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Date: 4月 19th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その15)

菅野先生と保柳健氏との対談、
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」を読み返しているわけだが、
ほんとうにおもしろい、と思って読んでいるところだ。

40年前の記事である。
当時も、興味深い記事だとは感じていたが、
すんなり理解できていたわけではなかった。

読みながら、いろんなところがひっかかってくるんだけれど、
だから何度か読み返しもした。
それでもすんなりと理解はできなかった。

理解するには時間が必要だ、ということだけはわかった。

40年経つと、よくわかる。
そういうことだったのか、とも頷ける。

こんなことを書くと、また嫌味なことを……、と思われるだろうが、
それでも書いておく。

いまのステレオサウンドに載っている記事で、
40年後(そこまでいかなくてもいいが)に読み返して、
古さを感じさせないどころか、ほんとうにおもしろいと思えるのがあるのか。

もっといえば40年後に読み返す人が、はたしているだろうか。

その意味で、40年後に読み返させて、しかもおもしろいと読み手に思わせる人こそが、
オーディオ評論家(職能家)であり、
それ以外のオーディオ評論家は、オーディオ評論家(商売屋)でしかない。

「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」から、もうすこし引用していきたい。

Date: 4月 18th, 2018
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その1)

「菅野録音の神髄」のためにステレオサウンド 47号を、開いている。
47号の特集はベストバイで、
瀬川先生が「オーディオ・コンポーネントにおけるベストバイの意味あいをさぐる」を書かれている。

こんなことを書かれている。
     *
 これもまた古い話だが、たしか昭和30年代のはじめ頃、イリノイ工大でデザインを講義するアメリカの工業デザイン界の権威、ジェイ・ダブリン教授を、日本の工業デザイン教育のために通産省が招へいしたことがあった。そのセミナーの模様は、当時の「工芸ニュース」誌に詳細に掲載されたが、その中で私自身最も印象深かった言葉がある。
 ダブリン教授の公開セミナーには、専門の工業デザイナーや学生その他関係者がおおぜい参加して、デザインの実習としてスケッチやモデルを提出した。それら生徒──といっても日本では多くはすでに専門家で通用する人たち──の作品を評したダブリン教授の言葉の中に
「日本にはグッドデザインはあるが、エクセレント・デザインがない」
 というひと言があった。
 20年を経たこんにちでも、この言葉はそのままくりかえす必要がありそうだ。いまや「グッド」デザインは日本じゅうに溢れている。だが「エクセレント」デザイン──単に外観のそればかりでなく、「エクセレントな」品物──は、日本製品の中には非常に少ない。この問題は、アメリカを始めとする欧米諸国の、ことに工業製品を分析する際に、忘れてはならない重要な鍵ではないか。
     *
 ひと頃、アメリカのあるカメラ雑誌を購読していたことがある。毎年一回、その雑誌の特集号で、市販されているカメラとレンズの総合テストリポートの載るのがおもしろかったからだ。そのレンズの評価には、日本ではみられない明快な四段階採点方の一覧表がついている。四段階の評価とは 1. Excellent 2. Very Good 3. Good 4. Acceptable で、この評価のしかたは、何も右のレンズテストに限らず、何かをテストするとき、あるいは何かもののグレイドをあらわすとき、アメリカ人が好んで用いる採点法だ。
 私自身の自戒をこめて言うのだが、ほかの分野はひとまず置くとしてまず諸兄に最も手近なオーディオ誌、レコード誌を開いてごらん頂きたい(もちろん日本の)。その中でもとくに、談話または座談の形で活字になっているオーディオ機器や新譜レコードの紹介または批評──。
 ちょっと注意して読むと、おおかたの人たちが、「非常に」あるいは「たいへん」といった形容詞を頻発していることにお気づきになるはずだ。
 むろん私はここでそのあげ足とりをしようなどという意味で言っているのではなく、いま手近なオーディオ誌……と書いたが少し枠をひろげて何かほかの専門誌でも総合誌あるいは週刊誌や新聞でも、似た内容の記事を探して読めば、あるいは日常会話にもほんの少しの注意を払ってみれば、この「非常に」「たいへん」あるいは4とても」といった、少なくとも文法的には最上級の形容詞が、私たちの日本人の日常の会話の中に、まったく何気なく使われていることが、まさに〝非常に〟多いことに気付く。
 この事実は、単に言葉の用法の不注意というような表面的な問題ではなく、日本という国では、もののグレイドをあらわす形容が、ごく不用意に使われ、そのことはさかのぼって、ものを作る姿勢の中に、そのグレイドの差をつけようという態度のきわめてあいまいな、あるいは本当の意味でのグレイドの差とは何かということがよくわかっていないことを、あらわしていると私は考えている。さきにあげたジェイ・ダブリン教授の言葉も、まさにこの点を突いているのだと解釈すべきではないか。
     *
47号は1978年だから、40年前だ。
《ちょっと注意して読むと、おおかたの人たちが、「非常に」あるいは「たいへん」といった形容詞を頻発していることにお気づきになるはずだ》
とある。

いまはどうだろう。
フツーにうまい、とか、フツーにかわいい、といった表現が頻繁に使われている。

Date: 4月 18th, 2018
Cate: 新製品

新製品(テクニクス SP10Rとラックス)

復活したテクニクス・ブランドのアナログプレーヤーには、
まったくときめくものを感じない。
それでも、こんなタイトルをつけて書いているのは、
わずかな可能性に期待することがあるからだ。

ラックスのアナログプレーヤーといえば、
私と同世代、上の世代の人たちにとっては、PD121こそが真っ先に思い浮べる存在のはずだ。

よく知られているようにPD121に使われているモーターは、
テクニクスのSP10同等品である。
両機種のターンテーブルプラッターを外してみれば、すぐにわかる。

だからこそ、両機種を並べてみるまでもなく、
これだけ違う仕上がりになるのか、とラックスを褒めたくなる。

ラックスからは、現在PD171Aが出ている。
ベルトドライヴになっている。
PD121とはずいぶん違う仕上がりになっている。

PD171には、ときめくものをまったく感じない。
だから、こんなことを考えてしまうのかも……。

SP10Rのモーターを採用したPD121が登場しないものか、と。

Date: 4月 17th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その14)

私は「THE DIALOGUE」での音量の基準はドラムスで決めている。
それもドラムスの実際の音量というよりも、
エネルギーの再現ということでボリュウム位置を決めていることは、
以前「Jazz Spirit Audio(audio wednesdayでの音量と音・その2)」で書いているとおりだ。

私はそれが正しいと思っているし、自信をもってやっている。
けれどベースの音を基準として、音量を考える(設定する)人にとっては、
そうとうに大きな音量と受け止められるであろうし、
大きすぎるというより間違った音量ととらえられるかもしれない。

おそらく「THE DIALOGUE」を鳴らしている人のなかには、
ベースを基準に音量を決めている人もいるはずだ。

再生側の、全体の音量設定ひとつでも、こういう違いがある。
録音では、楽器ごとに音量を変えることも可能だ。
違いは、多岐にわたり大きい。

保柳健氏は、こう発言されている。
     *
保柳 まず、そこにある音が基準となる。あなたがいうように、ベースが実際にはほとんど聴こえない状態だったら、ブーストするでしょう。それは、あくまでもその場の雰囲気を伝えるためのブーストであって、どちらというと従ですね。つまり、主観的にブーストするとなると、音楽に絶対の自信を持っていないとできない。
     *
菅野録音におけるブーストは、だから主観的なブーストである。
ここでの主観的の「主」は、客観的に対しての「主」でもあり、
従に対しての主でもある。

Date: 4月 17th, 2018
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(HD Vinylについて)

100kHzまで対応可能なアナログディスクとしてHD Vinylのことが話題になっている。

SNSで、ニュース元をシェアしている人がけっこういる。
その人たちはHD Vinylに期待しているのであろうが、
私は、どちらかというと、期待していない方である。

何度も書いているように、
私はアナログディスクをエネルギー伝送メディアとして捉えている。
そんな私にとっては、カッティングとは、
マス(質量)のあるダイアモンドのカッター針を動かすからこそ得られる特性・特質としての、
エネルギー伝送メディアである。

そんな私だからハーフスピードカッティングにも、どちらかといえば懐疑的だ。

HD VinylにはHD Vinylなりのよさはあるはずだし、
実際に、その音を聴けば、なかなかいいな、と評価するにしても、
それはもうエネルギー伝送メディアから信号伝送メディアへのグラデーションなのだと思う。

Date: 4月 16th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

SNSが顕にする「複雑な幼稚性」(その4)

以前は行列ができる飲食店は、そうそうなかった。
とんかつ屋でいえば、目黒のとんきは、昔から行列はあった。
けれど行列といっても、それほど長くもなかったし、待った、という記憶もない。

30年ちょっとのあいだに行列があちこちに見られるようになったと同時に、
料理の写真もを撮る人も増えた(というより、昔は見かけたことはなかった)。

携帯電話にカメラ機能がつき、
スマートフォンに、より高画質で、その場で編集できる機能さえつくようになった。

そういうハードウェアの変化もあってのことだとはわかっていても、
行列の数と長さ、写真を撮る人の増えかたは関係しているのではないのか。

誰だって美味しい店を知りたいし、そこに行きたい。
私がオーディオの先輩たちから教わったのは、
そういう店を大事にすることである。

自分だけが知っていて、誰にも教えないわけではない。
私に教えてくれたように、私も誰かに教えることになる。

少数の人だけが知っていても、その店が繁盛しなければつぶれてしまうことだってある。
それは困る。
繁盛しすぎて、長い行列ができてしまうのはまだ我慢できても、
味が落ちてしまうのは我慢できない。

だから、その店を大事におもうわけだ。

インスタ映えするように写真を撮って、SNSで公開する。
身内だけの公開ではなく、不特定多数に向けての公開である。
その行為に、店を大事にするという感覚がまったく感じられない。

Date: 4月 15th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その13)

菅野先生がピアニストを目指されたことは、
古くからの読み手であればご存知のはず。
ピアニストへの途を諦められたり理由についても書かれている。

ここに関係してくる発言が、ステレオサウンド 47号にある。
     *
菅野 そうですね。私はできれば一次表現をしたいんですが、自分の仕事は一次表現をする仕事ではない。一次表現をする演奏家が厳然として存在するわけです。そこで録音を通じての橋渡しをする。いってみれば、「録音再生」という二次表現かもしれません。その時、私は聴き手の代表である。
     *
この菅野先生の発言に対して、保柳健氏は「そこが違うんです」と返されている。
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」を読めばわかることだが、
録音という仕事をされているふたりであっても、その立場、考えかたは、
共通するところもありながらも、大きく違うところもある。

どちらが録音家として優れているのか、
すぐに優劣をつけたがる人がオーディオマニアのなかには少なからずいるが、
そういう次元のことではなく、録音はたんなる記録ではないし、
録音家もたんなる記録係ではない、ということだ。

菅野先生はつづけてこう発言されている。
     *
菅野 そこで演奏されるものを、自分でこう聴いたということを盛りこんで、たとえば、よくいわれることですけど、ジャズの、大きなホールでの演奏会も盛んになっちゃって、楽器のPAが進んでしまったから、ちょっとピンと来ないかもしれないんですが、ジャズの演奏の場合、本来ならウッドベースの音は非常に小さいわけです。もし、ステージで、ピーターソンでもエバンスでも、ピアノ・トリオの演奏を忠実に捉えるならば、当然そこで鳴っている音量バランスが基準になって、見謹慎具されるわけですね。ところが、私の場合は全くそうではなくて、ピアノ、ベース、ドラムスを対等の音量でとってこないと、もし自分が、ピアニスト、ベーシスト、ドラマーを率いてプロデュースするとしたら、聴衆に聴かせないと思うのが対等の音量で響かせることだから、自分の考える録音表現にならないわけです。
     *
このことは「THE DIALOGUE」もそうだ。
一曲目のドラムスとベースとの対話での、両者の音量は対等だ。
本来ならば、ベースがあれほどの音量で鳴るわけがない。

だからベースで、音出しの音量を決めてしまうと、
かなり低い再生音量になってしまう。

Date: 4月 15th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その12)

実は、この奇妙なピアノの録音については、別項「耳はふたつある(その4)」で触れている。

そこに、マイクロフォンが水平にセッティングされていなかったのかもしれない、と書いた。
(その11)へのコメントが、facebookにあった。
奇妙なピアノの録音も、
その人の判断でマイクロフォンをセッティングしたのだろうから、
その人が「そこで聴いた音」を録音したのであろう、と。

そういう見方もできるが、それだけとは思わない。
奇妙なピアノの録音をした人が、マイクロフォンを水平にしていたのかどうかはわからないが、
生録の現場で水平ではなく、無頓着に斜めにしていた人は、
そこでの音を聴いていない人のはずだ。

つまり機械にまかせっきりにしていた人であり、
そういう録音である。

奇妙なワンポイント録音をした人も、
ワンポイント録音だから、いい音でとれる、という思い込み、
それに使っている器材が優秀なモノだから、という思い込み、
つまりまかせっきりの録音の可能性が高い。

録音の場にいて、録音をしているのに、
聴いていないなんてことはありえない、と思う人もいるだろうが、
たとえば写真や動画でも、撮るのに夢中で見ていなかった、という例はある。

撮っているのだから、見ているはず。
そうであるはずなのに、撮るのに夢中で……という人は、
ほんとうに記憶していない。

記録はしていても記憶はしていない。
奇妙なワンポイント録音をした人も、そうではないのか。
録音という記憶はしていても、記憶していない。
記憶していない、ということは、聴いていない。

そして「そこで鳴っている音」には、
もっと突っ込んだ意味も含まれている。

Date: 4月 15th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その11)

菅野先生は何を録ってられたのか。
これもステレオサウンド 47号からの引用だ。
     *
菅野 最近考えていることの一つなんですが、録音というのは、そこで鳴っているのをとるのと、そこで聴いた音をとるのとあるんですね。
保柳 なるほど。
菅野 非常にオーバーラップしてもいますが、これは違う姿勢である。自分の場合を考えてみると、「そこで聴いた音」をとるわけです。
保柳 ははあ。
菅野 というより、録音する人間は、所詮「そこで聴いた音」しかとれないんだという考えなんですね。「そこで鳴っている音」をとるというのは、非常に物理的でありまして、つまり一時いわれたように、機械が進歩すれば、生の音が再現できるという考え方から生まれてくるのではないかと思います。
保柳 うん。
菅野 録音場と再生音場の差ということがよくいわれるでしょう。まあ、これはコンサートホールにしても、スタジオにしても家庭の部屋とは非常に違う。レコード音楽というものは、原則として過程で聴くものであって、そのような二つの音場を考えたときに、すでにそこには動かし難い録音再生の特質が存在するという事実がありますよね。その点から考えてみても、二つの音場の差をよく知った耳で、技術的には、そこで聴いた音をとると、こういうように考えるわけです。
     *
「そこで聴いた音」と「そこで鳴っている音」。
オーディオマニアには、ワンポイント録音こそ最高の録音手法である、
そう思い込んでいる人がいる。

数年前、あるところで、そういう人が録音したピアノを聴いた。
なんとも奇妙な音がした。

聴かせてくれた人(録音した人ではない)によると、
ワンポイント録音だそうだ。
しかもオーディオマニアによる録音だったし、
録音の結果にも満足している、とのこと。

録音した人のことを知っているわけではない。
だけど、録音されたピアノの奇妙な音を聴いていると、
「そこで鳴っている音」をとろうとしての失敗だったように思うのだ。

Date: 4月 15th, 2018
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その16)

ステレオサウンド 55号の特集2の「ハイクォリティ・プレーヤーシステムの実力診断」、
瀬川先生と山中先生が試聴を担当されている。
記事には、試聴中の写真が各機種毎に載っている。

山中先生はダストカバー付きだったり外した状態だったりしているが、
瀬川先生は少なくとも写真をみるかぎりではすべて外した状態での試聴である。

そこで思い出すのが、下に引用する文章だ。
     *
プレーヤーを選択するのに、しかし、必ずしも厳格な意味での音質本位で選ぶとはかぎらない。これはすでに岡俊雄氏が「レコードと音楽とオーディオと」(ステレオサウンド社刊)の中で紹介された話だが、音楽評論家の黒田恭一氏は、かつて西独デュアルのオートマチックのプレーヤーを愛用しておられた。このプレーヤーは、レコードを載せてスタートのボタンを押すだけで、あとは一切を自動的に演奏し終了するが、ボタンを押してから最初の音が出るまでに、約14秒の時間がかかる。この14秒のあいだに、黒田氏は、ゆっくりと自分の椅子に身を沈めて、音楽の始まるのを待つ。黒田氏がそれを「黄金の14秒」と名づけたことからもわかるように、レコードを載せてから音が聴こえはじめるまでの、黒田氏にとっては「快適」なタイムラグ(時間ズレ)なのである。
 ところが私(瀬川)はこれと反対だ。ボタンを押してから14秒はおろか、5秒でももう長すぎてイライラする。というよりも、自分には自分の感覚のリズムがあって、オートプレーヤーはその感覚のリズムに全く乗ってくれない。それよりは、自動(オート)でない手がけ(マニュアル)のプレーヤーで、トーンアームを自分手でレコードに載せたい。針をレコードの好きな部分にたちどころに下ろし、その瞬間に、空いているほうの手でサッとボリュウムを上げる。岡俊雄氏はそれを「この間約1/2秒かそれ以下……」といささか過大に書いてくださったが、レコードプレーヤーの操作にいくぶんの自信のある私でも、常に1/2秒以下というわけにはゆかない。であるにしても、ともかく私は、オートプレーヤーの「勝手なタイムラグ」が我慢できないほどせっかちだ。
(「続コンポーネントステレオのすすめ」より)
     *
「5秒でももう長すぎてイライラする」瀬川先生にとって、
レコードのかけかえのために閉じたり開けたりするする必要が生じるダストカバーは、
自分の感覚のリズムをを乱す邪魔な存在でしかなかったのだろう。

そのためか、55号の瀬川先生の試聴記には「デザイン・操作性」という項目があるが、
そこでダストカバーについては一切触れられていない。

Date: 4月 15th, 2018
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その15)

音がこもる──、
そこまでせはいいすぎとしても、ダストカバーを閉じた状態では、
音ののびやかさがいささか損われる。

このことはなにもアナログプレーヤーにだけいえることではなく、
アンプであってもCDプレーヤーであっても、閉じた空間の筐体、
しかもその筐体ががっしりとしていると、
それは強くなってくる傾向があるように感じている。

とはいえダストカバーは大半がアクリル製とはいえ、
そこにはある程度の重量がある。
そのおかげで、閉じた状態ではプレーヤーキャビネットのf0が低くなる場合もあるのは、
「プレーヤー・システムとその活きた使い方」掲載の測定データから読みとれる。

アナログプレーヤーのダストカバーは、
スピーカーシステムのサランネットのような存在なのか。

いまでも大半のスピーカーシステムにサランネットはついている。
昔はほぼすべてのスピーカーシステムについていた。
けれど、サランネットがつけた状態で聴くのか、外した状態で聴くのか、
そのスピーカーを製造しているメーカーは、どちらを標準としているのか、
スピーカーシステムの試聴においては、このことは決して忘れてはならない。

瀬川先生がステレオサウンドで試聴されていた時、
編集者がサランネットを外したままで音を出した始めたことがあるそうだ。
その時、かなり怒られた、ときいている。

編集者は気をきかせたつもりだったのだろうが、
瀬川先生にとっては、それはよけいなことというより、
試聴をいい加減なものにしてしまう行為であったのだろう。

そんな瀬川先生なのだが、アナログプレーヤーの試聴の際には、
ダストカバーは外されていた、ようだ。

Date: 4月 14th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その2)

KEFのModel 303は、ステレオサウンド 54号の特集
「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」に登場している。

瀬川先生だけでなく、菅野先生黒田先生の評価もそうとうに高い。

《このランクのスピーカーとしては、ひときわぬきんでている》(黒田)、
《スケールこそ小さいが、立派に本物をイメージアップさせてくれるバランスと質感には、脱帽である》(菅野)、
《ポップスで腰くだけになるような古いイギリスのスピーカーの弱点は、303ではほとんど改善されている》(瀬川)、
三氏とも特選である。

菅野先生は
《このシステムを中高域に使って、低域を大型のもので補えば、相当なシステムが組み上げられるのではないかという可能性も想像させてくれた》
とまで書かれているし、
菅野先生と瀬川先生は55号の特集ベストバイで、ともにModel 303を、
スピーカーのMy Best3のひとつとして選ばれている。

瀬川先生は、そこでこう書かれている。
     *
 オーディオ機器の音質の判定に使うプログラムソースは、私の場合ディスクレコードがほとんどで、そしてクラシック中心である。むろんテストの際にはジャズやロックやその他のポップス、ニューミュージックや歌謡曲も参考に試聴するにしても、クラシックがまともに鳴らない製品は評価できない。
 ところがその点で近ごろとくにメーカー筋から反論される。最近のローコストの価格帯の製品を買う人は、クラシックを聴かない人がほとんどなのだから、クラシック云々で判定されては困る、というのである。クラシックのレコードの売上げやクラシックの音楽会の客の入り具合をみるかぎり、私には若い人がクラシックを聴かないなどとはとうてい信じられないのだが、しかし、ともかく最近の国産のスピーカーのほとんどは、日本人一般に馴染みの深い歌謡曲、艶歌、そしてニューミュージックの人気歌手たちの、おもにTVを通じて聴き馴れた歌声のイメージに近い音で鳴らなくては売れないと、作る側がはっきり公言する例が増えている。加えて、繁華街の店頭で積み上げられて切替比較された時に、素人にもはっきりと聴き分けられるようなわかりやすい味つけがしてないと激しい競争に負けるという意識が、メーカーの側から抜けきっていない。
 そういう形で作られる音にはとても賛成できないから、スピーカーに関するかぎり、私はどうしても国産を避けて通ることが多くなる。いくらローコストでも、たとえばKEFの303のように、クラシックのまともに鳴るスピーカーが作れるという実例がある。あの徹底したローコスト設計を日本のメーカーがやれば、おそろしく安く、しかしまともな音のスピーカーが作れるはずだと思う。
 KEF303の音は全く何気ない。店頭でハッと人を惹きつけるショッキングな音も出ない。けれど手もとに置いて毎日音楽を聴いてみれば、なにもクラシックといわず、ロックも演歌も、ごくあたり前に楽しく聴かせてくれる。永いあいだ満足感が持続し、これを買って損をしたと思わせない。それがベストバイというものの基本的な条件で、店頭ではショッキングな音で驚かされても、家に持ち帰って毎日聴くと次第にボロを出すのでは、ベストバイどころではない。売ってしまえばそれまでよ、では消費者は困るのだ。
     *
メーカー筋からの反論。
《最近のローコストの価格帯の製品を買う人は、クラシックを聴かない人がほとんど》、
ここでのローコストの価格帯とは、どのあたりを指すのか。

瀬川先生の文章を読むかぎり、
59,800円(一本)のスピーカーも、ここに含まれる。

Date: 4月 13th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(余談)

シンガーズ・アンリミテッドの録音は、MPSだった。
ポリグラム、そしてユニバーサルミュージックから発売されていた。
最近ではビクターが、2015年から24ビット、88.2kHzのフォーマットで配信を行っていた。

けれどそのラインナップにはシンガーズ・アンリミテッドは含まれてなかった。
さきほど検索してみたら、ビクターのサイトにはMPSのページはなかった。
e-onkyo musicでは購入できるようだ。

CDはタワーレコード限定で、二年ほど前に発売になっていた。
K2リマスターだったから、ビクターが手がけたのだろう。

MPSは、ドイツのEdel Germany GmbHが所有している。
ある人の話では、日本でのDSD配信を計画している、らしい。

権利関係がどうなっているのか、そのへんを確認・整理してのことになるし、
いつ開始されるのは知らないし、まだ決っていないようだ。

それでも始まってくれれば、
シンガーズ・アンリミテッドの録音もそこに含まれるかもしれない。
グルダの平均律クラヴィーア曲集も期待したい。

Date: 4月 13th, 2018
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その11)

株式会社ファーストリテイリングの単独スポンサーによって「考える人」は、
新潮社から出ていた。

単独スポンサーゆえに、その会社が降りてしまえば、
そして次のスポンサーが見つからなければ、それで終りとなる面ももつが、
「考える人」のオーディオ版は、やはり無理なのか、とずっと思っていた。

「考える人」だから単独スポンサーがついた、ともいえる。
オーディオ雑誌に、単独スポンサーがつくだろうか。

オーディオメーカーが単独スポンサーについたのでは、意味がない。
オーディオと関係のない会社で、オーディオ雑誌の単独スポンサーになるところ、
そんな会社、あるわけがない──、と思い込んでいた。

先月のKK適塾が終って、数日後、ふと思いついた。
もう完全に妄想の領域であるし、可能性としてはゼロではないだろうが、
限りなく近いこともわかっている。

わかったうえで書いている。
川崎先生が編集人・発行人としてのオーディオとデザインの雑誌ならば、
DNPが単独スポンサーになることだって、可能性としてはまったくゼロではないはずだ。

Date: 4月 13th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その1)

別項「現代スピーカー考(余談・その2)」で、
とあるレコード店のスピーカー、KEFのModel 303について触れた。

今日久しぶりに、そのレコード店に入った。
同じ位置にModel 303は置いてある。
モーツァルトのピアノ協奏曲が鳴っていた。

ほどよい音量で鳴っていた。

瀬川先生はステレオサウンド 56号での組合せで、
《最新の録音のレコードから、旧い名盤レコードまでを、歪の少ない澄んだ音質で満喫できる》
と書かれている。
そのとおりの音で、モーツァルトが美しく鳴っていた。

1979年発売のスピーカーだから、ほぼ40年が経っている。
専用スタンドで設置されているModel 303には、
高価なスピーカーケーブルやアクセサリーが使われてはいない。
ごくごく一般的な置き方のまま鳴っている。

ほぼ40年、店主の好きな音楽を、ほぼ毎日鳴らしてきての、
今日、私が聴いた音なのだろう。

中古のModel 303は、誰がどんな鳴らしかたをしてきたのか、わからない。
どんな使われ方だったのかもわからない。
そんなModel 303に、私が今日聴いた音を期待しても無理というものだ。

Model 303は、一本59,000円(その後62,000円)の、イギリス製のスピーカーだ。
海を渡っての、この価格ということは、イギリスでは普及クラスのスピーカーだったのだろう。

598戦争が始る、ほんの数年前に、同価格帯にModel 303が存在していた。
そのことを、今日、その音を聴いて思い出していた。