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Date: 9月 13th, 2016
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その5)

菅野先生が以前いわれたことを思いだす。

ある有名な録音エンジニアによる録音のことだった。
どう思うか、ときかれた。
その録音エンジニアの録音を数多く聴いていたわけではなかった。
せいぜい数枚程度だった。

その範囲内での感じたことを話した。
菅野先生は、いわれた。
「いい音だけど、毒にも薬にもならない音だろう」と。

確かにそのとおりだった。
ケチがつけられるような録音ではない。
だから優秀録音として、高く評価されている。
いい音といえばそうであり、それを否定することは難しい。

それでもこちらの心にひっかかってくるところが稀薄にも感じていたのかもしれない。
だから菅野先生の「毒にも薬にもならない」に納得したのだろう。

「毒にも薬にもならない」音が、現代を象徴する音かもしれない。
この録音エンジニアの録音を高く評価する人が、
非常に優れていると評するスピーカーの音もまた、私には「毒にも薬にもならない」と感じられる。

録音として優秀であれば、
スピーカー(変換機)として優秀であれば、それでいいではないか。

それが「毒にも薬にもならない」ということだろう、といわれれば、
特に反論はしないけれども、それでもこれらの音は私にとって「耳に近く、心に遠い」音なのだ。

おそらく菅野先生の「毒にも薬にもならない」は、
同じ意味であったように思っている。

Date: 9月 13th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ヤマハNS1000M・その7)

ステレオサウンド 64号の特集では、三組のスピーカーシステムを使っている。
JBLの4343が通常の位置に置かれ、その両脇にタンノイのArden IIとヤマハのNS1000Nだから、
NS1000MとArden IIのセッティングは、決していいとはいえない。

しかもNS1000Mはブックシェルフ型でスタンドを必要とする。

確か、このときのスタンドは他社製のスピーカー用であり、
しかもオーディオ店で使いやすいように、ということでキャスターが付いているモノだった。

お世辞にもスタンドとして、音的に推奨できるタイプではない。
ステレオサウンドでも、64号以降、このスタンドは使っていないし、
ブックシェルフ型スピーカーシステムのセッティングは、かなり変っていった。

それでもケンウッドのL02Aで鳴らしたNS1000Mの音は、印象に残っている。
スタンドをきちんとしたモノに変更し、4343とArden IIを試聴室から運び出して、
NS1000Mだけにして、L02Aで鳴らしたら、どこまで音をチューニングしていけただろうか。

そのことを考えると、いまでもワクワクしてくる。
NS1000MもL02Aも、いま程度のいい個体を探しだすのは大変なことだろう。
オーディオ店では、完全メインテナンス済みと謳っていたりするけれど、
そんなのは信じない方がいい、とだけはいっておこう。

64号の試聴ではNS1000Mの条件は決していいものではなかった。
それでも、あれだけの音を聴かせてくれた、という記憶はしっかりと残っている。

Date: 9月 13th, 2016
Cate: 素材

羽二重(HUBTAE)とオーディオ(その15)

別項「wearable audio(その1)」で書いたこと。
あの日、菅野先生のリスニングルームで私の腕の肌が感じていたことを思いだしている。

もしあの時、体を強ばらせる聴き方をしていたら、
きっと腕の肌は、音を感じること、音の波動を感じることはなかったように思う。

あの日、露出していたのは腕だけだった。
それこそ究極的には全裸で聴いていたら……、そんなことを想像もしていた。

仮に、あの日の菅野先生の音を自分の音とできたとして、
自分のリスニングルームで全裸で聴くかといえば、なかなかできないだろう。

独り暮しなのだから、気兼ねすることなく、
外から覗かれなければ全裸で聴いてもかまわないし、特に問題はない。
間違いなく、全裸で聴いた方が、より音楽を体感できる、という確信はある。

それでも……、である。
いくら独りでの行為とはいえ、眼前で音楽が演奏されている以上、
服はきちんと着ていたい、と思う。

ならば、服を着ることで、全裸よりもよりよく体感できるようにすることを考えるべきである。
そこで思い出すのが触覚コンタクトレンズである。

Date: 9月 12th, 2016
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その10)

いかなる方式の、素材を使ったユニットであれ、
固有音から逃れることは完全にはできない。

同じ方式のユニットであっても、構造、素材が違えば、音は同じにはならない。
それでもある種の共通する音が、最後までわずかに残ることがある、ともいえる。

モノ(素材)・コト(方式)には、固有音がそれぞれあり、
その固有音同士の関係・組合せが最終的な音になっている、とも考えられる。

ハイルドライバー(Air Motion Transformer)も、完璧なトランスデューサーなわけではない。
そこにはなんらかの固有音が存在する。

私が気になっているのは、Air Motion Transformerという方式による固有音というよりも、
ダイアフラムに使う高分子フィルムをプリーツ状に加工して動作させることによって、
顕在化してきた固有音のようにも感じている。

細かな改良・工夫によって、固有音を抑えていくことはできる。
ダイアフラムの材質は同じであっても、
そこにプリントする導体によって、音は変化してくるはずだ。

一般的にはアルミ箔が多いようだが、
渡辺成治氏製作のATMユニットは銅箔だった。
アルミ箔と銅箔とでは、わずかに質量も変化するだろうが、アルミと銅の素材としての違いが、
音にあらわれていないとはいえない。

アルミ箔でもなく銅箔でもなく、金箔だったら……、とも想像している。

高分子フィルムといっても、さまざまな種類があるだろうから、
微妙に音は違うはずである。

ハイルドライバーはダイアフラムの、この種の違いを聴き分けるのに都合がいい。
磁気回路、フレームはそのままでダイアフラムだけを簡単に交換できるからである。

ダイアフラムがカートリッジ式になっていて、
上部から抜き差しするだけで交換できるのは、エッジやダンパーをもたない構造の特長である。

Date: 9月 12th, 2016
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その9)

平面スピーカーで知られるFAL(古山オーディオ)では、
ハイルドライバーのトゥイーターを扱っている。
そこにはスイス製のダイアフラム、とある。

FALオリジナルハイルドライバーとある。
ということはダイアフラムだけを輸入して、磁気回路、フレームをつくり、
ATMトゥイーターとして製品化しているのたろう。

どのメーカー製なのか、詳細はないが、もしかするとERGO製なのかもしれない。
ヘッドフォンに使われているダイアフラムを使っていたとしても、ふしぎではない。

ならば逆も可であるのだから──、と考える。
ハイルドライバー(Air Motion Transformer)のヘッドフォンではなく、
AKGのK1000のハイルドライバー版が実現できないのだろうか、と。

ステレオサウンド別冊「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」には、
ESSのヘッドフォンもMK1Sも登場している。
ハイルドライバーのヘッドフォンである。
     *
 スピーカーではすでにトゥイーターとして実用化されているハイルドライバーの応用という特殊型だ。中音域は広い音域にわたって全体に自然だが、高音域のごく上の方(おそらく10数kHz)にややピーク性の強調感があって、ヴォーカルの子音がややササクレ立つなど、固有の色が感じられる。が、そのことよりも、弦のトゥッティなどでことに、高音域で音の粒が不揃いになるように、あるいは滑らかであるべき高音域にどこかザラついた粒子の混じるように感じられ、ヨーロッパ系のヘッドフォンのあの爽やかな透明感でなく、むしろコスHV1Aに近い印象だ。低音がバランス上やや不足なので、トーンコントロール等で多少増強した方が自然に聴こえる。オープンタイプらしからぬ腰の強い音。かけ心地もかなり圧迫感があって、長時間の連続聴取では疲労が増す。直列抵抗を入れた専用アダプターがあるが、スピーカー端子に直接つないだ方が音が良いと感じた。
     *
ESSのラインナップにヘッドフォンはあるが、ハイルドライバーではない。
リエイゾン・オーディオからもATM方式のヘッドフォンは登場している。
こちらは全体域をATMでカバーしているわけではなく、2ウェイとなっている。

私が欲しいのは、くり返すがK1000のハイルドライバー版であり、
ハイルドライバーの同相ダイボール型という特性は、K1000と同じ構造にぴったりといえる。

と同時に、瀬川先生が「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」で指摘されていること。
この点は、ESSのヘッドフォン固有の問題とは捉えていない。

以前エラックのCL310を鳴らしていた。
そのとき、同じようなことを感じていたからだ。

Date: 9月 12th, 2016
Cate: ステレオサウンド

夏の終りに(ステレオサウンド)

野球にほとんど関心のない私でも、
広島カープが25年ぶりに優勝したことは知っているし、
いくつかのニュースを読んでいる。

その中に、広島カープは1番から9番まで、チーム生え抜きの選手、というものがあった。
他球団の有名選手を金銭トレードで獲得して、チーム強化を図るのを悪いことだとも思っていないが、
それでも広島カーブのような球団があるのか、と少し驚くとともに、
ステレオサウンドは広島カープではないな、と思っていた。

ステレオサウンドは、はっきりと広島カープとは対極の方針である。
いわば読売ジャイアンツ的である。

このことは私がいたころから編集部で何度か話していた。
生え抜きの書き手がいるだろうか。
一から書き手を育てるのかどうか。
そういうことを話していた時期がある。

ステレオサウンドに書いている人たちは、ほとんどがどこかで書いていて、
それからステレオサウンドに書くようになった人たちだ。

野球選手とオーディオ評論家は同じには語れないのはわかっている。
野球選手は同時に複数の球団に所属できないが、
書き手はいくつもの出版社の雑誌に書いていける。

そんな違いがあるのはわかったうえで書いている。
ステレオサウンド生え抜きの書き手は……、と。

Date: 9月 12th, 2016
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その8)

ステレオサウンド別冊「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」で、
イエクリン・フロート Model 1が取り上げられている。
瀬川先生の評価は高かった。
     *
 かける、というより頭に乗せる、という感じで、発音体は耳たぶからわずかだか離れている完全なオープンタイプだ。頭に乗せたところは、まるでヴァイキングの兜のようで、まわりの人たちがゲラゲラ笑い出す。しかしここから聴こえてくる音の良さにはすっかり参ってしまった。ことにクラシック全般に亙って、スピーカーからはおよそ聴くことのできない、コンサートをほうふつさせる音の自然さ、弦や木管の艶めいた倍音の妖しいまでの生々しさ。声帯の湿りを感じさせるような声のなめらかさ。そして、オーケストラのトゥッティで、ついこのあいだ聴いたカラヤン/ベルリン・フィルの演奏をありありと思い浮べさせるプレゼンスの見事なこと……。おもしろいことにこの基本的なバランスと音色は、ベイヤーDT440の延長線上にあるともいえる。ただ、パーカッションを多用するポップス系には、腰の弱さがやや不満。しかし欲しくなる音だ。
     *
この試聴の時点で、イエクリン・フロート Model 1の入手は、
オーディオ店に行けば、すぐ買えるというものではなかったようだ。

「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」の推薦機種のところで、
《残念ながら入手が不可能らしいイエクリン・フロート》と書かれている。

Jecklin Floatはスイスのブランドだった。
正確にはどう発音するのか。
イエクリン・フロートなのか、ジャクリン・フロート、それともエクリン・フロートなのか。
ここではイエクリン・フロートを使う。

「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」が出た時点で、
イエクリン・フロート Model 1の製造中止のように思われていたが、
海外ではあたりまえに入手できていた、ともきいている。

イエクリン・フロート Model 1は、聴きたかったヘッドフォンであり、
聴けなかったヘッドフォンである。
イエクリン・フロート Model 1はコンデンサー型で、
のちのAKGのK1000の原型と捉えることもできなくはない。
つまりヘッドフォンというよりは、イヤースピーカーと云った方が、より近い。

イエクリン・フロートはその後、いろいろあったようで、ERGO(エルゴ)というブランドに変り、
コンデンサー型からAMT(Air Motion Transformer)へと変っている。

Date: 9月 12th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ヤマハNS1000M・その6)

1978年のステレオサウンド別冊「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」で、
瀬川先生がヤマハのC2+B3の音について書かれている。
     *
 以前B2と組み合わせて聴いたC2だが、パワーアンプが変ると総合的にはずいぶんイメージが変って聴こえるものだと思う。少なくともB3の出現によって、C2の本当に良い伴侶が誕生したという感じで、型番の上ではB2の方が本来の組合せかもしれないが、音として聴くかぎりこちらの組合せの方がいい。B2にはどこか硬さがあり、また音の曇りもとりきれない部分があったがB3になって音はすっかりこなれてきて、C2と組み合わせた音は国産の水準を知る最新の標準尺として使いたいと思わせるほど、バランスの面で全く破綻がないしそれが単に無難とかつまらなさでなく、テストソースのひとつひとつに、恰もそうあって欲しい表情と色あいを、しかしほどよく踏み止まったところでそれぞれ与えて楽しませてくれる。当り前でありながら現状ではこの水準の音は決して多いとはいえない。ともかく、どんなレコードをかけても、このアンプの鳴らす音楽の世界に安心して身をまかせておくことができる。
     *
ヤマハのアンプの特質が、ここに表現されている。
すべてのヤマハのアンプが、ここに書かれている音を聴かせてくれるわけではないが、
ヤマハの、このころの優秀なアンプは、セパレートアンプ、プリメインアンプであっても、
まさに、ここに書かれているとおりの音といえた。

《国産の水準を知る最新の標準尺》、
これもまさにそうであった。
いつのヤマハのアンプをじっくり聴いているわけではないので、あえて過去形にしている。

《テストソースのひとつひとつに、恰もそうあって欲しい表情と色あいを、しかしほどよく踏み止まったところでそれぞれ与えて楽しませてくれる。》
これも、まさにそのとおりである。
「ほどよく踏み止まったところ」、これはほんとうにそのとおりとしかいいようがない。

そのような音のヤマハのアンプで鳴らすNS1000Mの音もまた、
他社製のアンプで鳴らすNS1000Mの音を評価していく上で、ひとつの標準尺として機能する。

ケンウッドのL02Aで鳴らすNS1000Mの音がいまも思い出せる私は、
そこにわずかなもの足りなさを感じるのかもしれない。

Date: 9月 11th, 2016
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のスピーカーのこと(その15)

スピーカーユニットを多数使うことに、別に懐疑的ではない。
けれど、若いころは、それこそ絶対的にスピーカーユニットは並列接続すべきだと考えていた。

そう思いこんでいたのは、振動板はピストニックモーションが理想であり、
振動板がピストニックモーションであれば、
その振動板が鳴らす空気もピストニックモーションである──、
そう考えていたからでもあった。

けれどピストニックモーションの幻想から一歩離れてしまえば、
振動板のピストニックモーション・イコール・空気のピストニックモーションではないことは、
容易に想像がつく。

けれど、その一歩離れることが、なかなか難しかったし、
そのきっかけとなったのが、私の場合、(その14)で書いているように1996年、
NTXスピーカーの登場まで俟たなければならなかった。

ピストニックモーションこそが……、という思いこみは、
XRT20を眺めたときに、24個のトゥイーターを並列接続にすべき、と見てしまっていたし、
XRT20以前のスピーカー、BOSEの901に関して、同じに見てしまっていた。

901は10cm口径のフルレンジユニットを9発使っている。
使用されているスピーカーユニットのインピーダンスは0.9Ω。
9発すべてを直列接続しているから、0.9×9=8.1Ωとなる。

901の存在を知ったとき、おもしろいスピーカーと思いながらも、
私だったら、絶対的に並列接続するのに、その方が絶対音は良くなるのに……、
不遜にもそう捉えてしまっていた。

振動板を動かすことと空気を動かすことは、同じではない。

Date: 9月 11th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ヤマハNS1000M・その5)

ヤマハは総合オーディオメーカーであったから、
NS1000Mを鳴らすためのアンプも用意していた、と見ていい。

となるとどのアンプがそうなのか。
型番からいえばプリメインアンプのCA1000(III)となる。
価格的にもCA1000が、ヤマハが想定していたアンプのひとつと見て間違いない。

CA1000の上級機としてCA2000が登場した。
当時のヤマハにはNS2000という型番のスピーカーはなかった。
CA2000もNS1000Mのためのプリメインアンプとみていい。

ただCA1000にしてもCA2000にしても、アピアランス的にNS1000Mにマッチしているかというと、
そうとはいえず、仕上げの違うNS1000との組合せを前提しているのか。
NS1000でも、木目の色調がかなり違うのも、実際のところどうなのだろうか。

アピアランスでいえば、NS1000Mを鳴らすアンプは、
プリメインアンプの中にはなく、セパレートアンプのC2とB2の組合せとなる。

価格的なバランスは、C2が15万円、B2が20万円で、
アンプにややウェイトを置きすぎのような気もするが、非常識な組合せではない。
C2とB2で鳴らすNS1000Mの音を聴いた人は、けっこういるのではないだろうか。

私もNS1000Mは、いくつかのアンプで鳴らした音を聴いている。
ステレオサウンドで働くようになって、けっこう数を聴いている。
ヤマハのアンプで鳴らすNS1000Mの音も、もちろん聴いている。

ステレオサウンド 64号の特集では、
プリメインアンプのA8と、セパレートアンプではC50+B50、C70+B70の音を聴いている。
悪い音ではなかったはずだ。

悪い音、ひどい音であればけっこう憶えているからだ。
でも、64号を読み返しても、ヤマハのアンプで鳴らしたNS1000Mの音をうまく憶い出せないでいる。
つまり印象にのこっていないからなのだが、
それはヤマハのアンプが冴えなかったからではない。

ケンウッドのL02Aで鳴らしたNS1000Mの音が良すぎたから、
その音の印象が強すぎるためである。

Date: 9月 11th, 2016
Cate: audio wednesday

第69回audio sharing例会のお知らせ

10月のaudio sharing例会は、5日(水曜日)です。

テーマは未定。
やりたいことはいくつかあっても、その準備がうまくいくかどうかと時間の都合もあるから、
いつやれるかがはっきりと決るわけでもない。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 9月 11th, 2016
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その3)

ここでのタイトルは「感覚の逸脱のブレーキ」である。
つまり感覚の逸脱をすべて否定しているわけではなく、
むしろ感覚の逸脱を怖れることはないし、
さらにいえば積極的に感覚の逸脱を行う(試みる)ことも必要だと考えている。

そのうえで感覚の逸脱の「ブレーキ」が必要となる──、という考え方である。
ブレーキがあるからこそ、信頼できるブレーキがあれば、
感覚の逸脱も逸脱しすぎるということはない。

逸脱しすぎてしまうことの怖さは、
逸脱していることを意識しなくなる(感じなくなる)ことではないだろうか。

録音・再生の約束事を無視して感覚の逸脱という暴走に、ブレーキをかけることをしない。
どんどんと逸脱していってしまう。
そういう実例を知っているからこそ、この項を書いている。

Date: 9月 10th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「気」と「手」(その1)

オーディオに不可欠なものとして、電気と空気が挙げられる。
将来はスピーカーというトランスデューサーを必要とせず、
脳に直接信号を送るという技術が生れるであろうし、
そうなったら空気は必要不可欠なものではないわけだが、
いまわれわれがオーディオと認識している現象には、
電気と空気は必要不可欠であり、
どちらにも「気」がついている。

空気も電気に形がないから、「気」なのかと思いながら、
なぜ聴き手には「手」がついているのかを考えてしまう。

書き手ならば、まだわかる。
書くためには手を使う。だから書き手。
読み手もそうだ。本を読むのに手を使う。だから読み手。

楽器の演奏者を弾き手という。
これもわかる。
楽器を弾くには手を使う。だから弾き手。

けれど聴き手はどうだろう。
ここでの聴き手は、音楽を聴く人のことである。

たとえばインタヴューをする人のことを聞き手という。
これはまだ理解できる。
相手が話したことを書き留めるために手を使う。
そんなふうに解釈できないこともない。

でも聴き手は違う。
聴く前には手を使う。
LPなりCDなりセットして、音を出すまでには、さほどでもないにしろ手を使う。
だが音を出たら、手を使うことはない。
にも関わらず聴き手というのは、なぜなのか。

「気」と「手」がいま気になっている。
関係しているように感じているからだ。

Date: 9月 10th, 2016
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その2)

信号処理に関係する機能は、感覚の逸脱のアクセルとなる、ともいえる。
レベルコントロールも、音量を上げすぎと感じたら、
それは感覚の逸脱であり、レベルコントロールをすっと下げるわけだが、
感覚の逸脱ということでは音量が小さすぎるのも、感覚の逸脱といえるはずである。

音楽には、個々の楽器には適正音量があるからこそ、
上げすぎと感じるともいえる。
ならば音が小さすぎるのも、適正音量から外れているのだから、
適正音量の範囲までレベルコントロールをあげるのかといえば、
多くの場合、音量が大きいことは批判の対象となりがちなのに、
音量が小さいことはそうはならず、むしろ評価としては高くなることがある。

アクースティック蓄音器にはレベルコントロールはなかった。
レベルコントロールがつき、音量を自在に変えられるようになるのは、
電気蓄音器になってからである。

電気が蓄音器をコントロールするようになり、
レベルコントロールだけでなく、さまざまな信号処理機能が付加されていった。
フィルター、トーンコントロール、グラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザー、
さらにはデジタル信号処理が加わることで、使い手がいじれる領域は拡大していっている。

感覚逸脱のアクセルは、逸脱の度合はそれぞれ違うけれど、確実に増えてきている。
怖いのは、これらを使う人が、
必ずしも感覚の逸脱のアクセルになるということを意識していないことにある。

別項で書いている「間違っている音」に関しては、その実例でもある。
最新の、それもプロフェッショナルが使う信号処理の機器を手に入れて、
あきらかに逸脱してしまっていた。

本来、これらの機器は、ブレーキとまではいえなくとも、いわば整音の機能を実現したモノである。
なのに使い手によって、反対の機能として働くことになる。

Date: 9月 9th, 2016
Cate: 柔と剛

柔の追求(その12)

ハイルドライバー(Air Motion Transformer)は原理的には同相のダイボール型である。
ADAMのAMTユニットX-ART、エラックのJET、
それ以外にもいくつかのメーカーがつくっているAMT(Air Motion Transformer)は、
ダイアフラム背面を磁気回路でふさいでしまっているため、
ダイボール特性ではなくモノポール特性としてしまっている。

ADAMにしろエラックにしろエンクロージュアのフロントバッフルにAMTユニットをとりつけている。
ESSのamt1のようにエンクロージュア上部に置いた形であればダイボール特性をいかせるが、
エンクロージュアをもつのであればそうもいかないし、
ダイアフラム背面をふさいでいなければ、ウーファーの背圧をモロに受けてしまい、
ダイアフラムがゆすられてしまう。

それを防ぐためにも磁気回路でダイアフラム背面をふさぐか、
もしくはバックキャビティをもうけるかである。
どちらにしろダイボールではなく、モノポールになる。

ハイルドライバーに対し、ピストニックモーションのユニットは逆相のダイボール型である。
ここでユニークなのは、インフィニティのスピーカーシステムである。

インフィニティは1980年ごろ、ラインナップを一新して、
中高域にEMIM、EMITと呼ばれる独自のユニットを採用するようになった。

インフィニティのこの時代のシステムがユニークなのは、
EMITをシステムの背面にも取りつけている点である。

フラッグシップモデルのIRSは前面にEMITを24、背面に12取りつけている。
普及クラスのReference Standard 4.5では前面に3、背面に1となっている。

EMITは5kHz以上を受け持っている。
つまり5kHz以上の帯域はダイボール特性であり、しかも同相のダイボールである。