Date: 8月 15th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性
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「複雑な幼稚性」(その12)

音場は、音を表現する言葉のなかで、もっとも曖昧性の少ない、
いいかえれば書き手と読み手の間に深い共通認識を要求しない、
そして量的表現にも近い──、そういえるところをもつ。

音場の横方向の広がりはどこまでだとか、前後方向に関しては、さらに上下方向は、などと表現される。
いわばそこに主観的な判断は入りこみにくく、
見えない定規を左右のスピーカーシステムのあいだに形成される音場にあてて測るようなものだ。
よほどひねくれた聴き方をしないかぎり、聴く人によって音場の大きさについての判断がくい違うことはまずない。

それに音場は基本的に左右にきれいに広がり、奥に展開してくのを良し、とする。
これも間違えようがない。

日本の一部のオーディオマニアの中には、日本のオーディオ評論家はずっと音場について語ってこなかった。
それは音場よりも音色を重視したためてあったり、音場に対する感度が低かったからだといって貶める。
そんなことをほざく輩は、アメリカの、たとえばアブソリュートサウンドを非常に高い評価する傾向がある。
それに音場についても、アブソリュートサウンドが、
もっとも早くからステレオ再生における重要性を語っていた、とも。

ほんとうに、そうだろうか。
ステレオサウンドのバックナンバーを、おそらくそんなことを平気でいいふらしている輩は、読んでいないのだろう。
読んでいたとしても、ただ文字を目で追っていただけだろう。

日本でもかなり早い時期から、音の広がり、奥行の再現性については注目している。
とくにモノーラル時代からオーディオに取り組んできた人たちにとって、
ステレオになり何が可能になって、どういう可能性が拓かれたのか、もっとも注目すべきことであり、
そこでモノーラル時代の延長線上に留まる聴き方をする人もいたけれど、
むしろ生れた時からステレオ再生が当り前の時代の人たちよりも、音場に対しては敏感であった人も多い。

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