トーキー用スピーカーとは(その12)
トーキー用スピーカーといえば、まずウェスターン・エレクトリックのスピーカーのことである。
その次にシーメンスのスピーカーが、私の場合は頭に浮ぶ。
ウェスターン・エレクトリック、シーメンスときいて、私はそれぞれのスピーカーの型番よりも、
まず先に思い出すのは伊藤先生のことだ。
伊藤先生はトーキーの仕事をされてきた方だ。
伊藤先生はトーキー用スピーカーのことをどう表現されているのか。
ステレオサウンド 24号掲載の「獄道物語(2)」で、
劇場用と家庭用の音のあり方、について書かれている。
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映画の音に就いて甚だ感覚的な談をさせて頂くが、前号にも述べたように今まで自分が追求していた音のすべては自分の住居の広さ、つまり極めて狭い場所で鑑賞していたのに較べて映画の音は劇場のあの広さの中で聞くのである。しかも入場税までも払って鑑賞するのである。「新発売、当社のステレオ装置試聴会にご招待、粗品呈上」とはわけが違う。聴衆は貪欲に聴こうとする。
とにかく金を払ったからには聞く方は必死であり、金を取ったからには聞かせる方も真剣である。スクリーンに画が映るというおまけがあるが私達には音の方が大切である。
ウェスターンの再生装置を確認して入場するのである。勿論光学録音であるから自分の所有している再生装置と音を較べくもないが問題は休憩時間に演奏してくれるディスクである。一般に市販されているレコードをかけてくれるのである。
ステージに据付けられた五五五型のレシーバーから流れ出るその音は、最早私に帰宅して自作のシステムを聞こうとする意欲を完全に喪失させてしまうほどの絶品であった。
英国フェランティのスピーカーとトランス、そして英国マルコニのピックアップで組み上げた私の装置も顔色なく、よい音を出すには生やさしい金では不可能であるという諦めとも悲憤ともつかぬ、初恋の失恋でなく分別盛りの失恋に似たものを味わわされた。
相当のパワーを出して、ある距離をおいて、ある拡がりを与えてから聞く目的のスピーカーは別格のものである。
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伊藤先生が映画館に、ウェスターン・エレクトリックの音を聴きに通われていたころは、
休憩時間にレコードがかけられていたことがわかる。
私が小さかったころ、いなかの映画館でも休憩時間には音楽が流れていた。
けれど、それはレコード(ディスク)ではなく、テープであったはずだ。
上京してからも、休憩時間には音楽が流れていたが、
あきらかに貧相な音で鳴っているのしか記憶にない。
休憩時間にウェスターン・エレクトリックのシステムでディスクが聴ける。
うらやましい時代である。
24号は1972年のステレオサウンドである。
ここで、伊藤先生は「休憩時間に演奏してくれるディスク」という表現されていることにも注目したい。