Archive for category ディスク/ブック

Date: 4月 27th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ズザナ・ルージィチコヴァ(その2)

ズザナ・ルージィチコヴァの答は、次のようなものだった。
     *
「わたしも、子供の頃にはピアノをひいていました」は、淡々とはなしはじめ、さらに、こうつづけた。「でも、戦争中、私は強制収容所にいれられていたので、食事も満足にあたえられず、わたしの手はこんなに小さいんです。このように小さな手ではピアノをひくのはとても無理ですが、チェンバロならひけますから」
 そのようにいいながら、ルージィチコヴァは両手をひろげてみせた。考えてもみなかったルージィチコヴァのことばに、ぼくはひどくうろたえた。尋ねてはいけないことを尋ねてしまったのではないか、と思い、心ない質問をしたことを反省しないではいられなかった。しかし、いいわけになるが、ぼくは、それまでに、ルージィチコヴァについて書かれた文章で、彼女が幼児期を強制収容所ですごしたことについてふれたものを読んだことがなかった。それで、不覚にも、彼女の心の傷にふれるようなことを尋ねてしまった。
 ぼくは、はなしの接穂をうしなって、おそらく、茫然としていたにちがいなかった。ルージィチコヴァは、(当時はまだ若かった)インタビュアの狼狽を救おうとしたのであろう、にっこりと笑って、「いいんですよ」といいながら、ブラウスの袖をめくりはじめた。ルージィチコヴァは、いったい、なにをするつもりか、ぼくは目をみはらないではいられなかった。
 これが、そのときの認識番号です。ルージィチコヴァの細い腕には強制収容所で記されたにちがいない刺青の文字があった。
     *

黒田先生のルージィチコヴァへのインタヴューは、おそらく1970年代の終りごろのようだ。
その時のインタヴューの記事が、どの雑誌に載っているのか知らないし、
なので読んではいない。

ルージィチコヴァが強制収容所にいたことは、その記事にあったのだろうか。

1988年の音楽之友社のムックのルージィチコヴァのページには、
そのことは載ってない。

黒田先生の文章を読んで、ズザナ・ルージィチコヴァの演奏を聴いてみたい、と初めて思った。
おもったけれど、当時は、ルージィチコヴァのCDがどれだけ出ていただろうか。

私の探し方が足りなかっただけなのかもしれないが、
ルージィチコヴァのCDを見つけることはできなかった。

それに、この時期、無職でもあったため、どうしても──、という気にはなれなかった。
そうやって三十年が過ぎた。

TIDALを使っていなければ、またそのまま聴かずに過ぎ去ってしまったであろう。
TIDALで、いろんな演奏家を検索するのは楽しい。
検索しながら、そういえば、あのピアニストは、とか、ヴァオリニストとは、と、
演奏家の名前を思い出しては検索する。

ズザナ・ルージィチコヴァも思い出した一人だった。

Date: 4月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ズザナ・ルージィチコヴァ(その1)

ズザナ・ルージィチコヴァという、チェコ出身のピアニストのことを知ったのは、
1988年、音楽之友社から出たムックだった。

そのムックは、器楽奏者を特集していた。
そのなかで、ズザナ・ルージィチコヴァだけは知らなかった。

初めて目にする名前ということに加えて、
一度では正確に憶えられそうにない名前、
これだけが印象に残っていた。

ズザナ・ルージィチコヴァに書かれていたのが、誰なのかはもう憶えていない。
手元に、そのムックもない。

グレン・グールドが、黒田先生が担当で六ページの扱いだったのに対し、
ズザナ・ルージィチコヴァは二ページと少なかったことは憶えている。

通り一遍のズザナ・ルージィチコヴァについてのことを読んでも、
聴いてみたい、という気はほとんど起きなかった。

その数年後、黒田先生の「ぼくだけの音楽」で、
二度目のズザナ・ルージィチコヴァについての文章を読む。

この時、ズザナ・ルージィチコヴァを聴きたい、とおもった。

黒田先生は、握手について書かれていた。
《ルージィチコヴァの手は、まるで赤ん坊のように小さくて、しかも、力を入れて握ったらこわれてしまいそうに柔らかかった》
そう書かれていた。

黒田先生は、ズザナ・ルージィチコヴァにインタヴューされている。
黒田先生の、ズザナ・ルージィチコヴァへの最初の質問は、
「なぜ、あなたは、ピアニストではなく、チェンバリストになられたのですか?」だった。

《ごく平凡な、しかし、ぼくがもっとも知りたかった質問》とも書かれていた。

Date: 4月 23rd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(補足)

ソニー・クラシカルは、オーマンディのハイレゾリューション配信を始めている。
少し前からのmoraとe-onkyoでの配信を楽しみにしている。

今日、やっとラフマニノフの交響曲第二番が公開された。
96kHz、24ビットのflacである。
一番、三番、それから〝声〟Vocaliseも、近々配信されるようになるのでは、と期待している。

聴きたいのは、私の場合、〝声〟Vocaliseだけなので、
一曲のみを購入することになるだろう。

音楽を聴く、ということに関しては、いい時代になった。
そうではない、という人もいるだろうし、いていいのだけれど、
音楽を聴く、ということをどう捉えているのか、
音楽を聴く、ということが、私にとってどういうことなのか、
そういうことをふくめて、いい時代になった、と実感している。

Date: 4月 22nd, 2021
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Vocalise(その1)

五味先生の「FM放送」(「オーディオ巡礼」所収)に、
ラフマニノフの〝声〟Vocaliseのことが出てくる。
     *
 ──今、拙宅には、二本の古いテープがある。どちらも2トラック・モノーラルで採ったもので、一本はラフマニノフの〝声〟Vocalise、もう一本はフォーレのノクチュルヌである。
 FM放送で、市販のレコードの放送されたのを録音することはないと書いたが、理由は明白で、放送されたものは、レコードを直接わが家のプレヤーで鳴らすのより音質的に劣化してしまうからだ。放送局のカートリッジが拙宅のより悪いからというのではなく、音そのものが、チューナーであれテレコであれ、余分なものを通すたびに劣化するのを惧れるからである。ダビングして音のよくなるためしはない。それがいい演奏、いいレコードであればなおさら、だから、より良い音で聴きたいからレコードを買うべきだと私はきめている。
 これはだが、経済的に余裕があるから今言えることであって、小遣い銭に不自由したころは、いいレコードがあれば人さまに借りて、録音するしかなかった。〝声〟もそうである。
 ラフマニノフのこの曲は、オーマンディのフィラデルフィアを振った交響曲第三番のB面に、アンコールのように付いている。ごく短い曲である。しらべてみたら管弦楽曲ではなくて、文字通り歌曲らしい。多分オーマンディが管弦楽用にアレンジしたものだろうと思う。だから米コロンビア盤(ML四九六一)でしか聴けないのだが、凡そ甘美という点で、これほど甘美な旋律を他に私は知らない。オーケストラが、こんなに甘ったるく、適度に感傷的で美しいメロディを、よくもぬけぬけと歌いあげられるものだと、初めて聴いたとき私は呆れ、陶然とした。ラフマニノフの交響曲は、第二番を私は好む。第三番はまことに退屈で、つまらぬ曲だ。
     *
読んだ時から、聴いてみたい、とすぐに思った。
六分半ほどの曲だ。

20代のなかばごろだったか、LPを見つけた。
ラフマニノフの交響曲とのカップリングだった。

買おうとしたけれど、ほかのレコードを優先して買わずじまいだった。
CDになってから、廉価盤で出ていた。

ラフマニノフの交響曲集の最後におさめられていた。
今度は買った。
五味先生の書かれているとおりの曲だった。

私が買った廉価盤は廃盤のようだが、
いまでもオーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団のラフマニノフは入手できる。

TIDALでも聴ける。
私はラフマニノフの作品はあまり聴かない。
交響曲も、上記CDを買ったときに聴いて以来、もう聴いていない。
ときおり〝声〟が聴きたくて、ひっぱり出して聴くぐらいである。

そのくらいの頻度での聴き方だと、TIDALで聴けるのは便利であるし、
見つけた時にひさしぶりに聴いてしまった。

これから先何度聴くか、となると、
おそらく十回と聴かないであろう。
ほんの数回ぐらいのような気もする。

五味先生の文章は、もうすこし続く。
コロという猫のことを書かれている。

コロが産んだ仔猫を始末することになったことを書かれている。
     *
 捨てに行くつらい役を私が引受けた。私はボストンバッグに仔猫を入れ、牛乳を一本いれ、西武の池袋駅のベンチへ置いた。こんな可愛いい猫だからきっと誰かに拾われ、飼ってもらえるだろう、神よ、そういう人にこの猫をめぐり逢わせ給え、そう祈って、逃げるようにベンチを離れた。一匹は家内がS氏夫人のもとへ届けにいった。
 貧乏は、つらいものである。帰路、私はS氏邸に立寄って、何でも結構ですからとレコードをかけてもらった。偶然だろうがこの時鳴らされたのが〝声〟であった。この〝声〟ばかりは胸に沁みた。
     *
〝声〟が、胸に沁みるときが、私にもいつかあるのだろうか。

Date: 4月 16th, 2021
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エッシェンバッハのブラームス 交響曲第四番(その2)

今回聴いたエッシェンバッハのブラームスは、
ヒューストン交響楽団を指揮しての四番ではなく、
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団との演奏である。

今回もTIDALで聴いている。
エッシェンバッハは、ヒューストン交響楽団と一番から四番まで録音しているが、
TIDALには一番と二番しかみあたらなかった(でもMQAだったのは嬉しい)。

四番は、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団とのものだけだった。
それで聴いみた次第。

聴いてすぐにライヴ録音だということはわかったぐらいだから、
どんな演奏なのかは、まったく知らずに聴いた。

TIDALにあったから聴いた、といういわば消極的な選曲での聴き方だ。
聴くきっかけがどうであろうと、このエッシェンバッハの四番が聴けてよかった。

しかも聴き終って調べてみたら、2005年、サントリーホールでのライヴ録音である。
こんな演奏が日本で行われていたのか──、という驚きと嬉しさと、
聴き逃していた後悔がないまぜになっていた。

もっともエッシェンバッハが2005年に来日していたことすら知らなかったのだから、
聴き逃していた、というよりも、まったく無関心だった自身を恥じるしかない。

それでも、いまこうやって聴くことがかなう。
おそらくTIDALを使っていなければ、
私はこのエッシェンバッハのブラームスに出逢うことはなかっただろう。

私の周りのクラシック好きの友人、知人のところで、
エッシェンバッハの演奏(ピアノ、指揮どちらも)を聴いたことはなかった。

それだけでなく、エッシェンバッハについて語ったことも記憶にないのだから、
どこかで偶然聴くということもない、と思う。

Date: 4月 15th, 2021
Cate: ディスク/ブック

エッシェンバッハのブラームス 交響曲第四番(その1)

ブラームスの四つの交響曲でよく聴くのは、一番と四番であり、
いちばん好きなのは四番である。

ブラームスの四番の、私の愛聴盤は、
カルロ・マリア・ジュリーニ/ウィーン・フィルハーモニーによる演奏(録音)である。

カルロス・クライバーもよく聴くし、
少し前に書いたトスカニーニ/フィルハーモニアのも、いい。

もちろんフルトヴェングラーの四番も好きだし、
ほかの指揮者でもけっこうな数を聴いてきた。

それでも比較的新しい演奏(録音)といえば、
リッカルド・シャイーの交響曲全集である。

2013年に発売、録音は2012年から2013年にかけて行われている。
シャイーよりもあとに録音された演奏は聴いていない。

ティーレマンは聴いてみたい、と思っているのだが、
手を出しそびれて、まだ聴いていない。

現役の指揮者でブラームスを積極的に聴いてみたい人は、いまのところいない。
これまで聴いてきた指揮者の演奏(録音)をこれからもくり返し聴いていけば、
充分ではないか、という気持がある。

ブラームスの四番を、聴き尽くした、聴き込んだと思っているわけではない。
いま持っているディスクをじっくり、
これからも聴いていくほうが実りあるのではないか──、そう思う気持が強い。

2月にクリストフ・エッシェンバッハの“Piano Lessons”のことを書いた。
エッシェンバッハの“Piano Lessons”をTIDALで聴いて、
エッシェンバッハのほかの演奏も聴くようになった。

エッシェンバッハのキャリアは長いから、
これまでもエッシェンバッハの演奏は、ピアノだけでなく指揮者としての演奏も聴いてきている。
とはいっても、エッシェンバッハの熱心な聴き手ではなかったから、
聴いていない演奏が、TIDALにはそこそこあった。

指揮者エッシェンバッハの演奏に、聴いてないのが多い。

Date: 4月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Peter and the Wolf(その2)

(その1)を書いたあとで、
そういえば、黒田先生、「音楽への礼状」でプレヴィンについて書かれていたな、と思い出した。
書き出しも憶えていた。

ある高名な評論家のことから始まる。
     *
「こういうあつかいをされるのなら、これからは、きみのところとのつきあいを考えさせてもらうよ」
 受話器からは、そのようにいう、くぐもった声がきこえてきました。声の調子から判断して、声の主が感情をおしころしているのはあきらかでした。連載を依頼している、さる高名な、そして高齢でもある評論家に、そのようにいわれ、ヴェテランの編集者である彼は、大いにあわて、同時にびっくりもしました。なんでまた、そんなことを気にするのだろう、このひとは。彼がそう思ったのは当然でした。
 電話は、彼の雑誌の、その前日の新聞に掲載された広告に、件の高名な評論家の名前がのっていなかったことについての、厭味たっぷりな苦情でした。たまたま、その号の特集にスペースをとられ、そのために、連載をしている評論家の名前をのせられなかった、というだけのことでした。その程度のことは、わざわざ広告部に問い合わせるまでもなく、彼にも予測できました。
     *
この高名な評論家が誰なのかは、なんとなく知っている。
そんなことをする人だったのか、と思ったし、
黒田先生が書かれているように、その行いは《想像を絶すること》だ。

高名な評論家といえど、いわゆる自由業である。
出版社から毎月決った額を受けとれるわけではない。

だからこそ、名を売っていかなければならない──、
そういう考えの人も多いのは経験上知っている。

十分な名声があったとしても、新しい人たちが参入してくるし、
将来が保証されているわけでもないから、名前が載ることは名によりも優先することなのだろう。

黒田先生も音楽評論家だったから、この高名な評論家と立場としては同じである。
《めだって、広く世間にその名を知られるようになる、というのは、たまたまの結果でしかなく、目的であってはならないでしょう》
とも書かれている。

黒田先生は、バーンスタインのマーラーを一人称の演奏の代表例とすれば、
プレヴィンの演奏は三人称の演奏である、と。

つづけて、こう書かれている。
     *
 奇麗だけど、それ以上ではない。それがあなたの演奏をきいた多くのひとのいうことばです。ぼくも、半分は、その意見に賛成です。しかし、あなたの演奏の、一歩ひいたところで語ろうとする慎ましさが、ぼくは大好きです。あなたは、なりふりかまわずふるまうことを、潔しとしない。そのために、あなたの演奏は、めだちにくい、地味なものになりがちです。
 俺が、俺が、とわめきたてる声が、所を選ばずまきあがっているのが、この時代のようです。バーンスタインの演奏は一人称の演奏の素晴らしい例ですが、そうではない、めだつことだけをねらったあざとい演奏も、こういう時代ですから、たくさんあります。そのような騒がしい状況にあって、あなたの真摯で慎ましい演奏は、いかにもめだたない。ききての耳が粗くなっているためもあるかもしれません。しかし、このことは、なにごとによらず、この時代のすべてについていえるようです。
     *
《奇麗だけど、それ以上ではない》、
20代のころの私は、そう感じていた。

バーンスタインのマーラーに夢中になっていたころだから、
そのころもいまも変らないが、一人称の優れた演奏をとにかく聴きたい、と思っている。

Date: 4月 11th, 2021
Cate: ディスク/ブック

クルレンツィスのベートーヴェン(その2)

カザルス/マールボロ音楽祭管弦楽団のベートーヴェンでは、
四楽章の途中で、指揮棒が譜面台に当る音がする。

クルレンツィスのベートーヴェンがそこのところにきたとき、
その音がしない、とおもってしまった。

するはずがないのに、そうおもってしまった。
これまでかなりの数のベートーヴェンの七番を聴いてきている。

一度も、そんなことをおもったことはなかった。
思うはずがないのに、今回はそうおもっていた。

カザルスとクルレンツィスは、ずいぶん対照的でもある。
まず年齢が大きく違うし、二人の体形もずいぶん違う。
オーケストラの成り立ちも違う。

カザルスのベートーヴェンとクルレンツィスのベートーヴェンは、
二人の体形の違いのようなところがある。

にもかかわらず、四楽章の途中でそんなことを感じていた。
なぜ、そんなふうに感じたのかはいまのところなんともいえないのだが、
ひとついえそうなことは、二人のベートーヴェンは自由である。

ここでの自由は、好き勝手やっているという意味では当然ない。
自分自身にとても率直である、という意味での自由である。

Date: 4月 10th, 2021
Cate: ディスク/ブック

クルレンツィスのベートーヴェン(その1)

数年前、あるところでクルレンツィス指揮のチャイコフスキーを聴いた。
チャイコフスキーはあまり聴かない。

クルレンツィスのチャイコフスキーが話題になっていたことは知っていたけれど、
積極的に聴こうとはしていなかった。
そこに聴く機会がおとずれた。

おもわずCDを買って帰ろうか、とした。
けれどハイレゾリューションで録音されているわけだから、
CDではなく、もっと優れた媒体で聴きたい、とおもったことがひとつと、
やっぱりチャイコフスキーだったこともある。

それでもクルレンツィスのチャイコフスキーは気になっていた。
とはいえ、このころはまだメリディアンの218は導入していなかったし、
SACDプレーヤーも持っていなかった。

そのクルレンツィスが、ベートーヴェンを録音しはじめた。
ベートーヴェン生誕250年の昨年、交響曲第五番が出た。
七番も秋に発売予定だったのが、コロナ禍の影響で発売延期。

つい先日、発売になった。
五番ももちろん聴いている。
正直なところ、五番にはちょっとがっかりしていた。

高く評価されていることは知っているが、
チャイコフスキーを聴いて、こちらが勝手に期待していたのと違っていただけのことであって、
悪い演奏というわけではない。

昨晩、ブログを書き終ってからクルレンツィスの七番を聴いた。
五番のときと違い、こちらの勝手な期待はもうなかった。

それがよかったのかどうかはなんともいえないが、
出だしから、ぐいっとクルレンツィスのベートーヴェンの世界に引き込まれてしまった。
この衝撃は、クルレンツィスのチャイコフスキー以上だった。

と同時に、なにか近いというふうにも感じ始めていた。
四楽章を聴いていて、カザルスに近い、と気づいた。

Date: 4月 9th, 2021
Cate: ディスク/ブック
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アレクシス・ワイセンベルク(その2)

今回初めて知ったといえば、
ワイセンベルクと黒柳徹子の関係である。

まったく知らなかった。
(その1)へのコメントがfacebookにあり、
そんなことがあった? とGoogleで検索。

けっこうな数が表示されたということは、割と知られたことだったのか、とまた驚き。

ワイセンベルクと黒柳徹子の関係について書いている人のなかには、
クラシックにそう詳しくない人もいるように感じた。
そういう人でも知っていたことを、私はまったく知らなかった。

つまり、そのくらいワイセンベルクに、ついこのあいだまでほとんど関心をもっていなかった。

ワイセンベルクの録音で、まず浮ぶのはカラヤンとの協演、
それからアンネ=ゾフィー・ムターとの協演である。

ワイセンベルクのソロの録音が浮ぶことは、つい先日までなかった。
それがいまやTIDALで、おもにワイセンベルクのソロの録音を集中的に聴いている。

私のなかにあるワイセンベルクのイメージは、
カラヤンとの協演によってつくられている、といっていい。

だから、よけいにソロを聴いて驚いている。
ハイドン、バッハを、今回初めて聴いて驚いている。

こんなストイックな表現をする人だったのか、と驚いている。

Date: 4月 8th, 2021
Cate: ディスク/ブック

アレクシス・ワイセンベルク(その1)

ここ数日、TIDALで集中的に聴いているのが、アレクシス・ワイセンベルクである。
これまでワイセンベルクの録音は、ほとんど聴いてこなかった、といっていい。

もちろんゼロではない。
それでも好きな演奏家の録音を聴いてきた回数からすれば、ゼロに近いといっていい。
なぜ聴かなかったかというと、カラヤンと協演しているピアニスト、
その印象が強かったからだ。

「五味オーディオ教室」の影響が大きすぎる私にとって、
カラヤンの評価も、五味先生の影響が大きい。

アンチ・カラヤンというわけではないが、
カラヤンの録音で積極的に聴いているのは、
五味先生も絶賛されていた初期のころと、
それから五味先生が聴かれていない最晩年のころの演奏(録音)である。

ワイセンベルクは、私があまり聴いてこなかった時代のカラヤンとの協演が多い。
それに、なんとなくだが、正確に演奏する人というイメージが、
決していい方向ではなく、どちらかといえばネガティヴなほうに働いてもいた。

嫌いでもない(それほど聴いていないのだから)。
好きでもない。

なのに、ここ数日は聴いている。
TIDALがあるから、聴いている。

聴くきっかけは、グレン・グールドの言葉をふと思い出したからだった。
グールドは、ワイセンベルクは、どんな曲でも聴く気にさせる、
そんなことをいっていたからだ。

それもずいぶん前に読んでいた。
そのときに、ちょっとだけワイセンベルクを聴いてみようかな、と思いもした。
けれど、他に聴きたいディスクを優先しすぎて、
誰かとの協演して録音で聴くぐらいだった。

いまは違う。
TIDALで、かなりの録音を聴ける。
ワイセンベルクのソロも聴ける。

聴いて、グールドのいっているとおりだ、と思っていた。

今回はじめて知ったのだが、
ワイセンベルクはパーキンソン病を患っていた。

Date: 4月 4th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ホロヴィッツのトロイメライ

アルゲリッチのシューマンのアルバムが出たころだった、と記憶している。
ラジオ技術で、西条卓夫氏が、「子供の情景」のトロイメライはホロヴィッツに限る、
それも1965年、カーネギーホールでの演奏ということを書かれていた。

アルゲリッチの「子供の情景」はよく聴いた。
ステレオサウンドでの試聴ディスクとしても聴いていた。

サウンドボーイ編集長のOさんは、「ハスキルもいいぞ」ということだった。
ハスキルもよかった。
それもあって、なんとなくだが、
「子供の情景」、「クライスレリアーナ」は閨秀ピアニストがいい、というふうになっていた。

ホロヴィッツがいい──、
それはわかる。
でもこちらの感覚的には避けていたところがあった。

ホロヴィッツのほかのディスクは買って聴いていた。
でも、1965年のカーネギーホールのディスクだけは避けてしまっていた。

1986年のモスクワでのコンサート。
ドイツ・グラモフォン盤は聴いた。
ここでもトロイメライは聴ける。

トロイメライという曲は、
コンサートホールという、大勢の人を相手に聴かせる曲なのだろうか。
そんなふうに思うところが私にはあるから、
トロイメライのような曲は、スタジオ録音がいい。

アルゲリッチのシューマンのころは、頻繁に聴いていたけれど、
ぷっつりと聴かなくなった。

ホロヴィッツのモスクワのライヴ録音のように、収録曲として含まれていたら聴いていたけれど、
あえて「子供の情景」、「トロイメライ」を聴きたい、とは思わなくなっていたので、
どこかで耳にする以外は、これまでずっと聴いてこなかった。

もしかすると、もう聴くことはなかったかもしれない。
けれど、TIDALで、ふと興味半分で検索してみたら、やっぱりあった。
ホロヴィッツの1965年のトロイメライを、初めて聴いた。

西条卓夫氏が、1965年の演奏を推されるのか。
聴けば、直感的に理解できる。

会場のざわめきはある。
けれど、静まりかえっている。
へんないいかただが、公開スタジオ録音のようにも感じられる。

今回も、落穂拾い的な聴き方といえばそうなのだが、
拾っていかなければならない落穂が、私にはまだまだあることを感じていた。

Date: 4月 2nd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Hallelujah(その2)

“JUSTICE LEAGUE(ジャスティス・リーグ)”は、2017年に公開された映画だが、
最初の監督、ザック・スナイダーが降板したため、別の監督に途中で交代している。

そのため、ザック・スナイダー版“JUSTICE LEAGUE”の公開を求めて、
アメリカで署名運動が起き、今年HBO Maxで配信公開されている。

サウンドトラックも、2017年版があり、
今回のザック・スナイダー版とがある。

CDはまだ発売になっていないようだが、
というよりもCDが出るのかどうかも、ちょっとあやしい。

TIDALで最近聴けるようになったのだけれども、
収録曲数54で、トータル4時間と表示される。

なのでCDの発売はないのかもしれない。

ザック・スナイダー版サウンドトラックには、“Hallelujah”がある。
レナード・コーエンのHallelujahである。
歌っているのは、Alison Crowe(アリソン・クロウ)。
ピアノの弾き語りだ。

この“Hallelujah”も、いい。

Date: 4月 1st, 2021
Cate: ディスク/ブック

LA PASSIONE(その1)

ジャクリーヌ・デュ=プレが多発性硬化症におかされることなく、
演奏活動を続けていたら──と想像することがある。

チェロを弾くだけでなく、指揮活動もやっていたのではないだろうか、とふとおもってしまう。
いまでは女性の指揮者も珍しくなくなったけれど、
以前はそうではなかった。

私が女性の指揮する演奏(録音)を聴いたのは、
アルゲリッチの弾き振り(ベートーヴェンとハイドンの協奏曲)が最初だった。

アナログディスクだった。日本盤ということもあってか、
期待したにもかかわらず、これがアルゲリッチ? と残念に感じたものだった。

それからけっこう経ってCDも出てきた。
このときは期待していなかったけれど、まったく印象が違って聴こえた。
まさか再録音したのか、とつい思ってしまうほどに、活き活きとした演奏だった。

単に日本盤の音が悪すぎたのだろう。

内田光子もモーツァルトの協奏曲を弾き振りしている。
こういう演奏を聴くと、よけいにデュ=プレは? とあれこれおもってしまう。

バーバラ・ハンニガン(Barbara Hannigan)という、カナダのソプラノ歌手がいる。
タワーレコードの店頭で、ハンニガンのディスクをけっこう前にみかけてから、
ぽつぽつと聴いている。

あくまでもぽつぽつといったぐらいなので、
ハンニガンの活動にそれほど詳しいわけでもない。
それでも十年くらい前から指揮も始めたことぐらいは知っていた。

弾き振りならぬ、歌っての指揮なのだから、歌い振りとでもいうのだろうか。
指揮だけの録音があるとは思っていなかった。

facebookを眺めていたら、ハンニガンが指揮している動画が表示された。
ハイドンの交響曲第49番だった。

交響曲も指揮するのか、ハイドンの49番なのか。
それにハンニガンの指揮ぶりは、なかなかユニークだった。
さっそくTIDALで検索してみると、オーケストラは違うものの、あった。

“LA PASSIONE”である。
ジャケットには、ハンニガンとオーケストラの名称だけで、
作曲家の名前はない。

このディスクが出ていたのは知っていたけれど、
そこにハイドンの“La Passione”が含まれていることに気づいていなかった。

Date: 3月 25th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ARTURO TOSCANINI -PHILHARMONIA ORCHESTRA- BRAHMS(その2)

TIDALで聴くことができる“ARTURO TOSCANINI – PHILHARMONIA ORCHESTRA – BRAHMS”も、
おそらくはテスタメントのマスタリングが使われているのだろう。

今日、二十年分ぐらいに、トスカニーニとフィルハーモニアのブラームスを聴いた。
昔聴いた音が驚くほど鮮明になっているわけではないが、
特に不満はないぐらいによくなっていると感じた。

そのこともあってだろう、昔聴いた印象よりも、ずっといい。
福永陽一郎氏がいわれるように、素晴らしいブラームスである。

オーケストラがイギリスということもあるのだろう、
自発的なしなやかさが、NBC交響楽団とのブラームスに加わっているような感じがする。

そしてMQAのよさは、トスカニーニの指揮の特徴をうまく引き出しているのではないだろうか。
トスカニーニの指揮の特徴は、これまでに聴いた録音だけでなく、
トスカニーニについて書かれた文章からも、知識として得ているところがある。

確か、福永陽一郎氏は、トスカニーニ/フィルハーモニアのブラームスでは、
トスカニーニの最良のところが発揮されている、と書かれていた、と記憶している。

今日、MQAで聴いて、そうだそうだ、と首肯けた。
トスカニーニの最良のところを、今日、再発見したのではないだろうか。

TIDALにMQAで配信されていなかったら、
テスタメント盤かワーナーのボックスのどちらかを、いつかは買っただろう。

どちらであっても、昔私が聴いた盤よりはいい音なのだろう。
そう思いながらもMQAで、今日聴けて幸いだった。