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Date: 8月 17th, 2011
Cate: アナログディスク再生
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私にとってアナログディスク再生とは(その26)

レコードの偏芯による音質の劣化に注目したアナログプレーヤーが、いまから30年前に存在していた。
ナカミチのTX1000というトーンアーム・レスのアナログプレーヤーである。

TX1000の最大の特徴は、アブソリュート・センター・サーチ・システムと名づけられた独自の機構で、
アナログディスクの最終溝(音が刻まれている溝とレーベルの間にある無音溝)を、
トーンアームの対面にもうけられたセンサーアームがトレースして偏芯の具合の検出、補整するもの。
この機構・機能の大前提は、最終溝が真円であるということ。
最終溝が真円でなかったら……、という疑問はあるけれど、
実際にTX1000で芯出しを行う前と行った後の音を比較すると、はっきりとした効果がある。
もちろんレコードがうまくぴたっと芯が合って収まっているときは効果はないわけだが、
ズレが大きいほど当然だが音の変化も大きい。

TX1000がこの芯出し作業を行い終えるまで、たしか10秒近くかかっていたと思う。
この10秒間を、どう受けとるのか、人によってさまざまのはず。

思い出すのはデュアルのアナログプレーヤーの1219のことだ。
この1219はいわゆるオートプレーヤーで、
スタートスイッチをおしてカートリッジがレコード盤面に降りて音が出るまでに約20秒の時間がある。
この20秒を、黒田先生は「黄金の20秒」といわれていた。

聴きたいレコードを1219にセットしてスタートスイッチを押す。
そして椅子にかけて音が出るのを待つ。20秒の時間があれば、多少プレーヤーと椅子のあいだが離れていて、
あわてることなくゆっくりと椅子にかけて、ゆっくりと音楽が始まるのを待てる。
これについては、「聴こえるものの彼方へ」所収の “My Funny Equipments, My Late Friends” に書かれている。

黒田先生は、この20秒を、短すぎず長すぎず、黒田先生にとってはグッドタイミングであったのだが、
まったく違う受けとめかたをされていたのが、瀬川先生である。

Date: 8月 17th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(補足)

(その26)を書く前に、ひとつ書いておきたいことがある。
アナログディスクの取扱い、カートリッジの取扱いに長けていらっしゃる方は読み飛ばしてくださってほしいが、
ときどきアナログプレーヤーの操作に慣れていないのか、カートリッジを大切にしすぎてのことだろうと思うが、
カートリッジをレコードの盤面に降ろす、ということを少し誤解されているのではないか、と思うこともある。

カートリッジをレコードの盤面に降ろす、ということは、文字通り、降ろす、である。
つまりカートリッジをレコードの盤面近くに近づけたら、ヘッドシェルの指かけから指を離して、
カートリッジを自然落下させる、ということだ。
もちろんレコードの盤面とカートリッジのあいだが離れすぎていては、どちらも傷めてしまうことになるが、
大事に思う気持がいきすぎてしまい、
カートリッジの針先がレコードの溝にふれるまでヘッドシェルをつかんでしまうことは、
逆にレコードもカートリッジも傷めてしまうことにつながる。

トーンアームの調整──、ゼロバランスをとり針圧をかけた状態では、
針圧が重めであってもヘッドシェルから指を話した瞬間に勢いよくレコードの上に降りることはない。
すーっと降りていくものだ。
だから、ぎりぎりのところで指を離して、
あとはカートリッジの自然落下(といっても、それはほんのわずかだ)にまかせるのが、
カートリッジにとっても、レコードにとっても大切なことである。

そのためにはヘッドシェルの指かけの形状が重要になってくる。
ヘッドシェルの指かけを親指と人さし指ではさむようにもつ人もいるが、このことも気をつけたい。
いい指かけならば、人さし指を軽くあてるだけで、指からすり落ちてしまうことはない。

指かけが弓なりになっているものがあるため、指かけの下に人さし指を入れたくなるけれど、
指かけで大事なのは、指かけの端に人さし指の腹をちょっと押しあてるための小さな突起である。
この突起に人さし指を押しあてて、針を降ろしたい位置までもっていったら、すっと指を後方に逃がすだけでいい。

Date: 8月 17th, 2011
Cate: audio wednesday

第8回公開対談のお知らせ

毎月第1水曜日に行っています公開対談の次回は、9月7日(水)です。
今回から、「幻聴日記」の町田秀夫さんとの対談になります。
対談のテーマは、「音を語る言葉・表現について」です。

時間はこれまでと同じ夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行ないますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 8月 16th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その25)

経験をつむことで、なるほど、レコードの偏芯の具合がリードインのノイズ音でわかるのか、
でもだからといって、偏芯をコントロールすることはできないんだろう……と思われる方もおられるだろう。

ステレオサウンドの試聴室でカートリッジの比較試聴があると、
20機種のカートリッジを1日で取材することになる。
カートリッジをひとつ聴くのに3枚の試聴レコードを使うとしたら、最低でも60回レコードのかけ替えを行う。
カートリッジの試聴はそれだけでは終らない。
針圧を調整して、インサイドフォースキャンセラーの量も変化させて、といった細かい調整をおこない、
限られた時間内で最適の状態で鳴らすようにする。
これがあるためにレコードのかけ替えの回数はさらに増える。
これらの作業は、すべて編集部(私)がやっていた。

ここで大事なのはカートリッジの調整の確かさだけではなく、
レコードの偏芯をどれだけある範囲内におさめることができるかである。
偏芯が大きすぎると、リードインのノイズ音が鳴った瞬間に、鬼の耳の持主といわれた井上先生から、
「ズレが大きいぞ」と指摘される。

これは指摘だけでなく、やり直せ、という意味も含まれている。
カートリッジの試聴には、そのぐらいを気を使う。

やり直す、これも一度で決めないといけない。
こういうことをくり返していると、
少なくともステレオサウンド試聴室にリファレンス・プレーヤーのマイクロのSX8000IIに関しては、
扱い馴れているから、ある範囲内で偏芯を収めることは、じつはそう難しいことではない。

このことはプレーヤーの使いやすさとはなにかとも関係してくることだ。
ターンテーブルプラッターの形状、その周辺のつくりによっては、
このコントロールがやりにくいものがある。かと思うと、
はじめて使うのに、すっと馴染んできて勘どころが掴めるプレーヤーもある。

Date: 8月 16th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その24)

ノッティンガムアナログスタジオのAnna Logで、とにかくまず確認したいことは、
オルトフォンのSPUを取りつけて、そのときのリードインの、あのボッ、とか、ポッとかいうノイズの音だ。
おそらくリードインの音が、これまでSPUをとりつけて聴いてきたいかなるプレーヤーとも異る音がしそうなのだ。

このリードインの音は、アナログディスク再生の経験をじっくりと積んできた人ならば、
このわずかな、短い音だけで、音楽が鳴ってくる前に、ある程度のことを掴むことができる。
しかも、リードインのノイズ音には、ごまかしがない。
たとえこちらの体調が悪くて鼻が詰まっていて、耳の調子もいまひとつ、というようなときでも、
このリードインのノイズ音を注意深く聴き、永年の経験から判断すれば、これだけでも判断を間違えることはない。

たとえばこのリードインのノイズ音でわかることのひとつに、レコードの偏芯がある。
レコードには、スピンドルを通すための孔がある。
この孔の寸法は規格で決っていても、多少の誤差は認められているし、
スピンドルも同じようにメーカーや製品によって多少の寸法の違いがある。

私の経験ではわりとアメリカのLPに多かったのが、
レコード側の孔が小さくてぐっと力をこめないとターンテーブルに接しないものもあったが、
一般的にはレコード側の孔のほうがスピンドルの径よりもやや大きい。
だからスムーズにレコードがおさまるわけだが、レコード側の孔が大きいということは、
スピンドルの中心軸ととレコードの中心が完全に一致するわけではない、ということが起る。
というよりも、なかなか完全に一致することの方が少ない。

完全一致は少ないけれど、それよりも大きく、つまり誤差の範囲で最大限に芯がズレてしまうことがある。
といっても、そのズレ(偏芯)は目で見てわかるレベルではない。
けれど、リードインのノイズ音を聴けば、
どの程度芯があっているのかは、馴れていれば瞬時に判断できるようになる。

Date: 8月 16th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(その35)

使いこなしは、オーディオのシステムを構成するすべてについて、ある。
けれど、やはり使いこなしの醍醐味、難しさはスピーカーシステムにある。

スピーカーはアンプからの電気信号を振動板の動きに変換して空気の疎密波をつくり出す。
はるか昔、はるか場所でマイクロフォンが捉えた音が、ふたたび音に戻るのはスピーカーがあるからだ。

このスピーカーとは、いったい何者(何物、何モノ)なのか?

素気ない言い方をすれば、スピーカーは変換器である。
変換器である以上、より正しい変換器であるべきだ、という考えがある一方で、
オーディオの世界では、スピーカーは楽器だ、という捉え方もつねに存在してきた。

有名なところでは、ソナス・ファベールの創始者のフランコ・セルブリンは、
伝え聞くところによると「スピーカーは楽器だ」と公言している、とのこと。

ただ、私はこの「スピーカーは楽器だ」というセルブリンの言葉は、
ほんとうに正確に伝えられているのだろうか、と思っている。
「スピーカーは楽器だ」の前後には、なにかがあったように思えるからだ。

セルブリンは、彼がソナス・ファベールでつくってきたスピーカーシステムには、
アマティ、ガルネリ、ストラディヴァリと、楽器の名前を使っている。
だから、「スピーカーは楽器だ」が、その方向で受けとられているのではないだろうか。

けれどセルブリンのスピーカー開発の実際の手法をきくと、
「スピーカーは楽器だ」はそう単純なことではないように思えてくる。

Date: 8月 16th, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(その10)

この項のタイトルには「表現する」と入っている。
そしてオーディオでは、そこで鳴っている音は、そのシステムの持主の自己表現だ、という人もいる。
けれど、私は、ここでの「表現する」は自己表現ということではない。

30年以上、オーディオという器械を通して音楽を聴いてきた。
飽きもせずに聴いてきた。これから先も、死ぬまで音楽を聴いていく。
それもナマの演奏会で聴くよりも、ずっと長い時間をスピーカーシステムから出てくる音で聴くことになるはず。

そうやって聴いてきたのは、そして聴きたいのは、作曲家・演奏家を含めた意味での音楽家の「表現」であることは、
これまでもこれからさきも変らぬことである。
オーディオにこれほどのめり込んでいるのは、この音楽家の「表現」をあますところなく聴きたいからである。

そこに「自己表現」が入り込む隙があるのか、という疑問がずっとある。
いまのところ完全・完璧なオーディオ機器はなにひとつない。
デジタル機器と呼ばれるCDプレーヤーにしても、
さまざまな回路が生み出され、素子も進歩しているであろうアンプにしても、
そして100年以上前から基本動作に変化のないスピーカーにしても、世の中にひとつとして同じ音を出すものはない。
これはすなわち、どれも不完全なモノということでもある。

同じメーカーの同じ型番の製品(つまり同一製品)にしても、
複数台並べて厳密に比較試聴していくと、まったく同じ音を出すモノは1台もない。
製造管理のきちんとしたメーカーのものであっても、ごくわずかな差がある。

いまのところ、われわれはそういうモノ同士を組み合わせて、
ナマの演奏会場とは大きさも雰囲気も大きく異る自分の空間で鳴らす。
そこには、不完全という隙がいくつも重なり合うように存在している、ともいえる。

その隙は、なにかで埋めていくものなのか、埋めていくとしたら、そこに自己表現が入っていくのか。

Date: 8月 15th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その13)

五味先生の著書を、いま真摯に読み直してみるといい。
そこに書かれているのは、音場についてのことがすぐに見つかる。
瀬川先生に関しても同じことがいえる。

なにもこのふたりだけではない。
ステレオサウンドのバックナンバーをきちんと読み返せば、音場に関してもきちんと評価の対象となっている。
ただ音場だけを優先して評価していたのではなく、これは日本語の特性とも関係してのことであろうが、
音色についての表現において言葉がより多く費やされることが多かったのは事実だ。

これは音場が量的表現に近く、共通認識をさほど必要としない、ということも関係してのことであろう。
だからといって日本のオーディオ評論が、アメリカよりも進んでいた、といいたいのでなはい。
それに、そういう問題ではない。
それなのに一部の輩は、すぐに日本をけなし、アメリカこそ、と声高に叫ぶ。
どちらか片方だけがすべて良い、なんてことはない。
なぜこんな当り前すぎることが、オーディオをやっているにも関わらずわからないのだろうか。
これが現代的な幼稚性なのか、とも思ってしまう。

Date: 8月 15th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その12)

音場は、音を表現する言葉のなかで、もっとも曖昧性の少ない、
いいかえれば書き手と読み手の間に深い共通認識を要求しない、
そして量的表現にも近い──、そういえるところをもつ。

音場の横方向の広がりはどこまでだとか、前後方向に関しては、さらに上下方向は、などと表現される。
いわばそこに主観的な判断は入りこみにくく、
見えない定規を左右のスピーカーシステムのあいだに形成される音場にあてて測るようなものだ。
よほどひねくれた聴き方をしないかぎり、聴く人によって音場の大きさについての判断がくい違うことはまずない。

それに音場は基本的に左右にきれいに広がり、奥に展開してくのを良し、とする。
これも間違えようがない。

日本の一部のオーディオマニアの中には、日本のオーディオ評論家はずっと音場について語ってこなかった。
それは音場よりも音色を重視したためてあったり、音場に対する感度が低かったからだといって貶める。
そんなことをほざく輩は、アメリカの、たとえばアブソリュートサウンドを非常に高い評価する傾向がある。
それに音場についても、アブソリュートサウンドが、
もっとも早くからステレオ再生における重要性を語っていた、とも。

ほんとうに、そうだろうか。
ステレオサウンドのバックナンバーを、おそらくそんなことを平気でいいふらしている輩は、読んでいないのだろう。
読んでいたとしても、ただ文字を目で追っていただけだろう。

日本でもかなり早い時期から、音の広がり、奥行の再現性については注目している。
とくにモノーラル時代からオーディオに取り組んできた人たちにとって、
ステレオになり何が可能になって、どういう可能性が拓かれたのか、もっとも注目すべきことであり、
そこでモノーラル時代の延長線上に留まる聴き方をする人もいたけれど、
むしろ生れた時からステレオ再生が当り前の時代の人たちよりも、音場に対しては敏感であった人も多い。

Date: 8月 15th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その23)

ウィルソン・ベネッシュのCircleは、実は手もとにある。
いまは別のカートリッジがついているが、エンパイアの4000D/IIIはいちど試してみたいし、
それ以上にこのCircleにとりつけてみたいのは、実のところオルトフォンのSPUである。

いまSPUにはいくつかのグレードがあるが、私が鳴らしたいののはもっともスタンダードなClassic。
当然シェルから取り出してなんらかのスペーサーを介して取りつけることになる。
CircleにSPU? オルトフォンなら、ほかのカートリッジの方がCircleの方向性と添うのではないか。

私もそう思わないわけではないが、いままでEMTがメインだったこともあり、
SPUを自分のシステムで鳴らしたことがない。
ステレオサウンドの試聴室では、SMEの3012Rでの音、SeriesVでの音は、じっくり聴いている。
これらの鳴らし方をSPUらしい鳴らし方とすれば、あえてやや異色な鳴らし方をしてみたい。
だからといって、踏みはずしたような鳴らし方を望んでいるわけではない。
SPUに、SMEのトーンアームと組み合わせた時とは異なるところから、異なる照明をあてることで、
いままで聴き落していたかもしれないSPUの音というのがあれば、それを聴いてみたい、と思っている。
だからSPU Classicを選ぶ次第だ。

そしてこのSPU Classicは、またAnna Logでもじっくり聴いてみたいカートリッジでもある。

Date: 8月 14th, 2011
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その48)

試してもいないのに断言するが、タンノイ・ヨークミンスターとユニゾンリサーチのP70はうまくいく。
では、プレーヤーはどうするのか、アナログ、CDともに、何を選ぶのか……。
でも、その前にひとつ思うことがある。

これを秋が深まってきた頃に書いていれば思ったりしなかったことだが、
こうも暑い日が続いていると、P70の放出する熱だけでなく、
その音にしても、さすがにこの暑さのなか聴くのは、
時としてしんどく感じるだろう(たとえそこまで感じなくても少し敬遠したくなるだろう)。

となると夏の季節だけヨークミンスターを鳴らすアンプが欲しくなる。
真空管アンプではなくて、トランジスターアンプ。
セパレートアンプではなくて、これもプリメインアンプにしたい。
さらっとした微粒子の肌あいをもった音であってほしい。

こんな条件を充たしてくれるものとして浮んできたのは、コード(CHORD)の、
以前の聴く機会のあったCPM2600だ。
だがすでに製造中止になっていて、現在コードのプリメインアンプはCPM2800、1機種のみ。
価格は、税込みで100万と8千円。P70との価格差はけっこうなものがある。
CPM2600よりもけっこう高くなっている。
ただCPM2600にはなかったD/Aコンバーターが搭載されている
デジタル入力は同軸、TOSリンクのほかに、USBとBluetoothをもつ。
いまどきのプリメインアンプの形態になっているわけだが、
内蔵D/Aコンバーターがどういうものなのか、輸入元タイムロードのサイトをみても詳細はわからない。
同社の単体D/AコンバーターのDAC64、その後継機種のQBD76に準じるものであれば、
暑い日がつづく、この季節用の音として、より希望に添うものになってくれる可能性は十分にあり、
そうなるとCDプレーヤー選びは、P70との併用を考えて、ということになってくる。

Date: 8月 14th, 2011
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その47)

真空管アンプは、使用されている真空管を自分で選別していくことで、より自分のモノとしていくことができる。
メーカーは補修パーツとしてある一定数以上同じ真空管を保管しておく必要があるため、
音質的に真空管全盛時代につくられたモノがよかったとしても、
それを正規の部品としての採用は難しいところがある。

それはしかたのないことだし、それに真空管はハンダ付けによって固定されているわけではないから、
その交換は手軽にできる。使い手側の楽しみでもある、といえよう。
もっとも手軽にできるのは抜いたり挿したりの行為までで、ほんとうに満足できる真空管を探し出すまでには、
けっこうな時間とお金を必要とすることになる。
特に出力管はプッシュプルだと特性の揃っているものにしたい。
それは精神衛生上だけでなく、音の上からでもそうしたい。
音のにじみみたいなものが、よく揃った真空管同士のペアではあきらかに減っていく。

五味先生はマッキントッシュのMC275の真空管の交換について、書かれている。
     *
もちろん、真空管にも泣き所はある。寿命の短いことなどその筆頭だろうと思う。さらに悪いことに、一度、真空管を挿し替えればかならず音は変わるものだ。出力管の場合、とくにこの憾みは深い。どんなに、真空管を替えることで私は泣いてきたか。いま聴いているMC二七五にしても、茄子と私たちが呼んでいるあの真空管——KT88を新品と挿し替えるたびに音は変わっている。したがって、より満足な音を取戻すため——あるいは新しい魅力を引出すために——スペアの茄子を十六本、つぎつぎ挿し替えたことがあった。ヒアリング・テストの場合と同じで、ペアで挿し替えては数枚のレコードをかけなおし、試聴するわけになる。大変な手間である。愚妻など、しまいには呆れ果てて笑っているが、音の美はこういう手間と夥しい時間を私たちから奪うのだ。ついでに無駄も要求する。
挿し替えてようやく気に入った四本を決定したとき、残る十二本の茄子は新品とはいえ、スペアとは名のみのもので二度と使う気にはならない。したがって納屋にほうり込んだままとなる。KT88、今一本、いくらするだろう。
思えば、馬鹿にならない無駄遣いで、恐らくトランジスターならこういうことはない。挿し替えても別に音は変わらないじゃありませんか、などと愚妻はホザいていたが、変わらないのを誰よりも願っているのは当の私だ。
だが違う。
倍音のふくらみが違う。どうかすれば低音がまるで違う。少々神経過敏とは自分でも思いながら、そういう茄子をつぎつぎ挿し替えて耳を澄まし、オーディオの醍醐味とは、ついにこうした倍音の微妙な差意を聴き分ける瞬間にあるのではなかろうかと想い到った。数年前のことである。
     *
この時代KT88は現役の真空管だったし、いまよりも良質のものが入手できていて、これである。
いまもしP70の出力管をKT88に置き換えて、五味先生と同じことをやろうとしたら、
いったいどれだけのKT88を用意することになるだろうのだろうか。
そしていくらするだろうか。

でも、そういうふうに丹念に真空管を選別していくことで、ヨークミンスターの音は磨かれていくはずだ。

Date: 8月 13th, 2011
Cate: 40万の法則, D130, JBL, 岩崎千明

40万の法則が導くスピーカーの在り方(D130と岩崎千明氏・その11)

空気をビリビリと振るわせる。
ときには空気そのものをビリつかせる。

「オーディオ彷徨」とHIGH-TECHNIC SERIES 4を読んだ後、
私の裡にできあがったD130像が、そうだ。

なぜD130には、そんなことが可能だったのか。
空気をビリつかせ、コーヒーカップのスプーンが音を立てるのか。
正確なところはよくわからない。
ただ感覚的にいえば、D130から出てくる、というよりも打ち出される、といったほうがより的確な、
そういう音の出方、つまり一瞬一瞬に放出されるエネルギーの鋭さが、そうさせるのかもしれない。

D130の周波数特性は広くない。むしろ狭いユニットといえる。
D130よりも広帯域のフルレンジユニットは、他にある。
エネルギー量を周波数軸、時間軸それぞれに見た場合、D130同等、もしくはそれ以上もユニットもある。
だが、ただ一音、ただ一瞬の音、それに附随するエネルギーに対して、
D130がもっとも忠実なユニットなのかもしれない。
だからこそ、なのだと思っている。

そしてD130がそういうユニットだったからこそ、岩崎先生は惚れ込まれた。

スイングジャーナル1970年2月号のサンスイの広告の中で、こう書かれている。
     *
アドリブを重視するジャズにおいては、一瞬一瞬の情報量という点で、ジャズほど情報量の多いものはない。一瞬の波形そのものが音楽性を意味し、その一瞬をくまなく再現することこそが、ジャズの再生の決め手となってくる。
     *
JBL・D130の本質を誰よりも深く捉え惚れ込んでいた岩崎先生だからこその表現だと思う。
こんな表現は、ジャズを他のスピーカーで聴いていたのでは出てこないのではなかろうか。
D130でジャズで聴かれていたからこその表現であり、
この表現そのものが、D130そのものといえる。

Date: 8月 13th, 2011
Cate: 40万の法則, D130, JBL, 岩崎千明

40万の法則が導くスピーカーの在り方(D130と岩崎千明氏・その10)

私は、ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 4を読んだあと、
そう経たないうちに「オーディオ彷徨」を読んだことで、D130を誤解することなく受けとることができた。
もちろん、このときD130の音は聴いたことがなかったし、実物を見たこともなかった。

HIGH-TECHNIC SERIES 4の記事をだけを読んで(素直に読めばD130の凄さは伝わってくるけれども)、
一緒に掲載されている実測データを見て、D130の設計の古さを指摘して、
コーヒーカップのスプーンが音を立てたのは、歪の多さからだろう、と安易な判断を下す人がいておかしくない。

昨日書いたこの項の(その9)に坂野さんがコメントをくださった。
そこに「現在では欠陥品と呼ぶ人がいておかしくありません」とある。
たしかにそうだと思う。現在に限らず、HIGH-TECHNIC SERIES 4が出たころでも、
そう思う人がいてもおかしくない。

D130は優秀なスピーカーユニットではない、欠点も多々あるけれども、
欠陥スピーカーでは、断じてない。
むしろ私はいま現行製品のスピーカーシステムの中にこそ、欠陥スピーカーが隠れている、と感じている。
このことについて別項でふれているので、ここではこれ以上くわしくは書かないが、
第2次、第3次高調波歪率の多さにしても、
その測定条件をわかっていれば、必ずしも多いわけではないことは理解できるはずだ。

HIGH-TECHNIC SERIES 4での歪率はどのスピーカーユニットに対しても入力1Wを加えて測定している。
つまり測定対象スピーカーの音圧をすべて揃えて測定しているわけではない。
同じJBLのLE8Tも掲載されている。
LE8Tの歪率はパッと見ると、圧倒的にD130よりも優秀で低い。
けれどD130の出力音圧レベルは103dB/W/m、LE8Tは89dB/W/mしかない。14dBもの差がある。
いうまでもなくLE8TでD130の1W入力時と同じ音圧まであげれば、それだけ歪率は増える。
それがどの程度増えるかは設計にもよるため一概にいえないけれど、
単純にふたつのグラフを見較べて、
こっちのほうが歪率が低い、あっちは多すぎる、といえるものではないということだ。

D130と同じ音圧の高さを誇る604-8Gの歪率も、だからグラフ上では多くなっている。

Date: 8月 12th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(誰かに調整してもらうこととインプロヴィゼーション・その1)

音楽は好きだけど、オーディオ機器の使いこなしに煩わされたくない。
だから信頼できる人に調整してもらい、そして定期的にチェックしてもらいその音を維持したい、という方が、
自分の手で自分のオーディオをいっさい調整しないことについては、別に否定的なことはいっさい言わない。
そういう方たちは音楽が好きでいい音で聴きたい、と思い、それなりにオーディオに投資をされていても、
オーディオ好き、オーディオマニアではないから、結構なことだと思っている。

とはいいながらも、ひとつ疑問がある。
その音楽好きの方が、ものすごく熱心なジャズの聴き手であり、
もし「ジャズはインプロヴィゼーションこそが大事なこと」といわれているのであれば、
たとえその方がオーディオに関心のない方でも、やはり自分で調整すべきではないか、という疑問だ。

オーディオに特に関心がなければ、最初に誰かに調整してもらい、
ここまできちんと調整すれば、こういう音が出るんだという、そのオーディオがもつ可能性を知ることは大事だ。
やれば、いつかはあの音が出せる、さらにはあの音以上の音が鳴らせる、という確信があるとないのとでは、
やはり使いこなしにかける情熱も変ってこよう。
だから最初は誰かに調整してもらうのもいい、と思う。

でも、ジャズにおけるインプロヴィゼーションをほんとうに大切にしたいのであれば、
調整してもらった後に、自分の手でケーブルを外し、スピーカーシステムの位置も変え、
つまり一度システムをバラして、一から自分の手でセッティングして調整していかなくて、
なにがインプロヴィゼーションだ、とすこし悪態をつきたくなる。

どんなに信頼できる人に調整してもらったからといっても、
その人は所詮赤の他人である。
その赤の他人に、己のインプロヴィゼーションをまかせてしまう。
それがジャズの聴き方なのだろうか。ジャズなのか。
ジャズをオーディオで聴くということなのか。