Date: 4月 14th, 2021
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Peter and the Wolf(その2)

(その1)を書いたあとで、
そういえば、黒田先生、「音楽への礼状」でプレヴィンについて書かれていたな、と思い出した。
書き出しも憶えていた。

ある高名な評論家のことから始まる。
     *
「こういうあつかいをされるのなら、これからは、きみのところとのつきあいを考えさせてもらうよ」
 受話器からは、そのようにいう、くぐもった声がきこえてきました。声の調子から判断して、声の主が感情をおしころしているのはあきらかでした。連載を依頼している、さる高名な、そして高齢でもある評論家に、そのようにいわれ、ヴェテランの編集者である彼は、大いにあわて、同時にびっくりもしました。なんでまた、そんなことを気にするのだろう、このひとは。彼がそう思ったのは当然でした。
 電話は、彼の雑誌の、その前日の新聞に掲載された広告に、件の高名な評論家の名前がのっていなかったことについての、厭味たっぷりな苦情でした。たまたま、その号の特集にスペースをとられ、そのために、連載をしている評論家の名前をのせられなかった、というだけのことでした。その程度のことは、わざわざ広告部に問い合わせるまでもなく、彼にも予測できました。
     *
この高名な評論家が誰なのかは、なんとなく知っている。
そんなことをする人だったのか、と思ったし、
黒田先生が書かれているように、その行いは《想像を絶すること》だ。

高名な評論家といえど、いわゆる自由業である。
出版社から毎月決った額を受けとれるわけではない。

だからこそ、名を売っていかなければならない──、
そういう考えの人も多いのは経験上知っている。

十分な名声があったとしても、新しい人たちが参入してくるし、
将来が保証されているわけでもないから、名前が載ることは名によりも優先することなのだろう。

黒田先生も音楽評論家だったから、この高名な評論家と立場としては同じである。
《めだって、広く世間にその名を知られるようになる、というのは、たまたまの結果でしかなく、目的であってはならないでしょう》
とも書かれている。

黒田先生は、バーンスタインのマーラーを一人称の演奏の代表例とすれば、
プレヴィンの演奏は三人称の演奏である、と。

つづけて、こう書かれている。
     *
 奇麗だけど、それ以上ではない。それがあなたの演奏をきいた多くのひとのいうことばです。ぼくも、半分は、その意見に賛成です。しかし、あなたの演奏の、一歩ひいたところで語ろうとする慎ましさが、ぼくは大好きです。あなたは、なりふりかまわずふるまうことを、潔しとしない。そのために、あなたの演奏は、めだちにくい、地味なものになりがちです。
 俺が、俺が、とわめきたてる声が、所を選ばずまきあがっているのが、この時代のようです。バーンスタインの演奏は一人称の演奏の素晴らしい例ですが、そうではない、めだつことだけをねらったあざとい演奏も、こういう時代ですから、たくさんあります。そのような騒がしい状況にあって、あなたの真摯で慎ましい演奏は、いかにもめだたない。ききての耳が粗くなっているためもあるかもしれません。しかし、このことは、なにごとによらず、この時代のすべてについていえるようです。
     *
《奇麗だけど、それ以上ではない》、
20代のころの私は、そう感じていた。

バーンスタインのマーラーに夢中になっていたころだから、
そのころもいまも変らないが、一人称の優れた演奏をとにかく聴きたい、と思っている。

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