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Date: 11月 4th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(ステレオサウンド 24号より・その1)

別項を書くためにステレオサウンド 24号をすぐ手が届くところに置いている。
24号の巻末に、一ページだけの記事がある。
354ページに、その記事はある。
けれど、これは記事なのか、とも思うところがある。

そう思って目次を見ても、この記事は載っていない。
となると、この記事は広告となるのか。

この記事のことは、ステレオサウンドで働いていたころから知っていた。
それを、いま改めて読むと、この記事について何かを書きたくなった。

この記事のタイトルは、「本誌23号の質問に対する(株)日立製作所の回答」とある。
本誌23号の特集は「最新ブックシェルフスピーカー総まくり」、
ここでLo-D(日立製作所)のHS500が取り上げられている。

この記事の冒頭に、こう書いてある。
     *
 本誌では23号のブックシェルフ・スピーカー特集の記事中に、日立HSー500に関するテストリポート(245頁)のなかで次のような一節を掲載しました。
 ──このHSー500は発売された当時にくらべて最近のものは明らかに音質が変わってきている。この辺をメーカーに質問したいですね。──
 このリポートの質問事項に対して、株式会社日立製作所からこのほど次のような回答が寄せられましたので以下に掲載いたします。
     *
23号の245ページには、確かにある。瀬川先生の発言だ。
これに対しての回答は次の通りだ。
     *
 当社がHSー500を開発したのは5年前ですが、当初のものと現在の製品に音質上のちがいはまったくないと確信しております。変えたことと言えば、市販はしていませんがプロトタイプの時にバッフルボード前面にベニア合板を張り合わせておりましたのを外したことと、吸音材にグラスウールを使っていたのを途中で粗毛フェルトにしたこと、スピーカーユニットの端子を普通のスピーカーのように片側に置いていたのを経年変化を防ぐ意味で両サイドにしたことぐらいです。これらの変更は特性上も聴感上もなんら変わることがないことを確認した上で行っております。
     *
プロトタイプと市販品との違い以外に、
市販品でも吸音材の変更とスピーカーユニットの端子位置が変更になっている。
これは日立製作所も認めている。

日立製作所のいうように、吸音材と端子位置の変更は特性上はなんら変わらない、であろう。
だが聴感上となると、そうではない。

Date: 11月 3rd, 2015
Cate: ショウ雑感

2015年ショウ雑感(続々続ヘッドフォン祭)

思い出していたのは、チェロのスピーカーシステム、Amati(アマティ)だった。
Amatiは外観からすぐにわかるように、アコースティックリサーチのスピーカーシステムLSTをベースとしたもの。

このAmatiを目の前にして、マーク・レヴィンソンはアメリカ東海岸の人だということも思い出していた。
レヴィンソンの出身がコネチカットで、どこにあるのかは知っていた。
とはいえ、マークレビンソン時代のアンプは、日本ではJBLのスピーカーと組み合わされることが多かった。

JBLのスタジオモニターを鳴らすアンプとしても、LNP2、ML2などが多かったこと、
それにJBLとマークレビンソンの組合せに強い関心と憧れを持っていたものだから、
レヴィンソンが東海岸の人だということが薄れていた。

そこにAmatiが登場して、マーク・レヴィンソンはアメリカ東海岸の人だということを強く感じた。
Amatiはステレオサウンドの試聴室で、チェロのフルシステムで聴いた。

マーク・レヴィンソンのフルシステムといえば、聴く機会はなかったが、HQD Systemがある。
HQD Systemの規模からするとAmatiを中心とするチェロのシステムは、こぢんまりしている。
実際はけっこうな規模なのだが、HQD Systemの印象と比較してのことだ。

この時の音については書かないが、いま思い出しているのは、試さなかったことだ。
Amatiも完全密閉型のスピーカーシステムである。
ならば思いっきりボリュウムをあげた音を聴いておくべきだった、といまになって後悔している。

パワーアンプはPerformanceだった。
このアンプならば、そうとうなレベルまであげられた。
でも、あの時はやらなかった。

井上先生が例えられていたとおりの音、
高回転・高出力のエンジンの車のように、大音量(高速回転)時の音は、
驚くほどの低音を聴かせてくれたのかもしれない。

聴いておくべきだった……

Date: 11月 2nd, 2015
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その14)

ウェスターン・エレクトリックのスピーカーユニットやアンプ、それに真空管は中古で流通している。
法外な値段を支払えるのであれば、そして納期を決めなければ、
未使用のユニットの入手も決して不可能なわけではない。

けれどこれらはウェスターン・エレクトリックが販売してきたモノではない。
ウェスターン・エレクトリックは劇場に、スピーカーやアンプを売っていたわけではない。
あくまでもレンタルしていた会社である。

日本の劇場でもウェスターン・エレクトリックの音が聴けていた時代、
ウェスターン・エレクトリックのユニットや真空管が稀に入手できていたそうだが、
それらは補修部品がなんらかの理由で流出したものだときいている。

ここが、いわゆるオーディオメーカーとは、根本的に違う点である。
世の中のすべてのオーディオメーカーは、なんらかの製品を売っている。
アンプであったりスピーカーであったり、カートリッジであったりする。

けれどウェスターン・エレクトリックが売っていたのは、その音である。
アンプやスピーカーといったモノを売っていた会社ではなく、
その「音」を売るために、劇場にアンプやスピーカーをレンタルしていた。

音を売るのか、モノを売るのか。
その違いを、我々は忘却しているのではないだろうか。

Date: 11月 2nd, 2015
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その13)

伊藤先生の「獄道物語」は最低でも一度は読んでいる。
それでも、いま読み返していると、以前読んだ時以上に興味深い。

まだまだ引用しておく。
     *
 家庭で聞いてバランスのとれた音のスピーカーもステージに置くと、それを何十個並べ立てても客席に到達するまでに聞くに堪えない消え入るばかりの音に痩せ細ってしまう。アンプの出力とは関係なく要はスピーカーの効率だけに絞られてしまう。舞台全面でなんとなくたち騒いでいる感じで画面にくローズアップされた大砲が煙を吐くと同時に耳をつんざく砲声を期待していると「さながら遠雷を聞くが如し」的音がしてしまうのである。哀しいことである。
     *
この項で以前書いた、音が飛ぶスピーカーとそうでないスピーカーがあるのは、そういうことではないのか。
つまり遠くで聴いても音が痩せ細らないスピーカーと痩せ細ってしまうスピーカーとがある。

測定上の音圧は同一であっても、
音が痩せ細ってしまっては、音が飛んでこない、と感じてしまう。

伊藤先生は続けて書かれている。
     *
音はステージから客席に訴えるものであって、シネラマやシネスコープの効果音的効用としての客席周囲の壁面のスピーカーの存在は認めるが、殊に音楽の鑑賞用としてのスピーカーは舞台(ステージ)が基本である。
 大きなホールで四チャンネルステレオを試聴する催が増えて来たが止むを得ぬ事情とは察するが昏迷の世界への勧誘であると思う。
 劇場ではステージから出る音のみに限られ(例外はあるが)、その音の聴衆に到達するまでのある程度のリバービレーションを経た音を鑑賞している。
 一方あたかもその劇場に坐しているかのように現在狭い部屋にいる人に錯覚を起こさせるのが四チャンネル方式である。これを広いホールで演奏し鑑賞させた結果が如何なるものかを判別できないとしたならば無感覚も甚だしきものである。
 適当な広さ(狭さ)の部屋に小人数を招じ入れて最良の条件の位置に坐らせて聞かせるのが四チャンネル方式であり、「何処でもいい処に坐って下さい」といって聞かせるのが劇場である。
 こんな平凡なことが忘却されている処に目的を逸脱した昏迷がある。
     *
ここで伊藤先生が述べられている4チャンネル再生と、
現在のハイエンドオーディオと呼ばれているスピーカーの音場再現とを、
完全に同一視するわけではないし、できないことはわかっているが、
それでも「最良の条件の位置に坐らせて聞かせる」ところは共通するところである。

Date: 11月 1st, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(ガウスのこと・その5)

JBLのスピーカーシステムのユニットをガウスに換装する──、
そんなことをあれこれ考えていたのは、ガウスのユニットへの強い関心だけでなく、
ガウスの音がどういう音なのかがつかめていなかったことも大いにある。

ガウスの音を聴く機会はいなかにいたころはなかった。
となるとオーディオ雑誌のでの評価が気になるわけだが、
ガウスの輸入元となったシャープによるスピーカーシステムの第一弾、CP3830は、
ステレオサウンドの新製品紹介では取り上げられていなかった、と記憶している。

第二弾のCP3820は52号の新製品紹介に登場している。
さらに54号の特集でも取り上げられている。

52号の新製品紹介のページをみて、やっと登場した、と思い読んだ。
CP3820は2ウェイのスタジオモニターであり、
あとからトゥイーターの1502を追加して3ウェイに対応できる。

このことからわかるようにCP3820はJBLの4331を意識したモニターである。
ドライバーは4331は2420だが、CP3820には2440相当のHF4000という違いはあるものの、
コンセプトそのものは4331そのものといえる。

できれば1502を最初から搭載した3ウェイで出してほしかった、と思っていた。
そうすれば、もっとガウスの音についてはっきりしたことがわかるのに……、と思っていた。

HF4000は、52号の記事によれば、
《ハイエンドまでスムーズで、決してレンジが狭い感じがない》と山中先生が発言されている。
そうであろう。
でも1502ほどには高域が伸びているわけではないし、
JBLの4331と4333の関係からしても、ガウスの3ウェイの音が聴きたい、と思う。

それに井上先生がいわれている。
《最良の状態で鳴るガウスのウーファーは、厚みのある低音が特徴となっているのですが、その点にやや不満が残りました。もう少し分厚く、しっかりした質感のクリアーな音が出てしかるべきだと思います。しかし、ウーファーが強力なだけに、エンクロージュアづくりはむずかしいのでしょう。》

CP3820が中途半端なまとめ方のスピーカーのように思えたものだ。

Date: 11月 1st, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(小さい世界だからこそ・その3)

KK塾での濱口秀司氏の話を聞いていると、
世界は広い、という当り前のことを実感するし、
オーディオの世界は、目の前におかれたコップ一杯の水くらいであることも実感していた。

だから会場となったDNPホールに、オーディオ関係者がまったくいなくても不思議でもない。
もう七年以上の前のことだ。
川崎先生の講演をききたい、という人がいた(ひとりではない)。
オーディオの仕事をしている人だ。

二度ほど東京で川崎先生の講演があることを伝えた。
けれど来なかった。

人それぞれいろんな事情があるから……、ということはわからないわけではないが、
その程度なのか、と思い、それ以降伝えることはやらなくなった。

直接オーディオに関係する話が出てこないのならば、
オーディオ関係者として行く必要はないと考えているのかどうかは私にはなんともいえない。

それでも、なぜ来ないのか、とは川崎先生の講演の度に思うことだ。

二年前の三月、川崎先生の最終講義をききにいったことを書いている。
大阪大学に行われたにもかかわらず、オーディオ関係者がふたり来られていた。
今回のKK塾でも、このオーディオ関係者のふたりは来られていた。
(もしかすると他にも来られていたオーディオ関係者がおられたかもしれないが)

世界の広さからすれば、オーディオの世界はコップ一杯の水くらいなのだから、
KK塾にオーディオ関係者がまったくゼロであっても、対比からすればそうかもしれない。

でも来る人は来る。
来ない人は来ない。

そのことも実感していた。

Date: 11月 1st, 2015
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その12)

トーキー用スピーカーといえば、まずウェスターン・エレクトリックのスピーカーのことである。
その次にシーメンスのスピーカーが、私の場合は頭に浮ぶ。

ウェスターン・エレクトリック、シーメンスときいて、私はそれぞれのスピーカーの型番よりも、
まず先に思い出すのは伊藤先生のことだ。

伊藤先生はトーキーの仕事をされてきた方だ。
伊藤先生はトーキー用スピーカーのことをどう表現されているのか。

ステレオサウンド 24号掲載の「獄道物語(2)」で、
劇場用と家庭用の音のあり方、について書かれている。
     *
 映画の音に就いて甚だ感覚的な談をさせて頂くが、前号にも述べたように今まで自分が追求していた音のすべては自分の住居の広さ、つまり極めて狭い場所で鑑賞していたのに較べて映画の音は劇場のあの広さの中で聞くのである。しかも入場税までも払って鑑賞するのである。「新発売、当社のステレオ装置試聴会にご招待、粗品呈上」とはわけが違う。聴衆は貪欲に聴こうとする。
 とにかく金を払ったからには聞く方は必死であり、金を取ったからには聞かせる方も真剣である。スクリーンに画が映るというおまけがあるが私達には音の方が大切である。
 ウェスターンの再生装置を確認して入場するのである。勿論光学録音であるから自分の所有している再生装置と音を較べくもないが問題は休憩時間に演奏してくれるディスクである。一般に市販されているレコードをかけてくれるのである。
 ステージに据付けられた五五五型のレシーバーから流れ出るその音は、最早私に帰宅して自作のシステムを聞こうとする意欲を完全に喪失させてしまうほどの絶品であった。
 英国フェランティのスピーカーとトランス、そして英国マルコニのピックアップで組み上げた私の装置も顔色なく、よい音を出すには生やさしい金では不可能であるという諦めとも悲憤ともつかぬ、初恋の失恋でなく分別盛りの失恋に似たものを味わわされた。
 相当のパワーを出して、ある距離をおいて、ある拡がりを与えてから聞く目的のスピーカーは別格のものである。
     *
伊藤先生が映画館に、ウェスターン・エレクトリックの音を聴きに通われていたころは、
休憩時間にレコードがかけられていたことがわかる。
私が小さかったころ、いなかの映画館でも休憩時間には音楽が流れていた。
けれど、それはレコード(ディスク)ではなく、テープであったはずだ。

上京してからも、休憩時間には音楽が流れていたが、
あきらかに貧相な音で鳴っているのしか記憶にない。

休憩時間にウェスターン・エレクトリックのシステムでディスクが聴ける。
うらやましい時代である。

24号は1972年のステレオサウンドである。
ここで、伊藤先生は「休憩時間に演奏してくれるディスク」という表現されていることにも注目したい。

Date: 10月 31st, 2015
Cate: デザイン

「デザインするのか、されるのか」(その1)

デザインするのか、されるのか。

かなり前からひっかかっていた。
「デザインするのか、されるのか」、どこかで読んだことがあると思われる人もいよう。
ステレオサウンド 24号掲載の、黒田先生の連載「ぼくは聴餓鬼道に落ちたい」のタイトルが
「デザインするのか、されるのか」だった。

黒田先生の「デザインするのか、されるのか」の本文中には、デザインはどこにも出てこない。
この「デザインするのか、されるのか」は、
黒田先生がつけられたものなのか、それとも編集者の案なのか。
黒田先生がつけられたのだとしても、なぜ「デザインするのか、されるのか」とされたのか。

ステレオサウンド 24号は1972年に出ている。
私が読んだのはこのときではなく、「聴こえるものの彼方へ」におさめられているのを読んでいる。
1978年よりあとのことだ。

このころは川崎先生の書かれたものは読んでいなかった(出ていなかった)。

「デザインするのか、されるのか」から十数年後、川崎先生の文章とであう。
毎月MacPower誌での連載を読んでいくうちに、
この「デザインするのか、されるのか」を思い出していた。

同時に、グレン・グールドのことを考えていた。
グールドはピアノを使ったデザイナーなのではないか、
そう考えるようになってきた。

KK塾第一回の濱口秀司氏の講演をきいて、
グールドはピアノを使ったデザイナーなのだ、と確信した。

Date: 10月 30th, 2015
Cate: 川崎和男

KK塾

KK塾に行ってきた。KKとはKazuo Kawasakiのことである。
これまで大阪で行われていたKK塾。大阪まで行けなかったから東京で行われるのを待っていた。

今日が東京での一回目である。
五反田にあるDNPホールに行ってきた。

一回目の講師は濱口秀司氏。13時30分に始まり終ったのは17時30分ごろだった。
途中休憩は10分程度。
なぜ無料で行われているのかと思うほどの内容だった。

濱口氏の話を聞いてグレン・グールドのことを考えていた。
なぜコンサート・ドロップアウトしたのか、
その理由はあれこれ語られているが、濱口氏の話を聞いていて、
そういうことだったのかと思うことがあった。

濱口氏の話に音楽のことは出なかった。
けれど、グールドのことを考えていた。

イノヴェーションの作法。
まさにグールドがコンサート・ドロップアウトして試みていたのはイノヴェーションの作法だった、と思っていた。

Date: 10月 30th, 2015
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(その10)

1970年代後半、ボンジョルノのGASのアンプの音は男性的といわれた。
レヴィンソンのLNP2は、女性的なところがあるともいわれていた。

黒田先生がステレオサウンド 24号、「カザルス音楽祭の記録」についての文章がある。
     *
 端折ったいい方になるが、音楽にきくのは、結局のところ「人間」でしかないということを、こんなになまなましく感じさせるレコードもめずらしいのではないか。それはむろん、カザルスのひいているのがチェロという弦楽器だということもあるだろうが、スターンにしても、シゲティにしても、ヘスにしても、カザルスと演奏できるということに無類のよろこびを感じているにちがいなく、それはきいていてわかる、というよりそこで光るものに、ぼくは心をうばわれてしまった。
 集中度なんていういい方でいったら申しわけない、なんともいえぬほてりが、室内楽でもコンチェルトでも感じられて、それはカザルスの血の濃さを思わせる。どれもこれもアクセントが強く、くせがある演奏といえばいえなくもないだろうが、ぼくには不自然に感じられないし、音楽の流れはいささかもそこなわれていない。不注意にきいたらどうか知らないが、ここにおいては、耳をすますということがつまり、ブツブツとふっとうしながら流れる音楽の奔流に身をおどらせることであり、演奏技術に思いいたる前に、音楽をにぎりしめた実感をもてる。しかし、ひどく独善的ないい方をすれば、この演奏のすごさ、女の人にはわかりにくいんじゃないかと思ったりした。もし音楽においても男の感性の支配ということがあるとしたら、これはその裸形の提示といえよう。
     *
ここで語られていることがそっくりそのままボンジョルノのアンプにあてはまるとまでは言わないが、
大筋においてはそういえる。
GASのAMPZiLLA、THAEDRA、SUMOのTHE POWER、THE GOLDの音は、まさしくそうである。
だから、ボンジョルノのアンプの音は男性的といえる。

そして、「鮮度」に関してもそうだといえる。

Date: 10月 29th, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(ガウスのこと・その4)

JBLの4350は4ウェイ5スピーカーのシステムで、
フロントバッフルにはウーファー用の開口部が二つ、ミッドバス用が一つ、
ミッドハイとトゥイーターに関してはバッフルの左右どちらにでも取りつけられるように、
計四つの開口部がある。
これにプラス、バスレフのダクトが六つある。
これだけで十四もの穴がフロントバッフルに開けられている。

もっといえばトゥイーターのレベルコントロール用の小さな穴もあるから、正確には十五である。

これだけの開口部をもつ4350のフロントバッフルに、
ガウスのユニットにすべて換装した状態で約18kgの重量がプラスして加わるわけだから、
フロントバッフルの強度について配慮する必要が出てくるだろうし、
フロントバッフルへの荷重が増えたことで振動モードも変化しているとみるべきである。

フロントバッフルの振動モードが変れば、
この影響はエンクロージュアの他の面に対しても波及していく。
フロントバッフルの変化ほど大きくなくとも、
フロントバッフルが振動的に遮断されていないのだから、
対向面のリアバッフルの振動も変化して、他の面に関しても変化していく。

それからシステム全体の重心も、よりフロントバッフル寄りになる。
4350を床にベタ置きしている場合は床への荷重が変化するし、床の振動も変化する。
なんらかの台にのせていたら、台への荷重が変る。

台の上での4350の位置を前後に動かした時の音の変化も、
JBLの純正ユニット装着時よりも大きくなるはずだ。

4350Aのユニットをガウスに換装して、音がどう変化するのかはなんともいえない。
うまくいくのかもしれない。

そうであっても、JBLのユニットよりガウスのユニットが優秀だからとは言い切れない。
スピーカーシステムとして捉えてみると、結局総合的に判断するしかないからだ。

いまはそんなこまかなことまで考えてしまう。
ガウスが登場したころは、こんなことは考えもしなかった。
ただただガウスに換装した4350Aの音を聴きたい、と思っていた。

Date: 10月 28th, 2015
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その3)

 船舶は、転覆をしないように重心を低くするため、船底に重いバラスト(底荷)を積んでいる。これは直接的な利潤を生まない「お荷物」ではあるが、極めて重要なものである。
 歌人の上田三四一(みよじ)氏は、「短歌は高い磨かれた言葉で的確に物をとらえ、思いを述べる、日本語のバラスト(底荷)だと思い、そういう覚悟でいる。活気はあるが猥雑な現代の日本語を転覆から救う、見えない力となっているのではないか」、このように書かれている。
     *
アキュフェーズの創業者である春日二郎氏の「オーディオ 匠のこころを求めて」からの引用である。
「オーディオはバラスト」とつけられた短い文章だ。

短歌は日本語のバラスト(底荷)だ、という上田三四一氏のことばがある。

多機能コントロールアンプの代名詞といえるヤマハのCI、テクニクスのSU-A2のデザインに、
短歌的といえるなにかを見いだすことができるのであれば、
そのひとつは、バラストということかもしれない。

バラストは底荷だから、機能として目に見える存在ではない。
でもバラストがなければ船舶は転覆する。

コントロールアンプでは、それはどういうことなのか。

Date: 10月 27th, 2015
Cate: ロマン

ダブルウーファーはロマンといえるのか(その8)

38Wにおける横に二発なのか縦に二発なのかは、
部屋の長辺にスピーカーを置くのか、短辺に置くのかに共通するところもあるように感じる。

これは同じ部屋に同じスピーカーだとしても、どちらを選ぶかは鳴らす人(設置する人)次第である。
私は原則として長辺に置く。左右のスピーカーの間隔を充分にとれるほうを選ぶのは、
もちろん瀬川先生の影響も強いからだが、
低音の鳴り方もこちらのほうがいい結果が得られやすいとも感じているからだ。

横配置なのか縦配置なのかは、低音の風圧なのか音圧なのかにも関係しているような気がしている。
私が欲しいのは音圧としての低音ではなく、風圧としての低音なのかもしれない。

このふたつのバランスが、私にとっては耳で聴く低音と肌で感じる低音感とのバランスなのだろう。

そういえば岩崎先生が言われていた。
     *
本物の低音というのは、フーっという風みたいなもので、そういうものはもう音じゃないんですよね。耳で音として感じるんじゃないし、何か雰囲気で感じるというものでもない。振動にすらならないようなフーっとした、空気の動きというような低音を、そういう低音を出すユニットというのは、今なくなって来ています。
(ステレオのすべて ’77「海外スピーカーユニット紳士録」より)
     *
空気の振動としての低音(つまり音圧)ではなく、
空気の動きというような低音(つまり風圧)が、音の形としての音像につながっている。

Date: 10月 27th, 2015
Cate: atmosphere design

atmosphere design(その3)

「色即是空、空即是色」なのかと思う。

Date: 10月 27th, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(ガウスのこと・その3)

そんな妄想をしていた高校時代にはインターネットはなかった。
技術的な資料を得ようとしても、なかなか目的の資料にたどりつくことはできないことも多かった。

だから4350のネットワークがどうなっているのか、正確には何も知らなかった。
4350Aのユニットをガウスに換装する──、
これは実のところ、そう簡単なことではないというのは、後になってわかった。
4350のネットワークの回路図を見て、はじめてわかった。

以前書いているように、4350のミッドハイ(2440)に対するネットワークは、
ローカットフィルターのみである。
ハイカットフィルターはない。
2440がエッジの共振を9.6kHz利用して高域をのばしているため、
これより上の周波数では音圧が急峻に減衰していく。
いわば音響的ハイカットフィルターつきドライバーである2440(375もそうである)だから、
4350のようなネットワーク構成ができる。

ここに設計思想の異るドライバーを持ってくるとなると、
なんらかのハイカットフィルターが必要となる。
それに4350Aではミッドバスとミッドハイにはレベルコントロールもない。

4350において、音楽の中核を成す帯域に関しては、アンタッチャブルとなっている。
この点に関しても、JBLからガウスへの換装はすんなりいくわけではない。

でも、当時はこんなことは知らなかった。
だから妄想が楽しめた、ともいえる。

ガウスに換装したら、システムトータルの重量が増す。
大雑把にいって、ガウスのユニットはJBLのユニットよりも約4kgほど重い(カタログ上の比較)。
トゥイーターは約2kgの差だから、約18kg重くなる。

ユニット個々の価格もガウスが高かった。
重くなり高くなる。

こんな単純なことを電卓片手に計算しては喜んでいた。