アンチテーゼとしての「音」(audio wednesdayでの音・その4)
音質を音量の大きさでごまかす、
こんなことがずっと以前からいわれてきている。
音を大きくしさえすれば、いい音に聴こえる、と、
こんなことを言っている人は、本気でそう思っている(信じている)のだろうか。
世の中には、大音量で聴く人を蔑む人がいる。
それは知的ではない、とか、野蛮だ、とか、そんなことをいう。
大音量で聴くことは、ほんとうに知的でない行為なのか。
これは大音量再生を真剣にやったことのない人のいいそうなことだ。
大音量再生は、大音量再生ならではの知的な行為である。
ただただボリュウムのツマミを時計方向にまわしていけば、
それで済むような行為ではない。
私は、大音量再生は、知的でスリリングな行為だ、と考えている。
どこまでボリュウムをあげていけるのか、
音が破綻してしまったら、それは大音量再生とは、もういえない。
破綻させず、そしてスピーカーを破損させずに、
どこまで音をあげていけるのか。
そのぎりぎりのところを見定める。
一度やってみると、これぞオーディオだ、と心で叫びたい気持になる。
それにハマってしまう。
今回、喫茶茶会記のアルテックのドライバーを壊した人は、
大音量再生を知的な行為とは、少しも思っていないのだろう。
ボリュウムを時計方向にまわしていけば、でかい音が出る、くらいの認識であり、
自分のスピーカーではない、という気持がどこかにあったはずだ。