アンチテーゼとしての「音」(その10)
「毒にも薬にもならない音」、
「毒にも薬にもならない文章」と書いてきて、
「毒にも薬にもならない演奏」とは……、で思い出すのは何か、と考えた。
私にとって「毒にも薬にもならない演奏」の筆頭は、
インバルがDENONレーベルに録音したマーラーである。
インバルのマーラーのことは、以前に書いている。
そのときバーンスタインのマーラーを引き合いに出している。
私にとってインバルのマーラーが、まったく響かなかったのは、
「毒にも薬にもならない演奏」だったからにほかならない。
インバルの演奏からは、マーラーの交響曲(音楽)がもっている毒、
一種の毒といってもいいと思えるところが弱い、というよりも、
ほとんど感じられなかった。
インバルのマーラーに毒を感じる人もいるのかもしれない。
現在のインバルのマーラーが、どうなのかは聴いていないので、なんともいえないが、
少なくとも1980年代のDENONレーベルのマーラーに、毒を感じることは一度もなかった。
私がバーンスタインのマーラー、それもドイツグラモフォン録音を高く評価するのも、
誰にも増してマーラーの毒を強く感じさせるからである。
そうだった、と思い出すのは、
「毒にも薬にもならない文章」を書くことを選択した知人だ。
知人は、好んでマーラーを聴くことはなかった。
彼のところにバーンスタインのマーラーのディスクを持っていったこともある。
そのときの彼の反応は、いま思えば、毒に対するある種の拒否反応だったかもしれない。
毒があるから、マーラーの世界(音楽)にのめり込んでいける、
もしくはどっぷりとつかれる(浸かれるであり、憑かれるでもあり、撞かれる)。
そんな私のような聴き手がいる一方で、
毒があると、のめり込めない、という人もいるはずだ。