Author Archive

Date: 9月 20th, 2013
Cate: Jazz Spirit, 岩崎千明

Jazz Spirit Audio(その1)

ジャズ・オーディオということばがある。
いつごろから誰が使いはじめられたのかは定かではない。

自然発生的に生れてきたのかもしれない。
それでも、私の中では、ジャズ・オーディオ(Jazz Audio)は、岩崎千明の代名詞でもあった。

中野駅の北口から数分のところにある雑居ビルの地下で「ジャズ・オーディオ」という店をやられていた。
それもあって、岩崎千明=ジャズ・オーディオとなっていくわけだが、
ジャズ・オーディオとしてしまうことで、このことばのもつ範囲に、
岩崎千明という人間をあてはめようとする危険性がないわけでもない。

ジャズ・オーディオといってしまえば、楽である。便利である。
でも、決してジャズ・オーディオだけではない、というおもいがずっとあった。

岩崎先生がやられてきたオーディオを、ジャズ・オーディオといってしまうことは、間違いとはいえない。
でももっときちんと表現しようとすれば、
それはジャズ・オーディオではなく、ジャズ・スピリット・オーディオ(Jazz Spirit Audio)だったはずだ。

Date: 9月 20th, 2013
Cate: 録音

PCM-D100の登場(その2)

PCM-D100は本体に32GBのメモリーを内蔵している。
このメモリーにマイクロフォンが捉えた音が、ふたつのデジタル信号のどちらかで記録される。
メモリーは拡張もできようになっている。

このタイプの録音器は、ソニーからも出ていたし、他社からも出ている。
メモリーを内蔵していて、そのメモリーに記録する。

つまりこの点において、従来のテープを使用するデッキとは異る。
テープを必要とするデッキは、テープ(録音媒体)がない時点では、録音器ではなく録音機である。
ところがメモリーを内蔵しているタイプは、それそのものが「器」でもあるから録音器と呼べる。

もちろんテープデッキもテープを装着した時点で、録音機から録音器へと変る。

けれどPCM-D100を含めて、このタイプはマイクロフォンもそなえている点で、
より録音器である、といえる。

PCM-D100は10万円前後する。
10万円あれば、何がしかのアクセサリーを購入できる。
ケーブルもあれば、インシュレーターの類、その他のアクセサリーが買える。
これらのアクセサリーは、直接音を変える。

良くなるか悪くなるかは別としても、音は大なり小なり変化する。
そういう直接的な変化は、PCM-D100を購入してシステムに導入しても得られない。

だからケーブルに10万円を出費するのはなんとも感じない人もでも、
PCM-D100に10万円を出費するのは、もったいなく感じても不思議はないかもしれない。

PCM-D100は直接的に音に変化を与えはしない。
けれど、とにかく身近な音から、録音をはじめて再生することで、得ることは決して少なくない。
そうやって得られたものによって、音は間接的に変化していく。

しかもPCM-D100は、PCMとDSDの両方を自分で録音再生して確かめられる。
PCM録音は、サンプリング周波数、ビット数を変えて録音できる。
これらによって、音がどう変化していくのかも確認できる。

実際にPCM-D100を手にして使ってみれば、
使ってこそ確認できることがいくつもあることに気がつくはずだ。

Date: 9月 19th, 2013
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(その2)

以前から「スピーカー楽器」論がある。

スピーカーは、変換器である。あくまでも入力信号(アンプからの信号)に対して高忠実であるべきだ、という、
いわゆるHigh Fidelityに基づく考え方、「スピーカー変換器」がある。

スピーカーの開発者・技術者であれば、
スピーカーをでき得る限り高忠実な電気→音響変換器として捉え、考えていくことは、至極当然である。
そうやってスピーカーは、いわば進歩してきた。

このことに対し「スピーカー楽器」論は、
スピーカーの開発者・技術者側からの意見ではなく、
聴き手・受け手側からのものであることは、
スピーカーは、楽器なのか、高忠実な変換器であるべきなのかについて語るときに忘れたり、
ごっちゃにしたりしてはいけない。

「スピーカー楽器」論は、あくまでも聴き手側からのもので、
「スピーカー楽器」論を、スピーカーの開発者・技術者が唱えることではない。

最近では、「スピーカー楽器」論を謳うメーカーがある。
その存在を、だからといって否定はしないものの、
「スピーカー楽器」論を謳うメーカーでスピーカーをつくっている人を、
スピーカー開発者・技術者とは、呼びにくい。

あくまでも、「スピーカー楽器」論を前面に謳うかぎりは、スピーカー製作者である。

Date: 9月 18th, 2013
Cate: 録音

PCM-D100の登場(その1)

2010年5月8日に、こんなツイートをしている。

《いまのソニーにただひとつ期待しているモノ──。
PCM-M10、PCM-D50ではなく、DSD-M10、DSD-D50といったモノ。
でも、きっと出ないと思っているけど、それでも、ほんのちょっとだけ、もしかすると……とも思っている。》

このとき、ソニーのプロダクト・デザイナーのO氏から、返信があった。
「いつか出します」ということだった。

それに対し、こう書いた。

《目標を明確化し、そこに集中・注力したときのソニーの開発力のすごさで、ぜひ製品化してください。
すごくすごく期待しています。》

本音で期待していた。
あれから一年が経ち、二年が経ち、もうそういうモノはソニーから出てこないのか……、となかばあきらめていた。

ソニーの開発力をもってすれば、こんなに時間がかかるとは思えなかったからだ。

昨日、Twitterを眺めていたら、
ソニーからPCM-D100が出た、とあった。
あの日から、三年以上経っている。
でも、とにかくソニーから出た。

型番からいえば、PCM録音モデルで、DSD録音器ではないのか、と思えそうだが、
PCM録音(24ビット、192kHz)、DSD録音(2.8MHz・1ビット)ともに可能としている。

DSD録音だけであれば、さほど売れなかったかもしれない。
だから、PCM録音とDSD録音、どちらにも対応したのかもしれない。
そのへんの事情は、どうでもいい。

ソニーが、やっと、こういうモノを出してくれたことは、素直に喜びたい。

発売は11月21日、オープン価格(10万円前後になるらしい)。

PCM-D100を買っても、特に録音したいものがない、という人もいると思う。
私だって、PCM-D100を買って、これを録音したい、と決めているものがあるわけではない。
そういう意味では、使用目的を明確にせずに、ということになる。

けれど、こういうモノは、いいな、欲しいな、と少しでも感じたり、思ったりしたら、
そして経済的に余裕があれば、まずは買ってみることだ。
買ってみて、触ってみて、とにかく身近な音から録音してみる。

そこから、何かが始まる予感を、使い手にもたせてくれる、そういうモノだと思っている。
そして、PCM-D100についてこうやって書けることが、素直に嬉しい。

Date: 9月 18th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その9)

自分で鳴らすスピーカーシステムの選択において、
とにかく大事にしたいのは、そのスピーカーシステムに惚れ込んでいるかどうか、であるわけだが、
これは人によって異ってくる。

必ずしも惚れ込んだスピーカーシステムを、人は選ぶとは限らない。
もちろん、常に予算という制約がほとんどの人にあるわけだから、
惚れ込んだスピーカーシステムはあっても、
いまはまだ手が届かない、だからいまのところは別のスピーカーシステムを……、という例は少なくない。

私だって、JBLの4401という、比較的小型のブックシェルフの2ウェイ・スピーカーを欲しかったのは、
そのころ惚れ込んでいた(そしていまもその気持は継続している)4343は学生には手が届かない存在だったから、
4343への到達までの道のりのスタート点として、欲しかった、ということがあった。

4301がまともに鳴らせなければ、
つまり、このことは私にとってクラシックがある程度聴けるように鳴らせなければ、
4343を手にしたところで、まともに鳴らせるわけがない、
そういうふうにも思っていた。

とにかく、これまでスピーカーに関しては、惚れ込んだモノだけを買ってきた。
けれど、オーディオをながく続けていると、
惚れ込むことなくスピーカーシステムを選択する人がいることを知る。

Date: 9月 17th, 2013
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(その1)

このブログを書き始めて、丸五年が経過した。
書き始めた頃は、いったいどこまで書けるだろうか、
書くことに困る日がいつかは来るだろう。

そうなった時に、今日は何を聴きました、とか、こんなことをしました、などで、行をうめていくことはしたくない。
ブログを、公開日記だとは思っていないからだ。

そんな不安とまではいかないものの、
そんな時が来たら、その時に対処するしかない……という気持もあった。

でも書き始めていくと、
そのとき書いているテーマが、関連する別のテーマに気づかせてくれる。
ひとつのテーマでも、書き進めていくうちに、最初は予定していなかったことについて、
あれも書いておかねば、これも書いておいたほうがいい──、
そんなことが連枝のように拡がっていく。

けっこうなことではあるけれど、
早く結論(最終的なこと)にたどり着きたいのに、
書けば書くほど、なかなかたどり着けなくなるような気すらしてくる。

いまもスピーカーについて書いている。
これまでも書いてきている。
まだまだ書き足らない、と感じている。
ますます書くことは増えていく。

先に書いておこうと、だから思った。
私が、スピーカーを、どう捉えているかについて、を。

私は「スピーカーは役者だ」と捉え、考えている。

Date: 9月 16th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その8)

スピーカーシステムが変らなければ、音は変らない、と主張する人は、
スピーカーシステムの「顔」、それも基本的なところを聴いていて、
その「顔」がつくり出す、表情のこまかい違いには注意がいかない、
いったとしても、表情が変ったとしても、「顔」そのものは変らない、と判断するのだろう。

ここまでは、前回までに書いたことのくり返しである。
いま「複数のスピーカーシステムを鳴らすということ」を書いていて気がついたことがある。

スピーカーシステムを変えないかぎり、音は変らないという主張する人は、
もしかすると、いま使っているスピーカーに惚れ込んでいないのかもしれない──、ということだ。

スピーカーが相手ではなく、人が相手だった、その人に惚れ込んでいたら、
わずかな表情の差にも気がつくし、
そういう表情が積み重なっていくことで、人の「顔」はつくられていくこともわかるはずだ。

惚れてなければ(関心が持てないのならば)、
対象そのものが変化しないかぎり、その対象そのもののわずかな変化には気がつかないのと同じように、
スピーカーシステムから鳴ってくる音の表情の変化にも、気がつかない──、
そうなのではないのか。

「音は変らない」のではない、
変化に聴き手が気がつかないだけのことだ。

Date: 9月 15th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その18)

友人だったり、知人だったり、仕事関係の人だったり、
とにかく身近の人が、欲しいと思っていたスピーカーシステムを先に買ったとする。

そういう場合、その人よりも、そのスピーカーシステムに惚れ込んでいると自信をもっていえるのであれば、
同じスピーカーシステムを購入して鳴らすことに、とやかくいうことはない。

けれど惚れ込んで購入した、身近な人がいて、
同じスピーカーシステムを、惚れ込んでいない者が買う行為はやるべきではない。

だから、私はダイヤトーンのDS9Zの購入は、やめにした。

このことを書いていて思い出したことがある。
私がセレッションのSL600を鳴らしていたころの話だ。

オーディオのことで頻繁に会うことの多かった、ある人がSL600を購入した。
彼がSL600に惚れ込んでいないことはわかっていたけれど、
私自身は、身近な人がそういうことをしても気にするタイプではない。

あっ、そうなんだ、ぐらいの気持でしかない。

その彼がしばらくして、「うちのSL600は日本でいちばんいい音で鳴っている」という。
確かに彼が組み合わせていたアンプは、非常に高価なモノで、
ほんとうに日本でいちばんかどうかは断言できないものの、
日本でいちばん高価なアンプで鳴らしている、という意味ではそういえなくもなかった。

それにしても……、と思った。
こんなことを真顔でいう人なんだ、と。
このおもいは、消え去ることはなく、
それから後の、その人の言動によってますます確固たるものになっていった。

私以外にSL600を鳴らしている人がいたら、
きっとその人にも、同じことをいうのだろう。
私はこういう性格だからいいものの、私と違う性格の人ならば、
「うちのSL600は日本でいちばんいい音で鳴っている」といわれたら……、とおもう。

このことがDS9Zのことよりも先にあって、よかった。

Date: 9月 14th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その5)

アナログプレーヤーにおけるダストカバーは、
スピーカーシステムにおけるサランネットのような存在といえる部分がある。

取り外しができる。
国産メーカーに関しては、アナログプレーヤーのダストカバー、スピーカーシステムのサランネットは、
開発の時点では取り外した状態で試聴が行われているとみてまちがいない。

スピーカーシステムのサランネット(そう呼ぶのがためらわれるほど立派なものもある)、
国産メーカーのほとんどは外して聴くのが前提であっても、
海外製品の中には、装着しているのが前提のモノもある。

アナログプレーヤーのダストカバーの中で、
そういうスピーカーシステムのサランネット(便宜上こう呼ばせてもらう)と同じとみていいのが、
前回、例に挙げたエンパイアの598、698、パイオニアExclusive P3のそれである。

これも私の勝手な想像なだが、
おそらくExclusive P3は、
開発段階の試聴にいても、ダストカバーが閉じられた状態の音を充分に聴き込んだうえでつくられている気がする。

サランネットを取り付けた状態の音が標準のスピーカーシステムがあるように、
ダストカバーを閉じた状態の音が標準のアナログプレーヤーだって、
数はきわめて少ないかもしれないが、あるはずだ。

そのひとつがExclusive P3であり、
ダストカバー装着時の音と外した状態の音を比較したことがないので、はっきりとはいえないものの、
エンパイアのプレーヤーも、おそらくそうであろう。

Date: 9月 14th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その17)

この時点で、O君がダイヤトーンのDS9Zに惚れ込んでいることには、
なぜか気がつかなかった。
結局、その後、O君の部屋でDS9Zを見つけて、やっと、そうだったんだ、と思った次第。

私はDS9Zに惚れ込んで、欲しい、と思っていたわけではなかった。
DS1000がスペースに的に無理、メインスピーカーとして迎えるのではなく、
あくまでもサブのスピーカーとして、であったからこそ、
部屋の空きスペースとの関係は何にもまして重要だった。

DS1000と同じ流れの設計方針で、小型の2ウェイを、だから望んでいた。
このころにはスピーカーエンクロージュアの横幅は、
できれば人間の耳の間隔と同じか、できればそれよりも狭くすることで、音場感の再現に有利である、
と、いわれはじめていた。きっかけはセレッションの小型スピーカーシステム、SL6(およびSL600)からだった。

それが本当だとすれば、フロントバッフルの形状は、トゥイーターはウーファーよりも小口径なのだから、
上にいくにしたがって狭まっていく、つまり正面からみて台形型、そして両サイドのエッジは丸く仕上げる。
いわゆるラウンドバッフルとすることで、理屈では一層音場感の再現には有利になるはず。

そんなことを考えながら、こういう小型2ウェイ・スピーカーシステムが出ないものか、
と勝手にあれこれ考えていたところにDS9Zが出たから、それで欲しい、と思っただけだった。

DS9ZをO君とふたりで鳴らしたときの音は、たしかに良かった。
でも、その音に惚れ込んだわけでもなかった。
DS9Zそのものに、惚れ込んでいたわけではなかった。

ただ、そのころ考えていたスピーカーシステムに近いモノが出てきたから、と理由だった。
O君がDS9Zに惚れ込んでいるのを見て、買わなくてよかった、と思った。

Date: 9月 13th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その16)

O君は遅刻はしないものの、いつもぎりぎりに出勤していた。
ダイヤトーンの取材の日は休日出勤だから、早く来ることはないな、と思っていた。

けれど、彼はずいぶんと早く出社した。

なぜなのかはすぐにわかった。
彼は少しでも早くて来て、試聴が始まるまでの時間、
彼の好きなCDをDS9ZとマッキントッシュのMC2500の組合せで聴くためであった。
彼の手には、彼の好きなCDが数枚あった。

いそいそと試聴室のある三階に降りていくO君。
CDプレーヤーとアンプの電源を入れる。
それで、昨夜の音とまったく同じ音が出てくれれば、
オーディオは、ある意味、楽なのだが、
多くの人が体験しているように、一度電源を落し、聴き手が寝てしまった翌朝の音は、
どこもいじっていないにも関わらず、昨夜の音は、たいていの場合出てこない。

それがオーディオであり、
もう一度、あの夜の音を、ということでふたたび調整していく……。
そして、あの夜の音とまったく同じとはいかないものの、
また違った良さの音が出てくる。
けれど、その音も一夜明けてしまえば、どこかに行ってしまう。

そういうことをオーディオマニアはくり返して、一年、二年……十年、
それ以上の月日を経ていく。

O君は、音楽好きではあっても、いわゆるオーディオマニアではなかった。
だから、この日、彼ははじめて、多くのオーディオマニアが体験していることを味わったわけであり、
オーディオマニアへの道を歩みはじめた、ともいえる。

Date: 9月 13th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その15)

O君の部屋にダイヤトーンのDS9Zが鳴っていたのをみて、思い出したことがある。

ステレオサウンドの取材でDS9Zを鳴らす日があった。
前述の試聴が早く終ったため、
それに翌日は休日出勤ということもあったので、
その日のうちにO君とふたりでDS9Zをセットして翌日の準備をした。

準備が終り、DS9Zから音を出す。
意外に、いい音が鳴ってきた。
そこで、O君が、試聴室隣の倉庫にあったマッキントッシュのMC2500で鳴らしてもいいですか、という。

そのころ、彼はMC2500(ブラックパネル)をすでに購入していた。

私の好みからすればDS9ZにMC2500の組合せは、あまりピンとくるものがないけれど、
試しに、と鳴らしてみた。
せっかく鳴らしたので、細かなところをチューニングしてみた。
その時、鳴らしていたのはピーター・ガブリエルの「So」の三曲目、
ケイト・ブッシュも参加している”Don’t Give Up” だった。

ほとんど、この曲ばかり聴いて、チューニングを追い込んでいった。
何かをする、そしてまた聴く。
うまくいったら、ふたりで、おーっとと喜び、さらに、と別のところに手を加える。

MC2500も充分暖まってきたし、DS9Zも鳴らし続けてきたことで鳴りもあきらかに変ってきた。
こうなると、こちらものってくる。

この日の音が、どれだけ良くなったかは、O君の翌日の出勤時刻が表している。

Date: 9月 13th, 2013
Cate: ジャーナリズム, 岩崎千明, 瀬川冬樹

「オーディオABC」と「カタログに強くなろう」(その7)

「CDは角速度一定」と書いた人は、
私よりも年上で私よりもオーディオ歴は長くて、
オーディオにつぎこんだ金額も、私よりもずっと多い。

1976年の後半からオーディオの世界に首をつっこみはじめた私よりも、
それ以前からオーディオに取り組んでいるわけで、
それはオーディオブームの最盛期も体験している、ということである。

オーディオの入門書は、私が接することのできた数よりももっと多かったはずだ。
その人が、それらの本を読んできたのかどうかまでは知らない。

でも少なくとも、ある程度のオーディオの知識は持っていたのだから、
まったく読んでこなかった、ということはないはず。

CDの登場も、同時代に体験している。
にも関わらず、もっとも基本的なところで、間違いを記してあったサイトを信じ込んでしまった。

オーディオは、簡単ではない。
とにかく複雑である。
オーディオの知識を身につけるために勉強しようとすると、
その範囲の広さに驚くはずだし、その範囲の広さに気がつかないようであれば、
まだまだ先はそうとうに長い、ということでもある。

もっとも範囲の広さを知っても、先は長いことに変りはないのだけど。

「オーディオABC」、「カタログに強くなろう」、
その両方、もしくはどちらかひとつだけでもいい。
じっくり読んでみれば、わかる。
それも、そこで取り上げられている項目について、
自分で文章を書いて誰か(不特定の読者)に説明しようとしたら、どう書くか。
そのことを考えながら読んでみれば、その難しさがわかるし、
瀬川先生、岩崎先生が、いかに苦労して書かれたのかも理解できる。

そして、もうひとつ理解できるのは、ふたりのオーディオの知識の確かさである。

Date: 9月 12th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その4)

こんなことを書くと、
そんなことは科学的にありえない、オカルトだ、という人がいるのはわかっている。
それでも書くのだが、オーディオ機器で、アンプにしてもCDプレーヤーにしても、
筐体を密閉もしくはそれに非常に近い状態にしたとき、往々にして音の伸びやかさがおさえられる傾向がある。

アナログプレーヤーの場合も、ダストカバーを閉じた状態の音は、同じところが存在し、
ダストカバーを外した音を聴いたあとでは、ダストカバーを閉じた状態の音を、
すくなくとも私は聴こうとは思わない。

もちろん人によって、求める音は同じところもあれば違うところもあるわけで、
ダストカバーを閉じた状態の音の傾向を、良し、とされることだってある。

もし私がそうだったとしても、ダストカバーを閉じた状態のアナログプレーヤーは、
あまり美しいとは感じない。
プレーヤーのデザインが優れていればいるほど、
ダストカバーを閉じてしまうと、ダストカバーの存在が余計なものとしてしか見えなくなってしまう。
特にプレーヤー本体の厚みに対して、ダストカバーのほうが分厚く感じてしまうと、
もう見るのも嫌になってしまう。
ピカリングのFA145がそうだ。なぜこんなにもダストカバーを厚くしてしまったのか、と思う。

B&Oのアナログプレーヤー、Beogramの一連のシリーズでも、ダストカバーは一般的な形状のアクリル製である。

ダストカバーにまで気を配ったプレーヤーも、数は少ないながらもある。
たとえばエンパイアの598や698。
パイオニアのExclusive P3があり、
少し変ったところではトランスクリプターのSkeletonがある。

Date: 9月 12th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その14)

A氏の録音に対して強い口調で「毒にも薬にもならない」と私に話された人は、
録音に対して非常に造詣の深い人である。
その人が、あえてA氏の名前を出されたことの意味を、考えてしまう。

「毒にも薬にもならない」存在の優秀録音は、案外増えて来つつあるのではなかろうか。
私は、A氏の録音されるジャンルの音楽をほとんど聴かないから、
そのへんの事情については疎いところがある。

でも、この「毒にも薬にもならない」は、何も録音のことだけにとどまらず、
いまのオーディオの聴かせる音についても、あてはまる。

以前は、ひどい音を出すオーディオ機器があった。
現行製品で、そんなオーディオ機器はもうない、といえるだろう。
まったくなくなったわけでもないだろうが、その割合はずっと少なくなっている。

いまのオーディオ機器は、ある水準にあり、
だからこそ、どの製品を買っても、まず大きな失敗ということはない、ともいえる。
優秀な製品が増えた、ということでもある。

これはけっこうなことである。
あるけれども、そのことと「毒にも薬にもならない」再生音・録音が増えてきたことが、
無関係なこととはどうしても思えない。

なんと表現したらいいのだろうか、
「毒にも薬にもならない」音のことを。

いまのところ思いつくのは、薄っぺらな清潔な音だ。