Archive for category 岩崎千明

Date: 6月 6th, 2013
Cate: audio wednesday, 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(audio sharing例会・その1)

昨年の5月のaudio sharing例会のテーマは「岩崎千明を語る」だった。
このとき、一年後にゲストに来ていただいて、なにかやりたい、と考えていた。

それから約一年、春ごろ、昨年とまったく同じテーマでは能がないから、
今年は「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」というテーマにして、ゲストに来ていただこう。

誰に来ていただくか。
ステレオサウンドにいたころから、
そしてステレオサウンドをやめたあとも西川さん(サンスイ)との縁があった。
西川さんからは瀬川先生の話し、岩崎先生の話、それ以外にもいろいろとうかがっている。
西川さんに来ていただこう。
これは「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」をテーマに決めたと同時に決った。

西川さんに来ていただくとして、あとふたり、鼎談で語っていただこう、
とすると、誰がいいだろうか。

ステレオサウンドをはなれてもう20年以上経つし、
瀬川先生、岩崎先生と仕事をされていた方となると、実は面識がない。

西川さんから、以前「瀬川さんと岩崎さんのことなら、パイオニアの片桐さんがくわしいよ」と聞いていた。
私がfacebookで公開している岩崎先生のページ「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」に、
片桐さんが「いいね!」をしてくださっていることは、管理人であるからわかっていた。
それからビクターに勤務されていた西松さんも「いいね!」をしてくださっていた。

それでfacebookの機能を使い、片桐さんと西松さんに依頼のメッセージを出した。
まったく面識のない私からの依頼にも関わらず、快諾してくださった。

Date: 5月 16th, 2013
Cate: ジャーナリズム, 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(はっきり書いておこう)

岩崎千明という「点」があった。
瀬川冬樹という「点」があった。

人を点として捉えれば、点の大きさ、重さは違ってくる。

岩崎千明という「点」が書き残してきたものも、やはり「点」である。
瀬川冬樹という「点」が書き残してきたものも、同じく「点」である。

他の人たちが書いてきたものも点であり、これまでにオーディオの世界には無数といえる点がある。

点はどれだけ無数にあろうともそのままでは点でしかない。
点と点がつながって線になる。

このときの点と点は、なにも自分が書いてきた、残してきた点でなくともよい。
誰かが残してきた点と自分の点とをつなげてもいい。

点を線にしていくことは、書き手だけに求められるのではない。
編集者にも強く求められることであり、むしろ編集者のほうに強く求められることでもある。

点を線にしていく作業、
その先には線を面へとしていく作業がある。
さらにその先には、面と面とを組み合わせていく。

面と面とをどう組み合わせていくのか。
ただ平面に並べていくだけなのか、それとも立体へと構築していくのか。

なにか、ある事柄(オーディオ、音楽)について継続して書いていくとは、
こういうことだと私はおもっている。
編集という仕事はこういうことだと私はおもっている。

Date: 5月 16th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その4)

私が勝手におもっているだけのことなのだが、
実のところ、ステレオサウンドもそれほど売れるとは思っていないのではなかろうか。

定期刊行物でもないしムックでもないから広告は入ってこない。
そういう書籍を、いまあえて出すのはなぜなのか、と考えてしまう。

本は読者に向けてのものであるわけだが、
「オーディオ彷徨」の復刊と、いまになっての瀬川先生の著作集の刊行は、
読者に向けてのものとして当然あるわけだが、それだけとは私には思えない。

それは深読みしすぎだといわれるだろうが、
「オーディオ彷徨」の復刊と、いまになっての瀬川先生の著作集の刊行は、
いまステレオサウンドに執筆している人たちに向けてのものなのではなかろうか。

そして、さらにもっとも深読みすれば、ステレオサウンド編集の人たちに向けてのもののようにもおもえてくる。

なぜ、私がそうおもっているのかは、勝手に想像していただきたい。

Date: 5月 16th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その3)

「オーディオ彷徨」、それに瀬川先生の著作集がどれだけ売れるのか。
売れてほしい、とはおもう。
特に岩崎千明の名も瀬川冬樹の名もまったく知らない世代に読んでもらいたい、と思う。

だから売れてほしい。

けれどそう多くは売れない、とも思ってしまう。
それはしかたないことかもしれない。
おふたりが亡くなられて30年以上が経っている。
私がaudio sharingをつくったときですから、
「いまさら岩崎千明、瀬川冬樹……」といわれた。

私より年齢が上の人数人から、そういわれたものだ。
そのときから13年が経っている。

この13年間のオーディオ界の変化をどう捉えているのかは、人それぞれだろう。

ステレオサウンドがどれだけの売行きを見込んでいるのかは、私にはわからない。
実際の売行きがどうなるのかも、正直わからない。
ステレオサウンドの売行きの見込みよりもずっと売れるかもしれないし、そうではないのかもしれない。

どちらになるしても、「オーディオ彷徨」と瀬川先生の著作集は、
とにかくずっと売っていてほしい。
5年後も、10年後も、20年後もステレオサウンドに注文すれば入手できる。
そうあってほしい。

Date: 5月 14th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代(その1)

いまは──、そして当り前すぎることを書くことになるが、
これからさきもずっと「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」が続いていく。
もうすでに30年以上「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」が続いてきているのに。

「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」に終りは訪れない。
どれだけ待っていても終りは来ない。

ならば……、とおもう。
オーディオの世界を「豊か」にしていくことを。

Date: 5月 13th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(現在よりも……)

表面的な意味ではなく、
それに単に製品の数の多さや価格のレンジの広さとか、そういったことでもなくて、
まったく違う意味での「豊かさ」が、
「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」のオーディオの世界にはあったように思えてならない。

Date: 5月 8th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その2)

瀬川先生の著作集が出ないことがはっきりした。

よく遺稿集という言い方をする。私もこれまで何度も使ってきた。
けれど遺稿とは、未発表のまま、その筆者が亡くなったあとに残された原稿であって、
すでに発表された文章を一冊の本をまとめたものは遺稿集とは呼ばない──、
ということを、私もつい先日知ったばかりである。

私の手もとには瀬川先生の未発表の原稿(ただし未完成)がひとつだけある。
いずれ電子書籍の形で公開する予定だけれど、それでも一本だけだから、遺稿集とはならない。
あくまでも著作集ということになる。

ステレオサウンドの決まり、
そんなことがあるものか、と思われる方も少なくないと思う。
けれどふりかえってみていただきたい。
瀬川先生の著作集は出なかった。
黒田先生の著作集も出なかった。
黒田先生の本は、すでに「聴こえるものの彼方へ」が出ていたから。

岡先生の本も出ていない。
岡先生の本は、すでに「レコードと音楽とオーディオと」というムックが出ていたから。

山中先生の本も出ていない。
山中先生の本は、すでに「ブリティッシュ・サウンド」というムックが出ていたから。
「ブリティッシュ・サウンド」は山中先生ひとりだけではないものの、
メインは山中先生ということになる。

長島先生の本も出ていない。
長島先生の本は、すでに「HIGH-TECHNIC SERIES2 図説・MC型カートリッジの研究」が出ていたから。

I先輩の言われた「決まり」、
そういうものがあることをあとになって「やっぱりそうなのか」と、
ステレオサウンドをやめたあと、岡先生、長島先生、山中先生が亡くなり、そう思っていた。

だからこそ瀬川先生が亡くなられて32年目の今年、著作集がステレオサウンドから出る、ということは、
嬉しいとともに、意外でもあった。

正直、遅すぎる、とは思う。
そう思うとともに、なぜ、いまになって、とも考えている。

Date: 5月 8th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その1)

5月31日に岩崎先生の「オーディオ彷徨」が復刊され、
瀬川先生の著作集が出るのだから、このことは書いてもいいと判断したことがある。

私がステレオサウンドで働くようになったのは、1982年1月。
瀬川先生が亡くなって二ヵ月後のこと。
ステレオサウンド試聴室隣の倉庫には、
瀬川先生が愛用されていたKEF・LS5/1A、スチューダーA68、マークレビンソンLNP2があった。

そういうときに私はステレオサウンドで働きはじめた。

入ってしばらくして訊ねたことは「瀬川先生の遺稿集はいつ出るんですか」だった。
編集部のI先輩にきいた。
どうみても、その編集作業にとりかかっている様子はどこにもなかったし、
そんな話も出てきていなかったから、不思議に思いきいたのだった。

I先輩の返事は、当時の私にはたいへんショックなものだった。
「出ないんだよ。ステレオサウンドのルールとして筆者一人一冊と決っているから。
瀬川先生はすでに『コンポーネントステレオのすすめ』がもう出ているから……」

確かに「コンポーネントステレオのすすめ」は出ている。
しかも改訂版も出て、「続・コンポーネントステレオのすすめ」も出ている。
だからといって、なぜ出さないのか。
そんなことを誰が決めたの? そんな決まり(これが決まりと呼べるのだろうか)は破ればいいじゃないか、
ステレオサウンドにとって瀬川冬樹とは、そんな存在だった?──、
とにかくそんなことが次々と頭に浮んだものの、何も言わなかった(言えなかった)。

Date: 5月 4th, 2013
Cate: 岩崎千明

想像つかないこともある、ということ(その1)

スイングジャーナル 1978年5月号に「岩崎千明を偲ぶ会開かれる」という記事が載っている。
一関ベイシーの菅原昭二氏が、岩崎先生との想い出について書かれている。

そこにこうある。
     *
背筋を伸ばしたままの状態でそっと腰をおろすとパラゴンがうなった。圧倒的な音量。私だって音量では人後におちない部類に入ると思うのだが、岩崎さんのそれはまたひとつ、ケタが違うのだ。見るとSG520のボリュームつまみはこれ以上、上に昇れないところに行っている。プリ・アンプのボリュームをオープンにしちゃうとどうもスカッとふんぎりがつくようなのだ。これができるかできないかで、岩崎さんになれるかなれないかが別れるのだ。
     *
岩崎先生のパラゴンはLE15Aが入っているものだから、カタログに載っている出力音圧レベルは95dB。
菅原氏が聴かれたのは引越しの途中であって、新居にはすでにハーツフィールドやパトリシアンがおさまっていて、
ステレオサウンド 38号にも載っているパラゴンが置かれている、いわば旧宅での音である。

菅原氏の文章ではパワーアンプがなにかははっきりしないけれど、
ステレオサウンド 38号ではクワドエイトLM6200RとパイオニアExclusive M4だったが、
これらのアンプはすでに新居に運ばれていたのだろう。
だからコントロールアンプはSG520だったと思う。

ということはパワーアンプもM4ではなく、JBLのSE400なのかもしれない。
出力はM4もSE400もほぼ同じ。だから、どのパワーアンプなのかはっきりしなくても、
そんなことは些細なことでしかない。

岩崎先生の旧宅のリスニングルームは、写真でみるかぎり、ものすごく広い空間ではない。
そこでSG520のボリュウムが全開ということは、正直想像つかない。

菅原氏が「またひとつ、ケタが違うのだ」と書かれている。
そうとうに大きなことだけははっきりしている。

でも、それがほんとうのところ、どれだけのレベルなのかは、いまの私にはまだ想像つかない。
しかも音圧計で、ピークで何dB出ていました、といったことで表せる領域でもない。
ただ音がでかいだけではないのだから。

それでも、その領域に少しでも近づきたい、という気持が芽生えている。

Date: 4月 16th, 2013
Cate: 岩崎千明

嬉しい知らせ(「オーディオ彷徨」復刊)

一ヵ月ほど前に、詳細については省かざるをえなかったけれど、
今日やっと情報解禁になったので、ここでもきちんと書ける。

岩崎先生の遺稿集「オーディオ彷徨」が、5月31日にステレオサウンドから二度目の復刊である。
ステレオサウンドのfacabookページにて告知されている。

岩崎綾さん(岩崎先生の娘さん)が先月中旬にフライングでfacebook、twitterに書かれていたから、
目にされていた方も少なからずおられただろう。
でも、ステレオサウンドの正式な告知まで黙っていてほしい、ということだったので、
これまで書きたくても我慢していた。
今日やっと、曖昧にすることなく書ける。

audio sharingで「オーディオ彷徨」を公開してから13年。
やっと復刊された、という気持が強い。

「オーディオ彷徨」はaudio sharingでの公開のほかに、
ePUBにまとめたものをダウンロードできるようにしている。
ePUB(原子書籍)に関しては5月30日には削除する。

ステレオサウンドからオーディオ彷徨」が復刊されるわけだし、
一人でも多くのひとに「オーディオ彷徨」を購入してほしい、とおもうからだ。

とはいえ、またいつの日か「オーディオ彷徨」は絶版になる。
それに岩崎先生が書かれたものは、「オーディオ彷徨」に収められているものばかりではない。

昨年は岩崎先生の文章の入力を、けっこう量こなしてきた。
記事だけではなく、広告に書かれた文章もいくつかある。
私のMacのハードディスクには、かなりの文量のテキストがはいっている。
先日も多摩図書館に行き、いくつかの文章をコピーしてきた。

もちろん、これらの文章は「オーディオ彷徨」の増強版(タイトルはすでに考えている)として、
ひとつにまとめて電子書籍としてダウンロードできるようにする。
ただし、これまでは一般的なePUB形式にしていたが、
この増強版に関してはiBooks Authorでつくるため、iPadをプラットホームとした電子書籍にする予定である。

Date: 1月 28th, 2013
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(続×七・Electro-Voice Ariesのこと)

スピーカーとしては、声というものの性格から、中域とか高域が金属製の音がするものは避ける。つまりJBLとかアルテックとかタンノイのように、金属の振動板を使ったスピーカーは、音色的に合わないと思うのです。ほかの例でいうと、ピアノにいいスピーカーあるいは弦にいいスピーカーということでも、やはり振動板の材質の音色が必ずかかわってくるんですね。そうすると、ここでは、高分子化合物のもの、マイラーとかフェノールとかそういうタイプの振動板を使ったスピーカーがいいだろう、ということになります。
     *
ステレオサウンド 41号とともに「コンポーネントステレオの世界 ’77」は、
はじめて買ったオーディオ雑誌でもあるから、それこそ一字一句噛みしめるように読んでいた。

しかも、まだ13歳。
ここに書かれていることに素直にのみこんでいた。

となると、しっとりとした、情感あふれる女性ヴォーカルを、
聴くもののこころにひっそりと語りかけてくるように鳴らしたいのであれば、
中高域のダイアフラムは金属よりもフェノール系がいい。

しかも井上先生は、ヴォーカルの定位感をシャープに出すためには、
場合によってはホーン型のほうがいい、ともいわれている。
キャバスのBrigantinはスコーカー、トゥイーターはドーム型ではあるものの、
スコーカーの前面にはメガホン状のホーンがとりつけられている。
しかも、いわゆるリニアフェイズ配置のスピーカーシステムである。

このことはずっと頭の中にあった。
だから41号、「コンポーネントステレオの世界 ’77」の1年後のステレオサウンド 45号で、
エレクトロボイスのPatrician800について知ったとき、
このスピーカーこそが、理想にもっとも近いスピーカーシステムである、とみえてしまった。

ダイアフラムはフェノール系で、しかも本格的なホーン型。
さらにいえば4ウェイでもある。

Patrician800のアピアランスは、中学生の若造にはさほどいいものには感じられなかったけど、
でも、その内容については、これ以上のものはない、
このPatrician800をベースにリニアフェイズにすることはできないものだろうか……、
そんなことを夢想していたことがある。

Date: 1月 27th, 2013
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(続×六・Electro-Voice Ariesのこと)

ステレオサウンド 45号掲載の「クラフツマンシップの粋」で、
エレクトロボイスにかつてPatricianと呼ばれる、規模の大きなスピーカーシステムがあったことを知る。

特にPatrician800には魅かれるものがあった。
こんなスピーカーシステムを、エレクトロボイスはつくっていたのか──、
いま(1977年)のラインナップとは大きく異るPatricianシリーズは、
まだ10代なかばの若造でも、堂々とした風格を備えていることは写真から感じとれていた。

Patrician800は他のPatricianシリーズと同様に4ウェイ構成である。
まずこのことにも魅かれた。
JBLの4343が4ウェイであったということ、
すでにステレオサウンド別冊「HIGH-TECHNIC SERIES-1」で瀬川先生の4ウェイ構想の記事も読んでいたこと、
これらのことがPatrician800に魅かれたベースにはある。

それだけではない。
エレクトロボイスがフェノール系のダイアフラムを採用していることも大きかった。

ここでも「コンポーネントステレオの世界 ’77」が関係している。
この別冊のなかで、井上先生が、女性ヴォーカルを聴くための組合せをつくられている。

ジャニス・イアン、山崎ハコの歌を
「聴くもののこころにひっそりと語りかけてくる」ように聴きたいという読者のために、
井上先生が選ばれたスピーカーシステムはフランスのキャバスのフロアー型、Brigantinだった。

Date: 1月 7th, 2013
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(続×五・Electro-Voice Ariesのこと)

後になって(といってもかなり後のこと)読み返してみると、
「エレクトロボイスの音は、クラシック向きで、たいへんおとなしい音だとよく誤解される」とある。
以前のエレクトロボイスとは印象の変化があったことが読みとれるわけだが、
そのことに気づかされるのは、少し先のことであり、それも少しずつであった。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」には、もうひとつエレクトロボイスのスピーカーシステムが登場している。
Interface:Aである。菅野先生の組合せにおいて、である。
Interface:Aも外観も、やはり黒っぽい。

1976年暮の時点でのエレクトロボイスのスピーカーへの私の印象は、
私が好んで聴く音楽とは無縁と思われる、そういうスピーカーであった。

エレクトロボイスの歴史について少し知るきっかけとなったのは、
ステレオサウンド 45号の「クラフツマンシップの粋」で、エレクトロボイスのPatricianが取り上げられたことだ。

エレクトロボイスが過去に、こういう大型の、
それもSentryやInterfaceシリーズとはまったく異る趣のスピーカーシステムを作っていたことを知った。
そして、この「クラフツマンシップの粋」を読んでいくと、
エレクトロボイスのドライバーのダイアフラムは、
JBLやアルテックに採用されている金属系ではなく、フェノール系だということを知り、
エレクトロボイスへの興味がさらに増していった。

フェノール系のダイアフラムの音について、井上先生が記事の最後に語られている。
     *
現在は、ホーンドライバーはウェスタン系が主流になっているから、ホーン型というとカッチリしたクリアーで抜けが良くて、腰の強い音という認識があるけれど、これに対してEVのホーン型ユニットの音は、むしろ柔らかくてもっとしなやかですね。特に弦の再生がウェスタン系とは決定的に違って、すごく滑らかでキメの細かい音でしょう。メタルダイアフラムでは絶対に出ない音です。
     *
ステレオサウンド 45号は1977年暮に出ている。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」からちょうど1年後のことであった。

Date: 1月 7th, 2013
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(続々続々・Electro-Voice Ariesのこと)

「ステレオのすべて ’77」とほぼ同じ時期に書店に並んでいて、
どちらにしようか迷ったすえ購入したのが
ステレオサウンド別冊の「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。
組合せだけの一冊である。

岩崎先生の組合せも載っていて、エレクトロボイスのスピーカーシステムが使われている。
Sentry Vだった。
25cm口径のウーファーとホーン型トゥイーターによるブックシェルフ型。
エンクロージュアの両サイドは木目仕上げだが、フロントバッフルは黒。
しかもウーファーの前面は写真で見る限り一般的なコーン型にはみえない。
Sentry Vは実物を見たことがないので、実際にどうなっているのかなんともいえないが、
艶のある黒いホーンといい、外観的にも特徴のある、というより個性の強いスピーカーである。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」は読者からの手紙が元になって組合せがつくられている。
Sentry Vがつかわれた組合せは、ジェームス・ブラウン、ウィリー・ディクソン、ジミ・ヘンドリックスなど、
読者の手紙の文面にもあるように「黒っぽい音楽」、「黒っぽい音」を黒っぽく感じられるものと選ばれている。

Sentry Vの外観は、まさしく黒っぽい。
黒っぽい音が、これで出てこなかったら、おかしいだろう、といいたくなるほど、黒っぽいスピーカーである。

岩崎先生も組合せについて語られているなかで、Sentry Vは
「アメリカのディスコティックなんかでブラック・ミュージックの再生に活躍している」と説明されている。

私の中のエレクトロボイスのスピーカーはイメージは、だからここから始まっている。

Date: 1月 7th, 2013
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(続々続・Electro-Voice Ariesのこと)

1976年暮に音楽之友社から出版された「ステレオのすべて ’77」に、
「海外スピーカーユニット紳士録」という記事が載っている。
岩崎先生が語られたものを編集部がまとめたものである。

記事タイトルが表している通り、
海外各国のスピーカーユニットについて語られている。
エレクトロボイスのスピーカーユニットについても語られている。
     *
 エレクトロ・ヴォイスのSP8とか、あるいはSP12というスピーカーを見ますと、今はなくなってしまったけれども、グッドマンのユニットによく似ています。あるいはワーフェデール系のユニット。メカニズムですと、リチャード・アレンなんかも外観から見てね、コルゲーションの付いた、しかもダブル・コーンということでね、大変よく似ているわけです。
 で、その辺からもエレクトロ・ヴォイスというのが、先程ヨーロッパ的と言いましたが実はヨーロッパ的というよりも、これは英国的なんです。ですからアメリカにすれば、英国製品というのは、やっぱり舶来品でね、非常に日本における舶来礼賛と同じように、アメリカにおいてはかつて、ハイファイ初期において、非常に英国製品がアメリカを席巻していた時期が、これはオーディオの最初ですから、大体一九五〇年の前半から、終わり近くまでということになるんですからね。つまりステレオになってからARがのし上がる、その前の状態では、ワーフェデールにしたって、グッドマンにしたって、アメリカでは最高でまかり通っていたわけで、その辺のスピーカーとエレクトロ・ヴォイスの場合は、非常によく似ているわけです。実を言うと、音色にもそういう面があって、それからパワーの、高能率であってパワーを必要としないという点でも、エレクトロ・ヴォイスというのは極めて英国的な要素を持っていたと思うんです。で、外観から言うと、コイルの大きさとか、そういう点で非常にぜいたくな、金のかかったシステムなんで、ヴォイス・コイルも英国系と違って、ずっと太い。そういうところもアメリカ的には違いないんですけどね。音響的な性格というんですか、あるいは振動系の基本的な考え方というのは、英国オーディオ・メーカー、あるいは英国のスピーカー・メーカーと共通したところがあると思うんです。で、中音の非常に充実感の感じさせるところもね。いかにもその辺も英国的なわけですよ。
     *
エレクトロボイスについて語られている、といっても、
ここではフルレンジユニットのSP8、SP12のことであり、
このふたつのフルレンジに対してもっておられた印象が、
そのままエレクトロボイスのスピーカーシステムに対しても同じであったのかどうかは、
この記事だけではなんともいえないものの、そう大きくと違っていないはずだ。