスキには、
《一生持っていて繰り返し聴くに足る演奏》
という吉田秀和による推薦辞があったのは、よく知られているし、
CDにもそのまま使われてもいた。
《一生持っていて繰り返し聴くに足る演奏》である。
けれど、これまでは繰り返し聴くに足る音とは、言い難かった。
バッハの平均律クラヴィーア曲集は、名盤・名演奏が少なくない。
どうしてもリヒテルの平均律クラヴィーア曲集が聴きたいという渇望はなかった。
そんな感じだったから、2012年にSACDが限定で出たことを、ずいぶん経ってから知った。
もうどこにも在庫はなかった。
なんとなくだが、縁がないのか、というふうにも感じていた。
それでも、ときおりふとリヒテルの平均律クラヴィーア曲集の断片が、
頭の中に響いてくることがある。
ほんとうに断片である。
ソニー・ミュージックから出ていたSACDを手に入れたいな、と思うようになったのは、
ここ一年ほどのことだ。
moraから配信があるかも、と期待もしていたが、
リヒテルのハイレゾリューションでの配信は、
ベートーヴェンのピアノソナタとシューマンの幻想曲のカップリング、
クライバーとのドヴォルザークのピアノ協奏曲、
ベートーヴェンの三重奏曲だけである。
平均律クラヴィーア曲集は、そこにはなかったし、いまもない。
e-onkyoにもない。
ないから急に聴きたくなったわけではない。
でも、ここにきて、リヒテルの平均律クラヴィーア曲集を、
きちんと聴いておきたいという気持が強くなってきている。
CDも、私が買ったもの意外にもいくつか発売になっている。
そのうちのどれかは、ある程度の満足がえられるかもしれない。
でもSACDが出ているのだから、どれを買ったとしても、SACDの存在が気になってくるはず。
結局、ヤフオク!で手に入れた。
リヒテルの平均律クラヴィーア曲集を聴いたのは、
ステレオサウンドの試聴室でだった。
誰かが試聴レコードとしてかけたわけではなく、
試聴室後方のレコード棚に、それはあった。
といっても存在に気づいてかけたわけではなかった。
サウンドボーイの編集長のOさんの「聴いてみろ」というすすめがあったからだ。
日本ビクターから発売されていたLPだった、と記憶している。
そのころの私にとって、平均律クラヴィーア曲集といえば、
グレン・グールド、ほぼ一択に近かった。
リヒテルの平均律クラヴィーア曲集は、大きく違っていた。
演奏については、いまさらいうまでもないだろう。
素晴らしい、と思いつつも、その音が気になる、といえば、そうだった。
何も知らずに聴いていたものだから、スタジオ録音で、
たっぷりとエコーをかけている、と思ってしまった。
まさか教会で録音したものとは思わなかった。
少なくとも、私がその時聴いた音は、教会の長い残響によるものとは感じられなかったからだ。
でも演奏は素晴らしいから、輸入盤を見つけたら買おう、と思っていた。
日本ビクターのLPを買おうとは、そんな理由から思わなかった。
そんなに熱心に探していたわけではなかったこともあって、
輸入盤とであうことはなかった。
そんなことをしているうちに、CDで出たのを買った。
日本ビクターのLPを、まず買っておけばよかったかなぁ、とちょっとばかり後悔した。
めったに聴かないのだが、
十年に一度くらい無性に聴きたくなることがある。
そういうときは、クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団による、
1984年のライヴ録音のオルフェオ盤をひっぱり出して聴く。
クーベリックは、バイエルン放送交響楽団の前に、
ボストン交響楽団と1971年に録音したものが、よく知られている。
いまも名盤として、SACDにもなっている。
私がクーベリックの「わが祖国」を聴いたのは、
バイエルン放送交響楽団のものが最初だった。
それからしばらくしてボストン交響楽団との録音も聴いた。
どちらがいいとか悪いとか、そういうことではなく、
私にはバイエルン放送交響楽団との演奏(録音)が、印象深い。
その後、チェコフィルハーモニーとの録音も出ている。
世評は、ひじょうに高いけれど、私は聴いていない。
私にとって「わが祖国」は、バイエルン放送交響楽団のがいい。
このバイエルン放送交響楽団との「わが祖国」は、
ステレオサウンドの試聴室で、であった。
山中先生が試聴ディスクとして持参されたのを聴いたのが、最初である。
「モルダウ」をかけられた。
試聴ということを忘れそうになるくらいに、熱いものを感じた。
クーベリック晩年のチェコフィルハーモニーとの「わが祖国」は、
聴けばきっと素晴らしい、と思うであろう。
そうであっても、うまく説明できないのだが、
私にとって「わが祖国」はクーベリック/バイエルン放送交響楽団がいい。
人と会って話すのも好きだけれど、
人と会わずに独りきりでいるのも、また好きであるから、
誰とも会わず誰とも話さずに一日を過ごしていても、まったく苦にならない。
時間だけはあるから、ケイト・ブッシュを、ずっと聴いていた。
MQAで聴いていた。
すべてiPhoneに入れてある。
メリディアンの218に接いで、
一枚目の“THE KICK INSIDE”から順に聴いていた。
高校生のころ、FMから流れてきたケイト・ブッシュの“THE KICK INSIDE”に、
背筋に、文字通り電気が走ったような衝撃は、もうない。
もう四十年経っているのだから。
二枚目、三枚目と続けて聴いていく。
四枚目の“THE DREAMING”を聴く。
やっぱり、“THE DREAMING”は私にとって青春の一枚だ、と実感する。
“THE DREAMING”を、最初に聴いた時は、困惑した。
どう受け止めていいのか、わからなかった。
それでも何度も聴いた。
とまどいは減っていく。
少しずつ見えてきた(聴こえてきた)ように感じ始めた。
そういう“THE DREAMING”だから、“THE KICK INSIDE”とは第一印象からして違う。
違うからこそ、いま「青春の一枚」と感じているのかもしれない。
バーブラ・ストライサンドの「Walls」。
2018年12月に出ている。
発売から数ヵ月してから買った。
この一年、何度か聴いてきている。
audio wednesdayでもかけている。
今日、ひさしぶりに聴いた。
初めて聴いた時よりも、
audio wednesdayでかけた時よりも、
ずっとずっと美しくきこえてきた。
他に表現の語意を持たないのかといわれようと、
美しいものは、美しいとしかいいようがない。
タイトル曲の「Walls」は、四曲目である。
三曲目は「Imagine / What a Wonderful World」である。
続けて聴くからこそ、さらに美しく感じる。
5月16日、17日に行われる予定だった“CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR”。
中止もしくは延期になりそうだなと危惧していたら、中止が正式に発表になった。
延期ではなく中止である。
マリア・カラスのホログラムが歌うところをみたかったが、
おそらく日本では行われないのだろう。
コンサートは死んでいくのか。
ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を聴きおわって、
一人でよかった……、と思っていた。
聴きおわって、鏡を見たわけではないがもしかすると赤面していたかもしれない。
誰かといっしょに聴いていたとしても、
隣にいる人が、私の心の裡までわかるわけではない。
それでも一人でよかった。
悟られなくてよかった……、と思っていた。
まぶしすぎて直視できない──、
そんな表現があるが、それに近い感じでもあった。
青々とした(緑が濃すぎる)ジャケットそのままの演奏を、
どこかうらやましくも感じていたのかもしれない。
若いな──、と感じていたのではない。
こういう青春は私にはなかったぁ……、
そんなおもいがどこからかわきあがってきた。
そしてしばらくして、ここに書いてきた同級生のことを思い出していた。
彼らは、ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を、どう聴くのだろうか。
いい曲ですね、いい演奏ですね、
そういう感想なのかもしれない。
彼らがどういう感想を持つのかはなんともいえないが、
私のように、まぶしすぎて直視できない的な感覚はないのではないか。
ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲は、もう聴いていない。
一回だけ聴いて、二回目はまだである。
一回目と同じように感じるとはいえない。
また違うことを感じるのかもしれない。
でも、まだ聴こうとはなかなか思えない。
いつか聴く日が訪れるのか、それとも二回目はないのか。
青春が遠い遠い彼方に感じられた日に聴くのだろうか。
青春とは、いったいいつのことを指すのだろうか。
辞書には、《若く元気な時代。人生の春にたとえられる時期》とある。
具体的な数字で、いつからいつまでとは記していない。
心の持ちよう、ともいわれる。
そうだろうとは思うのだけれど、
一般的な意味での青春とは、やはり中学生、高校生のころだろうか。
多感な時期ともいわれる。
多感な青春時代、ともいう。
ほんとうにそうだろうか、と思うところが私にはある。
多感な時代を送ってこなかったのかもしれないが、
そのころ多感だったかどうか、自分で判断することだろうか。
とにかく青春時代、
この項でこれまで書いてきたM君、T君、A君は、
それぞれに青春時代を謳歌していたのかもしれない。
青春時代の謳歌、といっても、
部活動に励み、勉強にも励み、
友人も多く、時には恋もして──、というようなのを、そういいたいわけではない。
目標を立てて、そこに向っていくことを、青春の謳歌といいたい。
M君、T君、A君は、そういうところでの謳歌のような気がしてならない。
どちらがほんとうの青春の謳歌だ、なんてことをいいたいわけではない。
私は、どちらの青春の謳歌も、ほぼ無縁な中学、高校時代をおくってきた。
そんな私が、ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を聴いて、
青春時代とは──、そんなことをおもってしまった。
むせかえるような濃密な芳香を、そこに感じたからである。
聴いていて、どこか気恥ずかしいものも感じていた。
児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲は、
第一番を、先日のaudio wednesdayでもかけた。
別項「喫茶茶会記のスピーカーのこと」でふれたように、
この日の音は、いままで鳴らした音のなかでも、かなりひどかった。
それにくわえて時間の余裕もなかった。
SACDが、こんなにひどい音で鳴るのか──、
児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンを鳴らすのはやめようかな、とも思うほどだった。
ほんとうはSACDとして鳴らしたかった。
でも、その状態の音では鳴らしたくなかった。
結局メリディアンの218を通して、CDとして鳴らした。
もう期待はなかったのだが、
鳴ってきた音は、ひどい状態の音であっても、
動的平衡の音の構築物の片鱗の、そのまた片鱗くらいは感じさせてくれた。
あの日、菅野先生のリスニングルームで体験した音の構築物という感じが、
多少なりとも響いてくれた。
ただ質は、それに伴っていなかったし、大半は構築物が崩れているようにも感じてもいた。
ほとんどの人が、この音を聴いたら、ひどい音ですね、ときっというだろうし、
児玉麻里とケント・ナガノの、この演奏を初めて聴く人は、
録音がいいとも感じなかったかもしれない。
それでも、私はちょっとだけ、ほっとしていたし、
そこで目の前に展開していると感じる音の構築物に浸っていた。
きわめて主観的な聴き方であって、
誰かに理解してもらおうとはまったく思っていない。
同じように感じる人もいるかもしれない。
ひどい音と、切って捨てる人もいるはずだ。
音楽をオーディオを介して聴く、ということは、つまるところ、そういうことのはずだ。
もっといえば、ベートーヴェンをそうやって聴くということは、
まさしく、そういうことである、と信じている。
ようやく自分のシステムで鳴らした児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲。
もっと早く鳴らしていればよかった、と思えるくらいの感じでは鳴ってくれた。
ただ単にいい音で鳴ってくれた──、ではむしろ何の満足もない。
菅野先生が「まさしくベートーヴェンなんだよ」、
そういわれた理由が伝わってくる音でなければ、
このディスクをかける意味が、少なくとも私にはない。
菅野先生のところで、このディスクを聴いていなければ、
そんなことはまったく思わなかったはずだ。
でも聴いている。
それがどんなふうに鳴ってくれたのか、
私の心にどう響き、
何を感じさせたのかについて、以前書いているので、ここではくり返さない。
まさしくベートーヴェンであるために、動的平衡の音の構築物であってほしい。
音場感がよく再現されている、
音の定位もいい、各楽器の質感もよく鳴っている──、
そんな感じの音で鳴ったとしても、それは「まさしくベートーヴェン」とはいえない。
動的平衡の音の構築物であってこそ、私にとっての「まさしくベートーヴェン」であり、
おそらく菅野先生にとってのベートーヴェンも、そうであったと確信している。
私のところで鳴ってきた音は、
動的平衡の音の構築物としては、まだまだである。
そんなことはわかっていたことだ。
それでも、片鱗を感じさせてくれた。
このディスクは、以前CDを鳴らしていた。
知人宅でも聴いている。
いずれでも、そんな印象は微塵も感じなかっただけに、今回感じた片鱗は、
片鱗であっても、「まさしくベートーヴェン」の世界へ一歩足を踏み入れたことだけは確かだ。
児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲集(SACD)を、
やっと聴いたのは2月の終りのころだった。
ディスクを購入して約二ヵ月。封も切らずそのままにしていた。
よくCDボックスを買って、そのままにしている──、
そんな話を、特にクラシック好きの人ならば何度も目にしたり耳にしたりしていることだろう。
話を聞いたり見たりしているだけでなく、
自身もそうであったりする場合もあるはずだ。
クラシックのCDボックスは、いろんなレコード会社から出る。
10枚組程度ではなく、
50枚をこえるボックスも珍しくないし、しかも価格も棘ほど安かったりするから、
つい購入してしまう。
しかもHMVもタワーレコードもまとめ買いだと、さらに安くなることがある。
なのでCDボックスを、あれもこれもと注文すること(したこと)は、
クラシック好きの人ならば、一度や二度ではないはずだ。
大量の枚数のディスクが到着する。
嬉しい反面、それほどの枚数のCDをすべて聴く時間をつくるのは、なかなか大変である。
それで封を切らずに、そのままになってしまっているCDボックスの数が、
二桁になってしまった人もいる。
児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンは、そういう理由ではない。
SACDというのが理由である。
SACDで児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲集を聴いて、
みじめな音しか鳴らなかったら、
そしてそれ以上に、まさにベートーヴェンという音とは対極の音でしか鳴らなかったら……、
そういう怖れみたいなものがあったからだ。