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Date: 5月 28th, 2015
Cate: 音の良さ

音の良さとは(その4)

このブログを書き始めたころ、「木村伊兵衛か土門拳か」というタイトルで書いている。

週刊文春に載っていた福田和也氏の 「ハマってしまったアナタに ──木村伊兵衛か土門拳か──」から引用した。
もう一度引用しておく。
     *
土門は被写体に真っ向勝負を挑み、理想の構図、ピントを求めて大きなカメラを何百回とシャッターを切りつづけた。学生時代に絵描きを志した土門にとって、写真は映画同様、自己の世界観を存分に投影しうる、人間主体の芸術でした。
 ところが、土門がその存在を終生意識し続けた木村伊兵衛にとって、写真はもっと不如意なものでした。カメラを使いこなすことは、カメラという機械のメカニズムを受け容れ、自らを合わせていくこと。写真は人間主体の芸術ではなく、むしろその主体性の限界を示してくれる存在で、その限界から先はカメラに結果を委ねるしかない。(中略)
 一眼レフであり、コンパクトであれ、木村のようにその性能に意思を委ねるもよし、土門のようにすべてのパラメーターと格闘して意思の実現を目指すもよし。いずれにせよ、写真は自己認識に関わる豊饒な遊び。だから愉しいのです。
     *
この項の(その3)で書いた、
「オーディオは自己表現だから」ということで、
オーディオを完全な支配下におきたいという人は、
木村伊兵衛か土門拳か、でいえば、後者ということになる。

けれど写真と音は似ているともいえるし、まったく違うともいえる。
同一には語れない。
それでも、彼はオーディオにおいて土門拳であろうとしたのか。

人は人であり、干渉しようとは思わない。
と書きながらも、オーディオにおいて土門拳であろうとするのは、やはり傲慢であると私はいいたい。

その傲慢さが「オーディオは自己表現だから」に顕れているのではないか。
福田和也氏は写真を「自己認識に関わる豊饒な遊び」とされている。

自己表現とは書かれていない。
自己認識に関わる豊饒な遊びという視点での「木村伊兵衛か土門拳か」である。

「木村伊兵衛にとって、写真はもっと不如意なもの」とある。
音もそうである。
写真以上に音は不如意なもの(現象)であるから、
オーディオを使いこなすことは、
オーディオという機械のメカニズムを受け容れ、自らを合わせていくことが求められている。
私はそう考えている。

だからここで、使いこなしといっても、
オーディオを自己の支配下におき完全にコントロールしたい人は、
私とはまったく違うということになるわけだ。

音の良さということに関してもだ。

Date: 5月 28th, 2015
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その10・さらに余談)

ラックスのPD121。
この素敵なターンテーブルに似合うトーンアームは、やはりSMEの3009ということになる。
多くの人がそう感じていると思うし、
ラックスもSMEの3009 SeriesII Improvedを推奨アームとしていた。

PD121のトーンアームベースは六種類用意されていた。
TB-S、TB-G、TB-GS、TB-GM、TB-O、TB-Uであり、
標準品として付属してくるのはTB-S、つまりSME用である。

1975年にステレオサウンドから出た「世界のオーディオ」ラックス号に、
ラックス製品に関する質問と回答というページがある。

そこにPD121、PD131とマッチするトーンアームは何か、という質問に対して、
次のような回答が載っている。
     *
 性能的にいえば、良く出来たアームであれば、別段どれが相性が良く、どれが悪いということはありません。しかし、デザイン的にいえば、元来シンプルなデザインの本機だけに、アームのデザインによっては全体を生かしも、また、殺しもします。アーム1本で全体の表情が全く違ったものになります。そういった意味からすればSME300/S2 Improvedが最適で、販売時点ではSME用のアームベースを付属してお手元にお届けするようになっています。
     *
メーカー推奨の組合せのもつ良さ。
オーディオの組合せは自由なだけに、
PD121と3009 SeriesII Improvedの組合せのもつ良さも知ってほしいと思うし、
忘れてほしくないとも思う。

アナログプレーヤーにおける主役は、やはりレコードだと思う。
そのことをPD121と3009 SeriesII Improvedの組合せを思い出させてくれる。

Date: 5月 27th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その6)

つきあいの長い音の中に、瀬川先生にとってマークレビンソンは含まれないような気がする。

Date: 5月 27th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その5)

つきあいの長い音──、瀬川先生のそれはEMTでありJBL、そしてKEF(LS5/1A)である。

Date: 5月 27th, 2015
Cate: 五味康祐

続「神を視ている。」(その1)

「人は大事なことから忘れてしまう」と書きながら、思い出していた。
五味先生の、この文章を思い出して、また読み返していた。
     *
われわれはレコードで世界的にもっともすぐれた福音史家の声で、聖書の言葉を今は聞くことが出来、キリストの神性を敬虔な指揮と演奏で享受することができる。その意味では、世界のあらゆる──神を異にする──民族がキリスト教に近づき、死んだどころか、神は甦りの時代に入ったともいえる。リルケをフルトヴェングラーが評した言葉に、リルケは高度に詩的な人間で、いくつかのすばらしい詩を書いた、しかし真の芸術家であれば意識せず、また意識してはならぬ数多のことを知りすぎてしまったというのがある。真意は、これだけの言葉からは窺い得ないが、どうでもいいことを現代人は知りすぎてしまった、キリスト教的神について言葉を費しすぎてしまった、そんな意味にとれないだろうか。もしそうなら、今は西欧人よりわれわれの方が神性を素直に享受しやすい時代になっている、ともいえるだろう。宣教師の言葉ではなく純度の最も高い──それこそ至高の──音楽で、ぼくらは洗礼されるのだから。私の叔父は牧師で、娘はカトリックの学校で成長した。だが讃美歌も碌に知らぬこちらの方が、マタイやヨハネの受難曲を聴こうともしないでいる叔父や娘より、断言する、神を視ている。カール・バルトは、信仰は誰もが持てるものではない、聖霊の働きかけに与った人のみが神をではなく信仰を持てるのだと教えているが、同時に、いかに多くの神学者が神を語ってその神性を喪ってきたかも、テオロギーの歴史を繙いて私は知っている。今、われわれは神をもつことができる。レコードの普及のおかげで。そうでなくて、どうして『マタイ受難曲』を人を聴いたといえるのか。 (「マタイ受難曲」より)
     *
「どうでもいいことを現代人は知りすぎてしまった」とある。
どうでもいいことを知りすぎて、大事なことから忘れてしまう。
忘れてしまうのならば、また思い出せる可能性もある。

けれど「どうでもいいことを現代人は知りすぎてしまった」から、
大事なことに気づかないのであれば、思い出すことはできない。

もっとも大事なことは「神を視ている」なのではないか。

Date: 5月 27th, 2015
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その5)

三極管と五極管の電気特性の違いは、はっきりとある。
五極管を三極管接続にすることで、その電気特性の違いをまったくなくすことはできないにしても、
ある程度は近づけられる。

けれど三極管と五極管の違いは、電気特性だけではない。
三極管、五極管という言葉が表わしているように、真空管の内部構造の違いがある。
三極管よりも五極管の方がエレメント(電極)の数が少なく、構造もその分シンプルといえる。
このことは電気特性に関係するだけでなく、機械的共振の違いにも関係してくる。

真空管パワーアンプの初段管を指で弾くと、
入力信号はゼロであってもスピーカーから音は出る。
初段管のすぐ近くで、あっ、とか、わっ、といった大きな声を出せばそれを拾ってしまう。

真空管は構造上、この性質をなくすことはできない。
ならば内部構造がシンプル、つまりエレメントの数が少ない方が、
その影響は少なくなるという考え方もできる。

この機械的共振の影響は、三極管接続にしてもなくすことはできないし、
この機械的共振を含めて五極管の特質として捉えるのであれば、
五極管は三極管接続にせず、五極管接続、もしくはUL接続としたほうが、
わたしにとってはすっきりした使い方ということになる。

くり返すが三極管接続を否定はしない。
お好きな人はやればいい。
けれど、私は三極管接続は選ばないだけである。

Date: 5月 27th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(音がわかるということ・その5)

その4)で引用した瀬川先生のカートリッジについての文章を読んで気づいたのは、
「人は大事なことから忘れていく」が意味することだった。

なぜ「人は大事なことから忘れていく」のか、と考えていた。
大事なことなのに忘れてしまうメカニズムはなんなのか。

確かに「人は大事なことから忘れていく」。
けれど人は案外、大事なことに気づいていない、ともいえる。

大事なことに気づいていないからこそ、
《そういう音だけのカートリッジが、世間では案外、良いカートリッジ、みたいに言われている》のだろう。

Date: 5月 27th, 2015
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その35)

スピーカーシステムのLCネットワークにおける直列型と並列型。
それぞれのメリット、デメリットについて書くためには、
自分で直列型ネットワークと並列型ネットワークを、同じ部品でつくり、比較試聴するしかない。

その経験は私にはない。
だから想像でいうわけだが、
直列型ネットワークのほうが、システム全体のまとまりという点では並列型よりも優れているのではないのか。

確証があるわけではない。
けれど、いくつかの直列型ネットワークを採用したシステムを聴いて感じること、
そして並列型ネットワークでバイワイアリングにして感じること、
このふたつを考え合わせると、
互いのユニットが干渉し影響しあうことは、
設計が適切であればそれぞれのユニットが有機的に結合するということにもなっていく。

このことは(その30)に書いた長島先生の意見と、
つまりは同じことである。

有機的に結合した状態。
マルチウェイのスピーカーシステムで、それぞれのユニットがバラバラに鳴るのではなく、
すべてのユニットがまるでひとつのユニットであるかのように鳴るに欠かせない条件といえる。

並列型ネットワークでは、マルチアンプ・システムほどではないにしても、
2ウェイならばバイワイアリング、3ウェイならばトライワイアリングとすることで、
パワーアンプの出力端子にまでは独立させることで干渉を軽減化できる。

それによる音の変化は大きい。
けれどすべての方式にはメリット・デメリットがあるわけだから、
必ずしもすべての面で良くなるとは、どんな方式であってもいえない。

何を重視するのかによって、LCネットワークの設計も、直列型と並列型、
どちらを選択するのかが決ってくるところもあるはずだ。

Date: 5月 27th, 2015
Cate: デザイン
1 msg

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その10・もうすこし余談)

フィデリティ・リサーチのトーンアームFR64Sは、型番末尾のSが示すようにステンレスが使われている。
SのつかないFR64はアルミ製である。

瀬川先生はFR64SよりもFR64のほうを高く評価されていた。
ステレオサウンド 43号のベストバイの中で、
《ステンレス製の64Sは、私の試聴したものは多少カン高い傾向の音だった。その後改良されて音のニュアンスが変っているという話を聞いたが、現時点では64の方を推す次第。》
と書かれている。

PD121AとFR64Sの組合せを見ていて感じていたのは、このことでもあった。
音は聴いていないのでなんともいえないのだが、
PD121のアルミの質感とFR64Sのステンレスの質感とがうまく合っていない印象を感じていた。

ささいなことといえばささいなことである。
モノクロの写真で見ていたときには感じにくかったことを、
実物を前にすると、はっきりと感じとれる。

ラックスはPD121、PD131の前にP22というアナログプレーヤーを、1966年に出している。
ベルトドライヴ方式のこのプレーヤーには、グレース製のトーンアームが付属していた。

PD121にはトーンアームが付属してこない。
原稿製品のPD171には、PD171ALとPD171Aとがあり、ALモデルはトーンアームなしだ。
PD171にはトーンアームなしのモデルはなかった。

PD121とPD171の大きな違いは、ここに関係しいてる点にもある。
PD121を使ったことのある人ならば、
トーンアームベースがバヨネット方式になっていることを知っている。

カメラのレンズ交換のそれと同じで、簡単にトーンアームベースを取り替えられるようになっている。
トーンアームを開発する、もしくは専門メーカーに依託することで、
PD121のプレーヤーシステムとしての完成度は高くなったであろうが、
それをあえてせずにアームレス仕様として送り出したのは、
このバヨネット方式のトーンアームベースにこだわってのことではないのか。

そういうこだわりが、PD171には感じられない。

Date: 5月 26th, 2015
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その10・余談)

ラックスのターンテーブルPD121は1975年に出ている。
デザイナーは、現在47研究所を主催されている木村準二氏。

いまのラックスにもアナログプレーヤーはある。
PD171がある。

私は、PD121はいまも欲しい、と思っている。
つい一ヵ月ほど前、あるオーディオ店にPD121Aとフィデリティ・リサーチのFR64Sの組合せが、
中古で店頭に並んでいた。
けっこうきれいな感じだった。つけられていた価格も妥当なものだった。

しばらく眺めていた。
こういうスタイルのアナログプレーヤーの良さというものを思い出していた。

PD171をオーディオショウ、オーディオ店でみかけても欲しいとは思ったことはない。
どちらが音がいいのかというと、PD171は聴いていないのでなんともいえないが、
PD171の方かもしれない。

それでも欲しいのはPD121である。
デザイナーが違うのだから、このふたつのアナログプレーヤーの印象が違うのは当然だと思っていた。
けれど、それだけではないようにも思うようになった。

PD121のころ、ラックスは本社が大阪にあった。
1984年に本社を東京都(大田区)に移す。
1987年には品川区へ移転。
1994年同じ品川区内でまた移転している。
いまは神奈川県横浜市に本社がある。

本社が関東に移ってから30年以上が経っている。

PD121とPD171のデザインの違いは、
本社がどこかにあったのかも関係しているのではないだろうか。

Date: 5月 26th, 2015
Cate: 五味康祐

続・長生きする才能(その4)

嫌われ愛想をつかされてしまう。
これしかないのではないないか、と思った。

最初のうちは周りの人も、たいへんな病に、それも不治の病なのだからと、
どんなわがままもイヤな顏ひとつせずにきいてくれるだろう。

けれどそれが一週間や一ヵ月ではなく、何年も何年も続いていくとしたら、
見放す人がひとりひとり増えていくのではないだろうか。

どんなに有名人であっても、素晴らしい音楽を奏でてきた人であっても、
いつ終るともしれぬわがままが、それも感謝の気持が示されることなく続いていくのであれば、
周りから人は去っていく……。

そんなことをおもっていた。
そうすれば自殺できるかもしれない。
時間はかかる。

ほんとうは感謝の気持をもっているのに、
それを抑え込んでわがままを押し通す。
健康な人であっても、こんなことをずっと続けていたらそうとうにしんどいはずである。

それをベッドの上から自力では起き上がれない人がやり続ける。

これは私の勝手な想像でしかない。
けれどジャクリーヌ・デュ=プレのような人が自殺を考えたとしたら、
これ以外の方法が私には思い浮ばなかった。

Date: 5月 26th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(音がわかるということ・その4)

瀬川先生は「続コンポーネントステレオのすすめ」に、こうも書かれている。
     *
 さて、カートリッジに望む第二条件は、そうしてあらゆる音楽(レコード)をきちんと鳴らしてくれるばかりでなく、そこに、そのカートリッジでなくては聴けない音の魅力がなくてはならない。そうでなくて、どうして、そのカートリッジをあえて選ぶ理由があるのだろう。
 この音の魅力というのを、カートリッジの音のクセと混同して頂きたくない。あらゆる音楽に、その音楽固有の音色の魅力がある。それぞれに異なる音楽の魅力をうまく抽き出しながら、しかもつい聴き惚れてしまうほどの美しい音楽的なバランスの良さが必要だ。どことなく無機的な、いわゆる蒸留水のような音は私は最も嫌う。だいいち、もとの音楽には演奏家の心をこめた気迫もあれば、色や艶もあり、そこにかもし出されるえもいわれぬ深い味わいがある。そういう音楽の魅力を、まるで鳴らしてくれないカートリッジがある。低音から高音までフラットでバランスが良い。ひずみもきわめて少なく、トレースは全く安定していて、どんなレコードも心配なく鳴らしてくれるのに、その音に味わいも艶も余韻の微妙な美しさもなくて、ただ白痴のような美しさだけ聴かせる。そんなカートリッジはどこか間違っていると私は思う。いや、正しいか間違いかなどはこの際問題ではない。そういうカートリッジではレコードの世界の深さを聴き手に伝えてくれないから、思わず時のたつのを忘れてあとからあとからレコードを聴き耽るというような気持にさせてくれない。結構な音でございます、では音楽の魅力は伝わってこない。だが、そういう音だけのカートリッジが、世間では案外、良いカートリッジ、みたいに言われている。
     *
これはカートリッジについて書かれているけれど、
同じトランスデューサーであるスピーカーにも、まったく同じことがあてはまる。
スピーカーだけではない、アンプやその他のオーディオ機器についても同じといえる。

さらにいえば、ここに書かれていることはオーディオ全体についていえることである。

「続コンポーネントステレオのすすめ」は1979年に出ている。
36年前に書かれたことである。
なのに、いまもそっくりそのまま、とまでは言わないけれど、
かなりの部分あてはまるのではないか。

このことは別項「つきあいの長い音」にも深く関係してくる。
それだけでなく、別のことにも関係しているように思えてならない。

Date: 5月 25th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(音がわかるということ・その3)

瀬川先生が書かれている。
     *
 と、さんざんうるさいことを書いておいて、最後にちょっと補足しておくが、違う違うといってもその音の差はきわめて微妙。その微妙な差を大きな問題に感じるが音のマニアなのであれば、反面、ヘッドシェルを交換して聴いてもその差がわからずにキョトンとする人も決して少なくない。ヘッドシェルといいリード線といい、それらを変えてその音の差を聴き分けるのが高級な耳だなどとは誤解しないほうがいい。そういう差をよく聴き分ける人が、装置全体の音楽的なバランスをひどくくずして、平気で聴いている例もまた少なくない。ヘッドシェルの類いといい、またシールド線やスピーカーコードの違いといい、それらの細かな音を比較してよりよい方向を探すことも大切だが、装置全体を、総合的に良い音に調整するには、もっと全体を大きく見とおすような、全体的な感覚が必要で、それは細かな音の差を聴き分ける能力とはまた別の感覚だという点は、忘れないでおきたい。(「続コンポーネントステレオのすすめ」より)
     *
ほんとうにそうである。
書かれているとおりだ。

Date: 5月 25th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その4)

つきあいの長い音とは、自分の感覚に馴染んでいるということ。

Date: 5月 25th, 2015
Cate: 素材

素材考(発電ゴムという素材・その3)

リコーの発電ゴムがどれだけの性能なのかは、はっきりとしたことはなにもわかっていない。
リコーの発表資料にあるとおりの性能であるならば、センサーとしての性能も期待できる。

別項の「電子制御という夢」、ここでもセンサーとして期待している。
発電効率が高いのであれば、細かくしてトーンアームの各部に装着できる。
ゴムという素材なのだから、いままでのセンサーでは拾えなかった情報もピックアップできるように思える。

さらにこれまではアームパイプ内部の状態を知ることは難しかったように思う。
発電ゴムならば、パイプ内部にも簡単に装着できるし、トーンアームの実効質量にもほとんど影響を与えないだろう。

さらにさらにカートリッジ内部のセンサーとしても使える。
ダンパーの一部としての利用、そしてカンチレバーのセンサーとしても使えるのではないだろうか。

電子制御トーンアーム。
おそらくどこも新たに開発しようというところはないだろう。
新しい電子制御トーンアーム開発の環境は、その昔よりもずっと整っているけれど……。