思い込みと刷り込み(その1)
思い込みは、いわばバイアスだ。
オーディオの世界だけに限っても、思い込みはいたるところにある。
オーディオ雑誌の読み手側にも、思い込みはある。
オーディオ雑誌の作り手側にも、思い込みはある。
思い込みがあるのを自覚しているのかどうか。
やっかいなのは、ここに刷り込みが介入してくるからだ。
思い込みは、いわばバイアスだ。
オーディオの世界だけに限っても、思い込みはいたるところにある。
オーディオ雑誌の読み手側にも、思い込みはある。
オーディオ雑誌の作り手側にも、思い込みはある。
思い込みがあるのを自覚しているのかどうか。
やっかいなのは、ここに刷り込みが介入してくるからだ。
積分的聴き方、微分的聴き方、
積分的読み方、微分的読み方、
別項『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」』で、
そのことについて少し書いている。
積分的と微分的。
アンプの位相補正にも、積分型と微分型があって、
その両方をうまく使うことでアンプの動作は安定する。
価値か意味か。
意味を求める人もいる。
価値(資本主義的・商業主義的な価値)を求める人もいる。
意味を求めない人もいる。
そういうことも、今回の件は関係しているようだ。
ハイ・フィデリティ・リプロダクションとグッド・リプロダクション。
ステレオサウンド 207号の特集に登場したスピーカーシステムの中で、
YGアコースティクスのHailey 1.2、アヴァロンのIndra Diamond、
マジコのS2 Mk2、B&Wの800D3などはハイ・フィデリティ・リプロダクションで、
フランコ・セルブリンのKtêma、KISOアコースティックのHB-G1、
ハーベスのSuper HL5 Plusなどはグッド・リプロダクションというふうに分ける人はいよう。
けれどハイ・フィデリティ・リプロダクションの定義をもう一度思い出してほしい。
原音再生ではないということだ。
ハイ・フィデリティ・リプロダクションは日本語にすれば高忠実度再生。
ハイ・フィデリティ・リプロダクションを定義したM.G.スクロギイもH.F.オルソンも、
ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは、
「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」としている。
ステレオサウンド 24号、瀬川先生の「良い音とは、良いスピーカーとは?」にそうある。
瀬川先生も書かれているように、ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは、
物理的命題であるよりも心理的命題だということで、
ここを忘れての、ハイ・フィデリティ論は薄っぺらすぎる。
つまりハイ・フィデリティ・リプロダクションは、聴く人によって違ってくる。
人によってはKtêmaがハイ・フィデリティ・リプロダクションのスピーカーシステムになってくる。
Ktêmaだけではなく、一般的にグッド・リプロダクションと思われているスピーカーも含めて、である。
ここのところを理解せずに、
Ktêmaを選ぶ人を、好き嫌いでスピーカーを選んでいる、
と決めつけてしまうのははなはだ危険なことだし、
理解に欠けた行為でしかない。自分の薄っぺらさを公表しているものだ。
別項「AXIOM 80について書いておきたい(その6)」で、AXIOM 80について書いている。
AXIOM 80は、はっきりと毒をもつスピーカーである。
だからこそ、瀬川先生はAXIOM 80から
《AXIOM80の本ものの音──あくまでもふっくらと繊細で、エレガントで、透明で、やさしく、そしてえもいわれぬ色香の匂う艶やかな魅力──》
そういう音を抽き出された、と私は確信している。
他の誰もそういう音を出せなかったのではないだろうか。
同じことは五味先生とタンノイのオートグラフにもいえる。
オートグラフも、AXIOM 80とは違う毒をもつスピーカーシステムである。
心に近い音について考える。
心に近い音とは、毒の部分を転換した音の美のように思っている。
聖人君子は、私の周りにはいない。
私自身が聖人君子からほど遠いところにいるからともいえようが、
愚かさ、醜さ……、そういった毒を裡に持たない人がいるとは思えない。
もっとも認めない人はけっこういそうだ。
私の裡にはあるし、友人のなかにもあるだろう。
瀬川先生の裡にも、五味先生の裡にもあったはずだ。
裡にある毒と共鳴する毒をもつスピーカーが、
どこかにあるはずだ。
互いの毒が共鳴するからこそ、音の美に転換できるのではないだろうか。
その音こそが、心に近い音のはずだ。
このことがわからずに、薄っぺらいハイ・フィデリティ論をかざす複雑な幼稚性の人がいる。
本文は必要なくなったと思いながら、タイトルを書いていた。
タイトルに書いたことがほぼすべてである。
その使いこなしはセオリー通りなのか、
それともパターン通りなのか。
この違いをはっきりと認識してこその使いこなしである。
アナログディスク再生においてトーンアームの高さ調整は重要である。
カートリッジのヴァーティカルトラッキングアングルに直接影響してくるだけに、
カートリッジを交換したら高さ調整が求められるし、
厳密にいえばレコードの厚みが違ってきたら、そこでも高さを調整する必要はある。
トーンアームのパイプが水平になれば、それでいいのかといえば、
必ずしもそうではなく、これはひとつの目安にすぎない。
ここを標準として、ほんのわずか高さを調整していく。
つまり目測と耳だけが頼りだった。
不思議なことにトーンアームの高さ調整用のアクセサリーはなかった、と記憶している。
オーディオクラフトにHG1というアクセサリーがあった。
型番のHGはheight gaugeからきている。
トーンアームの先端と根元の二点で、トーンアームの高さを検出するアクセサリーである。
HG1は、商品として世に出たのだろうか。
ステレオサウンド 44号のオーディオクラフトの広告にはHG1が載っている。
価格未定(近日発売)となっている。
このことはavcat氏だけではなく、
ハイエンドオーディオを標榜している人たちの中にも感じていることなのだが、
どうも「毒」というものに対して、強い拒絶反応があるのではないか。
このことは若いから、とか、聴く音楽のジャンルに関係している、とか、
そんなこととはほほ無関係に、「毒」を強く拒絶する人がいるし、
増えて来つつあるように感じてもいる。
そういう音の追求もある。
毒をもたない音は、薬にもならない。
そんなふうに考える人(私を含めて)も、当然いる。
「毒」こそが音の美へと転換できる、
それこそが再生音楽(オーディオ)だ、と考えているからだ。
(その7)でリンクした木谷美咲氏の『日本の独自文化「盆栽」と「緊縛」の密接な関係』、
ここで私が興味深いと感じたのは、園芸と盆栽について以上に、
盆栽と緊縛について触れられているところだ。
『日本の独自文化「盆栽」と「緊縛」の密接な関係』を知る数週間前、
電車の中で、小学生二人の会話が聞こえてきた。
マンガの話のようだった。
そのマンガ(タイトルまではわからなかった)には、ヒーローが登場するようなのだが、
いわゆるヒーローものではなく、Hとエロだからこそのヒーローらしい。
ヒーローはheroである。
heroはHとero(エロ)に分けられる。
どうも、これにひっかけての、ちょっと風変わりなヒーローもののマンガのようである。
エッチな人、という、このエッチは変態のローマ字書き(hentai)の頭文字をとったもの。
そこにエロが加わったのがヒーローとするという視点は、少なくとも私は、今回初めて知った。
これだけだったら他愛ないことで終っていただろうが、
『日本の独自文化「盆栽」と「緊縛」の密接な関係』がそれに続いたし、
その前にはavcat氏へのステレオサウンドの染谷一編集長の謝罪の件もあったから、
印象に残ることになった。
1980年代の終りに、マークレビンソンのコントロールアンプNo.26が、
プリント基板を一般的なガラスエポキシからテフロン製に変更したNo.26Sを出した。
プリント基板以外の変更点はなかった、と記憶している。
テフロン基板のNo.26Sは話題になった。
そのくらい音の違いは大きかった。
テフロン基板は音がいい、ともいわれていたようだ。
でも、自作したことのある人で、ガラスエポキシ基板を指で弾いた音を聞いている人ならば、
テフロン基板が音がいい、というよりも、
ガラスエポキシ基板の音が悪いことを知っているのではないか。
私はテフロン基板の電気特性よりも、
このガラスエポキシ基板のいやな音がしないからこその音の違いではないかと思っている。
つまり半導体アンプでも、部品が取り付けられているプリント基板によって、
それだけ音の違いが生じる。
まして真空管は、よりその影響を受けやすい。
そこにガラスエポキシのプリント基板は、私だったら絶対に使わない。
聴感上のS/N比を、わざと悪くしたい人は使えばよい。
部品点数の多いアンプを、バラツキなく製造するということではプリント基板のメリットは大きい。
けれど真空管ハーモナイザーは、いわゆるアンプではない。
それがなけれは音が鳴らせないというモノではない。
あえて追加するものに、
しかもハーモナイザーと名付けているモノに、ガラスエポキシのプリント基板は、ない。
真空管ハーモナイザーを名のらせるのなら、
真空管の固定、つまりソケットをどこに取り付けるのか。
このことに無頓着であっていいはすがない。
グッドマンの12インチのフルレンジといえば、
五味先生がタンノイの前に鳴らされていたのもそうだった──、
と7月のaudio wednesdayで、AXIOM 402の音を聴いていて思い出していた。
五味先生はグッドマンについて、
《私の場合、最初に愛情をもってそばに置いたのは、グッドマンの12吋だった》
と、「オーディオ人生(4)」(ステレオサウンド 24号)に書かれている。
このころの五味先生は《グッドマンでうまく鳴るような、そういうレコードしか買わなかった》とある。
グッドマンの12吋でうまく鳴り、忘れ難いレコードとして、
《ヘンデルの〝コンチェルト・グロッソ〟第八番(ハ短調)であり、ヴィヴァルディの〝ヴィオラ・ダ・モーレ〟だった。どちらも英デッカ10吋盤で、ヴィヴァルディの方はS氏所蔵のものを借りて聴いた》、
この二枚をまず挙げられている。
そしてモーツァルトのピアノ協奏曲についても触れられている。
*
ピアノの音は、人声とともにスピーカー・エンクロージァの性能を知る上では最も直截に答の出るもので、残念ながらグッドマンではピアノの低音が思わしくなかった。でも他にスピーカーが無いのだから鳴り方に不満があるからとピアノ曲を聴かぬわけにはいかない。
K四六六はクララ・ハスキルの演奏で、ハスキルの弾くモーツァルトなら無条件で一度は聴いてみようというのが私の考えで、同じ女流ピアニストでもリリー・クラウスとは大分、違うと思っている。K四六六は、戦前、シュナーベルの弾いたのがあり、ベートーヴェン弾きの彼が、ベートーヴェン自身のこの曲に寄せたカデンツァをなぞっていたかどうか、当時中学生の私にそれの分るわけはなく、兎に角、第一楽章冒頭のあの低弦音による異様に暗い出だしばかりは、一度耳にしたら忘れ難くて、モーツァルトにもこんな暗い音楽があるのかと、当時おもっていた。スタンダールの言う「モーツァルトの音楽の基底にあるものは、”tristesse”(かなしみ)だ」などと知る年頃でもなかったのである。何にせよ、モーツァルトのピアノ協奏曲にK四六六のあることだけは、でも、おぼえていて、S氏宅でハスキルの演奏を聴かされたとき、K四六六は彼女のものを買おうと思ったのを忘れない。
グッドマンの音は、かさねて言うが所詮グランド・ピアノのそれではなく、果して、ハスキルの演奏を再現していてくれたかどうか、今では覚束ない。しかしこの曲が、貧乏つづきで次第に生活の苦しかったモーツァルトの、いわば苦境時代に成ったことを解説で知り、やはりそうかと思った。
モーツァルトはもうぼくらの手の届かぬ大天才と私は思っていたし、事実それに違いはないのだが、幾多の彼の名作をLPのおかげで聴けるようになって、あまりな多作に私は疑問をいだき始めていたのだ。「モーツァルトは天才でいる暇さえなかった、〝天才〟に追いまくられた彼は速記者にすぎない。だからこそ、あれだけの作品をあの年齢で残せたのだ。そうとでも思わねば、大天才がこんな悲痛な奏べをうむわけがない」と。音楽青年めいたドグマにきまっているが、ハスキルの弾く小ロンドふうな第二楽章(ロマンツェ)を聴いていると、そんなモーツァルト像が私の前に浮んで来た。私は天才ではないし、文章の大変遅い、遅筆な小説家だが《早すぎるモーツァルト》のこの tristesse に不思議な勇気を教えられたことを忘れない。
グッドマン時代はつまり、レコードを聴くことがすべて小説家たる私の在り方に関わっていたわけになる。こういう聴き方は、今から想えば他愛のない、むしろ滑稽なものだが、音楽は、メタフィジカルなジャンルに属する芸術——もしくはそのような何かであり、時にそれは倫理学書をひもとくに似た心の粛正と、感銘を与えてくれる、とそのころ私は考えていた。事実そして多くのものを音楽から得た。それだけに、単なる好き心でグレード・アップを企画したことはないし、スピーカーの音色ひとつにも時に歓喜し、時に絶望して今日のオートグラフにたどり着いたのである。怪我の功名だったのか。
*
また一度、audio wednesdayで、グッドマンの12インチを鳴らしてみよう。
オーディオは楽しい。
いくつになっても楽しい。
けれど、オーディオ雑誌がつまらなくなって、もうどのくらい経つか。
オーディオ評論が色褪てしまって、ずいぶん経つ。
オーディオはいまも楽しい。
これから楽しいはずだ。
オーディオ雑誌は、今後も期待できそうにない。
オーディオ評論に関してもそうだ。
オーディオは楽しいのに、なぜそうなってしまったのか、
さらにそうなっていくのか。
その理由は、はっきりとしている。
瀬川先生がもういないからだ。
何をバカなことを書いている、と思う人には、
どれだけ言葉を費やして説明しても無駄だ。
オーディオは楽しい。
なのにオーディオ雑誌、オーディオ評論が……、と感じている人は、
その理由を考えてみればいい。
いくつか思いつくだろう。
そのいくつか思いついた理由を、さらにどうしてそうなったのか、と考えてみればいい。
瀬川冬樹がいなくなった。
オーディオ雑誌は、そこからつまらなくなっていった。
オーディオ評論は色褪るだけである。
このことがわからない人に、
おもしろいオーディオ雑誌はつくれない、
オーディオ評論は書けない。
はっきりしていることだ。
C240以前のアキュフェーズのコントロールアンプは、C200(S)とC220だった。
C200はフロントパネル下部にヒンジドパネルを、
C220はフロントパネル中央にサブパネルをもつ。
C240は、プッシュポタンを多用したデザインでも話題になった。
ボタンの数は57、レバースイッチは1、ボリュウムを含む回転式は4、
そしてヒンジドパネルもサブパネルも、C240にはない。
C240の四年後に登場したC280にはヒンジドパネルがある。
実をいうと、そのころはC240にヒンジドパネルがないことを、特に意識していたわけではなかった。
瀬川先生のデザインということは、割と早くから知っていた。
それでもヒンジドパネルがないことにもちろん気づいていたけれど、
そのことを深く考えもしなかった。
C240とペアとなるパワーアンプのP400にもヒンジドパネルはない。
P400以前のP250、P300にはヒンジドパネルはある。
チューナーのT104にもない。
T100にはある。
C240、P400、T104のシリーズは、ヒンジドパネルを省いている。
この意味を考えるようになったのは、
SG520とC240を比較するようになったからである。
SG520はマークレビンソンのLNP2登場まで瀬川先生が使われていたこと、
C240は瀬川先生のデザインであること。
このふたつの事柄を、なぜかそれまで結びつけようとは思わなかった。
関係のない、二つの事柄としか捉えていなかった。
それが、ある日、あっ、そうだ! と気づいた。
C240は、SG520をメインのコントロールアンプとして使われていた瀬川先生のデザインなんだ、と。
かなり以前からいわれているノウハウ的なことので、
古くからスピーカーユニットを組み合わせてシステムの自作に苦労してきた方ならば、
それもコーン型ウーファーとホーン型のトゥイーター、スコーカーという組合せならば、
私が書くことは、いわば常識といえることである。
それでも、いまでは知らない方も少なくないようだから書いておく。
このことはステレオサウンドでも、菅野先生、井上先生が発言されたり書かれている。
例えばウーファーもスコーカーもトゥイーター、すべてコーン型で、
振動板の素材も同じというのであれば、
ネットワークの苦労はかなり減る、といえる。
ところがコーン型とホーン型とでは、そうはいかない。
それぞれのユニットからの音色に違いがありすぎる。
結局、クロスオーバー付近の音を、いかにうまく抜くか、である。
つまりウーファーのカットオフ周波数と、
トゥイーター(スコーカー)のカットオフ周波数を、離すわけだ。
うまく抜くことで、それぞれのユニットの音色がうまく混じり合ってくれることがある。
以前試した直列型ネットワークでは、このことはやっていなかった。
まずは喫茶茶会記のシステムでの直列型ネットワークの音を確かめたかったからで、
コイズミ無線製のネットワークとの比較、
さらにコイズミ無線製のネットワークに手を加えた音との比較を元に、
今回(というか今年になって)の直列型ネットワークは、あいだを抜いている。
抜く(離す)といっても、どのくらいにするのかは、音を聴いて判断することであり、
一概にこのくらいとはいえない。
それにスロープ特性も関係してくることだし、その他の要因も無視できない。
無責任のようだが、カット&トライしかない。
今回は直観で決めている。
うまくいっているようだ。
もちろん、もっといいコイルの値、コンデンサーの値はあろう。
でも、いまはそれを追求する前に、いくつかやっておくことがある。
JBLのコントロールアンプのSG520とアキュフェーズのC240。
私が並べて、そのデザインを比較してみたいコントロールアンプである。
コントロールアンプのデザインで、それに続くデザインに大きな影響を与えたのは、
マランツのModel 7がよく知られている。
SG520は、どうだろうか。
そのデザインは、発表当時、話題になったことは知っている。
いまもコントロールアンプのデザインの傑作のひとつに挙げられる。
私も一時期SG520は使っていた。
SG520はグラフィックコントローラーとも呼ばれていた。
1964年にSG520のデザインは、大きな衝撃だっただろう。
そういえばSG520以前にヒンジドパネルを採用したオーディオ機器はあったのだろうか。
詳細に調べたわけではないが、SG520はかなり早い時期からヒンジドパネルを採用していた。
少なくとも、私の中では、SG520のデザインについて、ヒンジドパネルのことをまず語りたくなる。
SG520はロータリー式のレベルコントロールも入力セレクターはない。
スライド式のボリュウム、バランサー、トーンコントロールに、
ボタンによる入力セレクターとモード切替え、
それまでのコントロールアンプを見慣れた目には、新鮮だったはずだ。
SG520は瀬川先生も使われていた。
瀬川先生はModel 7も使われていた。
アキュフェーズのC240は、瀬川先生のデザインによるコントロールアンプである。
(その8)で書いたことを、先日のaudio wednesdayでは試した。
audio wednesdayでは、6dBスロープの直列型ネットワークを使っている。
audio wednesday以外では、コイズミ無線製の12dBスロープのネットワークである。
スロープ特性も違うし、並列型と直列型の違いもあり、パーツも違う。
それに直列型であっても、スピーカーの教科書に載っている結線とは、また少し違う。
これだけ違うのだから、二つのネットワークの音はずいぶん違う。
audio wednesdayでは、もうコイズミ無線のネットワークに戻すことはない。
いま使っている直列型ネットワークには、それだけの手応えを感じている。
自宅のシステムなら、音を聴いて駒かな変更も加えていけるが、
なにしろ自分のシステムではなく、月一回だけの音出しだから、
いわば一発勝負で、コイル、コンデンサーの値は決定している。
これらパーツの配置にしても、これでいこう、という感じで決めている。
ほんとうは、これらを含めて、音を聴きながらじっくり検討を加えたいところだが、
一発決めにしては、まぁ、うまく鳴っている、と感じている。
それでもあれこれいじりたいわけで、
8月のaudio wednesdayで、少し変更を加えた。
直列型ネットワークではトゥイーターとウーファーを一本のワイヤーで結ぶ。
具体的にいえばアルテックのドライバーのマイナス端子とウーファーのプラス端子を結線する。
ユニットを、このように直列接続するから直列型ネットワークである。
ここを銀の単線に変更したのが、先日のaudio wednesdayでの音である。