妄想組合せの楽しみ(その47)
真空管アンプは、使用されている真空管を自分で選別していくことで、より自分のモノとしていくことができる。
メーカーは補修パーツとしてある一定数以上同じ真空管を保管しておく必要があるため、
音質的に真空管全盛時代につくられたモノがよかったとしても、
それを正規の部品としての採用は難しいところがある。
それはしかたのないことだし、それに真空管はハンダ付けによって固定されているわけではないから、
その交換は手軽にできる。使い手側の楽しみでもある、といえよう。
もっとも手軽にできるのは抜いたり挿したりの行為までで、ほんとうに満足できる真空管を探し出すまでには、
けっこうな時間とお金を必要とすることになる。
特に出力管はプッシュプルだと特性の揃っているものにしたい。
それは精神衛生上だけでなく、音の上からでもそうしたい。
音のにじみみたいなものが、よく揃った真空管同士のペアではあきらかに減っていく。
五味先生はマッキントッシュのMC275の真空管の交換について、書かれている。
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もちろん、真空管にも泣き所はある。寿命の短いことなどその筆頭だろうと思う。さらに悪いことに、一度、真空管を挿し替えればかならず音は変わるものだ。出力管の場合、とくにこの憾みは深い。どんなに、真空管を替えることで私は泣いてきたか。いま聴いているMC二七五にしても、茄子と私たちが呼んでいるあの真空管——KT88を新品と挿し替えるたびに音は変わっている。したがって、より満足な音を取戻すため——あるいは新しい魅力を引出すために——スペアの茄子を十六本、つぎつぎ挿し替えたことがあった。ヒアリング・テストの場合と同じで、ペアで挿し替えては数枚のレコードをかけなおし、試聴するわけになる。大変な手間である。愚妻など、しまいには呆れ果てて笑っているが、音の美はこういう手間と夥しい時間を私たちから奪うのだ。ついでに無駄も要求する。
挿し替えてようやく気に入った四本を決定したとき、残る十二本の茄子は新品とはいえ、スペアとは名のみのもので二度と使う気にはならない。したがって納屋にほうり込んだままとなる。KT88、今一本、いくらするだろう。
思えば、馬鹿にならない無駄遣いで、恐らくトランジスターならこういうことはない。挿し替えても別に音は変わらないじゃありませんか、などと愚妻はホザいていたが、変わらないのを誰よりも願っているのは当の私だ。
だが違う。
倍音のふくらみが違う。どうかすれば低音がまるで違う。少々神経過敏とは自分でも思いながら、そういう茄子をつぎつぎ挿し替えて耳を澄まし、オーディオの醍醐味とは、ついにこうした倍音の微妙な差意を聴き分ける瞬間にあるのではなかろうかと想い到った。数年前のことである。
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この時代KT88は現役の真空管だったし、いまよりも良質のものが入手できていて、これである。
いまもしP70の出力管をKT88に置き換えて、五味先生と同じことをやろうとしたら、
いったいどれだけのKT88を用意することになるだろうのだろうか。
そしていくらするだろうか。
でも、そういうふうに丹念に真空管を選別していくことで、ヨークミンスターの音は磨かれていくはずだ。