「オーディオ彷徨」(「いま」読んで…… さらに補足)
この一条の光を、ときとして神と呼ばれるものとして、感じているのではないか。
「あの時、ロリンズは神だったのかもしれない」が頭の中でリフレインする。
この一条の光を、ときとして神と呼ばれるものとして、感じているのではないか。
「あの時、ロリンズは神だったのかもしれない」が頭の中でリフレインする。
3本目こそが、一条の光だ、と思う。
「人」という漢字について、よく云われることに、
互いが支え合っているから立てる、というのがある。
現実には2本だけでは立てない。
かろうじてバランスを保つポイントを見つけても、すぐに倒れてしまう。
2本で支え合っている、というのは、あくまでも紙の上に書かれたことでしかない。
「人」が現実においてふらつかずしっかりと立つには、
陰に隠れている3本目がある、ということだ。
この3本目が何であるのかは人によって違うことだろう。
音楽の人もいる。
音楽といっても、ジャズも人もいればクラシックの人もいて、
そのジャズの中でも……、クラシックの中でも……、と、さらに細かくなっていくはず。
「オーディオ彷徨」に「あの時、ロリンズは神だったのかもしれない」がある。
ソニー・ロリンズの「サキソフォン・コロッサス」のことだ。
岩崎先生にとって、「サキソフォン・コロッサス」が3本目だ、と今回読んで気づいた。
岩崎先生は、ジャズを聴かれていた。
そのことは文章を読めば伝わってくる。
それはなにも、岩崎先生の文章のなかに、ジャズに関係する固有名詞が登場するからではなくて、
文章そのものが、ジャズでもあったと感じていた。
この点が、クラシックもジャズも聴かれる菅野先生との違いのひとつでもあったと思うし、
だからこそ、ジャズの熱心な聴き手ではない私なのに、岩崎先生の文章を読み終えると、
ジャズが無性に聴きたくなっている。
それは岩崎先生の文章には、ジャズをオーディオで聴く面白さと楽しさがあるからだ。
ステレオサウンドを、オーディオ評論を築き上げてきた人たちは、
岩崎先生を除けばクラシックを主に聴かれる方ばかりだった。
クラシックでもなくジャズでもなく、ロック、ポップスをメインに聴く人は次の世代になってあらわれてきた。
いまのステレオサウンドに執筆している人たちは、
クラシック以外の音楽をメインに聴く人の方が多いようにみえる。
音楽の多様性からみれば当然のことだろう。
だが、岩崎先生のような人がひとりでもいるだろうか、と思う。
つまり文章そのものがジャズであったように、
ロックそのものが伝わってくる文章を書いている人は、いるだろうか(少なくとも私にとっては、いない)。
その文章からロック、ポップスに関する固有名詞を取り去ったあとでも、
ロックを感じさせてくれる文章を書けるオーディオ評論家の登場は、期待できるのだろうか。
それとも、単に私のロックに対するイメージが古すぎるだけなのだろうか。
スーパーウーファーの使いこなしに苦手意識をもっている人は、
実際に確かめたわけではないが、スピーカーの自作の経験のない人かもしれない、と思うことがある。
そのスピーカーの自作も、いきなり2ウェイなり3ウェイといったマルチウェイからとりかかるのではなくて、
最初はフルレンジからはじめて、トゥイーターを追加して2ウェイ、さらにウーファーを追加して3ウェイ、
こんなぐあいに段階を踏んでマルチウェイのスピーカーの自作のことだ。
たとえばカートリッジを交換する、CDプレーヤーを交換する、アンプを交換する、
交換によって生じる音の違いには、エネルギーの総体量の変化は、基本的にはないといっていいだろう。
厳密にいえばワイドレンジのカートリッジもあればナローレンジのモノもある。
アンプにしても、古い古典的な、トランスを多用した管球アンプと、最新のソリッドステートアンプとでは、
やはり周波数特性も違うし、ノイズレベルも異るから、エネルギーの総体量は、決して同じではない。
でも、フルレンジのスピーカーにトゥイーターを足したり、
メインのスピーカーシステムにスーパーウーファーを足すのに較べると、
その差は、ないとはいえないまでも少ない。
つまり上に書いたスピーカーの自作の経験のある人は、エネルギーの総体量の変化に対して、耳が馴れている。
ない人は、スーパーウーファーの使いこなしに対して、臆病になっている、そういう面がありはしないだろうか。
ここから話はズレるけれど、
フルレンジからスタートしたスピーカーに、次の段階としては、
ふつうトゥイーターを追加することが一般的ではないだろうか。
少なくとも、私はそう思っていたし、これは瀬川先生の4ウェイ構想の影響でもあるけれど、
私には、ウーファーを、まず追加する、という発想はなかった。
いま瀬川先生の「本」に関連した作業で、
岩崎先生の文章を先日入力していた。
パイオニアのスコーカーPM12Fについて書かれた文章を読んで、岩崎先生らしい、と思った。
*
これをフルレンジとしてまず使い、次なるステップでウーファーを追加し、最後に高音用を加えて3ウェイとして完成、という道を拓いてくれるのが何よりも大きな魅力だ。
*
こういう驚きは、気持がいい。
対決していくための環境として、色温度の高い光を求める。
色温度の低い、温かさを感じさせる光のもとではくつろいでしまい、対決するという雰囲気ではなくなる。
でも、なにも明るい光のもとだけが対決ていく場ではない。
もうひとつ、闇がある、と思う。
闇に一条の光、──それはもちろん色の温度の高い、純度の高い光が切り込んでくる。
ここまで考えてくると、以前書いたことのある、かわさきひろこ氏の言葉を思い出す。
余剰すぎる明るさは、人を活発にするだろうけど、一方で、人に安心感を与える。
岩崎先生の言われていた「対決」が、ここにきて、すこしわかりかけてきた気がする。
岩崎先生が「対決」ということばを使われるのと、ジャズを聴かれるのは、
絶対に引き剥すことのできない関係である。
瀬川先生が、ステレオサウンド 43号に書かれた、「故 岩崎千明氏を偲んで」で、
スイングジャーナル主催の、サンスイの新宿のショールームでおこなわれた、
菅野、岩崎、瀬川の三氏による鼎談のことについてふれられている。
「すでに闘病生活中で、そのときさえ病院から抜け出してこられたのだった」とある。
この鼎談が掲載されているのが、スイングジャーナルから出た〝モダン・ジャズ読本 ’77〟のなかの
「理想のジャズ・サウンドを追求する」である。
そこで岩崎先生は語られている。
「ぼくのように60年安保の時代にジャズを聴いた人間は、ジャズをひとつのレジスタンスの音楽として、非常に闘争的な音楽と考えるわけなんです。」
瀬川先生も語られている。
「ジャズに親しんだのはほんのわずかな時期なんです。ちょうど60年安保の頃、デザインの勉強をしていまして、あの頃はデザインを勉強する者はジャズを聴かなくちゃダメだという風潮がありましてネ。」
60年安保という時代の空気とジャズ──。
岩崎先生は、何と対決されていたのだろうか。
スピーカーから鳴ってくる(向ってくる)音楽との対決、だけではなかったようにも思う。
「自分の耳が違った音(サウンド)を求めたら、さらに対決するのだ!」。
このことば、いままで出していた音と違う音を、耳が求めたら、というふうに読める。
これもそれだけではないように思う。
これは、オーディオの知識を得ることによって頭の中に出来上ってくる固定概念との対決、
という意味も含まれている。
そう確信している。
岩崎先生が書かれている。
*
高価な高級品ほどよく鳴らすのがむずかしいものである。わが家には昔作られた、昔の価格で1000ドル級の海外製高級システムから、今日3000ドルもする超大型システムまで、いくつもの大型スピーカーシステムがある。こうした大型システムは中々いい音で鳴ってくれない。トーンコントロールをあれこれ動かしたり、スピーカーの位置を変えたり。ところが、不思議なのは本当に優れた良いアンプで鳴らすと、ぴたりと良くなる。この良いアンプの筆頭がパイオニアのM4だ。このアンプをつなぐと本当に生まれかわったように深々とした落ちつきと風格のある音で、どんなスピーカーも鳴ってくれる。その違いは、高級スピーカーほど著しくどうにも鳴らなかったのが俄然すばらしく鳴る。昔の管球式であるものは、こうした良いアンプだが、現代の製品で求めるとしたらM4だ。A級アンプがなぜ良いか判らないが、M4だけは確かにずばぬけて良い。
*
同じ経験は、私もあるし、他の方もお持ちであろう。
良いパワーアンプで鳴らしてみると、それまではスピーカーのせい、セッティングのせいにしていたことが、
パワーアンプがスピーカーを十全にドライブしていなかったことに起因していたことがはっきりとする。
(その11)で書いているが、基本的に井上先生も同じことを言われている。
QUADのESLが、パワーアンプの進化とともに、その評価を増していったことを思い出してほしい。
「矛盾した性格の持ち主だった。彼は名誉心があり嫉妬心も強く、高尚でみえっぱり、
卑怯者で英雄、強くて弱くて、子供であり博識の男、
また非常にドイツ的であり、一方で世界人でもあった」のは、
ウィルヘルム・フルトヴェングラーのことである。
フルトヴェングラーのもとでベルリン・フィルの首席チェロ奏者をつとめたことのある
グレゴール・ピアティゴルスキーが、「チェロとわたし」(白水社刊)のなかで語っている。
同じ書き出しで、1992年、ピーター・ガブリエルのことを書いた。
「ろくでなし」のことにふれた。
人の裡には、さまざまな「ろくでなし」がある。
嫉妬、みえ、弱さ、未熟さ、偏狭さ、愚かさ、狡さ……。
それらから目を逸らしても、音は、だまって語る。
音の未熟さは、畢竟、己の未熟さにほかならない。
音が語っていることに気がつくことが、誰にでもあるはずだ。
そのとき、対決せずにやりすごしてしまうこともできるだろう。
そうやって、ごまかしを増やしていけば、
「ろくでなし」はいいわけをかさね、耳を知らず知らずのうちに塞いでいっている。
この「複雑な幼稚性」から解放されるには、対決していくしかない。
ピアティゴルスキーは、つけ加えている。
「音楽においてのみ、彼(フルトヴェングラー)は首尾一貫し円満で調和がとれ、非凡であった」
5年前だったはずだが、菅野先生に、「敵は己の裡(なか)にある。忘れるな」と、言われた。
胸に握りこぶしを当てながら、力強い口調で言われた。
この、もっともなことを、人はつい忘れてしまう。
この菅野先生の言葉を思い出したのは、岩崎先生がなぜ「対決」されていたのか、
なに(だれ)と対決されていたのか、について考えていたからだ。
「自分の耳が違った音(サウンド)を求めたら、さらに対決するのだ!」
岩崎先生の、この言葉にある「違った音(サウンド)」を求めるということは、どういうことなのか。
「複雑な幼稚性」(その3)で、「人は音なり」と書き、悪循環に陥ってしまうこともあると書いた。
悪循環というぬるま湯はつかっていると、案外気持ちよいものかもしれない。
けれど、人はなにかのきっかけで、そのぬるま湯が濁っていることに気がつく。
そのときが、岩崎先生の言われる「違った音(サウンド)」を求めるときである。
「ステレオは飾りモノじゃないんだよ」といって、
岩崎先生は、JBLのコントロールアンプ、SG520の汚れを落とそうとはされなかった、ときいている。
中野で開かれていたジャズ喫茶でも使われていたことと、リスニングルームで喫煙されていたことで、
フロントパネルは、かなり汚れていたにもかかわらず、内部は新品同様にきれいにされていた、ともきいている。
アンプ内部にほこりがたまり、トランジスターや抵抗、コンデンサーのリード線にヤニがついたりしていては、
本来の性能(音)は発揮できない。そんな状態では、対決するなんてできない。
大音量は、そして、皮膚感覚を呼び起こすためでもあったように思う。
音を聴くのは耳だけだが、音を感じるのは耳だけではなく、からだ全体である。
五感をとぎすますためにも、皮膚感覚にうったえるだけの音量が必要だったのかもしれない。
「音に対決する」といったような息づまる聴き方──、サウンド誌No.7に、岩崎先生は、こう書かれている。
ここにも「対決」ということばが出てくる。
この項の(その1)に引用した
「自分の耳が違った音(サウンド)を求めたら、さらに対決するのだ!」という岩崎先生のことばがある。
対決するにあたって、岩崎先生にとってどうしても必要だったのは、
雑念を浮かべることさえ不可能な大音量であったと思う。
対決に邪魔なのは、いうまでもなく雑念である。
雑念まじりで対決しようものなら、あっけなく負ける。
そういう聴き方を岩崎先生は、ずっとされてこられたのだろう。
だから対決するような音楽ではない場合には、小さな音で聴かれたのだろう。
それでは、なぜ、岩崎先生は対決されたのか、が残る。
小さな音量で、小さい音をはっきりと聴きとるには、スピーカーに近づけば、いい。
たしか、そんなことを以前、どこかに書かれていた。
ということは、岩崎先生にとって大音量は、
小さい音(細かいところ)まではっきりと聴きたいためだけではないことがわかる。
なんのための大音量なのか、を、あらためて考えてみたい。
ステレオサウンド 38号で語られている。
「インストゥルメンタルのときは、確かに普通のひとよりも大きな音量で聴いています。かなり昔からそうです。たとえば、ジャズを聴くのだったら、15インチのスピーカーでなければ絶対にダメだと、ずいぶん昔から思っていた。」
そして38号の訪問記事のなかには、こうある。
*
大音量で鳴らされるジャズに、しばらく耳を傾ける。いや、その音は、耳を傾けるなどという趣きではなく、ただひたすら聴いているほかにはいかなるてだてもないほどだ。しかし、雑念を浮かべることさえ不可能なその大音量ぶりは、官能的といいたいような快感をよびおこしてくれたのである。