「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その10)
別項「AXIOM 80について書いておきたい(その6)」で、AXIOM 80について書いている。
AXIOM 80は、はっきりと毒をもつスピーカーである。
だからこそ、瀬川先生はAXIOM 80から
《AXIOM80の本ものの音──あくまでもふっくらと繊細で、エレガントで、透明で、やさしく、そしてえもいわれぬ色香の匂う艶やかな魅力──》
そういう音を抽き出された、と私は確信している。
他の誰もそういう音を出せなかったのではないだろうか。
同じことは五味先生とタンノイのオートグラフにもいえる。
オートグラフも、AXIOM 80とは違う毒をもつスピーカーシステムである。
心に近い音について考える。
心に近い音とは、毒の部分を転換した音の美のように思っている。
聖人君子は、私の周りにはいない。
私自身が聖人君子からほど遠いところにいるからともいえようが、
愚かさ、醜さ……、そういった毒を裡に持たない人がいるとは思えない。
もっとも認めない人はけっこういそうだ。
私の裡にはあるし、友人のなかにもあるだろう。
瀬川先生の裡にも、五味先生の裡にもあったはずだ。
裡にある毒と共鳴する毒をもつスピーカーが、
どこかにあるはずだ。
互いの毒が共鳴するからこそ、音の美に転換できるのではないだろうか。
その音こそが、心に近い音のはずだ。
このことがわからずに、薄っぺらいハイ・フィデリティ論をかざす複雑な幼稚性の人がいる。