音の良さとは(その4)
このブログを書き始めたころ、「木村伊兵衛か土門拳か」というタイトルで書いている。
週刊文春に載っていた福田和也氏の 「ハマってしまったアナタに ──木村伊兵衛か土門拳か──」から引用した。
もう一度引用しておく。
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土門は被写体に真っ向勝負を挑み、理想の構図、ピントを求めて大きなカメラを何百回とシャッターを切りつづけた。学生時代に絵描きを志した土門にとって、写真は映画同様、自己の世界観を存分に投影しうる、人間主体の芸術でした。
ところが、土門がその存在を終生意識し続けた木村伊兵衛にとって、写真はもっと不如意なものでした。カメラを使いこなすことは、カメラという機械のメカニズムを受け容れ、自らを合わせていくこと。写真は人間主体の芸術ではなく、むしろその主体性の限界を示してくれる存在で、その限界から先はカメラに結果を委ねるしかない。(中略)
一眼レフであり、コンパクトであれ、木村のようにその性能に意思を委ねるもよし、土門のようにすべてのパラメーターと格闘して意思の実現を目指すもよし。いずれにせよ、写真は自己認識に関わる豊饒な遊び。だから愉しいのです。
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この項の(その3)で書いた、
「オーディオは自己表現だから」ということで、
オーディオを完全な支配下におきたいという人は、
木村伊兵衛か土門拳か、でいえば、後者ということになる。
けれど写真と音は似ているともいえるし、まったく違うともいえる。
同一には語れない。
それでも、彼はオーディオにおいて土門拳であろうとしたのか。
人は人であり、干渉しようとは思わない。
と書きながらも、オーディオにおいて土門拳であろうとするのは、やはり傲慢であると私はいいたい。
その傲慢さが「オーディオは自己表現だから」に顕れているのではないか。
福田和也氏は写真を「自己認識に関わる豊饒な遊び」とされている。
自己表現とは書かれていない。
自己認識に関わる豊饒な遊びという視点での「木村伊兵衛か土門拳か」である。
「木村伊兵衛にとって、写真はもっと不如意なもの」とある。
音もそうである。
写真以上に音は不如意なもの(現象)であるから、
オーディオを使いこなすことは、
オーディオという機械のメカニズムを受け容れ、自らを合わせていくことが求められている。
私はそう考えている。
だからここで、使いこなしといっても、
オーディオを自己の支配下におき完全にコントロールしたい人は、
私とはまったく違うということになるわけだ。
音の良さということに関してもだ。