倉俣史朗のデザイン ──記憶のなかの小宇宙(その1)
11月18日から来年1月28日まで、
世田谷美術館で、「倉俣史朗のデザイン ──記憶のなかの小宇宙」が開催される。
私が生きているあいだ、
これから十年か二十年のあいだに、もう一度、
倉俣史朗展が開催されるか、といえばないようにも思っている。
11月18日から来年1月28日まで、
世田谷美術館で、「倉俣史朗のデザイン ──記憶のなかの小宇宙」が開催される。
私が生きているあいだ、
これから十年か二十年のあいだに、もう一度、
倉俣史朗展が開催されるか、といえばないようにも思っている。
TIDALも、少し前からHi-Res FLACの配信を始めている。
そのことでMQAをやめてしまうのではないか──、
そのことについて悲観的になる人、喜ぶ人がいるわけだが、
私にはTIDALがMQAをやめるとは思えない。
というよりも、TIDALがMQAをどうするのか、というよりも、
結局のところ、レコード会社が決めることのように感じられる。
(その3)で、ドイツ・グラモフォンが、
それまでMQAで配信していたアルバムを、けっこうな数FLACだけにしてしまったことを書いている。
けれど一方で、新譜に関してはMQAでの配信を積極的に行っている。
どういうことなのだろうか、と思っている。
昨晩、気づいたのだが、以前MQAで配信していて、
5月以降、たんなるFLACだけの配信になったアルバムのいくつかが、
いつのまにかMQAに戻っている。
数は、いまのところそう多くはない。
それでも、またMQAでの配信が始まっている。
今後、その数が増えていくのか、どうなのか。
なんともいえない、としか書きようがないけれど、
あまり悲観することはないだろう。
1960年の第六回ショパン・コンクールで、
マウリツィオ・ポリーニは18歳で優勝している。
この時の審査委員長のアルトゥール・ルービンシュタインが、
「ここにいる審査員のなかで、ポリーニよりも巧みに演奏できる者がいるだろうか」、
そんな趣旨のことを述べていることは有名な話だ。
このルービンシュタインのポリーニへの讚辞は、
言葉通りに受けとめていいと思う反面、
ルービンシュタインの讚辞に裏に隠れていることを、
つまりルービンシュタインがいわんとしていることを、つい想像してみると、
ジョージ・セルが言っていたことと同じことのようにも思えてくる。
つまりピアノを鳴らすことに関して、ポリーニはすでにずば抜けていた。
けれど、ピアノを歌わすことに関しては、どうだろうか。
ポリーニは、ショパン・コンクール優勝のあと、十年ほど演奏活動から遠ざかっていることも、
よく知られている。
理由についても、いくつか諸説あるけれど、
ポリーニはルービンシュタインの讚辞の裏側まで、きちんと受けとめていたからではないのか。
ステレオサウンド 42号の表紙にもなっているヤマハのCA2000。
このプリメインアンプのデザインこそ、
42号登場のアンプのなかで、ラックスのSQ38FD/IIと対照的な存在のようにも感じる。
(その3)で引用している井上先生の発言。
そこに《普通アンプはそばで見ると、なるほどと思うことが多い》とある。
CA2000こそ、まさしくそういうアンプの代表でもあった。
アンプの中身について何も知らなくとも、
CA2000を管球式プリメインアンプと思うことは、まずない。
ここまで書いてきて、ヤマハには管球式アンプがなかったことに気づく。
ヤマハのプリメインアンプの最初の製品は、CA700である。
1972年に登場している。
翌1973年に、CA1000が登場している。
このころのCA1000にはパワーメーターはついていないが、
そのデザインはCA2000へとつながる最初のデザインである。
CA700とCA1000のデザインは、一年しか違わないのだが、
印象は随分と違う。
CA700に関しては写真でしか見たことがないが、
管球式アンプだよ、といわれれば、つい信じてしまうかもしれない面影がある。
CA1000には、そんな面影はまったく感じられない。
名器だ、という表現を使いたがる人はけっこういる。
こういう人にかかると、かなりの数の製品が名器ということになる。
世の中、そんなに名器が数多く存在するのであれば、
名器とわざわざいうことはないんじゃなかろうか──、
そんなことをいいたくなるほど、名器という言葉が好きな人がいる。
そういう人は、幻の名器という表現も好きなようだ。
これまた軽い使われ方で、この製品が幻の名器(?)、
と心の中で思ってしまうオーディオ機器であっても、そういう人には幻の名器である。
幻の名器。
私が心からそうおもっているのは、ほんのわずかだ。
そのほんのわずかな幻の名器に、少し前に出逢えた。
その製品のことは、知識では知っていた。
写真は見たことがある。
それでも実物を見たことはなかった。
もう見ることはないだろう、と思っていた──、というよりも、
その製品のことをおもうのもなくなっていたところに、
あるところで偶然にも、その製品を見つけた。
無造作に置かれてあった。
だから、この製品が目に留った時、
オーディオに興味をもってから四十数年。
まだまだ、こういう驚きの出逢いがあるのか、とおもっていた。
詳細は、いまのところ書かない。
製品名をいっても、いまではどういう製品なのか知らない人の方が多いだろう。
日本にいくつ存在しているのか。
存在しているなかで、きちんと動作しているのかはどれだけなのか。
この製品は、もう六十年以上経つ。
その音を聴きたい──、というよりも、
まずは整備である、と考えた。
ある人に相談して、修理・整備ができそうなところに預ってもらって、
約一ヵ月。ようやく仕上がってきた。
おそらく、この状態まで整備されたモノは、ほとんど存在しないのではないか。
その意味でも、幻の名器といえる。
まだ音は聴いていない。
持ち主のところでも、すぐには音出しとはならない。
いいかげな環境で鳴らそうと思えばできるのだけれども、
きちんとした環境で鳴らしたい。
聴けるようになるのは、もう少し先になる。
B&Oというブランドを知ったのは、「五味オーディオ教室」だった。
*
私がこれまで見聞したところでは、ヨーロッパでも、ずいぶんレコードは聴かれているが、まえにも書いたように、いわゆるオーディオへの関心はうすい。むきになってステレオの音質に血道をあげるのはわれわれ日本人と、アメリカ人ぐらいだろう。値段に見合うという意味で、国産品の音質は欧米のものと比べてもなんら遜色はない。リッパな音だ。
ただし、カメラを持ち歩くのが嫌いなので写真に撮れないのが残念だが、ヨーロッパのアンプやレシーバーのデザインだけは、思わず見惚れるほどである。こればかりは、国産品もずいぶん垢抜けて来ているようだが、まだ相当、見劣りがする。B&Oの総合アンプやプレーヤーなど店頭で息をのんで私は眺め、見ているだけで楽しかった。アメリカのアンプにこういうデザインはお目にかかったことがない。
オーディオ装置は、つづまるところ、聴くだけではなく、家具調度の一部として部屋でごく自然な美観を呈するものでなくてはなるまい。少なくともヨーロッパ人はそう思っているらしい。こうしたデザインは、彼らの卓抜な伝統にはぐくまれたセンスが創り出したもので、この点、日本やアメリカは逆立ちしてもまだかなわぬようである。
*
《B&Oの総合アンプやプレーヤーなど店頭で息をのんで私は眺め、見ているだけで楽しかった》、
いったいどういうデザインなのだろうか、
この時は、ただただ想像するしかなかった。
B&Oの製品を見たのは、ステレオサウンド 41号だった。
モノクロ写真だったけれど、想像していたデザインとはまるで違っていた。
こういう製品(デザイン)があるのか。
あのころB&Oのデザインにふれた人ならば、多くがそうおもったはずだろう。
カラー写真は広告で見た。
はやく、一日でもはやく実物をみたい。
そうおもっても、熊本のオーディオ店では、どこにも展示してあるところはなかった。
B&Oの製品(デザイン)にふれることができたのは、東京に来てからだった。
それまでは写真のみで知るデザインでしかなかった。
それでもB&Oのアナログプレーヤー、Beogramシリーズの広告には、
リニアトラッキングアームの動く様の写真が使われたこともあった。
とはいえ実際に動くところを見るのは、もっと先のことだった。
そして気づいたのは、(その1)で書いているように、
B&Oのデザインの良さは、動きがある、ということだった。
このことは、実機を見たことがない者にとっては、
静的な写真だけでは理解し難かった。
ホルショフスキーのカザルスホールでのライヴ盤(CD)は、
もう手元にない。
なので当時の記憶との比較でしかないのだが、
TIDALでのMQA Studioでの配信を聴いて、こんなに音、良かった(?)だった。
演奏が始まる前のホールのざわめき、拍手の音、
それからホルショフスキーが椅子を引いた時の音、
これらがとても生々しい。
まず演奏が始まる前に驚いていた。
CDを聴いていたころと、いまとではシステムがまるで違う。
そうであっても、当時のCDを他のアルバムでは聴いているのだから、
システムの音の変化は把握しているし、以前聴いているのであれば、
こんなふうに鳴るであろう、という予想はある。
ホルショフスキーのMQAでの音は、その予想よりもずっと良かった。
ホルショフスキーの演奏を聴いていたら、
ジョージ・セルの言ったことを思い出していた。
ずいぶん前に読んでことで、何に載っていたのかはもうおぼえていない。
こんなことを語っていた(はずだ)。
最近の演奏家は楽器を鳴らすことには長けている。
けれど楽器を歌わすことはどうだろうか……、
そんなことを語っていたと記憶している。
セルの時代からそうだったことは、いまの時代はどうだろうか──、
このことについて書いていくと長くなっていくのでやめておくが、
ホルショフスキーのピアノは歌っている。
MQAで聴いていると、そのことがより濃厚に感じられる。
MQAで、いまホルショフスキーを聴きなおしてほんとうによかった、といえるほどにだ。
1987年のことだ。
まだステレオサウンドで働いていたころで、昼休み、仕事帰りに、
かなり頻繁にWAVEに通っていた。
クラシック売場にKさんがいた。
頻繁に行くのだから、顔をおぼえられていた。
なにかのきっかけでホルショフスキーのことが話題になった。
そういえばカザルスホールの落成記念で来日しますよ、とKさんに話した。
ホルショフスキーの来日を知らなかったようで、かなり驚いていたKさんは、
さっそくチケットを入手していた。
WAVEはコンサートのチケットも取り扱っていたので、
おそらくかなりいい席を確保されたのかもしれない。
ミェチスワフ・ホルショフスキーは、12月9日と11日をコンサートを行っている。
12月半ばごろ、WAVEに行ったら、Kさんから話しかけられた。
「ホルショフスキーのコンサート、ほんとうに素晴らしかったです。ありがとうございます」と、
私は単にコンサートがあるという情報を伝えたにすぎなかったのだが、
それでもKさんは感謝していた。
そのくらいホルショフスキーのコンサートは素晴らしかったのだろう。
そう思いながら、Kさんの話を聞いていた。
ホルショフスキーのカザルスホールでのコンサートは、CDになった。
Kさんがあれほど感動していたのだからと、買って聴いた。
いまとなってずいぶん昔のことなのだが、
いまになって書いているのは、当日のコンサートがSACDで発売になったと同時に、
TIDALでMQA Studio(44.1kHz)で配信されるようになったからだ。
ひさしぶりに聴くホルショフスキーのライヴ録音。
1987年の録音だから、44.1kHzのPCM録音のはずで、SACDは変換しての制作であろう。
44.1kHzのPCM録音をDSDに変換することに否定的なわけではないが、
そこにメリットを強く感じているわけでもない。
私は、MQAにしてほしいと思う。
伊勢丹新宿店 本館五階には、B&Oショップがある。
Beolab 90がある。
B&Oは、OTOTENにもインターナショナルオーディオショウには出展していない。
各地で行われているオーディオショウでも同じだろう。
そんなこともあって、ひさしぶりに見るBeolab 90。
さっと入って見たらすぐに出るつもりだったけれど、
スタッフの方が「お聴きになりたいモノ、ありますか」と声をかけてくれた。
これがオーディオ店だと、特にない、とか言ってしまうのだけれども、
Beolab 90を聴かせてほしい、と。
Beolab 90の音を聴くのは二回目。五年ぶりである。
Beolab 90は、登場したころにステレオサウンドの表紙を飾っている。
新製品紹介でも取り上げられていたが、その後はほとんど取り上げられないまま。
存在は知っているけれども、聴いたことがないという人もけっこういるだろう。
B&OショップではApple Musicでの音出しである。
このことだけでさほど期待できないと思われるかもしれないが、
五年ぶりのBeolab 90の音は、いい雰囲気で鳴っていた。
グレン・グールドのモーツァルトのピアノ・ソナタを聴いた。
音の強弱のコントラストが、他のスピーカーシステムではなかなか聴けないほどに、
その表情の違いはきちんと出てくることもあって、聴いていて実にたのしい。
デパートという環境は、決して音にとっていい環境とはいえない。
Beolab 90の実力がどこまでのものなのか、そこまで見極められる環境ではない。
それでもスタッフの方が声をかけてくれなければ、
聴かずじまいだったのだから、聴けて良かったと思っている。
そしてひさしぶりにB&Oのオーディオ機器が動いているのをみて、
B&Oのデザインの良さは、動きがある、ところだと再確認もできた。
今日(8月2日)から8月15日までの二週間、
伊勢丹新宿店 本館五階で、“Decorate the Sound”が開催されている。
おもな出展社はB&WとKEFの二社といっていいだろう。
他にも数社出展しているけれども、メインはこの二社。
といっても本格的な試聴ができるわけではない。
なのに、ここで取り上げているのは、KEFのコーナーでMQAでの音出しだったからだ。
スピーカーシステムはもちろんKEFのBlade 2 Meta、
アンプはデビアレ、CDプレーヤーは使わずにdCSのBartókでストリーミング。
ビリー・ジョエルがかかっていた。
Bartókのディスプレイには、MQA.の表示が。
MQA Studioでの再生である。
Bartókに接がっているのはラインケーブルとLANケーブルのみ。
ストリーミングでの再生で、MQAということはTIDALということになる。
デパートでの試聴環境だから、決していいわけではない。
ここで聴いたからといって、MQAのよさがきちんと伝わってくるのかはなんとも微妙なのだが、
こういうところでもMQAが使われていること、それを伝えたいだけである。
第十回audio wednesday (next decade)は、9月6日。
参加する人は少ないだろうから、詳細はfacebookで。
開始時間、場所等は参加人数によって決める予定。
“SOUTH PACIFIC”にしても、アルテックのA4にしても、
別項で書いているスピーカーの音が嫌いな人にとっては、
どちらも、そして両方を組み合わせた音は、とうてい楽しめるという音ではない──、
そんなことになるだろうと思っている。
そのことが悪いとも思っていない。
けれど……、とおもうこともある。
(その47)での引用に続いて、これも読んでほしいことだ。
*
……という具合にJBLのアンプについて書きはじめるとキリがないので、この辺で話をもとに戻すとそうした背景があった上で本誌第三号の、内外のアンプ65機種の総試聴特集に参加したわけで、こまかな部分は省略するが結果として、JBLのアンプを選んだことが私にとって最も正解であったことが確認できて大いに満足した。
しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これも前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ思ったものだ。
だが結局は、アルテックの604Eが私の家に永く住みつかなかったために、マッキントッシュもまた、私の装置には無縁のままでこんにちに至っているわけだが、たとえたった一度でも忘れ難い音を聴いた印象は強い。
*
瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」からの引用だ。
このことを読んで、どうおもうのか、どう感じるのか。
それもまた人それぞれなのだろう──とわかっているのだが、
スピーカーの音を好きな人とスピーカーの音が嫌いな人とでは、
解釈がずいぶん違ってくるのかもしれない。
いま書店に並んでいる管球王国Vol.109の特集は、
「インテグレーテッドアンプのストレートな音」で、
管球式プリメインアンプ、十一機種が登場している。
といっても、まだ読んでいないが、
ステレオサウンドのウェブサイトをみると、
十一機種中フロントパネルをもつのは、オーロラサウンドのHFSA01、
ラックスマンのLX380、カノア・オーディオのAI 1.10、
オーディオ・ノートのOverture PM5、レーベンのC5600Xと、五機種ある。
意外にもあるな、と思う。
けれど、記事中でフロントパネルのことについて語られているとは思えない。
MQA破綻のニュースが流れてから、もうすこしで四ヵ月が経つ。
アンチMQAの人たちは喜んでいた。
けれど、MQAでの配信は続いているし、
アルバムの数も増えていっている。
昨日(7月28日)、ハイペリオン(Hyperion Records)もストリーミングを開始した。
Apple Music、Amazon Music、Spotifyなどで配信が始まっている。
e-onkyoでも扱っている。
もちろんTIDALも、だ。
そして嬉しいことに、TIDALではMQAでの配信である。
すべてのアルバムというわけではないが、
けっこうな数のアルバムがMQAで聴ける。
個人的にはスティーヴン・イッサリースがMQAで聴けるようになったのが嬉しい。
MQAでの配信は拡がっていっている、といえる。