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Date: 9月 17th, 2016
Cate: 五味康祐

五味康祐氏とワグナー(名盤・その1)

五味先生は「名盤は、聴き込んでみずからつくるもの」とされている。
これを「五味オーディオ教室」で読んで、心に刻んできた。

聴き込んでみずからつくる、とはどういうことなのか。
それは「心に近く」するということだと思う。

だから何もオリジナル盤と呼ばれているモノが名盤ではない。
再発盤、廉価盤とオリジナル盤とでは音は違う。
違って当然である。

でもどれがいいのかは、そう簡単にはいえない。
少なくともオーディオに真剣に取り組んできた人ならば、わかってもらえる、と信じている。

それでもオリジナル盤が、驚くほどの値段で売買されることがある。
希少価値があればモノは高くなる。市場原理だから、わからないわけではない。

でも、そのオリジナル盤は名盤ではない、ということは肝に銘じておくべきだ。
あくまでも、それは名盤とされるモノでしかない。

「名盤は、聴き込んでみずからつくるもの」だからだ。
オリジナル盤で、「耳に近く、心に遠い」ままだったら、それは名盤では決してない。
少なくともあなたにとって、それは名盤ではない。

再発盤で、オリジナル盤よりは音は劣るかもしれない。
それは「耳に遠い」音ともいえよう。

そうであっても聴き込んでみずからつくることで、心に近くすることで、
それは名盤となっていく。
「耳に遠く、心に近い」、こうありたい。

もちろん「耳に近く、心に近い」にこしたことはない。
でも私は「心に近い」だけで、いいではないか、と思うようになってきている。

Date: 9月 17th, 2016
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その18)

変換効率が低い、つまり出力音圧レベルが低いスピーカーであれば、
同じ音圧に得るのには、より大きなパワーを必要とする。

低能率のスピーカーにつながれているスピーカーケーブルにかかる電圧は、
高能率のスピーカーよりも高くなるし、
電流に関しても多くなる。

しかも高能率時代のスピーカーのインピーダンスは、
多くが16Ω、32Ωというものもあった。

アンプがソリッドステートになり、スピーカーのインピーダンスは8Ωが主流になった。
その後、6Ωのモノも増えてきた。
最近では4Ωのモノも当り前のようにある。

低能率で低インピーダンスとなると、
電流はさらに増えることになる。

電力の伝送においては、
ケーブルに起因するロスをできるだけ減らすために、
同じ電力であれば電圧を高くして、電流を抑える。
逆に、電圧を低くして、電流を増やしてしまうと、ロスが増えてしまうことになる。

ロスが増えるということは、ケーブルの影響をより大きく受けている、ともいえる。

低能率・低インピーダンスのスピーカーにつながれるケーブルは、
その意味で太くならざるをえない。
導体が太くなるということは、静電容量も増えがちになる。

静電容量を抑えるには、線間をできるだけ確保するのが効果的である。
そうなるとケーブルは太くなる。

同時に導体そのものの振動も増える。
この影響も、もしかすると低能率スピーカーで聴くほうが、顕著に聴きとれるかもしれない。
増えた振動を抑える対策によって、ケーブルはまた太くなる。

Date: 9月 17th, 2016
Cate: 組合せ

スピーカーシステムという組合せ(セレッションSL600・その2)

セレッションのSL6という小型スピーカーシステムが登場したときのことは、
いまもはっきりと憶えている。

ステレオサウンドの試聴室で、山中先生の新製品の試聴がそうだった。
それまでの小型スピーカーのイメージは、
良くも悪くもロジャースのLS3/5Aによってつくられていた。
すくなくとも私はそうだった。

それを覆したのがSL6であり、
さらにクレルのKMA200(モノーラルで、A級動作200Wのパワーアンプ)で鳴らした音は、
低音域の相当に低いところにおいても見事としかいいようがなかった。

SL6は、だから売れた。
セレッションはエンクロージュアのみアルミハニカムに変更したSL600を続いて登場させた。
SL600は、すぐに購入した。

購入してわかるのは、以前も書いているように、
SL600にはある種の聴感上のS/N比の悪さがある。

いろいろ試してみた結果、
エンクロージュアの材質であるアルミハニカムに起因するものだ、といえる。

SL600を聴感上のS/N比の悪いスピーカーというと、
逆だろう、と思われるかもしれない。

確かによくなっているところはある。
アルミハニカム・エンクロージュアの特質といえる音があるのは確かだ。

でもそれは良い面ばかりでなく悪い面もある、というだけの話で、
それはSL600だけに限った話ではなく、すべてのどんな材質、方式にもいえる。

アルミハニカム・エンクロージュアの可能性は、SL600を鳴らしていて感じていた。
でも、そのままではどうしようもない欠点も感じていた、ということだ。

見た目をまったく気にしないのであれば解決法はある。
けれど、それではあまりにもみっともない見た目になってしまう。

SL600の欠点をはっきりと確認するためには、実験としてそういうことをやっても、
そのままの状態で聴き続けることはしない。

それではどうするのか。
こうすれば解決するのではないか、という方法は考えていた。
でも、それを試すには、当時は無理だった。

Date: 9月 17th, 2016
Cate: 組合せ

スピーカーシステムという組合せ(セレッションSL600・その1)

いまの時代、スピーカーの自作は、昔と比べてどうなのか、と思うことがある。
ここでいう昔とは、私にとっては1970年代後半から1980年代前半ぐらいのことを指す。

JBLのユニットはコンシューマー用、プロフェッショナル用ともに充実していた。
アルテックも、そのころは健在だった。
タンノイもユニットを単売してくれていた。

私が好きなフィリップスのフルレンジユニットも現役だった。
ジョーダン・ワッツのModule Unitもあった。
他にも使ってみたい、鳴らしてみたいユニットが、いくつもあった。

エンクロージュアをつくってくれるところもいくつもあった。
いまはみななくなってしまったが、エンクロージャー、インペリアル、進工社などがあった。
他にもいくつかあった。

その時代のHI-FI STEREO GUIDEをめくっていると、
おもしろかった時代だったな、と思う。

ある時期、昔より自作には向いていないことがあったのは確かだ。
でもいまの時代はどうだろうか。
昔とは違うのはインターネットがあり、さまざまな情報を得られるようになり、
同時にインターネットの普及がサービスを大きく変えていっていることも考え合わせると、
いまの時代、昔よりもスピーカーの自作がおもしろいといえるようにもなってきている、
そのことに気づかされる。

もちろんすべての面で……、とはいわないが、
いまの時代がおもしろいといえることがいくつもある。

Date: 9月 17th, 2016
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その17)

スピーカーの変換効率を向上させていく。
現時点では1%以下の変換効率のスピーカーが大半になってしまっているが、
それを理想といえる100%までもっていく技術が開発されたと仮定する。

そうなったときにスピーカーの音色の違いはなくなるのだろうか。

私が生きているうちには、そんなことはやってきそうにないけれど、
それでも考えてみた。

100%の変換効率をもっていたら、
スピーカー間の音色の違いはほとんどなくなる、といえるかもしれない。

100%の変換効率を実現するスピーカーの方式とは、
いったいどういうものになるのか、それはわからない。

たとえばステレオサウンド 50号に長島先生が書かれていたような、
スピーカー周辺の空気を磁化し、振動させるという方式で100%の変換効率が実現できたとしたら、
振動板がないわけだから、少なくとも振動板の素材がもつ固有音は排除できる。

少なくともなんらかの素材を振動板にするかぎりは、変換効率を100%にすることはできないはずだ。

──そんなことを考えていたこともある。
実際にはありえない100%の変換効率のスピーカーだと、
スピーカーケーブルの違いをどう表現するのか、とも考えた。

ケーブルの違いが、
いまわれわれが聴いているスピーカーとは比較にならないほどはっきりと聴きとれるのか。
そうだとしたらケーブルメーカーは、さらにあの手この手でさまざまな新商品を出してくるんだろうか。

こんなことも考えていた。
同時に、1%以下の変換効率のスピーカーシステムで、
ケーブルの違いが音として聴きとれる、という不思議さに気づいた。

ただ、すぐさまむしろ逆なのかもしれない、とも気づいた。
むしろ変換効率が低いからこそ、ケーブルの違いが音として出てきている、といえる面もあるのではないか。

Date: 9月 16th, 2016
Cate: 五味康祐

五味康祐氏とワグナー(その3)

1976年ごろのHI-FI-STEREO GUIDEには、
ルボックスのA700は688,000円と載っている。
テレフンケンのM28Aは載っていないが、M28Cは載っている。
1,300,000円である。

スチューダーのC37は管球式のマスターレコーダーで、すでに製造中止。
ソリッドステート時代のマスターレコーダーとしてA80MKIIが載っていて、
3,300,000円である。

A700、M28Cは、この時代のオープリンリールデッキに詳しくない人でも、
そのスタイルは容易に想像がつく。
つまり一般的なオープンリールデッキの恰好である。

C37、A80となるとコンソール型である。
その大きさからいっても、家庭に持ち込むモノではないことはあきらかだ。

ちなみにこの時代、EMTの930stは1,050,000円、
927Dstは2,500,000円であり、
価格的にも927DstはC37クラスといえ、930stはA700、M28Aクラスといえる。

くり返すが、五味先生はオープンリールデッキに関しては、927DstクラスのC37まで手を伸ばされている。
アナログプレーヤーは927Dstの下、930st留り(あえてこう書いておく)である。

このことはずいぶん考えてきた。
なぜなのか。
プログラムソースとしての比重は、五味先生にとってもLP(アナログディスク)が大きかったはずだ。
ならば先に927Dstで、その後にC37だったならば、五味先生の行動はすんなりわかる。

けれど違うから、考えていた。
答(らしきもの)は、オーディオだけの側面で考えていてはたどりつけない。
五味先生にとってのワグナーが、答につながるものを提示してくれた、といえる。

Date: 9月 16th, 2016
Cate: 五味康祐

五味康祐氏とワグナー(その2)

マッキントッシュのMC3500について書かれていることを、また引用しておこう。
     *
 ところで、何年かまえ、そのマッキントッシュから、片チャンネルの出力三五〇ワットという、ばけ物みたいな真空管式メインアンプ〝MC三五〇〇〟が発売された。重さ六十キロ(ステレオにして百二十キロ——優に私の体重の二倍ある)、値段が邦貨で当時百五十六万円、アンプが加熱するため放熱用の小さな扇風機がついているが、周波数特性はなんと一ヘルツ(十ヘルツではない)から七万ヘルツまでプラス〇、マイナス三dB。三五〇ワットの出力時で、二十から二万ヘルツまでマイナス〇・五dB。SN比が、マイナス九五dBである。わが家で耳を聾する大きさで鳴らしても、VUメーターはピクリともしなかった。まず家庭で聴く限り、測定器なみの無歪のアンプといっていいように思う。
 すすめる人があって、これを私は聴いてみたのである。SN比がマイナス九五dB、七万ヘルツまで高音がのびるなら、悪いわけがないとシロウト考えで期待するのは当然だろう。当時、百五十万円の失費は私にはたいへんな負担だったが、よい音で鳴るなら仕方がない。
 さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
 理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りに鳴ってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
 MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
     *
こういう五味先生だから、930stと927Dstに関してもそう思われていたのかも……、と思ってもいた。
マッキントッシュのMC275とMC3500の比較、
EMTの930stと927Dstの比較は、どこか共通するものがあるといえるからだ。

けれどステレオサウンド 50号の「続・五味オーディオ巡礼」で、
スチューダーのC37を手に入れられたことを書かれているのう読んで、
ならばアナログプレーヤーも927Dstではないのか……、と思ってしまう。
     *
最近プロ機のスチューダーC37を入手して、欣喜雀躍、こころを躍らせ継いでみたら、まったく高域にのびのない、鼻づまりの弦音で呆っ気にとられたことがある。理由は、C37は業務用だからマイクロホンの接続コードをどれ程長くしてもINPUTの音質に支障のないよう、インピーダンスをかなり低くとってあるため、ホームユースの拙宅のマランツ♯7とではマッチしないと知ったのだ。かんじんなことなので言っておきたいが、プリアンプとのインピーダンスが合わないと、単にテープの再生音がわるいのではなく、C37に接続したというだけでレコードやFMの音まで鼻づまりの歪んだ感じになってしまった。愕いてC37を譲られた録音スタジオから技術者にきてもらい、ようやくルボックスA700やテレフンケン28Aで到底味わえぬC37の美音に聴き惚れている。
     *
スチューダーのC37のことは、「五味オーディオ教室」もほんのわずかだが書かれていた。
     *
 いい音で聴くために、ずいぶん私は苦労した。回り道をした。もうやめた。現在でもスチューダーC37はほしい。ここまで来たのだから、いつか手に入れてみたい。しかし一時のように出版社に借金してでもという燃えるようなものは、消えた。齢相応に分別がついたのか。まあ、Aのアンプがいい、Bのスピーカーがいいと騒いだところで、ナマに比べればどんぐりの背比べで、市販されるあらゆる機種を聴いて私は言うのだが、しょせんは五十歩百歩。よほどたちの悪いメーカーのものでない限り、最低限のトーン・クォリティは今日では保証されている。SP時代には夢にも考えられなかった音質を保っている。
 家庭で名曲を楽しむのをレコード音楽本来のあり方とわきまえるなら、音キチになるほど愚の骨頂はない、と今では思っている。
     *
「五味オーディオ教室」は私が読んだ最初のオーディオの本であるから、
スチューダーのC37がどういうモノなのかは、まったく知らなかった。

でもステレオサウンド 50号のころは知っていた。

Date: 9月 15th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ヤマハNS1000M・その10)

ここまでヤマハのNS1000Mについて書いてきて、
ふと頭に浮んだことがある。
「NS1000Mはヴィンテージとなっていくモノなのか」である。

別項で「ヴィンテージとなっていくモノ」を書いている。
書いている途中で、NS1000Mについて、そこで書く予定はまったくなかった。
ついこの間まで、私はNS1000Mをヴィンテージとなっていくモノとして見ていなかった。

でも、ここまで書いてきて、
これから書いていこうと考えていることを照らし合せているうちに、
NS1000Mはヴィンテージとなっていくモノといえる気がしてきた。

このことが頭に浮んだときは、そうとはいえないな、と即座に否定したけれど、
でも考えれば考えるほど、否定の気持は薄れていっている。

かなり薄れてきているから、いまこれを書いているわけだ。
まだヴィンテージとなっていくモノとは断言できずにいる。

そのことを含めて、今後書いていきたい。

Date: 9月 15th, 2016
Cate: 五味康祐

五味康祐氏とワグナー(その1)

五味先生のスピーカーは、いうまでもなくタンノイのオートグラフ。
アンプは最初はQUADの管球式で鳴らされた。
その後、いろいろなアンプを使われている。

最終的にはマッキントッシュのC22とMC275の組合せである。
MC275は、岩竹義人氏の手によって内部配線を銀線に交換されたモノなのかもしれない。

アンプはC22、MC275の他にカンノ製作所の300Bシングルを晩年は使われていた。
コントロールアンプはマークレビンソンのJC2も使われていた。

アナログプレーヤーはEMTの930stを長いこと愛用されていた。
私はてっきり930stの専用インシュレーター930-900も使われていると思っていた。

ステレオサウンド 55号に載った五味先生のリスニングルームの写真。
930stは930-900なしの状態だった。
意外だった。

ステレオサウンドの原田勲氏との仲からいって、
930-900の評判を知らずにいたとは思えない。
だから930-900を使われているものだと思いこんでいた。

アナログプレーヤーに関しては、927Dstの導入を考えられなかったのか、とも思う。
927Dstの音は聴かれている。
930stと直接比較をされたのかどうかははっきりしないが、
されていないくとも930stとの実力の差がどれだけのものかは掴んでおられたはずだ。

それでも927Dstにはされなかった。
でも一方でオープンリールデッキは、スチューダーのC37を導入されている。

それまで使われていたオープンリールデッキが930stクラスだとすれば、
C37ははっきりと927Dstクラスのモノである。

なぜだろう、と昔から思っていた。
いまも思っている。

Date: 9月 14th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 200号に期待したいこと(その3)

すでにステレオサウンド 200号は書店に並んでいるのだから、
ここのタイトルも変えなければならないのだが、
それでも、あえて変えずに書こう。

まだ200号は見ていない。
それでも目次だけは、ステレオサウンドのウェブサイトで見ることができる。
ざっと眺めて思ったり感じたりすることは、いくつもある。

そのひとつを書けば、先ほど別項で書いた「糸川英夫のヘッドフォン未来雑学」。
この種の、いわば地味な記事、けれど年月が経って読んでも興味深い内容、
むしろ年月が経つことで、よりおもしろく読める内容の記事を、
いつのころからか現ステレオサウンド編集部は軽んじている、と感じることだ。

200号には附録がついている。
200号らしい、創刊50周年らしい附録と思う人の方が世の中多いであろう。

でも、今回の附録は200号らしい、というか、200号にふさわしい附録だったのだろうか。
これまでの50年が終り、次の50年への一歩となる201号のほうが、よりふさわしかったのではないだろうか。
そんなことを思う。

200号らしい、つまり50年という区切りをつける号の附録としてふさわしいのは、
地味で、手間もかかるけれど、50号の巻末附録である。

50号の巻末附録は、地味である。
けれど役に立つ。丹念に見ていくことで気づくことがいくつもある。

文字だけ、といっていい巻末附録。
丹念に見ていくのは、けっこうしんどいと感じても、得られることが多々ある。
50号分(正確には49号分と別冊分」だけでもそうだった。
200号(50年分)となれば、50号の四倍以上のボリュウムになる。

こんな面倒で、しかも誌面が地味になってしまうことを、
現ステレオサウンド編集部がやろうはずがないことはわかっていた。
それでも……、というおもいがあって、(その1)で書いた。

それにしても地味でも味わい深い記事が、まったくなくなってしまった。
違う表現で書けば、
これからのオーディオについて考えていくうえできっかけ、手がかりを与えてくれる記事が、
過去の記事ばかりという現実である。

Date: 9月 14th, 2016
Cate: atmosphere design

atmosphere design(その4)

「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」に掲載されていた瀬川先生の文章を、
別項で引用した。
「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」そのものをひっぱり出してこなくとも、
「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」に載っている瀬川先生の文章はテキスト化しているから、
このブログを書いているMacのハードディスクに記録されている。

それでも「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」をひっぱり出してきた。
ひっぱり出して、実際にページをめくることで気づくことがあるのを知っているからだ。

巻末に「糸川英夫のヘッドフォン未来雑学」という記事がある。
インタヴュー形式で、聞き手は相沢昭八郎氏。

糸川英夫氏についての説明はいらないだろう。
ばっさりと省かせてもらう。
知らない人は、Googleで検索していただきたい。

「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」は1978年に出ている。
ほぼ40年前の本であり、「糸川英夫のヘッドフォン未来雑学」は40年前のインタヴュー記事である。

タイトルになっている未来学の「未来」とは、すでに過ぎ去った時代のことだろうか、
それともまだ来ていない時代のことなのだろうか。

こんなことをあえて書いたのは、昨夜読み返していて、実におもしろいと感じたからである。
正直にいえば、1978年にも、この記事は読んでいた。
でも当時は、15歳の私は、それほどおもしろさがわからなかった。

この記事に「空間のマルチ化」という表現が出てくる。
それから伝声管のことも出てくる。

こんなにおもしろい記事だったのか、といまごろワクワクして読んだ。

Date: 9月 13th, 2016
Cate: オーディスト

「オーディスト」という言葉に対して(その23)

audist(オーディスト、聴覚障害者差別主義者)とは、
神の御言葉を聴けない者は不完全な人間である、
神から与えられた言葉を聴けない、話せない者は不完全な人間である、
と主張する人たちのことだ、と聞いている。

このことを知っていたから、(その22)で、
五味先生の「マタイ受難曲」を引用したうえで書いた。

(その22)の最後に書いたことを、もう一度書いておく。

オーディスト(audist)という言葉ではなく、
オーディスト(聴覚障害者差別主義者)を生み出したのは、教会という、人が作ったシステムである。

五味先生の「マタイ受難曲」を読んでも何も感じない輩は、オーディストと名乗ればいいし、使えばいい。

Date: 9月 13th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ヤマハNS1000M・その9)

ステレオサウンド 64号、ヤマハの広告に登場したNS1000M。
これが家庭で使われていたNS1000Mであったなら、
なんて乱暴な扱いを受けているNS1000Mだろう、と思ったことだろう。

私は何も、すべてのNS1000Mがキズが似合うと思っているわけではない。
どういう使われ方をしているかによって、それは変ってくる。

そこに写っていたのは可搬型モニターとしてのNS1000Mだったからである。
ヤマハ・エピキュラスのスタッフは、ユニットにダメージを与えないように、
フロントバッフルにのみ蓋を用意している。

可搬型であっても、何が何でもキズひとつつけたくない、と考える会社(人)もいる。
そういうところでNS1000Mが使われたとしたら、
NS1000Mがそのまま入る頑丈な可搬型ケースが用意されるであろう。
そしてかすかなキズがついたら、すぐに補修されるであろう。

扱い方は違ってくる。
そのことで思い出すことがある。
     *
スティーブ・ジョブズは、 iPod の外見を損ねるものには、カバーであれ何であれ、非常に敏感に反応するのだ。

私は彼とのインタビューを録音する際に、外付けマイクと iPod を持っていったことがある。

「iSkin」という透明プラスチックのカバーをつけた iPod を鞄から取り出した途端、彼は私に名画「モナリザ」に牛の糞をなすりつけた犯罪者を見るような目を向けたものだ。

もちろん私は、繊細なiPodに傷や汚れをつけたくないのだと言い訳したが、彼は聞き入れようとしなかった。

「僕は、擦り傷のついたステンレスを美しいと思うけどね。僕たちだって似たようなもんだろう?僕は来年には五十歳だ。傷だらけの iPod と同じだよ」
(スティーブン・レヴィ「iPod は何を変えたのか」より)
     *
けっこう前から見かける文章である。
「ジョブズ iPhone ケース」で検索すると、すぐに表示される。
読まれた人も少なくないと思う。

iPhone、iPad、iPodにケースをつけるかつけないか。
何もジョブズがいっているから、付けない方がいいとはいわないけれど、
私はiPhone、iPadにはケースを付けていない。

カバンは普段持ち歩かないので、
iPhoneはジーンズのポケットに、ケースなしで入れている。
実を言うと、何度か落としている。いまのところ運がいいのか破損したことはない。
液晶が汚れているのは気になるから、こまめにクリーニングするけれど、
キズは絶対につけたくない、とは思っていない。

持ち歩くモノだからである。

キズだらけのNS1000Mをみて、キズが似合う、と思ったのも、理由は同じところにある。
そう考えるとNS1000Mの「M」はmonitorから来ているのだが、
mobileの意味ももつようにも思えてくる。

Date: 9月 13th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ヤマハNS1000M・その8)

ステレオサウンド 64号は、ヤマハのNS1000Mを印象づけた、という意味で、
ヤマハ(日本楽器)の広告も忘れてはならない。

カラー見開きの広告。
そこに写っているのは、キズだらけといっていいNS1000Mである。
この写真の脇には、こう書いてあった。
     *
この#60247RのNS-1000Mは
ヤマハ・エピキュラスに所属し、
武道館での世界歌謡音楽祭などもたびたび経験している
     *
このNS1000Mのリアバッフルにはキャスターが取りつけられている。
フロントバッフル側には木製の蓋が用意されていて、
そのまま持ち運びが容易に行えるようになっている。

NS1000Mの底板はキズだらけ。
フロントバッフルにもいくつかキズがある。

ウーファースコーカーのフレームには「54 12.6」、
トゥイーターのフレームには「54.1108」と書かれていてる。
おそらくユニットを交換した日付であろう。

このNS1000Mはヤマハが主催するコンサート会場での、
ミキサーのモニターとして使われていたのだろう。

いわば「働くNS1000M」である。
この写真を見ていると、キズが似合う、とも思えてくる。
なかなか、そう思えるスピーカーはないことも、思わせてくれる。

Date: 9月 13th, 2016
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その5)

菅野先生が以前いわれたことを思いだす。

ある有名な録音エンジニアによる録音のことだった。
どう思うか、ときかれた。
その録音エンジニアの録音を数多く聴いていたわけではなかった。
せいぜい数枚程度だった。

その範囲内での感じたことを話した。
菅野先生は、いわれた。
「いい音だけど、毒にも薬にもならない音だろう」と。

確かにそのとおりだった。
ケチがつけられるような録音ではない。
だから優秀録音として、高く評価されている。
いい音といえばそうであり、それを否定することは難しい。

それでもこちらの心にひっかかってくるところが稀薄にも感じていたのかもしれない。
だから菅野先生の「毒にも薬にもならない」に納得したのだろう。

「毒にも薬にもならない」音が、現代を象徴する音かもしれない。
この録音エンジニアの録音を高く評価する人が、
非常に優れていると評するスピーカーの音もまた、私には「毒にも薬にもならない」と感じられる。

録音として優秀であれば、
スピーカー(変換機)として優秀であれば、それでいいではないか。

それが「毒にも薬にもならない」ということだろう、といわれれば、
特に反論はしないけれども、それでもこれらの音は私にとって「耳に近く、心に遠い」音なのだ。

おそらく菅野先生の「毒にも薬にもならない」は、
同じ意味であったように思っている。