Archive for category ディスク/ブック

Date: 6月 6th, 2021
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その6)

「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」といった知人宅では、
児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンは、ベートーヴェンの音楽ですらなかった。

菅野先生は、この二人のベートーヴェンを、けっこう大きめの音量でかけられた。
知人宅では、まず音量もあがらない。

もちろん、ボリュウムのツマミを時計回りに廻せば、音量はあがる。
けれど、しなびた音は、どこまでいってもしなびた音でしかない。
不思議なもので、まったく音量が増したように感じられないのだ。

赤塚りえ子さんのところでは、どう鳴ったのか、というと、
厳しいところを感じたりもしたけれど、少なくとも私の耳にはベートーヴェンの音楽であった。

知人宅のシステムは、赤塚さんのシステムよりも、
ずっと大型で、マルチアンプで規模も大がかりだった。
いろいろと音をいじってもあった。

本人いわくチューニングの結果としての音である。
知人宅のシステムも、もっとストレートに鳴らしていれば、
ここまで破綻することはなかったはずなのに、と思うけれど、
本人は「瀬川先生の音を彷彿させる」ほどの音に聴こえているわけだから、
その世界に閉じ籠もったままで、シアワセなのだろう。

私にはまったく関係ない、興味ない世界でしかない。
私は、ベートーヴェンの曲をかける時は、ベートーヴェンの音楽を聴きたい。
もっといえば、ベートーヴェンという花を咲かせたい。

ベートーヴェンの音楽は、動的平衡の音の構築物である。
まさしく児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンは、そうだった。
菅野先生のところで聴いた音は、そうだった。

それには、あの音量が必要不可欠のように思われる。
私のところでは、その必要な音量で、いまのところ鳴らせない。

赤塚さんのところは違う。
だから、この二人のベートーヴェンを聴いてみたい気になったのだろうし、
本筋は外していないだけに、これからチューニングをやっていけば──、
という可能性も感じていた。

Date: 6月 5th, 2021
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その5)

audio wednesdayでは、たしか二回かけている。
でもそれ以外では、聴いていない。

先日、ひさしぶりに聴いた。
赤塚りえ子さんのところで聴いた。

セッティングがあらかた終って、あれこれ聴きたい曲を聴いていた。
6月2日は、赤塚さん、私のほかに野上さん、それともう一人、四人いた。

TIDALとroonがあるから、それぞれのiPhoneで選曲して鳴らせる。
そんなふうに、それぞれが聴いてみたい曲をかけていた。

私もいくつかの曲を聴いた。
そしてバーンスタイン/ウィーンフィルハーモニーのマーラーの五番を聴いた。
前々回でも聴いている。

これを聴いていたら、
ふと児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンがどう鳴ってくれるのか、
という興味が沸き起ってきた。

TIDALに、この二人のベートーヴェンはある。
聴きたいと思った時に、手元にディスクがなくとも聴ける時代になっている。

私にとって、この二人のベートーヴェンの音は、
菅野先生のところで聴いた音であり、
このベートーヴェンが、菅野先生のところできいた最後の音であり、音楽である。

Date: 6月 5th, 2021
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宿題としての一枚(その4)

宿題としての一枚といえるディスクは、一枚だけではない。
それでも(その1)でふれた児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲は、
菅野先生からの宿題のような一枚である。

十年ちょっと前、
ある知人宅でかけてもらったことがある。
その知人は、別項で書いているように、
私に「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と誘った男だ。

このCDを手に入れて、そう経っていなかった。
だからこそ、知人宅で、どんなふうに鳴ってくれるのか、興味もあった。

けれど、知人がかけた数枚のCDを聴いているうちに、
うまく鳴ってくれないだろうことは十分予想できた。

それでも持参したCDだし、うまく鳴らないとわかっていても、
どんなふうにうまく鳴らないのかには興味があった。

鳴ってきた音は、予想以上にひからびたような音だった。
生気もない音は,逆に、どうしたら、これだけのシステムでこういう音が出せるのか、
その秘訣をききたいものだ、と思うほどだった。

それでも知人は満足していたようだった。
知人の音の好みは知っていた、知っているつもりだった。

それでも、ここまでひどい音を出す男ではなかった。
なのに、現実は、瀬川先生の音を彷彿させる音とは、まったくかけはなれていた。

菅野先生は、児玉麻里/ケント・ナガノの演奏を、
「まさしくベートーヴェンなんだよ」といって聴かせてくれた。

知人の音は、ベートーヴェンの音ではなかった。
知人の音を聴いたのは、これが最後である。

それ以来、誰かのリスニングルームで聴くことはしなくなった。

Date: 5月 29th, 2021
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MQAで聴きたいアルゲリッチのショパン(その7)

昨年8月に、アルゲリッチの“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”を、
MQAで聴きたい、と書いた。

三ヵ月後、TIDALを始めて、44.1kHzのMQAで“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”を聴いた。

5月21日、e-onkyoで、“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”の2021年リマスターの配信が始まった。
MQA Studio(192kHz、24ビット)で聴けるようになった。

いい時代になった、という以上に、楽しい時代になってきた、と感じている。

Date: 5月 8th, 2021
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クルレンツィスのベートーヴェン(その3)

アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団によるベートーヴェンが出たのは、
いまからほぼ二十年ほど前のこと。

私がアーノンクールの、このベートーヴェンを聴いたのは、
発売後けっこう時間が経ってからだった。
それも吉田秀和氏の文章を読んだのがきっかけになっている。
     *
 しかし、アーノンクールできくと、もう一度、当初の目印“madness”が戻ってくる。それに、第二楽章のあの重く深い憂鬱、悲嘆を合せてみると──いや、この演奏を論じて、第三楽章スケルツォで随所にはさまれた例の「吐息」のモティーフに与えられたpppの鮮やかな効果、あるいは主要部とトリオの対比の見事さといったものも、全くふれずに終るわけにはいかない──、これは、フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏であり、その新しさは、ベ日トーヴェンの音楽のもつ原初的なすさまじさ、常軌を逸したもの、ドストエフスキーやムソルグスキーやニーチェを含む十九世紀の人たちだったら「神聖な狂気」と呼んだであろうような重大な性格を、もう一度、音にしてみせた点にあるといっていいだろう。くり返すが、これはモーツァルトの音楽とは全く違うものだ。
     *
吉田秀和氏の、この文章は、河出文庫「ベートーヴェン」で読める。

これを読んだからこそ、アーノンクールのベートーヴェンを聴きたくなった。
読んでいなければ、いまも聴いていないかもしれない。

吉田秀和氏の文章は、
アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団による七番を聴いてのものだ。

ベートーヴェンの七番は、カルロス・クライバーの素晴らしい演奏がある。
他にも、いい演奏はある。

それでも《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》といえるのは、
アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団だと、聴くと納得する。

フルトヴェングラーからアーノンクールまでに録音された七番のすべてを聴いているわけではない。
七番は好きだから、かなりの数聴いているつもりでも、
吉田秀和氏が聴かれた数からすれば、私の聴いてきたのはわずかといっていい。

その吉田秀和氏が《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》と書かれている。

ベートーヴェンの交響曲は、特に三番以降は、それまでの交響曲とはまったく違う。
モーツァルトの音楽とも全く違うものなのは、
アーノンクールの演奏を聴かずとも、ベートーヴェンの音楽を聴いてきた人ならばわかっている。

フルトヴェングラーの演奏が、そのことを明らかにした、ともいえる。
だから《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》と書かれているのだろう。

クルレンツィスの七番は、その意味では私は「新しい」とは感じなかった。

Date: 5月 5th, 2021
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Vocalise(余談)

e-onkyoのサイトでは、
ジャンル関係なしのアルバムランキングとシングルランキング、
ジャンル別のアルバムランキングとシングルランキングが載っている。

クラシックの、今日現在のシングルランキングの五位に、
オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団の“Vocalise”が入っている。

どれだけ売れての五位なのかまだはわからない。
そう多くはないのかもしれないが、この結果は嬉しい。

Date: 5月 4th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(その3)

4月30日に購入したオーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団の“Vocalise”を、
さっき聴いた。

最初の音が鳴ってきて、えっ、と思った。
モノーラルだったからだ。

私がこれまで聴いてきたのはステレオ録音だった。
どういうことなの? と調べてみると、
オーマンディは1954年11月28日、1967年10月18日に“Vocalise”を録音している。

ということは、五味先生が聴かれていた“Vocalise”は、モノーラルのほうである。
今回e-onkyoで購入したほうである。

私がこれまでCDで聴いてきた“Vocalise”はステレオだから、
同じ演奏ではなかったわけだ。

五味先生はステレオ録音のほうは聴かれていないように思う。

五味先生は《こんなにも甘ったるく》と表現されていた。
今回聴き較べてみると、ステレオのほうがさらに甘ったるい。

Date: 5月 3rd, 2021
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Piazzolla 100 (Piazzolla, Schubert, Schittke)

キャサリン・フンカ(Katherine Hunka)のピアソラを聴いた。
キャサリン・フンカ、今日初めて知った。

Googleで“Katherine Hunka”で検索すると、
「もしかして:Katherine 噴火」と表示されたりする。

ロンドン生れのヴァイオリニスト/指揮者であることぐらいしか、結局わからなかった。

Piazzolla, Schubert, Schittke”は、
日本では「ピアソラ:ブエノスアイレスの四季」とつけられている。

一年前に発売になったCDであるけれど、
今日、TIDALであれこれ検索して出逢うまで、まったく気づかなかった。

“Piazzolla, Schubert, Schittke”も、
ピアソラ生誕百年ということで企画されたアルバムなのかもしれない。

TIDALで、Piazzollaで検索すると、けっこうな数のアルバムが表示される。
すべてを聴いているわけではないし、聴きたいと思ってもいない。
でも、まあまあ聴くようにはしている。

初めて知る演奏家によるピアソラを、けっこう聴いている。
彼・彼女らが弾いているのは、確かにピアソラの曲なのだが、
聴いて、ピアソラだ、ピアソラの音楽が! とすべてに対して感じているかというと、
むしろ少ない。

誰とは書かないが、けっこう名の知られている演奏家であっても、
しかもレコード会社が推していても、聴いて、これがピアソラ? と感じることのほうが、
残念ながら多い。

別項「正しいもの」で、吉田秀和氏の「ベートーヴェンの音って?」について触れた。
まったく同じことを、ピアソラに関して感じる。

「ピアソラの音って?」ということだ。

Date: 4月 30th, 2021
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エッシェンバッハのブラームス 交響曲第四番(その3)

エッシェンバッハのブラームスの四番を聴いて、驚いていた。
聴き終ってから、その驚きは何を孕んだ驚きなのか、ということを思っていた。

つい最近聴いたエッシェンバッハの演奏は、
一ヵ月ほど前の「バイエル」、「ブルグミュラー」、「ツェルニー」などである。
TIDALで、エッシェンバッハのこのシリーズ(Piano Lessons)である。

つまりピアニスト・エッシェンバッハである。
今回は指揮者・エッシェンバッハである。

ずいぶん違う、というよりも、まったく違う。
同じ人とは、まずおもえない。

“Piano Lessons”での演奏は、
ピアノを練習している子供たちの手本となるものだから、
そこで個性の発揮となっては、手本として役に立たない。

ブラームスの四番は、手本とかそういところから離れての演奏である。
比較するのがもともと間違っているわけなのはわかっていても、
聴いてそれほど経っていないのだから、どうしても記憶として強く残ったままでの、
今回のブラームスの四番であり、
それも“Piano Lessons”はスタジオ録音、ブラームスの四番はライヴ録音である。

エッシェンバッハのブラームスの四番は、
ミュンシュ/パリ管弦楽団のブラームス 交響曲第一番に近い、というか、
そこを連想されるものがある。

宇野功芳氏は、このミュンシュ/パリ管弦楽団の一番を、
フルトヴェングラー以上にフルトヴェングラーと、高く評価されていた。

宇野功芳氏ばかりでなく、福永陽一郎氏も、最上のフルトヴェングラーという、
最大級の評価をされていた、と記憶している。

フルトヴェングラーの録音にステレオはない、すべてモノーラルだけである。
ミュンシュ/パリ管弦楽団は、ステレオである。

エッシェンバッハ/シュレスヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団の四番も、
あたりまえだがステレオだ。

ミュンシュの一番は、たしかにすごい。
完全燃焼という表現は、この演奏にこそぴったりであり、
特に最終楽章の燃焼は圧巻でもある。

エッシェンバッハの四番は、そこまでとは感じなかったけれど、
フルトヴェングラー的なのだ。

Date: 4月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(その2)

オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団によるラフマニノフの交響曲第二番が、
一週間前に、moraとe-onkyoで配信が始まった。

そろそろ交響曲第三番と“Vocalise”のカップリングが出るころかな、と思っていたら、
今日、やはり配信が始まった。

ソニー・クラシカルだから、MQAは期待できない。
flac(96kHz、24ビット)である。

それでもいい。
さっそく“Vocalise”だけを購入した。
交響曲第三番を聴きたいとは思わないからで、
どうしても聴きたければTIDALで聴ける。

TIDALで、ラフマニノフの“Vocalise”を検索すると、意外とあった。
ラフマニノフ自演の“Vocalise”もあった。
アンドレ・プレヴィンによる“Vocalise”もあった。
こちらはMQA Studio(96kHz、24ビット)である。

五味先生の文章と一切関係ないところで“Vocalise”のことを知って聴いたのであれば、
プレヴィンをとったかもしれないが、
管弦楽曲版“Vocalise”のことは五味先生の文章で、なのだから、
もうどうしてもオーマンディの“Vocalise”のほうを、私はとる。

とる──、そう書いているけれど、
どちらが名演といったことではない。

Date: 4月 27th, 2021
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ズザナ・ルージィチコヴァ(その3)

そういえば、あの、ちょっと憶えるのが難しい名前の人──、
そんなふうに思い出した。

Zuzana(ズザナ)だけは憶えていた。
これだけで、検索は可能だった。
けっこうな数のアルバムが表示される。

バッハがやはり多い。
黒田先生の文章の冒頭にも、
ズザナ・ルージィチコヴァのバッハのチェンバロの全集のことがある。

ほかにもいくつかあった。
そのなかで、なんとなくモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集を選んだ。
ヨセフ・スークとの協演である。

きいた瞬間に、ぐいぐいひきこまれる演奏ではない。
黒田先生は《誠実なルージィチコヴァ》と書かれている。

モーツァルトのヴァイオリン・ソナタを聴いていると、
黒田先生の文章をもういちど読みたくなって、だから、今回書いている。

黒田先生のズザナ・ルージィチコヴァの文章を読んでなかったら、
ズザナ・ルージィチコヴァを聴くことはなかったかもしれない。

思い出すこともなかっただろうし、TIDALがなければ、また聴きのがしていただろう。

ならば、もっと早く聴いておけば、と後悔しているかというと、
そうでもない。
三十年前は、いまほどズザナ・ルージィチコヴァのよさがわからなかったかもしれない。
出逢うべき演奏とは、いつかきっとそうなるようになっている──、
私はそう思っている、というより信じている。

黒田先生は、ズザナ・ルージィチコヴァと表記されているが、
いま日本ではズザナ・ルージチコヴァが一般的なようである。

そしてe-onkyoに、バッハ全集(Bach: The Complete Keyboard Works)がある。
MQA Studio(96kHz、24ビット)である。

Date: 4月 27th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ズザナ・ルージィチコヴァ(その2)

ズザナ・ルージィチコヴァの答は、次のようなものだった。
     *
「わたしも、子供の頃にはピアノをひいていました」は、淡々とはなしはじめ、さらに、こうつづけた。「でも、戦争中、私は強制収容所にいれられていたので、食事も満足にあたえられず、わたしの手はこんなに小さいんです。このように小さな手ではピアノをひくのはとても無理ですが、チェンバロならひけますから」
 そのようにいいながら、ルージィチコヴァは両手をひろげてみせた。考えてもみなかったルージィチコヴァのことばに、ぼくはひどくうろたえた。尋ねてはいけないことを尋ねてしまったのではないか、と思い、心ない質問をしたことを反省しないではいられなかった。しかし、いいわけになるが、ぼくは、それまでに、ルージィチコヴァについて書かれた文章で、彼女が幼児期を強制収容所ですごしたことについてふれたものを読んだことがなかった。それで、不覚にも、彼女の心の傷にふれるようなことを尋ねてしまった。
 ぼくは、はなしの接穂をうしなって、おそらく、茫然としていたにちがいなかった。ルージィチコヴァは、(当時はまだ若かった)インタビュアの狼狽を救おうとしたのであろう、にっこりと笑って、「いいんですよ」といいながら、ブラウスの袖をめくりはじめた。ルージィチコヴァは、いったい、なにをするつもりか、ぼくは目をみはらないではいられなかった。
 これが、そのときの認識番号です。ルージィチコヴァの細い腕には強制収容所で記されたにちがいない刺青の文字があった。
     *

黒田先生のルージィチコヴァへのインタヴューは、おそらく1970年代の終りごろのようだ。
その時のインタヴューの記事が、どの雑誌に載っているのか知らないし、
なので読んではいない。

ルージィチコヴァが強制収容所にいたことは、その記事にあったのだろうか。

1988年の音楽之友社のムックのルージィチコヴァのページには、
そのことは載ってない。

黒田先生の文章を読んで、ズザナ・ルージィチコヴァの演奏を聴いてみたい、と初めて思った。
おもったけれど、当時は、ルージィチコヴァのCDがどれだけ出ていただろうか。

私の探し方が足りなかっただけなのかもしれないが、
ルージィチコヴァのCDを見つけることはできなかった。

それに、この時期、無職でもあったため、どうしても──、という気にはなれなかった。
そうやって三十年が過ぎた。

TIDALを使っていなければ、またそのまま聴かずに過ぎ去ってしまったであろう。
TIDALで、いろんな演奏家を検索するのは楽しい。
検索しながら、そういえば、あのピアニストは、とか、ヴァオリニストとは、と、
演奏家の名前を思い出しては検索する。

ズザナ・ルージィチコヴァも思い出した一人だった。

Date: 4月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ズザナ・ルージィチコヴァ(その1)

ズザナ・ルージィチコヴァという、チェコ出身のピアニストのことを知ったのは、
1988年、音楽之友社から出たムックだった。

そのムックは、器楽奏者を特集していた。
そのなかで、ズザナ・ルージィチコヴァだけは知らなかった。

初めて目にする名前ということに加えて、
一度では正確に憶えられそうにない名前、
これだけが印象に残っていた。

ズザナ・ルージィチコヴァに書かれていたのが、誰なのかはもう憶えていない。
手元に、そのムックもない。

グレン・グールドが、黒田先生が担当で六ページの扱いだったのに対し、
ズザナ・ルージィチコヴァは二ページと少なかったことは憶えている。

通り一遍のズザナ・ルージィチコヴァについてのことを読んでも、
聴いてみたい、という気はほとんど起きなかった。

その数年後、黒田先生の「ぼくだけの音楽」で、
二度目のズザナ・ルージィチコヴァについての文章を読む。

この時、ズザナ・ルージィチコヴァを聴きたい、とおもった。

黒田先生は、握手について書かれていた。
《ルージィチコヴァの手は、まるで赤ん坊のように小さくて、しかも、力を入れて握ったらこわれてしまいそうに柔らかかった》
そう書かれていた。

黒田先生は、ズザナ・ルージィチコヴァにインタヴューされている。
黒田先生の、ズザナ・ルージィチコヴァへの最初の質問は、
「なぜ、あなたは、ピアニストではなく、チェンバリストになられたのですか?」だった。

《ごく平凡な、しかし、ぼくがもっとも知りたかった質問》とも書かれていた。

Date: 4月 23rd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(補足)

ソニー・クラシカルは、オーマンディのハイレゾリューション配信を始めている。
少し前からのmoraとe-onkyoでの配信を楽しみにしている。

今日、やっとラフマニノフの交響曲第二番が公開された。
96kHz、24ビットのflacである。
一番、三番、それから〝声〟Vocaliseも、近々配信されるようになるのでは、と期待している。

聴きたいのは、私の場合、〝声〟Vocaliseだけなので、
一曲のみを購入することになるだろう。

音楽を聴く、ということに関しては、いい時代になった。
そうではない、という人もいるだろうし、いていいのだけれど、
音楽を聴く、ということをどう捉えているのか、
音楽を聴く、ということが、私にとってどういうことなのか、
そういうことをふくめて、いい時代になった、と実感している。

Date: 4月 22nd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(その1)

五味先生の「FM放送」(「オーディオ巡礼」所収)に、
ラフマニノフの〝声〟Vocaliseのことが出てくる。
     *
 ──今、拙宅には、二本の古いテープがある。どちらも2トラック・モノーラルで採ったもので、一本はラフマニノフの〝声〟Vocalise、もう一本はフォーレのノクチュルヌである。
 FM放送で、市販のレコードの放送されたのを録音することはないと書いたが、理由は明白で、放送されたものは、レコードを直接わが家のプレヤーで鳴らすのより音質的に劣化してしまうからだ。放送局のカートリッジが拙宅のより悪いからというのではなく、音そのものが、チューナーであれテレコであれ、余分なものを通すたびに劣化するのを惧れるからである。ダビングして音のよくなるためしはない。それがいい演奏、いいレコードであればなおさら、だから、より良い音で聴きたいからレコードを買うべきだと私はきめている。
 これはだが、経済的に余裕があるから今言えることであって、小遣い銭に不自由したころは、いいレコードがあれば人さまに借りて、録音するしかなかった。〝声〟もそうである。
 ラフマニノフのこの曲は、オーマンディのフィラデルフィアを振った交響曲第三番のB面に、アンコールのように付いている。ごく短い曲である。しらべてみたら管弦楽曲ではなくて、文字通り歌曲らしい。多分オーマンディが管弦楽用にアレンジしたものだろうと思う。だから米コロンビア盤(ML四九六一)でしか聴けないのだが、凡そ甘美という点で、これほど甘美な旋律を他に私は知らない。オーケストラが、こんなに甘ったるく、適度に感傷的で美しいメロディを、よくもぬけぬけと歌いあげられるものだと、初めて聴いたとき私は呆れ、陶然とした。ラフマニノフの交響曲は、第二番を私は好む。第三番はまことに退屈で、つまらぬ曲だ。
     *
読んだ時から、聴いてみたい、とすぐに思った。
六分半ほどの曲だ。

20代のなかばごろだったか、LPを見つけた。
ラフマニノフの交響曲とのカップリングだった。

買おうとしたけれど、ほかのレコードを優先して買わずじまいだった。
CDになってから、廉価盤で出ていた。

ラフマニノフの交響曲集の最後におさめられていた。
今度は買った。
五味先生の書かれているとおりの曲だった。

私が買った廉価盤は廃盤のようだが、
いまでもオーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団のラフマニノフは入手できる。

TIDALでも聴ける。
私はラフマニノフの作品はあまり聴かない。
交響曲も、上記CDを買ったときに聴いて以来、もう聴いていない。
ときおり〝声〟が聴きたくて、ひっぱり出して聴くぐらいである。

そのくらいの頻度での聴き方だと、TIDALで聴けるのは便利であるし、
見つけた時にひさしぶりに聴いてしまった。

これから先何度聴くか、となると、
おそらく十回と聴かないであろう。
ほんの数回ぐらいのような気もする。

五味先生の文章は、もうすこし続く。
コロという猫のことを書かれている。

コロが産んだ仔猫を始末することになったことを書かれている。
     *
 捨てに行くつらい役を私が引受けた。私はボストンバッグに仔猫を入れ、牛乳を一本いれ、西武の池袋駅のベンチへ置いた。こんな可愛いい猫だからきっと誰かに拾われ、飼ってもらえるだろう、神よ、そういう人にこの猫をめぐり逢わせ給え、そう祈って、逃げるようにベンチを離れた。一匹は家内がS氏夫人のもとへ届けにいった。
 貧乏は、つらいものである。帰路、私はS氏邸に立寄って、何でも結構ですからとレコードをかけてもらった。偶然だろうがこの時鳴らされたのが〝声〟であった。この〝声〟ばかりは胸に沁みた。
     *
〝声〟が、胸に沁みるときが、私にもいつかあるのだろうか。