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Date: 11月 8th, 2011
Cate: ロマン

ある写真

スティーブ・ジョブズがオーディオマニアであることは、けっこう前から知っていた。
とはいえ、ジョブズがどんなシステムで聴いていたのかは、すぐにはわからなかった。
それからしばらくして、なにかで読んだ記憶があるが、スピーカーシステムはマーティン・ローガン、
アンプはスペクトラムを使っている。1990年代半ばごろのことだったと思う。
でも、これもかなり曖昧な記憶で時期も機器についても違っている可能性もある。

2006年にAppleからiPod HiFiが出た。
この発表のときに、ジョブズはオーディオマニアだったことを語っている。
そして、それまで使ってきたオーディオ機器を、iPod HiFiに置き換えた、とも。

ジョブズが2006年までマーティン・ローガンのスピーカーシステムを使っていたのかどうかもわからない。
オーディオマニアということ以上の情報はほとんど得られなかった。

いま書店には、ジョブズに関する本が並んでいる。
自伝も出ている。Mac関係の雑誌でも、ジョブズを特集として組んでいるものがいくつもあった。
ムックもいくつか出ている。

AERAムックとして「スティーブ・ジョブズ 100人の証言」に、1982年12月当時のジョブズの写真がある。
自宅のリビングルームの床に直に坐っているジョブズのうしろには、オーディオ機器がある。
というよりも、そのリビングルームはまるで引越してきたばかりなのか、と思わせてしまうほどに、
オーディオ機器以外のモノはレコードだけしかない。
椅子もない。

このリビングルームで床の上に胡座をかいてジョブズは、スピーカーと向き合っていたのだろうか。

暗い部屋のなかでとられた、この写真は細部ははっきりしない。
スピーカーシステムはアクースタットのModel 3だということはすぐにわかる。
ネットの色は、日本で一般的だった黒ではなく白。
プレーヤーはジャイロデック。1982年12月の写真だから、CDは2ヵ月前に日本で発表されたばかり。
だからCDプレーヤーは、ジョブズの部屋にはない。

はっきりと判別できるのは、これだけだ。
ジャイロデックのとなりにアンプが置いてある。
ちなみにジャイロデックもアンプも、床に直置きのようだ。

アンプはいったいなんだろう、と1時間ほど記憶を掘り起こしていた。
こういうパネルフェイス、というよりもツマミの配置のアンプ、それもコントロールアンプとなると……。
スピーカーがアクースタットということからも、ほほ間違いなくビバリッジの管球式のRM1/RM2ではないかと思う。

この写真の頃、1955年生れのジョブズは27歳。
AppleでMacintoshの開発に取り組んでいたころ。

Date: 11月 7th, 2011
Cate: 瀬川冬樹
1 msg

「古人の求めたる所」

私がaudio sharingをつくろうと決意したときにも、
「いまさら瀬川冬樹なんて」という人がいた。
私が、このブログを始めたときにも、「いまさら瀬川冬樹なんて」という人がいた。

いまもそういう人はいる。
このあいだも、私に直接「瀬川さんも岩崎さんも、たいしたことない」と言った人がいる。
私よりも年配の人だ。
その人がそんなことを口にする理由はおおよそ想像できるが、
それよりもこの人は「古人の跡」しか見ることのできない人なのだと思う。

松尾芭蕉の「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」は、
その人にはまったく関係のないことなんだろう。

結局「古人の跡」を求めることすらせず(できず)、ただ見ているだけにすぎない。
瀬川先生は今日(11月7日)で没後30年が経つ。
岩崎先生は1977年に亡くなられているから34年が経っている。

30年前に瀬川先生、岩崎先生がやってこられたオーディオと、
いま自分がやっているオーディオとを比較しての「いまさら……」だったり、
「たいしたことない」という言葉のように思えてならない。

「古人の求めたる所を求めよ」を肝に銘じていれば、
「いまさらも……」も「たいしたこと」も、口にできない。
だから、こんなことを平気で口にする人のことなんて、もうどうでもいい。

30年前、瀬川先生は、岩崎先生がオーディオに求められていたこととは、何だったのか。
それを、あなたも求めなさい、とは言わない。
だが、それを見つけ見つめることは、大切なことだといいたい。

Date: 11月 6th, 2011
Cate: JBL

なぜ逆相にしたのか(その9)

バックプレッシャー型のコンプレッションドライバーの構造図を頭に思い浮べていただきたい。
ダイアフラムが前(ホーンに向って)に動くのと、後ろに動くのとではどちらが反応がはやく動くであろうか。

ドーム状のダイアフラムの頂点は後ろを向いている。
それにホーンがついている分だけの空気圧がある、などを考えると、
ダイアフラムが後ろに動くことが、前に動くよりもスムーズに素早く動くように思う。

つまり位相は逆相になってしまうが、入力信号の最初の部分(半波)に関しては、
バックプレッシャー型のコンプレッションドライバーは後ろに動いた方が自然な動作のようにも感じる。
後ろに下ったダイアフラムは入力信号の次の半波によって前に出てくる。

この前に出てくるときの移動距離(振幅量)は、正相と逆相では違ってくる。
正相になっていれば入力信号の半波分(+側の信号)の振幅だけに前に動く。
逆相だと最初の半波の分だけ後ろに下っていて、前に出るときは次の半波分の振幅がそこに加わり、
このときのダイアフラムの正相よりも前に移動する距離(振幅量)は長くなる。
それだけ前に出てくる空気の量にも違いが出てくる。

正相であればまずダイアフラムが前に出て後ろに下る、この距離が逆相よりも長くなる。
すこしわかりにくい説明になっていると思っているが、
正相でも逆相でも入力信号が同じだからダイアフラムの振幅量に変化はないわけだが、
その向きに違いが出てくる、ということをいいたいわけだ。

もちろん入力信号1波で動く空気の量そのものに、正相でも逆相でも違いはないけれど、
その方向に注意を払ってこまかくみていくと、疎密波の密の部分と疎の部分の空気量に違いが出てくる。
つまりダイアフラムが前に出ることで密の波がうまれ、後ろに下ることで疎の波ができる。

入力信号が0から+側にふれてマイナス側にふれて0にもどるとき、
正相だとまず0から+側のピークまでの密の波が出て、+側のピークから−側のピークまでの疎の波が出て、
−側のピークから0までの密の波が出てくる。
逆相では0から+側のピークまで疎の波が出て、+側のピークから−側のピークまでの密の波が出て、
−側のピークから0までの疎の波が出てくる。

ダイアフラムの向きは正相だと前・後・前、逆相では後・前・後。
疎密波で表せば、正相だと密・疎・密になり、逆相だと疎・密・疎となる。

Date: 11月 6th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(その3)

優秀録音と名録音をあえてわけるならば、
スピーカーシステムも、優秀なスピーカーシステムと名スピーカーシステムと呼べるものがある。

名スピーカーシステムと呼べるモノの数は少ない。
これに関しては、別項の「名器、その解釈」でこれからふれていく予定である。
すべての現代スピーカーシステムが優秀なスピーカーシステムではないけれども、
その数は名スピーカーシステムよりも、ずっと多い。

優秀であること、とはどんなことなのか。
優秀という言葉は、最優秀という言葉があることからもわかるように、
他のものと比較して優れている、秀でている、ということではないだろうか。

同じ価格帯のスピーカーシステムの中で、物理特性面でも実際に音を聴いても、
その他多くのスピーカーシステムよりもすこし上のレベルにあれば、それも優秀なスピーカーシステムといえる。
もちろん、そこには「ある価格帯での」という条件がつくにしても、
優秀スピーカーシステムは、他のスピーカーシステムよりも優れている。

それから時代ということも関係してくる。
ある時代における優秀スピーカーシステムは、
その時代の他のスピーカーシステムと比較しての優秀さを認められてのことであり、
そういう優秀スピーカーシステムが、次の時代でも優秀スピーカーシステムであるとはいいがたい。

たとえば演奏家にも、優秀な演奏家と呼ばれる人もいるし、名演奏家と呼ばれる人もいる。
ピアニストであれば、ピアニストとしてのメカニック・テクニック面が優れていれば優秀なピアニストであり、
ピアノ・コンテストで優勝すれば、
それは、少なくともそのピアノ・コンテストのなかでは最優秀ピアニストということになる。

世界的に知られているピアノ・コンテストもあれば、地域での小さなピアノ・コンテストもあり、
それぞれのピアノ・コンテストでそれぞれ最優秀ピアニストが誕生している。
いまピアノ・コンテストだけに限ったとしても、
世界中でどれだけのコンテストが行われているのかまったく想像つかないが、おそらく相当な数だと思う。

毎年、相当な数の最優秀ピアニストが誕生していても、
彼らのすべてが名ピアニストと呼ばれるようになるわけではない。
国を越えて時代を越えて、同時代でも世代をこえて、
多くの人から名ピアニストと呼ばれるピアニストはほんの一握りの人たちだけだ。

名スピーカーシステムもそれに近いモノであるわけで、
私がADAMのColumn Mk3を「いいスピーカーシステム」と呼ぶ理由はここにあり、
「いいスピーカーシステム」は、名スピーカーシステムに次ぐ褒め言葉として、私は使っている。

Date: 11月 6th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その42)

このブログの個々の投稿へのリンクを、facebookで私が管理人をやっている非公開のページからはっていて、
そこでも、私の個々の投稿へのコメントができるようになっている。

非公開ということもあってか、ブログへのコメントはfacebookにていただくことが多い。
昨夜の、この項の(その41)に関しても、コメントをいただいた。
私が見逃していたことである。

ハーフ・スピード・カッティングにおいて、
カッティング時にカッター針からラッカー盤に伝わった熱が冷める時間は稼げる、と書いた。
コメントには、逆に通過時間が半分になるため局所的に加わる熱量は多くなるのでは? ということだった。

ゆっくりカッティングされるということはカッター針がゆっくり通ることであり、
それだけラッカー盤に加わる熱量は増すことになるだろう。
ただ実際にはどうなのか、とも思う。

レコード会社のカッティングエンジニアもそのことに気がついていて、
ハーフ・スピード・カッティングにおいてカッター針がゆっくり通るのであれば、
もしかするとカッター針に取りつけてあるヒーターの温度設定を低くしている可能性が考えられるからだ。

実際のカッティングの現場ではどうだったのだろう。

Date: 11月 5th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その41)

レコードのカッティングの経験は、当然のことだけど一度もない。
だから、カッティングに関する音のこととなると、断片的なことからもうほとんどすべて想像するしかない。
だからどうも堂々巡りのようになってきているな、と自分でも感じつつ、
それでもハーフ・スピード・カッティングについては優れた方式であるんだろうけども……、という思いが拭えない。

ハーフ・スピード・カッティングではなく、通常のスピードでのカッティングのほうがいいのではないか。
どうしてもそう思ってしまうのは、なぜなのか。

速度はエネルギーである。速度が増せばエネルギーは増すことになる。
アナログディスクの場合、再生の速度は毎分33 1/3回転だから、
カッティング時にハーフ・スピード・カッティングであろうと、33 1/3回転でのカッティングであろうと、
再生条件が同じならば、そのディスクから得られるエネルギー量は同じであるはず。
ならば、より正確にカッティングできるであろうハーフ・スピード・カッティングが理屈としてはいい。

ダイレクトカッティング盤でもプリエコーが生じるのは、後からカッティングされる音溝によって、
前にカッティングされている音溝をわずかとはいえ変形させるからであり、
これはゆっくりカッティングしていけば、変形の度合いは少ないはずだ。

カッター針にヒーターが取りつけられているため針が温められ、
その熱はラッカー盤にもうつる。そしてしばらく冷えるのに時間がかかるはず。
まだ熱が残っているとき、つまりラッカー盤が多少なりとも柔らかくなっているときに
隣接する溝に大振幅の信号が刻まれたら変形するであろうことは、容易に想像できる。

ハーフ・スピード・カッティングでは通常の半分の速度で回転しているわけだから、
ラッカー盤の温度が下るまでの時間的余裕が、通常よりも倍ある。
これだけでも変形の度合いは減ると思われる。

とするとハーフ・スピード・カッティングがよいはずなのに、
マーク・レヴィンソンは、ステレオサウンド 45号のインタヴューで、
ハーフ・スピード・カッティングの方が優れた面があるとしながらも、
その時点ではハーフ・スピード・カッティングを行っていてない、と語っている。

この記事からは、その理由は読みとれない。
なぜレヴィンソンはハーフ・スピード・カッティングを行わなかったのか。

Date: 11月 4th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(その2)

ずっと以前のオーディオ雑誌、レコード雑誌に載っていたレコード評の多くは、
演奏評と録音評とにわかれていた。

これもよく考えてみれば奇妙なことで、レコード評であるならば、
そしてそこにおさめられている音楽を評価するのであれば、演奏と録音を切り離して捉え評価すること自体に、
本来無理がある、ということはわりと指摘されていたことでもある。

レコード評は本来演奏と録音は密接不可分な関係であるだけに、
「このレコードは演奏はつまらないけれども、録音は素晴らしい」ということはありえない。
レコード評とはそういうものだと考えていても、
やはりつい「演奏は……」といったこともを口にしてしまうこともある。

こんなことをふと思い出したのは、太陽インターナショナルのブースでADAMのスピーカーシステムを聴いたからだ。

昨夜書いているように、ADAMのColumn Mk3よりも優秀なスピーカーシステムはいくつかある。
そういうスピーカーシステムとの比較となると(そういうスピーカーシステムは往々にして非常に高価だ)、
値段の違いを感じさせないわけではない。
Column Mk3よりも、オーディオ的に能力の高いスピーカーシステムを優秀なスピーカーシステムとしたら、
Column Mk3は、やはり「いいスピーカーシステム」と呼びたい。

レコードの録音について、優秀録音と名録音とがある。
このふたつはまったく同じものかというと、そうではない。
人によってことばの捉え方、定義は異ってくるから、
優秀録音と名録音をまったく同じものとして使っている方もいるけれど、
私のなかでは、このふたつの録音のレコードで、愛聴盤となっていくのは名録音だけである。
優秀録音盤が愛聴盤となることは、ない。

それは私のなかでは優秀録音とは、つまり「録音はいいけど、演奏は……」というものだからだ。

Date: 11月 3rd, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(その1)

インターナショナルオーディオショウには約180のブランドが集まっているそうで、
それらすべて聴くことは時間的に無理があるし、気に入った音が鳴っているとついそのブースに留まってしまうと、
聴き逃してしまうモノのほうが多いかもしれない。

そういうなかで今年最も印象に残ったのは、ドイツのADAMのスピーカーシステムだった。
輸入元の太陽インターナショナル(元・大場商事)のブースの扉をあけたときに耳にはいってきた音が、
印象に残った。
素直に、いい、と思える鳴り方をしている。
何が鳴っているのかとスピーカーシステムの方をみると、初めてみるトールボーイの、
わりと素っ気ない外観の、しかもそれほど高価ではないだろうと思われるモノが立っていた。

私が聴いたのは、3機種ある中のトップ機種のColumn Mk3
価格はペアで税込み1,008,000円。

Column Mk3よりずっと高価なスピーカーシステムはいくつもある。
優秀なスピーカーシステムも、やはりいくつかある。
でも、Column Mk3は、素直に、いいスピーカーシステムと呼べる素性がある、と思う。

太陽インターナショナルのブースの扉をあけたとき耳にはいってきたのは、トランペットの音だった。
聴いた瞬間に、マイルス・デイヴィスだと、マイルス・デイヴィスの熱心な聴き手でない私の耳でも、
はっきりとわかる音を響かせていた。
しかもかけられていたディスクは、私は持っていないマイルス・デイヴィスのディスクだった。
にも関わらず、マイルス・デイヴィスのトランペットだ、と瞬間的に感じさせてくれる表現力をColumn Mk3は、
確実に持っている。

よく聴いている演奏家のディスクが鳴っていても、
いったい誰の演奏なのだろうか……と考え込ませるような音が鳴っていることも意外と多い。
この理由については、あえてここではふれないが、
そういう音があるなかで、ADAMのColumn Mk3は、確実に音楽を捉え鳴らしてくれている。
Column Mk3よりも優秀なスピーカーシステムは、たしかにある。
けれど、音楽を信頼できる音で鳴らしてくれるColumn Mk3より、
いいスピーカーシステムとなると、意外とすくないのが現状かもしれない。

Date: 11月 2nd, 2011
Cate: ユニバーサルウーファー

スーパーウーファーについて(その15・続×五 余談)

低音は土台であり基本である。
そして「型」だとも思う。

型(かた)は、武道や芸道、スポーツなどで規範とされる一定の体勢や動作であり、
これを身につけることから、武道、芸道、スポーツははじまる。

型を身につけるための精進を怠れば、結果はみえている。
武道の達人による型と、素人が見様見真似でそっくりにまねた型とでは、
それにだまされる人もいるかもしれないが、見る人がみれば歴然とした違いがあり、
見様見真似の型はすぐに見破られることになる。

構えという型であっても、つまり静止している型であっても、それほど違う。
そこに動作が加わった型であれば、違いはさらに歴然となり、大きく隔たったものになってくる。

武道で型を身につけずに技を身につけることは無理なはず。

オーディオにおける低音は、この「型」でもある。

型の完成というのがあるのかどうかは私にはわからない。
けれど必要なレベルの型を身につけなければ(これが基礎)、
そこから先は存在しないことと同じではないだろうか。

型を身につけ技を身につけ、型をさらに磨いていく。
型をこえていくためには型を身につけなければならない。

結局、型に始まり型に終る、ということなのだろうか。
そうだとしたら、低音に始まり低音に終る、ということになる。

Date: 11月 1st, 2011
Cate: 中点

中点(消失点・その1)

2チャンネルのステレオは、モノーラル再生を水平(左右)方向に拡大している。
その2チャンネルのステレオがうまく鳴ったときに、われわれは奥行き感といったものも感じられる。

けれど2チャンネルのステレオは、あくまでも水平方向への拡大であるから、
完全な立体音源とはいえない。

完全な立体音源であるための理屈では、水平方向も左右だけでなく前後への拡大が最低でも必要となり、
さらには垂直方向への拡大も求められる。
にも関わらず、左右のスピーカーシステムの中央に歌手が定位すれば、
その歌手のボディの厚みさえ感じられることすらある。

これは考えれば不思議なことでもある。
なぜそう聴こえるのか、感じるのか。
もっといえばそう感じられる録音もあれば、そう感じられない録音もあるし、
そう感じられる録音のディスクをかけたとしても、そう感じられる音もあれば、そう感じられない音がある。

この違いは、なぜ起るのか。
なにに関係していることなのだろうか。

左右のスピーカーシステムあいだに架空の透明のキャンバス(もしくはスクリーン)が存在しているとすれば、
それは消失点(vanishing point)の有無なのだろうか……。
そんなことを考えている。

Date: 10月 31st, 2011
Cate: audio wednesday

第10回公開対談のお知らせ(瀬川冬樹を語る)

11月2日の公開対談は、都合により私ひとりで、瀬川先生について話すわけだが、
「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」、
この松尾芭蕉のことばを念頭におき話していければと思っている。

Date: 10月 31st, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その40)

927Dstでかける12インチ・シングルの音は、凄さを増すのか、といえば、たしかに増す。
けれど930stで聴いたときの33 1/3回転のLPと12インチ・シングルの音の差が拡大されるわけではない。
同じくらいの差というよりも、どちらかといえばその差がすこし縮まっているようにも感じた。

12インチ・シングルを十全に鳴らしきれなかったのではなく、
33 1/3回転の通常のLPの音がこちらの予想以上に凄みを増す鳴り方のものだから、
927Dstでかける12インチ・シングルの音はやはり凄いけれども、
音に対する感覚は決して直線的ではないためなのか、なんとなく縮まって聴こえた、そんな印象だった。

ケイト・ブッシュの12インチ・シングルは、確認したわけではないけれど、
ハーフ・スピード・カッティングではないはず。
45回転でのカッティングだと思う。

音のエネルギーには、勢いが関係していると、感覚的には捉えてしまう。
勢いこそがエネルギーだ、といいたくなるわけだが、勢いはときに正確さを損なうこともある。

レコードの製作には、まずラッカー盤がカッターヘッドによってカッティングされる。
ラッカー盤を削って音溝を刻んでいくわけだが、
刻み込む際に勢いよく刻んでいくのか、それともじっくり慎重に刻んでいくのか。

勢いよく刻んでいくのが、再生時の回転数と同じ回転数でのカッティングであり、
じっくり慎重に刻んでいくのが、再生時の回転数の半分の回転数(ハーフ・スピード)でのカッティングである。

ラッカー盤に音溝を刻んでいくカッター針にはヒーターがとりつけられている。
ヒーターによって針を温めることでスムーズに溝を刻んでいくためである。
つまりそれなりの抵抗が生じているわけである。

カッティング時の、この抵抗に対して、勢いで刻んでいくのか、ゆっくり刻んでいくのか。
このふたつは、ずいぶん違う結果を生むように感じている。

カッターヘッドに送りこまれる信号が同じなのだから、
カッティング時の回転数には関係なく同じに音溝が刻まれているはずなのだろうが、
この項で以前書いているように、カッティング時に生じるプリエコー、アフターエコーの問題があるということは、
カッティング時の回転数の違いは、音溝の形に微妙な違いを生じさせていても不思議ではない。

Date: 10月 30th, 2011
Cate: Bösendorfer/Brodmann Acoustics, VC7

Bösendorfer VC7というスピーカー(その27)

ホールにはいったときに感じられる空気感は、ある種の音響的バイアスのようなものであり、
この音響的バイアスを再現できるスピーカーシステムと、そうではないスピーカーシステムがある。

再現できる、とつい書いてしまったが、
正しくは音響的バイアスを有するスピーカーシステムとそうでないスピーカーシステムがある、
としたほうが、じつのところ、より正確かもしれない。

つまり音響的バイアスは、スピーカーシステムがつくり出す演出的なもの、という捉え方もできよう。
タンノイのオートグラフは、まさにそういうスピーカーシステムであった、と思う。

音響的バイアスはプログラムソースに完全なかたちで収録されているであれば、
スピーカーシステムの演出による音響的バイアスに頼ることはないわけだが、
うまく収録されている録音もあればそうでない録音もあるだろうし、
まなじ、こういう音響的バイアスはないほうがすっきりしていていい、と思う人もいるし、
聴く音楽のジャンル(性質)によっては、よけいな響きというふうに認識されてしまうだろう。

音響的バイアスに対する評価は、人によってそれこそ大きく違ってこよう。
音響的バイアスを求める人にとって、VC7は貴重な存在といえる。
私にとっては、そういう存在のスピーカーシステムである。

VC7登場以前、音響的バイアスを再現(演出)してくれるスピーカーシステムは、
大口径ウーファー搭載のフロアー型スピーカーシステムばかりだった。

もちろん大口径ウーファー・大型フロアー型であれば……というわけではなく、
なかなかうまく再現してくれるスピーカーシステムはなかった。

小型スピーカーシステムにも優れたモノはいくつもある。
そういうスピーカーシステムには心情的にも惹かれるところがあるけれど、
音響的バイアスに関しては、まず無理だと思っていた。
なのにVC7は、じつにこの音響的バイアスを、VC7なりに自然に再現しているように思う。

Date: 10月 29th, 2011
Cate: ワイドレンジ

ワイドレンジ考(ジャズにとって、クラシックにとって・その3)

ジャズもクラシックも生身の人間が楽器から音をひき出して生れるものである。
どちらも肉体運動の結果としての音が生れている。
つまり音を発するためには、なんらかのエネルギーが費やされていて、
そのエネルギーゆえの音の存在を、私はクラシックにおいてもジャズにおいても感じとりたい。

その意味では、私がオーディオに関心をもち始めたころ(1970年代後半)まで
オーディオ誌でわりとよくみかけていたクラシック向き、とか、ジャズ向き、
といったスピーカーシステムの音の区分けは゛私にとってはどうでもいいこと。

エネルギッシュな音がするからジャズに向いている、
きれいな音が弦に向いているクラシックだ、とか、
いまもそういうふうにスピーカーシステムの音を捉えている人はほとんどいないと思う。
でも、こういうことが以前はいわれていた。

ジャズもクラシックも、アクースティック楽器を演奏しているかぎりは、
演奏者のエネルギーといったものを、音から感じとりたい。
音のエネルギーの総量ということでいえば、オーケストラによる演奏があるクラシックのほうが大きい。

ただオーケストラのエネルギーの総量を、
リスニングルームでそのまま再現することは基本的には無理のあることだから、
響きの美しさの再現が重視されるということはあるかもしれないし、
編成の小さなジャズであれば、ある程度の音量が許される環境であれば、
エネルギーの再現に関しては、ほぼリアルにもっていくことも無理なことではない。

そういうこともあって、ジャズのほうがエネルギーの再現が、
クラシックにおいてよりも重視されがちなのかは理解できなくもないが、
それでも、私はクラシックにおいても、十分なエネルギーを、その音に感じとりたい。
そうでなければ、カザルスが指揮するベートーヴェンを聴く意味がない、とまでいいたくなる。

演奏される場においては演奏者のエネルギーが充ちている、ともいえるし、
そのエネルギーの充ちた感じをできるだけ、自分が音楽を聴く環境でも再現したいのは、
ジャズであろうがクラシックであろうが同じではあるが、違いもやはりある。

そのエネルギーが、音楽のどこに、主に注入されているのか、費やされているのか、ということだ。
そしてエネルギーの表出のされ方の違いもある。

ここにおいて、ジャズとクラシックでは、私のなかでは「いろ」と「かたち」ということになる。
つまりクラシックにおいては、音の造形物のためにおもにエネルギーが費やされ、
ジャズにおいては、一瞬一瞬の情報量(いろ)のために費やされる──、
あくまでもこれは大きくわけたとすれば、ということではあるし、
すべてのクラシックの音楽、演奏家のスタイル、すべてのジャズの音楽、演奏家のスタイルが、
「かたち」と「いろ」のふたつにはっきりとわけられるものではないし、
ジャズでもそこでのエネルギーが「かたち」に、
クラシックでもそこでのエネルギーが「いろ」に費やされることもあるのは承知のうえで、
それでもやはりクラシックでは「かたち」、ジャズでは「いろ」にエネルギーが費やされている、と感じる。

Date: 10月 29th, 2011
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(続×五・音楽の聴き方)

サウンドステージ誌に書いたことがある。
シュヴァルツコップのモーツァルトのK.505について書いている。

そこでも、純粋性について書いた。
18年前に書いたことを、いまも思う。

生きていれば、それだけいろんなことがある。
いろんなことがあったからこそ、涙する音楽をもち得る。

だからくり返し聴く。